中部産業遺産研究会
The Chubu Society for Industrial Heritage


■千頭から新金谷の車内にて

橋本:白井さんが「常に新しく」を実践するに当たって、どういったことが難しいとお考えですか?
白井:1つは着想というか発想というか、何かやる以上はテーマを考えなきゃいかんと。それをなかなか考えて産み出すというか、気が付くというのはね、発想、着想がなかなか大事であるけど難しいということですね。今のような気が付けば使命感を持って、まあほっといてもやらなきゃならんと思うんだけど、それは天から降ってくるんじゃないから、やっぱり自分で考えて見つけださなきゃいかんと。それが非常に難しいですね。まあ、その点は、SLの保存なんかはイギリスの真似ですから、割合楽ですね。自分で編み出したもんじゃないですねえ。小さいものは今度のビデオで保存なんていうのはやっぱり、ビデオで保存なんかは山ほどあるんだけども、そう言われても今度のが何がどう違うのか何がどう違うのかうまく説明ができない、ということは自分でも分析できていないんだけども、何かしら初めてではないかなと言う気がするんですね。それからあれも案外無いんだねえ、電車のブレーキの技術移転の経過なんかもまとまった、断片的にはいっぱいでておるんだけどもねえ、まとまったものはなかなか無いと。そういうと、電車の技術開発の関係はアメリカは非常に人材も豊富で、向こうはレールウエイヒストリアルと言うんですけれども、そういう方が博士の方とか沢山おられて、内容も充実しとるし、それから、資料もかなりあるし、電車もあるんですが、今、イギリスがちょっと手薄で、多分これは、私がだめなため、というのは、イギリスとやりとりを始めたのは歴史が新しいんですよ。アメリカとはもう20何年前からねえ、やってる、イギリスとはやっていることはやっているが、そこまで足を突っ込んでね、ディテールまで入っていろいろ研究しだしたのも新しいんだけども、いろいろ今まで何人かの人に紹介されて直に会ったり手紙を出したりきいても、どうも材料に乏しいんだよね。あんな国で材料が乏しいはずはないからね、やっぱり僕の人脈が足りないか努力が足りないか、まあ、これは2の次の問題で、日本はほとんどアメリカから来てますから、日本の電車はね。ですから、この京阪3000の東洋電機だけはデッカーから来てるからイギリスだけどね、あとは大体みんなアメリカ系だから。あんまりいっぺんに手を広げずに、まずこれをやっつけて、それからまた次の段階へ行こうかなと。あるいはまあ、私としてはねえ、制御器ビデオにしても、技術移転にしても、まあ、第一発のものを私が出せばいいと思っているわけ。そうすれば、あとは次の世代の人が引き継いでくれるわけ。で、結構ありがたいことに次の世代の人が結構出てきて、毎日のようにあれはどうだこれはどうだと手紙が来るんですよ。で、それはメーカーの方とかねえ、それからJRの偉い人とかねえ、それから私鉄の車両部長さんとかねえ、そういったクラスでねえ、で、面白いのは私鉄の車両部長でもね、全然今新しい安くて良いものを作ればそれで俺はいいっていう方とねえ、いやいやもちろんそれも大事だけども過去の歴史も十分咀嚼した上で明日を考えなきゃいかんという人と2種類あるの、明らかに。で、後者の人はねえ、非常に少ないんですね。よほどこう見識の広い方なんですね。だから、今も困っているのはいろいろ調べに行ってもね、いろんなことをやったんだけど、当時は仕事としてやっとっただけだから、今頃聞かれても全然覚えは無いと。どうしても価値観が無い訳ですよ。ほんとにこれがねえ、世の中で革新的なものだと思ってやったら実は忘れないはずなんですね。そう言われてみるとそんなことやった覚えは確かにあるけども、まあ今頃言われても分かりませんねえと。それが大半だね。
橋本:若いエンジニアに対するメッセージを下さい。
白井:それは冒頭言ったのに戻っちゃうね。とにかく新しいことに挑戦して、そしてそれを進める楽しさ、嬉しさというものを人に教わったんじゃなくて、自分で分かるようになってもらうと。それはなかなか教わらないと。いっぺんなんか体験すると分かってくるんだけどね。要するに言われたから働くではだめだ、面白いから働く。
橋本:面白くなってくるまでは時間がかかりますけどね。
白井:まあ、その態度にも非常にあると思いますね。その人のね。できない、難しいという問題をなんとかがんばってやったら全部はできんけど一歩は進んだと。いうようなときはしめったってわけだよね。これはその喜びは誰の喜びでもない、俺の嬉しさだということで実感できるわね。それをエンカレッジしてやればだんだんそれが幅が広くなって行けば人生の経験と共に10年、20年、30年、定年くらいの時にはいろんな、大分なお仕事をなし成し遂げるということになってくると思うね。それからまあ逆に伝承技術を変えないようにがんばって辛抱強く続けてゆくと、これも同列くらいに大切ですよね。そんなメタルの盛金だとかね、スクラッパーで削るとか言うのはもう時代に合わないから俺はやめたと。いうようなのはダメでやっぱりそれは技術の根本だから、人がやらなきゃ俺だけでも伝えてやろうということで、やるのと同時に、次への喜びと。これらは並列したものだよね。根本が無くて先なんてあるわけ無いもんね。その両方をやってもらえば一等賞だけど。なかなかそういう人が減っちゃって、がんばってやる人も無いし、新しい喜びを見いだすのも無いし、早く昼飯にならんかなあっていうやつばっかり。困っちゃう。いや、まあこれは僕らが悪いからね、後継者が育たないのかどうか、どこへ聞いても似とるらしいね。学校がいかんのやろうね。工業系統の学校でもね。2〜3日前に日本工業大学の付属高校へ行って来たけどね、見たら、沢山の学生の中に2〜3人はそういう見所のあるやつがおりそうです。言わなくてもやると。良いと言っても使わせて下さいと言って真っ暗になったのに電気をつけてやってくというのがね、3人とかなんとか位はね、そんなのは就職面ね、引っ張りだこで売れて行っちゃうんだね。まあ、特に中企業くらいのところがね。だけど概して少ないと。早く卒業できんかなあと。

