あのころの北千里

はじめに

世界初の自動改札機、1970年大阪万博、・・・。当時、世界でもっとも未来都市に近かったかもしれない街、千里ニュータウンの北の玄関口、北千里。それは一方で、空き地あり、野良犬の群れあり、バッタ大発生ありと野生を残し、飴と玩具を売り歩く「北千里の寅さん」に象徴される昭和色のまだまだ色濃い、矛盾に満ちた面白い街でもあった。1970年当時の北千里を個人的な思い出とともに振り返る。

(まだ書きかけですが・・・)

(ご質問、ご指摘、ご感想はメールで受け付けています)

(追記予定:帰省のこと、迷い込んだ文鳥、逃げたカブトムシ、ほか)

北千里へ

昭和42年夏、特急「つばめ」号の車内での会話

「フランク永井がいるね」 「えっ、どこ?」 「すぐ後ろだよ」

そんな父母の会話を聞いても、こちらはまだ二歳である。フランク永井が誰かはもちろん知らず、興味も関心もない。揺れる車内で体調を悪くし、食べたものをもどしそうなほど気分がわるくなる。しかし山陽新幹線がまだ開通しないこの頃、博多から大阪までは8時間超の長い旅路。席は車両の端近くで、木目の壁をずっと見ながら我慢して座っていなければならないのだった。

母はなぜか「フランク永井」と縁がある。勤めていたデパートの隣の喫茶店で見たのが最初か。それから月賦で買ったビクターのステレオに、おまけで付いていたレコードが「有楽町で逢いましょう」だったか。そして今度の「つばめ」号の車内である。

車内販売が冷凍みかんを売りに来て、それを食べた。うまい。だいぶん気分がよくなったようだ。

それから透明の容器にはいったお茶を飲んだ。当時は缶入りやらペットボトル入りやらのお茶はなし。さすがに素焼きの瓶入りのお茶はもうなかったが、透明のポリ容器に入っていた。

夕方にやっと新大阪に到着した。そこからタクシーに乗って北千里に向かう。私はそこが今度あたらしく住む街だという認識すらない。そもそも自分たちがこれまで日本のどこにいて、どれだけ離れた場所に来ているのか、さっぱり分からないまま、ただ連れられて行っているのだった。

タクシーはおそらく豊中のほうから北千里に入って行ったのではないかと思う。四角い文字で番号を打たれた箱形の建物が、等しい間隔を置いて、規則ただしく整列してある異様な光景が目に入って来た。いわゆる団地である。どの建物も箱、箱、箱。それが千里ニュータウンの第一印象だ。しかしところどころ箱が途中で「く」の字のかたちに折れ曲がっている建物のあるのが、子供の私には面白かった。

今のマンションのような高層の建物ではない。高層のものもあるが、当時はほとんどが5階建てである。高さで威圧する感じではなく、建物の量とそしてシュールレアリスム絵画のような延々とつづく単調な規則性とで圧倒する感じだ。

タクシーはやがて小高い丘をあがったところで止まった。降りて門を入ると、箱形をした4階建ての棟の横に D35 と番号が打ってある。そこが今度住むことになる社宅だったが、幼い私にはそこに「住む」ことになるという予感すらない。

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それまでは福岡市にいて福与ビルという当時としてはマンションのようなところに住んでいたのだった。その前は一戸建てに住んでいたようだったが、それはほとんど記憶にない。今の記憶にあるのは福与ビルからであるが、福与ビルにはあまり愛着がない。いつも「ロバのパン」の車が音楽を鳴らしながらやってきて、そこの蒸しパンがおいしかったと母などは懐かしがるが、その記憶はない。

福与ビルで覚えていることといえば、同じビルの他所の宅に母と姉と私の三人で昼食を呼ばれに行ったこと、そのとき食べたものが鶏ご飯だったこと、そこの宅の窓から福与ビルの「ヘ」の字の形に内に曲がった先が見えたこと・・・。それから同じ年頃の友達と遊んでいるうちに、(おそらく)ブリキの車を交換したこと・・・私のはもともとフォードのレーシングカーで、彼のがフォルクスワーゲン・タイプ3だったのが、お互い相手の車のほうが好きになって交換した結果、私がワーゲンを所有することになり、フォードは彼の手に渡った。・・・あと、近所の南公園の様子。夏に花火をしたが私は怖がって線香花火をもつのがやっとだったこと、などである。

アルバムの写真を見ると7月に芥屋の大門に一泊していたり、久留米の石橋文化センターに行っているようなのだが、その記憶はない。

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新居に入り、父母は下見をしていた。私はカーペットの敷かれていない床のタイルにうっすらと赤い模様が描かれていたので、それを興味をもって見つめているだけだった。

家具がまだ届かないので、その日は社宅に泊まらず、大阪駅にもどって近くの宿に泊まったらしい。

翌日、社宅に戻って来て、それ以来ずっとそこだった。福与ビルのことは、すっかり忘れてしまった。

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ところで北千里に来た時期であるが、これはおそらく昭和42年の8月である。母方の従姉が生まれて間もない頃だったというから、従姉の誕生日が分かればはっきりする。フランク永井の当時の福岡公演の記録があればいいなとも思う。

社宅

古江台三丁目は社宅と一軒家ばかりの街だった。社宅の街といっても、団地には変わりない。バス通りをはさんで北の向こう側は青山台の団地で、ここは日本住宅公団や府営住宅の団地だった。

社宅には4階建てであること以外に、ふつうの団地の建物と違ったところがいくつかあった。

ふつう団地の建物の玄関は階段の踊り場に、隣と向かい合うような位置に付けられている。

社宅では、表の各階に二戸づつ共用のバルコニーがあって、そこに玄関があった。入り口の階段をのぼって、奥の踊り場で向きをかえ、また階段をのぼるとバルコニーに出る。

階段の踊り場には、共用の黒電話があった。社宅に来たころは各戸に電話器がなく、外から電話があると管理人が(おそらくインターホンで)呼び出し、住人が階段を降りてその共用電話の受話器をとる、ということをしていたようだ。管理人もいちいち大変だったと思うが、当時はいまほど電話をかけることはなかった時代である。

今の携帯電話でいつでもどこでもコミュニケーションをとれる時代とは隔世の感がある。

それから社宅専用のゴミ焼却場が門を入ってすぐの自転車置き場の裏にあった。その後、たぶん法令で禁止されたと思うが、私のいたころはまだあった。燃えるゴミは母がそこへ持っていき、鉄の蓋を開けて、中へ捨てるのである。私もときどき付いて行った。焼却場は火のついていない時と、さかんに燃え盛っている時とがあった。

