5. 三河線小史

  明治末期から当地でもいくつかの鉄道敷設構想があった中、碧海軽便鉄道(へきかいけいべん--)
がどうにか具体化に漕ぎつけ、明治45年(1912)、「三河鉄道」と名を改めて創立、大正3年
(1914)に三河湾沿岸の大濱港おおはまみなと、現・碧南(へきなん))から院鉄・東海道線刈谷駅南の
仮駅「刈谷新(かりや しん)まで開通させました。翌大正4年(1915)には院鉄・刈谷駅に乗り入れ
るとともに、知立まで伸ばして当初の計画を全うしました。
  これに続く知立−擧母(ころも、現豊田市)間を計画していた知擧軽便鉄道(ちきょけいべん--)を三河鉄道
が吸収し、北部へ順次線路を延ばして大正13年(1924)に擧母の先の猿投(さなげ)まで達しまし
た。さらに足助への延伸を図り、昭和3年(1928)に、途中の西中金(にしなかがね)に達しました。
  南へも、昭和3年までに三河吉田(みかわよしだ、現・吉良吉田)へ順次延伸し、かくて、東海道線
のあばら骨をなし、かつ西三河を縦貫する 65 km の海・陸連絡鉄道の完成を見ました。

 
汽車時代の三河鉄道 梅坪−越戸間(篭川橋梁) 大正時代(愛知県西加茂郡誌)

 
上と同じところの現在(篭川橋梁) 名鉄三河線 6000系4連 (平成16. 3 As)


  ふりがえって各地の地方鉄道の起業形態を見ますと、

    @ 大都市と 周辺都市とを結ぶもの

  A 大都市と 観光地または参詣客の多い社寺とを結ぶもの

  B 幹線鉄道と 周辺都市とを結ぶもの

  C 港湾と 背後都市または特定物産地(例:産炭地)とを結ぶもの

などに分類できます。

  三河鉄道はこのうち Cの性格を持ってスタートしました。すなわち、三河南部の大濱港、高浜
港、平坂港、吉良港などは三河湾内の良港であり、古来、回船が寄港して日本各地の産物が
もたらされました。またこれらの港から当地方の産物を各地へ積み出し、中でも吉良(きら)の塩
は有名で、赤穂(あこお)と覇を競ったものです(忠臣蔵の物語はこの争いに端を発しています)。
  港に上がった物品の内陸部への輸送、および内陸産物の港への輸送は、短距離は馬車や
大八車、長距離は河川を利用した舟運よっていました。当地の場合、西三河を縦貫する矢作
(やはぎがわ)がその役目を果たしていたもので、中流部から下流部にかけていくつもの川湊(かわ
みなと)があって 100艘にも及ぶ川舟が上り下りしていたといいます。しかし、舟運は速度が遅い
うえ、悪天候や増水により欠航し、しばしば荷物が停滞しました。

  明治期に入って商工業が盛んになるにつれて物流量も増加し、東海道線を始めとする鉄道
の高速・安定な輸送を見るにつけ、当地でも舟運を鉄道に代えて輸送を近代化しようとする機
運が高まりました。これが、沿岸各港と内陸部との間に鉄道を敷こうとした第一の動機であった
と思われます。実際、三河鉄道の開通後、いちはやく各港埠頭への支線(引込み線)も作られ
ました。

  また、当地方は名古屋との関係が強いことから、すでに開通している東海道線・刈谷へアクセ
スすることにより名古屋との往来の便(べん)を良くしよう、また東京・大阪はじめ各地へも楽に行
けるようにしようというのが第二の動機であったと思われます。

  全国の幹線鉄道が整備されるにつれ、遠距離物流は回船から鉄道に移って、回船は急速に
廃れたため、三河湾各港の役割も低下しました。近代船が入ることのできる港に発展したところ
もなく、やがて埠頭への支線も廃止されてしまいました。
  したがって、三河鉄道開通後は東海道線・刈谷へのアクセス線、および、追って開通した愛知
電鉄・知立へのアクセス線としての性格を強くし、上記の Bの性格に移行しました。

  名古屋など近距離の用事には知立から愛知電鉄を利用し、また、東京・大阪など遠距離の旅
行や出張には刈谷から東海道線を利用したものです。もちろん、東海道線を経由する物流にも
大きな役割を果たしました。


  三河鉄道の構想時は 762 mm 軌間の軽便鉄道でしたが、発足時には計画を変更して院線と
同じ 1067 mm 軌間を採用したのは賢明だったといえます(貨車を直通させることができました
し、院鉄の古い車両を払い下げてもらって使うこともできました)。軌間はそれから変わっていま
せん。

  また、当初は蒸気機関車(一部は蒸気動車)による運転でしたが、猿投まで延伸した直後の
大正15年(1926)に電化し、それも(田舎の線は 600 V DC が多かったところ)当時最先端の
1500 V DC を採用して、電車運転に切り替えました。貨物用に電気機関車も導入しました。

木造車体のモ1070型 上挙母駅 昭和30 As
デキ300型  猿投駅 昭和32 As

  線路は南端の三河吉田からさらに海岸沿いに東進して、東海道線「蒲郡(がまごおり)に接続し
(昭和11年)、営業キロが 82 km になりました。ただ、この延長部は当初は非電化で、ガソリン
カーおよび蒸気機関車による運転でしたが、その後、電化しました。昭和16年(1941)に名鉄に
吸収合併後、この区間は「蒲郡線」として別名称となったので、三河線のキロ数は 65 km に戻
りました。

  それから六十数年後の平成16. 3. 31で両末端区間(吉良吉田−碧南、および猿投−西中金)
を終止(4. 1 廃止)しましたので、現在の営業キロは「碧南−猿投」間 40 km です。

  大濱港−刈谷間開通当初は、幹線である院鉄・東海道線刈谷駅へ向かう北行きを「上り」とし
ていました。東海道線をまたいで北部へ延伸した後もその続きで西中金方を「上り」としていま
したが、南部を蒲郡まで延伸して東海道線と 2ヶ所(刈谷と蒲郡)で接続するようになるとその
間で上り・下りが東海道線と反対になるという不都合が生じました。そのため、上り・下りを反転
することになり、蒲郡方を「上り」、西中金方を「下り」と変更しました。
  これは知立駅がスイッチバック式になった今も続いていて、全線を通じ南行きが「上り」、北行
きが「下り」です。

トップページへ
トップページへ
親ページへ戻る
親ページへ戻る