あと、さっきちょっと言い足りなかった中小私鉄の存続の問題ですね。ただ、これがむやみに廃止反対でもいけないのであって、もっと言えば、残すのが良いのかつぶすのがいいのかね、まずもっと勉強しなきゃいかん。で、それの判断の時系列としては5年や10年の時系列で考えてもらっては困る。少なくとも半世紀くらいのピッチで考えて、日本も成熟社会になって車ももう減り始めるようなあるいは減らしたいよと。いうような時代になったと考えて、そのときにどういう利点、欠点があるかということをよく明らかにして、で、これはもう欧米がしっかりやっているんですね。面白いのはサッカー場を作る予定だったけど、市民投票でサッカー場よりは電車を作った方がいいよと。言う方が多くなって、サッカー場をやめて線路を作ったと。そればっかがいいってわけじゃないけど、大人の時間だと。それからサッカー場だったらね、隣の町のサッカー場へ行ったって試合はできるわけね。それからさっき行ったハイウエイをやめて電車を作るというのもあるし、大体住民投票でやるんですけど、まあ、やっとすれすれゴールイン、あるいは落第しとることもあるわけ。だから、賛成であっても60%賛成くらい。鉄道は。40%くらいは反対と。もう、そのときは作るということでいくようになってるんですけどね。まあ、だけど市民が、車社会だと思われる市民が、そういう投票をするっていうことは、やっぱりそんだけ社会が成熟しとると。今日本で、福井でやってもだめじゃない? 残すって言うのは少数派でね、多分、投票でやったら負けちゃうと。ですけど、もう今やめにしちゃって、また京福電鉄を作るって言うことはね、日本では不可能じゃないかと思うんですね。その点アメリカはえらいんですね。今やっておる線路の半分くらいはやめたとこと全く一緒じゃないけど、大体似たような、代表的なのはロサンゼルス−ロングビーチね。この前古い鉄道があった大動脈だよね。マイカー時代だと言って取っちゃった。今度はライトレールで作って、で今、運賃は安い本数は多い、列車は100Km/h位で速い、お客は多い、本当にお役に立っているんだね。ただ、私もワンサイクル遅れてて、あれが、日本が電車をとる盛りの頃かな、電車をまた作ろうという議論が起きたのは。はじめは見てせせら笑っておった。できるわけはないと。どんなに転んだって。学者は何とでも言えるわなあと。気楽だなあと。そのうちにだんだん風向きがおかしくなってきてね、線路の模型を作ったよとか、公聴会をやったよとか、なんだかばかにしつこくやっとるなあと。で、そのうちに投票してあそこはねえ、目的消費税を作ったわね。電車を作ったんです。高いだよ、結構。10何パーセントかなんかのど高い目的消費税ね。そんなもん反対だっていうのは4割くらいおったですね。6割が賛成だった。で、できちゃって今走っておるんですね。だからやめたやつがまたできる。日本は京福、もしやめちゃったとして、30年後にまた作るっちゅのはねえ、ほとんどそんだけの体力っちゅうか意志力が無いと思う。だからまあ残して欲しいっていうんで。いうことで、今一生懸命やっとるだけどね。まあ一つは、京福電車が県へ電車を払い下げるのに、30億円よこせって言っているのね。僕の意見としてはね、公共事業である鉄道で大事故を発生し、鉄道を廃止至らしめたのはね、経営の欠陥だと。その責任を全部逃れることはできないと。で、一畑電鉄とか大井川鐵道とか、もっと条件の悪いところがなんとか事故もなくやってきてる。従って資産譲渡は無料化か、長期分割か、あるいは賃貸借にするということを県から圧力をかけなさい、そういうアドバイスをやっておるわけね。そういうのは県が全然知らないもんでね、県は全然知恵が出てこんわけ。京福にやられっぱなしなんだよね。これ以上僕も大変だったもんでねえ、最後は福井鉄道の力を借りて欲しいと。意見を聞いて欲しいと。福井鉄道はなんとかご勘弁願えますかと。そんな爆弾は、火中の栗は拾いたくないと。そしたら県から圧力をかけなさい。今後福井鉄道への許認可、県の、あるいは補助金なんかについてはあまり十分にご協力できませんがいいですか、それがいやなら協力してください。