戸内はいわゆる3LDKで食堂と台所が一緒。台所にガス給湯機をつけて、そこから湯をとっていた。洗面所から湯は出ず。父のひげ剃りなど、必要があれば台所で湯をとって、それを洗面所にはこんでいた。

浴室は南向きのベランダに通じている。通気性がよく、今のマンションでよく悩まされる黒カビの発生はなかった。

ベランダは浴室を出たところはやや広め。棒を回して開け閉めするルーバーが付いていた。

部屋は六畳間が二つと四畳半が一つ。六畳間は和室で、四畳半のは洋室。

二つの六畳間は押し入れの奥が隣り合っている。下段の境が二重の縦格子になっていて、動く方をずらすことで開け閉めできるようになっている。こういうのを無双連子というのだそうだ。だからここを開けてさらに双方の押し入れの戸を開ければ、箕面山から吹き下ろす涼しい風が建物を通り抜けた。

家庭用エアコンというものが珍しい時代で、社宅にはもちろんエアコンはない。扇風機すらなかったと記憶する。あれでよく夏を過ごせたものだと思う。

北千里駅前

千里の社宅に引っ越してから、幼稚園に通うまでの長い間をどうして過ごしたのかは覚えていない。テレビでは「光速エスパー」をやっていて、それを見ていた記憶はある。エスパーが太陽にまで飛んで行って、ぐらぐらと煮えたぎるマグマのような大地に降り立つのを見た時、太陽というのは恐ろしいところだと思った。

母の買い物にはよく連れられて行った。北千里駅前にオアシスがあって、最初はそこで買い物をしていたが、すぐにピーコックが出来て、そこが近いのと品物がいいというので、後はもっぱらピーコックにばかり行った。千里中央の商業施設がまだ出来ていない時代である。

いま私は1968年(昭和43年)の地図を見ているが、北千里駅前のロータリーにある商店は「ピーコックストアー」以外に「喫茶ウイング」があるだけだ。ロータリーの出口付近、現在イオンの建物がある場所は「近隣センター予定地」となっていて、ここにはすぐ後に出光のガソリンスタンドと「北センター第十駐車場」が作られる。そしてその手前にロータリーに沿って「北センター専門店」の商店街が作られるのだ。

1970年(昭和45年)の地図が小さくて判読しがたく、おまけに多くを省略した節があるので、参考までに1972年(昭和47年)の地図を見てみると「北センター専門店」は以下の店から成っている。 まず阪急千里線に沿って

  • 子供用品 ヨネツ
  • インテリヤ東邦
  • フトン とみや
  • スタンド にしき
  • パーマ グランド
  • パーマ テルミー
  • 人形 いせや
  • 高橋薬局
  • ピーコックストア

次に駅前ロータリーに沿って

  • 吹交・日本・阪急タクシー事務所
  • 喫茶 いこい
  • 洋菓子 千里エース北千里店
  • 化粧品 ローザ
  • 菓子 えびすや
  • 洋傘 まき
  • 文具・工芸品 マスヤ
  • 模型 マッハ
  • 宇治茶 一茶園
  • 千里釣具
  • 花 草楽園

その奥に

  • 喫茶 ウイング
  • 喫茶 ベル

そのさらに奥に

  • 眼鏡 橋本
  • 運動具 スガ
  • 洋品 マルショウ
  • 靴 タニイ
  • 着物 アルゴ
  • 毛糸、ボタン ホビー
  • 婦人服 くじや
  • 千里サンヨー電化ストアー
  • カバン フジトップ
  • 婦人服飾 リッカー
  • 室内装飾 インテリヤ東邦
  • 乗物玩具 いせや西店

なお1976年(昭和51年)の地図を見ると、「スタンドにしき」は「酒店にしき」に、「パーマグランド」は「理容グランド」になっている。当時、千里中央の商業施設が完成する前、私と父が行っていた床屋は「パーマグランド」であったと思われる。

私は北センター専門店では「子供用品ヨネツ」「マッハ模型」を覚えているだけだ。「乗物玩具いせや西店」は憶えていそうなものだが憶えていない。「婦人服飾リッカー」は半世紀にわたって続いて来た数少ないお店の一つであった。久しぶりに北千里に来てみて「リッカー」という言葉には覚えがあるので懐かしかった。そのリッカーは2017年に閉店された。

懐かしのピーコックストアも2017年の暮れに閉店された。50年の歴史に幕を下ろしたのである。

駅前のビルは「北千里センタービル」という。ここ一階にある商店街は「北センター専門店」とは別の括りになっているようなのだが、当時はそんなことは意識しなかった。「北千里センタービル」は以下の店から成る。まず一階(地下)は

  • スーパーオアシス

二階は

  • スーパー オアシス
  • 千里シャープ電化ストアー
  • 喫茶 紋
  • 書籍 駸々堂千里北店
  • 阪急交通社案内所
  • 喫茶 オアシス
  • 池田銀行北千里(支)
  • ABCカメラ
  • レコード楽器 ミヤコ
  • 時計 新工舎

三階は

  • 寿し 松新
  • レストラン ニッショー
  • お食事処 水車

ほとんどの店が消えてしまったか場所を変えたようだが、「オアシス」は今も健在のようである。

当時「駸々堂」では絵本や図鑑を、「ミヤコ」ではレコードを買っている。それについてはあとで述べる。「水車」へは幼稚園の帰りに母と姉と私の三人で何度も立ち寄った。食べたのはたいてい、うどんであった。日曜日は家族全員で立ち寄ることもあった。私は幼かったから小皿にうどんを取り分けてもらって食べていた。

「新工舎」ではディズニーのキャラクターの腕時計を買ってもらっている。

ところでこのセンタービルのどこかの店に九官鳥がいたような記憶があるのだが、どうだろうか。

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駅前のロータリーからは、青山台の高層アパート、C74棟が見える。千里ニュータウンのシンボルともいわれる建物である。北千里に来た頃は、C74棟はまだ建設中で、私は建設中の建物の中に小さなショベルカーのような建設機械があったのを、興味をもって眺めていた。

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これはもっと後年(1970年以降)のことになると思うが、北千里のロータリーで刑事物のテレビドラマか映画のロケがあって、小池朝雄が犯人役で出ていたそうだ。私は現場にいなかったから、そのロケは見ていない。この時代、小池朝雄は時代劇や刑事物ではほとんど悪役と決まっている。

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阪急千里線は北千里駅が終点で、ロータリーを出た所にあるバス通りには最初鉄道橋が架かっていなかった。それがいつ頃かに鉄道橋が架けられた。「箕面まで伸びるんだそうだ」と父が話していたのを憶えている。あれから半世紀が経つが結局、箕面までの延伸はなされないまま今日に至っている。

阪急千里線

梅田へは阪急に乗って行く。北千里の駅は早くから自動改札であった。当時、世界で唯一の自動改札の駅だったと思う。

何度も乗っているうちに北千里から梅田までの停車駅をおぼえてしまった。駅名は今とほとんど変わらない・・・

  • 北千里
  • 南千里
  • 千里山
  • 関大前
  • 豊津
  • 吹田
  • 下新庄
  • 淡路
  • 崇禅寺
  • 南方
  • 十三
  • 梅田

・・・(その後、1970の万博開催に合わせて北千里・南千里間に万博駅が作られた。山田駅は当時はない)。駅名の一部はそれぞれ次のような連想で覚えていたと記憶する・・・豊津→とよす(あられ)、淡路→(ぶくぶくの)泡、崇禅寺→(ソーセージ)、南方(→肩)。

車内では幼い子はだれもがそうするように、私も座席にひざを立て後ろ向きに座って車窓から外を眺めた。大阪は川の多いところだった。自然の川だけでなく、水処理施設のような場所もあって、そのような光景を見るのが楽しみだった。最後に電車はゴトンゴトンと音を立てて淀川にかかる長い鉄橋をわたる。淀川はまるで海のようで、そのような大きな川があることが驚きだった。生まれて二、三年の私は生命の源のようなものを、川の流れのなかに見ていたのだろうか。

週末に家族全員で乗るときは父は車内で煙草を吸ったものだった。父にかぎらず当時の大人はほとんどみな煙草を吸った。セカンドスモーカーを入れれば一億総スモーカーだった時代である。

淀川を渡って間もなく終点の梅田に着く。 北千里駅が当初から自動改札だったのにたいして、梅田駅はしばらく駅員が改札していた。

阪急梅田駅は今の位置とは違っていて、今の阪急百貨店あたりにあった。だから国鉄の高架線より南で、ホームに立つと国鉄の高架線が北に望めた。大正生まれの父は国鉄の高架線を通る電車を指して「あれは省線電車だ」と言ったものだった。

ふじしろ幼稚園

私と学年が一つ上の姉とは昭和43年(1968)から三年間(姉は二年間)、ふじしろ幼稚園に通った。

母が古江台幼稚園ではなく、ふじしろ幼稚園を選んだ理由は、単純に古江台幼稚園開園のことを知らなかったからである。社宅の管理人に子供を通わせる幼稚園を訊くと「ふじしろ幼稚園というのがある」と答えるので、それで決めたのである。私たちが千里ニュータウンに来た当初、古江台幼稚園はまだ出来ていなく、昭和43年の4月に開園になったようだ(古江台小学校のホームページによる)。

一方、ふじしろ幼稚園が出来たのは昭和40年3月31日。私が生まれて間もない頃である。私が通い始めたのが昭和43年4月だから三年しか経っていなかったことになる。

一つ上の学年の姉と初めて通った日のことは今でも覚えている。古江台の社宅を出て坂を少し下り、バス道をわたって青山台の団地の敷地内に入ったところに集合場所があった。初日は母同伴で、母は年長の園児を見つけると

「この子は今日が初めてで、まだ小さいから、よろしくね」

とお願いしていた。私より頭一つ以上も大きいその年長さんは

「いいですよ。まかせといてください」

と気のいい返事。そのとき、その年長さんと撮った記念写真が、今にいたるまでずっとアルバムにはさまっている。

さて、いざ登園になると、年長さんは友達とおしゃべりするばかりで、私の面倒は見てくれず。いくら頼もしい年長さんといっても、まだ五歳の幼児である。私は列から逸れないように、独りで注意しながら、歩いたり走ったりしてなんとか登園した。

刻水舟

おそらくその時に母が私たちの登園の様子を写真に撮っている。それもずっとアルバムにはさまって見慣れた一枚であるが、去年ひさしぶりに見ていると、おもしろいものが写っていることに気付いた。

私たちは青山台の団地の敷地のなかを歩いていて(私は駆けている)、母は少し離れたバス通りの歩道からその様子を撮っていた。登園する園児たちの向こうに石垣があって、その上の芝生のところに白い杭のようなものが立っている。そこに文字が書かれてあるが、小さくて肉眼で読めない。そこでルーペをとりだし目を凝らして見てみると、かろうじて

刻水舟

と読めた。しかし「刻水舟」とは何だろうと思って、辞書を引いたりネットを検索したりしたが、何も出てこなかった。

いよいよ好奇心が募った。

中国の故事か何かに詳しい住人が酔狂で書いたものだろうか?

とか

昔、ここに川か運河があって、そこに立っていた札が歴史的記念物として残されているのだろうか?

などと、あれこれ仮説を立て、といっても後者はあまりに奇想天外であるが、悶々とする日々が続いた。ひとりで考えても仕方がないのでネットで匿名氏に訊ねようかとさえ考えていた。

しかし問題はあっさりと解決したのである。

久しぶりに青山台の団地を訪れてみると、杭の立っていた場所あたりに今も何かの標石が立っているではないか! 近寄ってそこに書かれてある文字を見ると、果たして「刻水舟」と書かれてあった。しかしそれは写真で見るような白地に黒の文字ではなく石に刻まれた文字である。誰かが酔狂で書いたものでないことは確かである。それにしても「刻水舟」とは本当に何なのだろう。

杭の別の面には「○」のなかに「住」の文字が刻まれてある。ここになにかヒントがあるのではないか。

私はふと、自分が文字を読み違えているのではないかと疑い出した。そこで現物をよく見て分かったのだが、あれは「刻水舟」ではなく

制水弁

と刻まれていたのである。「制水弁」は検索すると画像とともにたくさん出てくるので、これで間違いない。制水弁。団地の建物に供給する水の水圧をコントロールする何かが近くにある、という印であろう。

疑問が晴れて再び昔の写真を見てみると、なるほど「制水弁」と読めた。

ちなみに○に「住」は日本住宅公団のロゴマークである。

舟のプール

雨の日は幼稚園バスで通ったと思うが、あとはずっとこんな感じで、三年間歩いて通った。私も年長になるにつれて、登園時に、おしゃべりする仲間ができていた。

幼稚園に入って間もない頃、青山台から通っている友達と休み時間に間違って下校してしまったことがある。その友達が「今日はこれで終わり、だよね」というので「あ、そうなの」と軽く乗って一緒に運動場に降りて行き、そこの門から出て二人で帰った。運動場の門から出入りしたのはそのときが最初で最後だっただろうか。それにしても三歳の子供二人だけでよく帰れたものだと今は思う。