一番大きなのはね、京福電車を続けるにはねえ、100億円いるって言ったのね。嘘八百なんです。100億円かけてもいいよ。かけりゃいいよ。だけど、お金が余って困っておるところはそれでもいいけども、半分でも十分。そのへんは福井鉄道が見ればすぐ分かる。これはインチキだと。県の人では全然分からんわけね。もしそれを値切ってまた事故が起きたら、今度は県の責任だと。これは困るな。じゃあ100億をみんな割り振るかというと、どこの市も困ったなあと。そらねえ、どうやったらこれはできるかと思うくらいねえ、の費用、例えば、線路の道床の幅を広げなさいと。厚さも厚くしなさい。確かに良いことです。これは。もし京福がスピードアップやって時速120Km/hで京福が走るんならね。こんだけいりますと。だけど、今の時速65Km/hでよたよた走るんだったら全然いりません。騙されちゃいけませんと言っておる訳だけど、県の方は分からんわけだ、逆に言うと。それで困っちゃっとる。福井鉄道に聞けば、そんなこと長年やってきておるんだからね、言えば一発で分かっちゃう。つぶすための陰謀だと。しかも福井鉄道が言えば多少信用ができるわけね。何も知らない県が言っておるんじゃない。長年やってきておる福井鉄道がこんだけでいいよと言っておるんだから、それはまあいいんでしょうと。そうなるとまた今度は国土交通省から圧力がかかったりいろいろするもんで、福井鉄道はやりたかないわけ。能力はあるけど。だから、今度からめてから、県のお願いで協力できんのなら、県も協力できませんよと。言って、圧力をかけてやれば、多分分かりましたということになるでしょうという知恵を授けてやったわけ。どうなるか。今年いっぱい、今月いっぱいが限りですよね。だから全線残すか、あるいは勝山線だけ残すか、全部やめるか、3つが県議会で今やっとるわけ。それから、どうも県会議員のやつが、自分の町んとこには電車が走っとらん議員さんね、県全体、県からも負担するわけ。何億か。すると、自分の町からも出てゆくわけね。俺んとこは電車は無いのに、なんぼか出てゆくのは損だと。それはまあ、次元が低いんだよね。で、電車をやめさせて俺はお前の町の財政を救ってやったと。いうんですから、次期の清き1票はぜひとも俺様へと。こう言おうと思っているんですね。それをなんとかやっつけないかん。そうですねじゃ困るからね。そりゃお間違いですよ県会議員。ちょっと得したように見えるかもしれんが、50年先を考えるならばそれは間違いですよと。だからそれを一生懸命にやっておると。それはもう情けない話なんだよね。欧米ではそんなことは議論もしないんだよね。福井県の電車存続に反対する県会議員が30人おるんだけど、2〜3人なんだよね。残る見込みはあります。あれをつぶしたら僕は嘘だと思うんですよ。政治家じゃない。そんな政治家はいらん。この前もその県会議員30人集めて、講演へ行っただよね。議員さんも交通部長さんも赤字だからやめると。そういう理由だったら、小学生で出来ますよと。明日からやめると。県会議員さんも交通部長さんも全然いりませんと。そしたらやっぱり議員さんなら議員さんの政治的な判断をお願いしたいと。そういうことで。それから、欧米ではこうですよと。今やね。それが次の30年後の日本のある姿です。必ずそうなりますよと。そのときにどっかは残しておったとかやめちゃったとか。おらの先代の県会議員はなんてことしてくれたんだと。いうことになったら、あんた方の責任ですよと。よっぽど分かったような気がしとる。だったら、県も困っちゃうなあ、多分できんと思うけど、北陸新幹線がもしできると、JRの北陸本線は廃止と。