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幼稚園の正門を入ってすぐのところに紫陽花が植わっていた。初夏に、初めて見る紫陽花という花を好きになった。

図鑑などで見るテントウ虫を初めて生で見たのもこの植え込みの場所だった。テントウ虫という昆虫も好きになった。

それから当時は今、アーケードになっているところに、木製の小舟があった。夏になるとそこに水を溜め、配給された水鉄砲で、みなで水遊びをしたものだ。そこが幼稚園の「プール」だった。

本格的なプールはなかったので、幼稚園からは北プール(北公園)まで行って子供用のプールを浮きを使って泳いでいた。幼稚園のプールは1970年に工事が始まっていたが、利用しないまま私たちは卒園している。ちなみにそのプールの建設を提案したのは、役員をやっていた私の母である。

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母がPTAの副会長とかいう役員をやっていたのは子供二人が同時に通っていたからだそうだ。ある日の夕方、園長先生が直々に社宅を訪ねて来られて副会長になってほしいと懇願されたそうである。会長の方が勤め人で平日はいないから、副会長といっても実質、会長といってもいい存在だったようである。

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幼稚園の遊戯の時間に何をやっていたかはほとんど憶えていないが、運動場に黒・赤・青三色の鯉のぼりの鯉を置いて、その穴をくぐり抜けるという遊戯はよく憶えている。黒と赤は年長さんたちのグループが手にもって支えていて、特に黒は大きいから立ったままでくぐり抜けられた。一方、一番小さな子鯉の青は、匍匐前進に近い感じだっただろうか。三年目、最年長になると今度は鯉を支えて年少さんたちを通す番になった。

音楽の時間は「むすんでひらいて♪」や「Open Shut Them♪」に合わせて手を動かしたり、カスタネットやトライアングルを使った演奏をやったのを憶えている。

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母が役員をやっていた関係で、帰りは母と同伴になることが度々あった。運動場横の藤白台の坂を降りると、大きな交差点に差しかかる。夏になるとそこで虫網と虫かごを売る露天商がいたのを憶えている。そのときにたしか若葉色のプラスチック製の虫かごを買った。吉野での合宿に備えてだったと思う。・・・虫かごというのは今も昔もそう変わらない。今は100円ショップに売ってあるが、50年前からほとんど変化していないように思う。

吉野で合宿

幼稚園からはよく遠足に出かけた。最大規模の遠足は一年目の夏、二泊三日の吉野合宿である。

移動中、車酔いするんじゃないかとずっと心配だったこと、初日の夜に影絵芝居が催されたこと、大広間のなかで、大勢の園児のなかに埋もれて、自分の寝場所が分からず、先生にも訊かず、適当に見知らぬ子のあいだに入って寝たことが思い出される。

二日目は、各々が虫網と虫かごをもち、グループを作って吉野の山を散策した。

私は大グループだと自分が埋もれていくようで面白くないので、いつのまにやら地元のおじさんの案内する4、5名の小グループに入っていた。

途中、草むらのなかにカマキリを見つけ、それと睨めっこをしているうちにグループが先に行ってしまった。気づいて周りを見渡せば私ひとりだけ。

山は、夜には狼が出るという話を、前の日に聞いていた。それを思い出すと急に心細くなって、このときは泣くこともできないほど恐怖を感じたものだ。

不安になりながらも先を急ぐと岐路があった。どちらをとるか迷ったが、下っていく左手をしばらく歩くと、遥か先にグループを見つけ、安堵した。私は急ぎ足で歩いてグループに追いついたが、グループは私が迷子になっていたことにも気づかない平気な様子だった。

合宿の経験はそれっきりだったと思う。

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幼稚園での集合写真はたくさんあって、それを見ると三年間に吉野以外にもずいぶんいろいろなところに遠足に行っていることがわかる。

写真から分かるところでは、大阪城、天王寺動物園、服部緑地、芋掘り(場所は?)、栗拾い(場所は?)、須磨水族館、交通科学博物館、電気科学館プラネタリウム、大阪国際空港に行っていたようだ。

芋掘り(一年目)は自分に割り当てられた場所からは芋が出てこず、人から分けてもらってやや情けない思いをしたことを思い出す。

栗拾い(二年目)は栗の毬に気をつけながら探して取った記憶がぼんやりとではある。

須磨水族館へは一年目に行っている。須磨と分かるのは、背景に山が見えるからだ。大阪でこのような場所を見つけるのは難しいが、神戸の須磨なら海と山が近いから自然である。

プラネタリウムは三年目の秋ころ。いろいろな星座を知って感動したことを今もおぼえている。

着ぐるみの人形劇の観劇のあと、主演の人形二人と一緒に撮った集合写真もある。二年目(1969年度)のことである。人形の姿から、どうやらそれは「ヘンゼルとグレーテル」だったようだ。人形の目が大きく、とっても神秘的なので、気になって調べると、これは藤城清治さんの木馬座の劇であろう。藤城清治さんは今も健在で大阪で影絵展をやっている。ケロヨンというキャラクターの創造者でもあり、ケロヨンは当時の私も知っていたが久しく忘れていた。影絵展で本当にひさしぶりにケロヨンに出会った。

園長先生

幼稚園の担任は「チューリップ組」の一年目が「たち」先生(「たち」を漢字でどう書いたのか結局知らずじまい)、「さくら組」の二年目が宮脇先生、そして「ゆり組」の三年目が松井先生。

遠足先での集合写真を見ると、最後列に園長の橋詰先生の写っていることも多い。すると遠足のたびに、園長先生も来ていたことになる。1985年の日航機事故で亡くなられた園長先生である。

思い返せば、送迎のバスも園長先生みずからが運転することが多かったような気がする。

園長先生で思い出すのは朝のラジオ体操。

運動場で、園長先生みずからが鉄製の台の上に立って、上体を倒したり、まわしたりの運動の指導をしていた。私は、呆としたり変な動きをしていると怒られるんじゃないかと思って、必死になって動きを真似し、ついていったものだ。

幼稚園の午ご飯

幼稚園のお昼は、弁当の日と給食の日が日替わりであった。

給食は幼稚園の厨房で作り、園児のお母さんたちが当番で調理に参加していた。

給食のお皿は青磁色のメラミンの丸い皿で、中が三つに仕切られていた。スプーンは先端が切り込まれてフォークになっているフォークスプーン。

どんなメニューがあったかは覚えていない。主食はご飯だったかパンだったかも覚えていない。

記憶が曖昧だが、テトラパックの牛乳があったと思う。当時、スーパーマーケットにも紙の「牛乳パック」に入った牛乳はなかったが、テトラパックに入った牛乳やコーヒー牛乳はあった。・・・ちなみに家では毎朝、明治牛乳の配達を受けていた。それはビン入り、紙栓の牛乳である。紙栓をあけるための専用の針というのもあったが、わが家では紙の端をつまんで開けていた。丸い紙栓はこの当時、子供の工作の材料の定番である。今はペットボトルの蓋が定番だが。

話を元に戻す。

給食と違って弁当は、自分の母がつくるものだから、メニューの種類が限られている。よく生のトマトが入っていて、嫌いな食べ物だったから、それを見るとがっかりしたものだった。もちろん食べ残しはしなかった。家庭で親父はこういうことには厳格で、あえて嫌いなものを食べさせたものだった。

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二年目(宮脇先生)の弁当の日にこんなことがあった。みなで教室で食べていると、先生が

「木原君、そのトマトおいしそうやな。先生のおかずと交換せえへん?」

と話しかけてくる。

日頃から気さくでずけずけものを言う先生だったが、そんなことを自分にだけ言ってくるのは初めてだった。私がとくに「おとなしい」生徒だったからだと思う。トマトは大嫌いな野菜だったから、私は先生の提案を快く思って「うん」と頷いた。

先生は、ちょっと考えてから、言った。

「そうや、こうしよう。○○君(といって他の園児に呼びかけ)おかずのどれかを木原君にあげて。先生のおかず、どれか好きなもんを○○君にあげるから」

こうして、三人でおかずを交換することになった。○○君から貰ったおかずは卵焼きだった。それは母が作る卵焼きとは違う、小振りでカリッとした食感の卵焼きだった。私には初めて食べる他人の母親の作った卵焼きをとてもおいしいと思った。

演劇

幼稚園には三年いたが、一年目は三歳になったばかりであまりに幼いから、何をやっていたか、先に話した吉野での合宿をのぞけば、何も覚えていない。

どの年も学芸会のようなものがあって、劇に参加した。

一年目の劇はほとんどまったく覚えていない。写真を見ると、卵を描いた大きなポスター紙の前で、ひよこの園児が立ったりしゃがんだりして並んでいる。どんな劇だったのだろう。

二年目の劇は題名も筋書きも覚えていないが、

「むらびと(村人)たちは・・・」

という自分の台詞の一部だけが耳に焼き付いて残っている。というのも、私はその部分を

「ぐらびとたちは・・・」

と読んで母から注意されていたからだ。

当時ほとんど字を読めない私は先生の話すのを耳で聞いて、「むらびと」を「ぐらびと」と聞き間違え、それを正しい音だと思いこんでいた。どう注意されても、私には「ぐらびと」と言っているように聞こえる。だから頑として「ぐらびと」で通した。先生(これも宮脇先生)の家庭訪問の折に、母がそれを言って嘆いたら、先生は明るく鷹揚に笑っているだけだった。

三年目の劇はグリムの「黄金のがちょう」で、私は牧師さんの役。実物のがちょうを見たことがないが、黄金のがちょうというのは変だと思った。まして磁石のようにそれに人々がくっついて離れないのも奇妙である。生まれてからこのかた笑ったことのないお姫様が、どこが可笑しいのか、がちょうの後につづく人の列(その最後尾が牧師)を見て、やっと笑う、というのも分からない。この頃になると私もだんだんと理屈っぽくなってきている。

とにかく分けも分からないまま牧師の役を演じて終わりだった。

日食とアポロ11号

幼稚園で一度日蝕を見たことがある。調べると1969年3月に部分日蝕があったようだが、私の記憶ではもっと以降のような気がしてならない。

当日、朝からそう知らされていたので、その日のあいだずっと外の空の様子から目が離せなかった。

果たして午後の何時だったか忘れたが、曇り空から漏れる光がだんだんと弱くなっていく様子が観察された。本来なら光が強くなっていく時間帯においてである。それからまた明るくなって、これが日蝕というものなのかと思った。

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1969年はアポロ11号月面着陸のニュースに世界中が沸き立った年だったが、私はほとんど興奮せず、テレビのニュースも見なかったように思う。人類が月面に初めて降り立つといっても、そんな情景は特撮番組で何度も見ている。私には現実よりもフィクションの方が魅力的であった。今日でも科学上の新発見にどこか醒めた目で見ている自分がいる。

ところで翌年、姉の小学校進学を期に、自分も一年前倒しで買ってもらったオカムラの学習机の写真フレームには、月面に降り立った宇宙飛行士の写真が入っていた。そのオカムラの学習机はスチール製。ランプが蛍光灯で、電動鉛筆削り付き。他の電気器具を利用できるよう、差し込み(タップ)もついている。時計はデジタル時計。といっても表示板がパタパタめくれる半分機械式のやつである。机と椅子は、成長に合わせて高さを変えられるようになっていて、これを中学一年頃まで使ったように思う。

セイタカキリンソウ

当時、北千里の駅ロータリーにあったスーパーマーケットはオアシスとピーコックの二つだけだ。前に書いたが、母は千里中央の商業施設が出来上がる前はもっぱらピーコックに通っていた。

北千里のロータリーから千里中央に向かって、片側2車線のバス通りがある。通りの北側が青山台で、南側が私たちの住んでいた古江台である。古江台側にそのバス通りと平行に小径が通っている。それが、途中でバス通りの方に折れ曲がり、ちょうど社宅のあたりで合流するかっこうになる。母が毎日、ピーコックへ買い物に行くときは、その小径を通った。小径はバス通りより高い位置にあって、そこから北の方角に青山台の団地を望むことができた。

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約45年ぶりに私はバス通りから古江台側の階段をあがって、その小径に入ってみたが、何もかもが昔と変わっている感じがした。

そもそもバス通りの街路樹は、私たちが住んでいたころはほっそりして、葉が少なかったはずだ。周辺の団地の建設と同時に植え込みが始まって、間もない頃だったからだろう。 今はその木々が成長し、幹も枝も太く、豊かな緑の葉をたくわえている。

階段の傍の、バス通りに架かる大きな陸橋にしても、あの当時はあっただろうか。

そして階段を登ったところに何やら旧そうな学校の正門があり、そこに「北千里小学校」と書かれてある。

北千里小学校?