ほんで、認可申請を出せば1年で廃止ですね。これもねえ、なかなかいらんように見えるけどねえ、やめるとまた困るんだな。北陸新幹線でね、中学へ通う訳じゃないもだから。それで、結局はそれも背負い込まないかんわけ。で、だんだん考えてみると大変なことだなあと。いうことで知事さんも議員さんも困っているわけね。だから、これから何をやるかっていうのは、技術移転の研究発表、存続運動も1つね、あとは何かって言ったら、新しいものをより新しくするのに何がいいかって言ったら、分からんと。そのうちに一杯飲んどるうちに思いつくかもしらん。これだっとか言って。存続運動なんかやめてこれこそやらんと死んでも死にきれんと。いうようなのが出てくるかもしれん。これからやりたいことが出てくるかもしれん。自分ではさっき言った、年が年だから電車の技術関係のやつをまあ、テーマがまだ非常に沢山あるんだけど、やっつけて、それからその存続運動でもやったら、まあちょっとゆっくりしたいなあと。それこそ一番楽なのは皆さんの産業遺産研究会へ行って聞いて、なるほど面白いなあと。一番これは短絡マニアなんだよね。汗を流すことは無くて、見学会へ行ってみて、うーんなるほどとか言っていれば一番楽だよね。まあ、この次の段階くらいは、もし死ななきゃ、できればいいなあとと思っているけどね。また何か発見するかもしらんわね。これはいかんとか言って。今やっとるのなんかみんなそうなんだよね。初めはそんな存続運動なんか勝手にやれってね。それから技術移転なんて、よその機械だ思っとたんだけどね、だんだんやってみると日本でこれは俺しかいない、俺がやらなきゃ消えちゃうと。アメリカと長年つき合って、いろいろ資料をもらってこれが日本へ来たということがたくさん分かってきた。資料を頂いているわけ。それが、多分日本では私しかないという資料がね、大分いろいろあるんです。だからそれだけはなんとかアレンジして発表しないとね。やっぱり死んでも死にきれないと。いう感じがあるんですね。ブリルの台車のねえ、一番最初のやつから最後までね、何型が1900何年に始めて開発されたというものを全部もらったんです。ブリルの博士っていうのはやはりレールウエーヒストリアルっていうのはねえ、人がいて、博士の人からもらったんですね。で、これは従来日本では全然分からなかった。まあ、発明されたのはこの頃じゃないか、日本へ年は良く分かっている。日本へ何年に来とるから逆算すると、発明されたのはこのくらいじゃないかとね。それがばっちり分かったんですよ。もう、それもほとんど原稿は書けちゃってねえ、今相克しているのはみんなみたいにパソコンをようやらんもんで、年賀状の宛名をこれから書くのと、そのブリルの論文をまとめるとの、どっちを先にやるかというところに来ておる。で、従来年賀状は家内にみんな書かしたんだけどねえ、やっぱりこれも大分寄る年波でねえ、へばってきちゃってねえ、まあ、ちょこちょこ位しかやらせれんようになってきちゃった。それから、1つは年賀状なんかは減らせっていうんでねえ、よっぽどばったばった切っていくんだけど、またそのくらい増えてゆくんだねえ。新しく会った人が。今、600だけどねえ、もう、なかなか減らない。そんだけ書くと結構時間が来ちゃうんだよね。今度はねえ、ある部分は謹賀新年という部分は消しちゃってねえ、ただ、Season Greetingだけにして、喪中の人にも送る。手書きくらいでご壮健をお祈り致します。そうすれば謹賀じゃないから、送れて、私の情報を伝えることができる。私の年賀状はずーっと採っておる人が多いけど、これは情報なんですよね。年賀状じゃなくて。だから、毎年出したいわけ。だから、喪中の人にも出したいわけ。もらった人も喜ぶわけ。そこに謹賀新年と書いてあると、なんたる不敬なということになるから、Greetingにしてある。