私は目を疑った。新しく出来た学校のようではないし、人っ子ひとりいないところを見ると廃校のようである。けれども、そんな学校ってあっただろうか。記憶の引き出しをどう探しても見つからない。 いや、当時は幼かったから、もしかしたら気付いていなかったのかもしれない。 少なくともここは私の通った小学校ではない・・・これだけは確かだ。

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45年前。

秋の青空を見上げていると、まるで重力が逆さまになったように、限りない空のなかに落ちて行くような錯覚をおぼえた。私は慌てて視線を地上に移した。

そこは広大な空き地で、セイタカキリンソウやススキが生えていた。

そんな錯覚をしたのは、この青空が宇宙でそれは無限につづいているという話を幼稚園かどこかで聞いていて、それを思い出したからだろう。

今「北千里小学校」のある場所は、私の記憶では、その空き地だった。

母に付いて買い物に行く途中、ここで季節の花々を鑑賞したり、飛んでいる蜻蛉や蝶々を目で追ったり、近くにいる蝶々は虫網で捕まえたりしたものだ。

日が暮れてからは、ここから見える柄杓のかたちをした星座が「北斗七星」という名であることを、母が教えてくれたりもした。

YWCAの図書室があるのも、この小径である。私はこの図書室で「きかんしゃやえもん」や「ひとまねこざる」を知り、シリーズものの「ひとまねこざる」をとくに好きになった。5歳のときだ。

買い物からの帰りに、野良犬に付きまとわれたこともあった。

「あそこに犬がいるね」

ピーコックを出てしばらく歩くと、小径の入り口付近を野良犬がウロチョロしているのが目に入ってきた。 このときから嫌な予感がしていたが、入り口に来ると予期していたように犬は私たちにまとわりついてきた。 子供の私は犬をこわがって一人で走りだしたが、犬はかえってそんな私を狙って追いかけて来た。そのときの私の走り方が滑稽だというので、母と姉は後ろで大笑い。 私だけが必死で、笑っている二人を恨んだものだった。

陸橋の向こうの青山台側は北千里小学校の運動場になっているようだが、あそこも昔は空き地か公園で、夏祭りが開かれたりしていた。

家族で夏祭りに行った記憶が一度だけある。公園の真ん中に櫓が設けられ、そのまわりを大勢の住人が浴衣を着て踊っていた。私たちはそれを見物しているだけだったが、あれは北千里へ来て間もない頃だっただろうか。

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野良犬の話をしたが、この小径を恐ろしく長い列をなして歩き進む野犬の群れを、社宅の窓から見たことがある。数えると20匹、否もっといただろうか。 あの野犬がどこから来て、どこへ向かい、どうなったかは知らないままだ。

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ところで古江台三丁目の社宅群は番号がところどころ飛んでいて、たとえば D31, D32 と続いて D33 を飛ばし D34, D35, ・・・という具合である。社宅の北の窓から小径の一部が見えたのは、そこのあるべきD33号棟がなかったからだった。なぜD33 が作られなかったか。これも謎のままだ。

YWCA図書室の話をしたが、私が千里時代に読んでいた本はまず「世界童話全集」。出版社がどこかは覚えない。6巻くらいあったと思う。イソップ物語とグリム童話が好きで、どういうわけかアンデルセンは嫌いだった。

絵本は「きかんしゃやえもん」「ひとまねこざる」以外にもいろいろ読んだと思うが、いちいち覚えていない。作者と題名を忘れたが、こんな話の絵本があった・・・

幼い子供の祖母が家を訪ねてくる。そのとき母親は留守だったか、それとも途中で買い物に出かけて留守するのだったか忘れてしまったが、とにかく家は子供とそのおばあちゃんの二人だけになるのだ。

子供はその祖母を初めて見るようで、人見知りのつよいその子供は、陰でそっと祖母の様子を観察している。祖母は持って来た「蜂の子」を取り出して食べだしたりするのだが、「蜂の子」が実に気持ち悪いもののように描かれている。子供の恐怖心、読む者の恐怖心は募る一方である。最後に洗面所に入ったおばあちゃんが、子供の視線に気付いて振り向く。「フガフガ」と聞き取れない声で話かけるその口に、歯が一本もない。恐怖はクライマックスに達する。ちょうどそのときに母親が帰宅して、子供に説明してやり、恐怖は消えるという和やかな結末であるが、その本を北千里のどこかの本屋で立ち読みしたのが最初だったか。途中まで読んでおもしろかったので、結局買って読んだと思う。作者と題名を知っている方がいれば教えていただきたい。その本を含め当時の絵本、童話はとうに家にはないのである。

北千里の本屋は駅のロータリーにあった駸々堂だったのか。それとも藤白台のロータリーにあった書店だったか忘れている。藤白台のロータリーを知っているのは母の通う歯科か眼科かがそこにあったからである。古江台から歩いて行けない距離ではないが、子供たちが幼かったのでいつもタクシーを使って行った。ほんとうに円形のロータリーで印象的だった。

藤白台のその書店で、カラーの植物図鑑を買ったのは覚えている。セイタカキリンソウもそこに載っていて、名前を知ったのである。

他に動物図鑑、乗り物図鑑もそこで買っただろうか。どちらの図鑑は写真ではなく、一部はカラーだがほとんどがモノクロの精緻な絵で、幼い私は毎日毎日飽きもせず、それらを開いて眺めていた。ゴールデンライオンタマリンというサルがかわいく描かれていて好きだった。たまたま、それが「ウルトラセブン」にも出てきたのには驚いた。

乗り物図鑑には「未来の乗り物」と題して、SFに出てくるような車や鉄道も描かれていた。例えば未来の車は完全は自動運転で、オープンカーに乗った家族がテーブルを囲んで楽しく食事していたりする。鉄道は高速化のため、トンネルを真空にして空気抵抗を無くし、さらに重力で地中の坂を下ってまた上がるという方式が紹介されていた。

お菓子

母のピーコックへの買い物には姉といっしょによく付いて行ったが、幼い子供だから興味のあったのはお菓子である。今でもお菓子の話はしていて楽しい。私は政治談義より何よりお菓子の話で盛り上がるのが大好きである。

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ものごころが付く頃、サイコロキャラメルというものが大好きであった。サイコロ遊びに興味があったのではなく、立方体というかたちに惹かれたのだと思う。昔のアルバムを見ていると茣蓙(ござ)の上にサイコロキャラメルを置いて遊んでいる自分がいる。二歳ころ、福岡にいた頃だから、ああそんな昔のことだったのかと我ながら驚く。

森永チョコボールが出たのが1967年というから、ちょうど北千里に来たころである。マスコットキャラクターの「キョロちゃん」が好きでよく買ってもらった。しかし嘴(くちばし)から金のエンゼルが出てきたことは一度もないと思う。

明治からはチョコベビー、マーブルチョコがあったが、私はチョコとして不自然な色のついたマーブルチョコよりも、地味なチョコベビーが好きであった。俵型でよくみると断面がきれいでなく、でこぼこしている。そのでこぼこした感じが自然でいいのである。

1969年には明治から「アポロチョコ」が出た。社宅の門の辺りで、同じ年頃の子供たちが寄り集まっていたときに、誰かから分けてもらって食べたのが初めてである。イチゴ色と味のするチョコは斬新な印象であったが、当時の私はイチゴが嫌いであったから、アポロチョコが好きになったのは、ずっと後年になってからだと思う。

1970年ころだったと思うが、森永からアントルメという洋菓子が出て、ピーコックにもアントルメの入った大きな箱が置かれてあった。姉は行くたびに興味ありげに箱のなかを覗き込んで、何種類か選んで買ってもらっていた。私はアントルメのような「凝った」お菓子には興味がなかったから、今となってはアントルメがどのようなお菓子だったか忘れてしまっている。ネットで検索すると画像が出てくる。写真を見て、ああそんな感じだったかな、と思う程度である。

それから母か姉が青山台の外科医院に行った時があって、その帰りに青山台の駄菓子屋に寄った。そこでフルタの「ムーミンチョコレート」というのを買ったことがある。ムーミンチョコといっても、ただの板チョコで包み紙にムーミンに登場するキャラクタが印刷されてあっただけだと思う。帰って食べてみると、大手メーカーのチョコにない独特の香りがした。それで好きになり、またムーミンの絵が好きだったこともあって、ムーミンチョコをもう一度買って食べたかったが、これはピーコックにはもちろん古江台市場でも見かけなかった。買った青山台の駄菓子屋は、子供の足で一人で行くには遠すぎた。フルタのムーミンチョコレートがそのとき限りだったのは残念である。

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社宅にいたころ、我が家の冷蔵庫は小さなものだった。当時、すでに冷凍庫付き冷蔵庫は普及していたと思うが、我が家のは最上部にやっと製氷室が付いているだけで、冷凍庫というものがない。せいぜいアイスキャンデーを数本買って製氷室に入れておく位のことしかできない。だから大きな冷凍食品はつねに買い物の対象外であった。

例外的にこんなものを買って食べたことがある。スムージーというのか、シャーベット状のドリンクで、箱のなかに凍らせたそれが何人分か入ってある。冷凍庫がないから、帰ってすぐに食べた。 ドリンクそのものはともかく、箱の意匠がとても面白い。小さな女の子がコップに入ったそのシャーベットを匙ですくって食べるか、あるいはストローで飲むかする様子の写真なのだが、コップのすぐ横にその商品の箱が置かれてある。だからその箱にも同じ女の子と箱が小さく写っているわけで、そうやってシャーベットをたべる女の子が、幾重にも幾重にも小さな見えない点になるまで繰り返されているという図である。こういうのを自己相似図形といったと思う。その商品名、メーカーは忘れてしまっている。

後記。ネット上でレトロお菓子のページを次から次に見ていた時、突然「モコモコアイス」という言葉が頭に浮かんできた。天から舞い降りて来たような感じだ。その言葉がどこかのページにあったのか、それとも偶然にだか、分からない。とにかくその言葉と同時に閃くものがあった。「あっ、もしかしたら」と思って検索すると、思った通り上に書いた自己相似図形の写真が出てきた!自分の記憶と違うのは、箱ではなく缶であること。缶からシャーベットがモコモコと上に勢いよく飛び出していて、それを女の子(男の子?)が驚いた表情で見つめていることである。「マジックアイス」というのが正式名らしい。通称、モコモコアイス。メーカーは森永である。私たちが買って食べたのはたぶんこれだと思うが、あるいは類似品(そういう商品があったとして)だったかもしれない。・・・・・・モコモコアイスは実際は写真のようにはいかないらしい。私たちもびしょびしょのシャーベットを匙ですくって食べただけのように憶えている。

1970年大阪万博

北千里のロータリーでブルーインパルスを見たことがある。

家族でそれを見に行こうと、社宅からバス道に出て、北千里の駅の方へ向かって歩いていった。駅ロータリーに着くと、そこはすでに大勢の人だかりがあった。

やがてどこからかブルーインパルスの戦闘機の群れが現れ、北千里の上空を、隊列を崩すことなく何度も旋回したり、錐揉み飛行を行ったりした。

そのうち戦闘機の後尾から赤や青の煙が吐き出され、線や丸の模様が描き出された。

最後に戦闘機の群れは、猛然たるスピードで自分たちのすぐ上を、バス道に沿うように千里中央へ向かって飛び去って行った。

調べてみるとあれは1970年3月、万博開催を祝う行事だったようだ。あの日が万博の始まりだったのである。テレビでは三波春夫が「世界の国からこんにちは」を歌っていた。

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万博会場は北千里駅からわずか一駅の場所。駅は今の山田駅である。北千里に来た当初はなかったが、万博開催を機に作られた駅である。

万博へは家族で何度も足を運んで見に行った。千里ニュータウンに居ると万博を観に行くことは、ほとんど近くの公園に行くような感覚である。

とはいえ、あのアメリカ館、ソ連館へは一度も行っていない。それらの人気館の前には連日、長蛇の列が出来ていて、たとえばソ連館は2時間待ち、アメリカ館は3時間待ち、といった具合である。とても中へ入れたものではなかった。

覚えているのは、スカンジナビア館、ブリティッシュ・コロンビア館といったマイナーな館や、日本の会社が出している数々のパビリオン館など。

隣の和田さんがスカンジナビア館(?)のレストランのミルクセーキがおいしいと言うので、それを飲んだらたしかに美味しかった。それを機に自宅でNationalのミキサーを購入し、卵と牛乳、砂糖、氷を入れてまねて作って飲んだりもした。

ほとんど自分の記憶にないが、西ドイツ館へも行ったようである。只でくれるベートーベンの曲の入ったLP盤が今もある。

万博のシンボルである「太陽の塔」にも登っている。「太陽の塔」は社宅の余所のお宅からもよく見えた。だから北千里時代は「太陽の塔」がいつも近くに感じられた。

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あのころ葉書大のカードの「世界の国旗」集が社宅にあった。カードの表側に国旗の図だけが描かれていて、裏側にその国の名前と全体の地形図、プロフィールが書かれてある。毎日毎日飽きることなくそれらを繰って眺めているうちに、表の図を見ただけでどこの国の国旗か言い当てられるようになった。それだけでなく国の首都の名前もかなりたくさん覚えてしまった。韓国の国旗は日本の国旗に似ているが、四隅に意味の分からない記号が描かれあるのが面白かったり、ヨルダンの首都の「アンマン」という言葉の響きが面白かったりした。もちろん、お菓子の「あんまん」を連想していたのである。