山田:白井さんが大学のときに研究されていたこととか、テーマとかを教えてください。

白井:まあ、一番勉強したのは当時はボイラーですね。まだ戦後もねえ、ボイラーが工業の主役であって、で、学校にもボイラー室があって、機械工学科の心臓はボイラー室である。もちろん石炭。それは機械工学科の一番シンボルみたいなもんですね。いろいろあるけど。またそれは今度機関車なんか修復するのに役立つわけね。
あとね、思い出したのは、沿線の産業遺産。
それじゃあ学校時代の話でね、もう1つまえのはなしでねえ、私の子供の頃が不況で、超特急燕、それから不況で名鉄は豊橋行きの特急は1両運転で、乗っているのは5人位。まあ、そういう子供ながらに不況の大変さっていうことを、まあ、身に感じながら育ったと。それから、同時に不況だからこそ特急燕とか流線型(C5347)っていうのが出てきたわけね。満ち足りとって、何にもせんでも食って行けりゃ、そういうことはやらないわけ。で、その中で、鉄道で言うと特急燕は陸の王者、車はろくな車は無い。そこまで走れば故障だと。スピードから言っても。飛行機もまだよぼよぼ。91式戦闘機なんていうのはね。で、まあ1つ言えば、大きい汽船が交通の王者ではあったわけですけど、まあ、陸の王者と言えばC53であった。100Km/hで走る特急燕という時代で、それに憧れた上で昭和10年頃からは流線型時代で、名鉄は3400形、不思議なことに省線のキハ43000という流線型のディーゼル電気車も武豊線を走っとったのね。東京へは行かない。なごや。東京は電化しとるからね。というようなことで、非常に物珍しいものがいっぱい出てきて、まあ、そういうものに釣られると。いうようなことで、まあ、鉄道に興味を持つように、まあ、時代の背景がそうさせたと。いうことが大分ありますねえ。

あとは、高齢者の活用ということは今もやっていて、今日乗ったSLおじさん、あの人も元国鉄の駅長で、今、結構いいお年なんですよね。それから車両の方も若いって言ったけど国鉄OBが一人、相当な年輩の。それから大井川鐵道のOBの人もうんと高齢の人を2〜3人雇っています。常に高齢者の活用と言うことは昔から考えていたし、今も努力していると。高齢者の知恵と経験を生かそうということですね。

山田:白井さんもその中の一人ですね。

白井:まあ、僕はやっぱりねえ、あのー、休まるかと思ったけどねえ、いろんな人が訪ねてくるとかねえ、僕がさっき言った日本工業大学へ行くってもねえ、まあ、今の人が言っても初めてだもんでねえ、本当にこんにちはになっちゃうわけね。ほんだもんで、新しい社長が行けば、俺は休みだよって言っても、頼むでついて来てくれっちゅうことになっちゃうわけ。向こうも行けば、前、B6を寄贈したりいろいろやっとるからね。よくいらっしゃいましたっていうことになってねえ。なかなかバトンタッチがねえ、なかなかできなくて。

白井:海外交流でもねえ、スイスのSIGっていうのはねえ、名鉄に電車の台車を売り込みに来た。副社長が。SIGというのは、遠鉄の30形だったかね、名鉄も3700形で試験使用したけどね。それは空気ばねも無いしコイルばねも無くて、トーションバーで、軽くて安くて保守がいらん。すごい良い台車だけど、日本は空気ばねができてきちゃったもんだから、採用できなかった。代わりにスズキだとかホンダだとか軽4輪がいっぱい利用しとった。軽くて。ですから電車ではちょっと花が咲かなかったですね。で、それを材料にこっちはいろんなことを聞き出したわけですね。スイスの鉄道技術のことを教えてもらったわけですね。いろんな人が世界中から来るから、みんな、情報。そのつながりが今も生きていて、多分偉そうに言うと相当部分は最新の情報が入ってくる。世界から。本にも出てるけどね。その点で、有利であると言うことが言えますね。

まあ、沿線の名物、まずねえ、東海道線からいくと、東海道線の金谷のトンネルの向こう側に、トンネルの明治20年にレンガを焼いた竈があるわけ。そこで、明治のレンガがいっぱい出てくる。で、これはかなり日本のレンガ製造としては古い。そのレンガを使って島田の駅の地下道が、マンボウという、これも明治22年からレンガの地下道ができた。それから菊川のちょっとこっちにこのレンガを使ったこれも用語はマンボウというんだけど、大きな川が通る、まあ、結局橋ですね、橋の代わりのマンボウがある。それから、菊川と金谷の間(東京起点218Km)に友田信号所というねえ、貨物列車がいっぺん待避して勾配を水平に上がって釜替えをして、旅客列車が行ったらまた出ていくというそういう線の跡が、今でも見えるんだけどばっちり残っている。線路の横に、線路は10/1000の連続勾配だけど長さは当時の貨物列車の60両分の長さ、築堤が残っています。これは大体大正初年にできて電化してなくなっていますね。そうやってもまた登らんで戻ってきたことも、特に終戦後の石炭が悪いときは時々あったそうです。雨降りで空転するとか。その築堤の上にD52がとにかく60両の貨車を引っ張って止まっておったと。我々はいまでも想像できる訳ね。ああ、ここでおったんだなあと。東海道線は勾配は10/1000で少ないけども長いんですね。大井川線のSLでも同じですね。20/1000の勾配を8両か9両は平気で引けるんです。ところが連続で行くもんで、5両しか引けない。連続って言うのは一番弱いんですね。

もう1つ産業遺産は、軍用鉄道は金谷から大井川鐵道を通って2つ目の駅のちょっと手前から分かれて大井川まで新線引っ張って、D51の試運転をやったんです。そこまで行って、終点でやめちゃったんです。向こう側は島田軌道って言って別に鉄道があったんです。そこをつないで大井川の鉄橋が落とされたときには貨物列車はこっちを回る。これが産業遺産で線路跡が道路になって、ちょうど線路形をして残っておる。これも歴史の一コマですね。

鉄道関係だときようの駅からの森林鉄道の跡、千頭の森林鉄道、木曽森林鉄道には及ばないけど、かなり大規模な森林鉄道が昭和44年まで長い間住民の足にもなっていた。何もないからそれで生活物資も人も。それのガソリン機関車がプリムスだとかミルウオーキーだとかいろいろ。それからもう一つ、千頭の駅と反対側へ行く森林鉄道がありますね。これはイギリスのガソリン機関車を使っていた。これは戦後までありました。それから、あとは水車は山ほどあるんですね。これはねえ、調査が不十分なんで残念なんですが、地名、あそこだけでも20数カ所ある。米つきから製茶から非常に多目的に使われた。全部無くなったのは昭和40年頃ですね。もうちょっと前に調べれば、ここにいくつあって、目的は何で、できたのはいつ頃っていうのは分かった。もう今はだめです。やり遅れちゃった。まあ、いずれにしても水が豊かなところだから。もっと言うと島田の製材がたくさんあって大繁盛したんですが、それは蒸気製材と水車製材と半々だった。で、そこの動脈として島田軌道があった。これはみんな私が産業考古学の本か何かへ発表してます。それから一つは川根索道というのが藤枝、地名、千頭の奥まで行っておった。これは日本でも大規模な索道だった。で、その残っているのが日本一短いトンネル。産業遺産になっておる。それが堤先生の記事では大正15年にできたと言っておるけれども良く調べたら違っておって大正12年だった。で、違うよという原稿を今、川上先生のところへ送って(産業考古学の)12月号には出ないけど、次の号には出すよと、こういうことなんですね。

まあ、これは産業考古学にはならんかもしれんが、渡し船がいっぱいあって、急流だもんですから、大抵、針金を渡してそれで引っ張って行かんと流されちゃうんですね。それでは。まあ、もちろん針金ですから、明治初年は無理ですね。針金が買えないから。で、大正位からあとはそういうのはたくさんあって、それが今はみんな橋になっている。渡し船、次は吊り橋、その次は橋。それから今度はプロペラ船だなあ。大井川のプロペラ船、これは大井川鐵道ができるまで活躍した。そのプロペラが地名の民家と島田の博物館と、今日行った接阻峡の民族資料館と3つ残っています。瀞峡のあれですね。その後終戦後、井川の畑薙ダムを造るのにもプロペラ船を使って、それはこのまえ考古学会誌へ2年位前に出しました。それから、産業考古学的には川の川船というのも価値がある。これは島田の博物館に本物がある。地理の青木先生に聞くと、川船が本物が残っているのは殆ど無いんですってねえ。で、貴重な存在だと。

このへんには蒸気製材所があった。それはその森林鉄道が持ってきた木を石炭のボイラで製材した。これは戦前に倒産したのかな。島田に競争で負けたと思うね。それから、今日行った市代の鉄道吊り橋はこの前産業遺産に認定されたと。で、鉄道が通っておった吊り橋というのは外国ではいっぱいあるが、日本では割合珍しい。今は瀬戸大橋があるが。あれが貨物列車が通るときは吊り橋はこういうふうになったと。これは産業遺産に認定してもらって良かったですよ。みんなからそういう認識をしてもらえるようになって。それから千頭の駅はさっきの転車台、それからSL資料館には貴重品がたくさんある。それからレールとかは屋外にある。それから9600とかのSLがある。

それから、井川線の小山という所には、大井川で最初の水力発電所、小山発電所跡がある。これは困ったことが一つあって、町が町史編纂委員会があって、その会で、あれは明治43年に作って、すぐ大水に流されて、またやり直して明治45年に本式に改良した。ところが町史編纂委員は明治45年の開業と書くとがんばっておる。中電にも明治43年にできて壊れて明治45年に再開と書いてあるんだけど、中電は信用できないと。何があるかというと、当時の新聞に、明治45年某月某日に華々しく開業と書いてあるから、これが本当であると。町史は嘘は載せないと。これは困っちゃっとるわけ。これは一番出来れば、大河内先生をなんとかとっつかまえて、大河内先生が明治45年説は間違いですと、明治43年ですというのをかなりいろいろ発表されたもんで、その文献は探し出して、これは準公文書ですよ。だから45年は間違いですよってやろうとおもっているんですが。大河内先生は東北かどっかへいっちゃって、つかめないんだよね。それで困っちゃっとる。まあ、そういうことはいっぱいあるんですよね。書いてあるものの一部のみを信用しちゃって。まあ、だから面白いんかもしれんね。いろいろ真実が出てくるし、書いてあるから正しいとは限らないし。
大河内さんはそれを発見して、得意になって力説しとったんですね。45年は間違いですよ、白井さんも良く覚えて置いてくださいと。

発電所がたくさんあるやつが、結構産業遺産なんですね。家山のちょっと向こう側へ発電所を作るときに、こっち側の道が無いので、大井川鐵道で発電機を運んで、家山の駅から吊り橋かトレーラーかなにかで向こうの発電所へ運んだ。
ですから、昭和40年位までは何が何でも鉄道ね。だから島田駅の南も鉄道が何本かあったんですね。軌道が。これがちょっと良くしらべられなくて、故老のひとに聞き聞き、産業考古学会誌に発表したけど、まだ今ひとつはっきりしないところがあって、当時の土地法典ね、あれを引っ張り出せば絶対でとるというんだけどね、やっぱりそれまでやる暇が見いだせなくて、やっぱりちょっとあきらめとるというかっこうなんですけどもね。

(以上で原稿完)

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