世界の国々がそれぞれ一つのカードに収まるという感覚は今もずっと持ち続けている。私のなかでは「大国」も「小国」もなく、それぞれが同じ「分」を与えられた平等な存在に過ぎない。実を言えば、「大国」は傲慢なイメージがあってあまり好きではなく、むしろ「小国」が好きである。日本という国も「世界の国旗」集を見ていると「今わたしが住んでいるこの国」とは違う、なんだか別の国に見えてくるのが不思議である。正直に言って、日の丸というものに、親しみが持てないのだ。・・・あれから10年後に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という言葉が流行ったが、その何かよく分からない別の国が世界のナンバーワンと呼ばれることに面はゆさというのか、一種の虚栄を感じて、違和感しか感じなかったものだ。

要するに日本だけでなく、どの国もすばらしくナンバーワンな点があるのではないか。万博ムードに浸って育った私はそう考えてしまうのだ。

千里ニュータウンという未来都市のような環境にいて、かつ特撮番組ばかりを見ているうちに、世界を遠くから相対化して見る「宇宙的感覚」が身に付いてしまったのだろうか。

にぎやかになった社宅

当時、日本各地から多くのお客さんが万博会場を訪れている。

私の親戚、とくに父方の方が多いが、次から次に万博を見に千里にやって来た。その折に社宅を訪れた従兄弟たちも多い。コートジボワール館のコンパニオンを務めるため、はるばる東京から来て千里ニュータウン内の寮にしばらく居たフランス語専攻の大学生の従姉もいる。

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高校生の従姉とその弟が二人が、はるばる北九州から泊まり込みで来たときは、皆で阪急に乗って梅田の三番街に行った。従姉のお姉さんはおしゃれで腕にブレスレットというものを二つはめている。腕を動かすたび二つがガチャガチャ当たって鬱陶しく思わないのが、男の子の私には不思議だった。

そのときは今もある「インディアンカレー」に行った。インディアンカレーは場所が今と違ったのだろうか。昔の店舗はもうちょっと広かったように思う。たしかテーブル席がいくつかあった。当時から辛いカレーを出すということで有名で、ひりひりする舌を冷やすために、当時のインディアンカレーは水のかわりにコカコーラを選ぶこともできた。

カレーを食べたあと三番街をみなで歩いていると、向こうからテレビで見る「為五郎(ためごろう)」にそっくりの人が歩いてきたから、私は思わず

「あっ、為五郎だ!」

と叫んでしまった。それが図らずも従姉たちの爆笑を誘ってしまった。彼女たちも同じことを思ったらしいのだ。当時、あまり見ていた記憶がないのだが、私は「ゲバゲバ90分」を見ていたようである。以来、その従姉たちのあいだで私は「おもしろい子」ということになってしまった。

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母方の親戚である高校生の「りょう子」ちゃんとチャキチャキの江戸っ子のその祖父は初めて見る人たちだった。お爺さんと母の会話では子供たちが退屈するだろうというので、りょう子ちゃんは気を利かせ、私と姉を連れて北プールに泳ぎに連れて行ってくれた。北プールへは行きも帰りもタクシーだったと思う。

りょう子ちゃんとはそれっきり会っていない。

鼓笛隊

幼稚園からも万博会場に行った。

ただし、これは観客ではなく演技者としてである。

ふじしろ幼稚園は鼓笛隊が有名で、この年の園児の(少なくとも最年長の)全員が太鼓をもって万博にパレードに参加した。

太鼓は大中小あり、私は小太鼓だったと思う。中太鼓の子をやや羨望の目で見ていた。

本番まで園内の運動場でなんども退屈な練習を繰り返す。

それで太鼓を叩く要領は分かったのだが、私は頭がわるく、かつ他人に訊くということができなかったから、太鼓を身体に固定するストラップの巻き方が最後まで分からず終いだった。練習中も本番もいい加減な巻き方で、あれでよく無事に本番を終えられたものだと思う。

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本番は「子供まつり」の一部で、当時の人気コメディアン・大村崑さんが司会をつとめていた。場所は太陽の塔の背部・黒太陽を拝む位置に設けられた「お祭り広場」だ。天井の大屋根には、上に鉄骨が何本も縦横に張り巡らされ、司会は宙づりで登場した。当時の写真を見ると、オープンカーに乗った「ケロヨン」のパレードもあったようだ。

私たちふじしろ幼稚園のグループの前後左右にそのとき初めて見る他の学校の生徒や園児のグループもあった。

パレードの直前になると、担任の先生たちが子供たちのあいだを走り回って太鼓とストラップの確認をする。このとき私のストラップも見て「これでよし」と確認したのであろう。

いよいよパレードが始まる。パレードは集団の大きな流れに身を任せていけばいいから案外楽なものだ。場内を半周ばかりしてすぐに終わった。

パレードを終えると会場で解散になり、迎えに来た母・姉と一緒に、いつものように会場でアイスクリームを食べたりして残りの時間を過ごした。これで太鼓の練習は終わりだと思うとほっとした。

「万博病」

この年の9月に万博が閉幕したが、その頃、私は変な病気にかかった。風邪のような症状以外に、発疹が身体のどこかに出来たりしたのだろうか。

福田さん(行きつけの小児科)へ行くと、これは「万博病」の疑いがあるから、吹田市民病院へ行けということになった。

市民病院へは阪急千里線に乗って、吹田の駅で降りる。当時は駅のすぐ近くに病院があったと思う(実は「すぐ近く」ではなく、現在、保健センターのある場所であることが分かった)。

待合室でずいぶん待った後、診察があり、その結果、やはり俗に「万博病」と呼ばれるビールスによる感染症と診断された。何度も万博会場へ足を運んだことから、外国の客からもたらされた、よく分からないビールスに空気感染したことが原因だというのだ。

「ビールス」とは今で言う「ウィルス」である。当時は「ビールス」といっていた。当時、私は響きから、親父の飲む「ビール」を連想したりしていた。

とにかくこの「万博病」の結果、その月の末まで、たぶん二週間以上はあったと思うが、幼稚園を休むことになった。他の園児への二次感染を防ぐためだろう。

休んでいる間は社宅にひきこもってレゴで遊んだり、テレビを見たりしていた。

病気はすぐに治った。月末に市民病院に二度目の診察に行くと、明日から幼稚園に通っていいということだった。その日は雨で、帰りの電車にみどり色のレインコートを羽織った人が乗って来てまた降りて行った。その新鮮なみどり色が今も目に焼き付いている。

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北千里にいた間ずっと、私と姉のかかりつけの医院は、福田さんという古江台にあった小児科だった。

福田さんへ行くと、帰りに飴がもらえる。たくさん種類のあるうち、どれがいいかと訊ねられると、私は決まってコーラの飴を選んでいた。

正式のコカコーラはカフェインが入っているという理由で日頃は飲ませてもらえなかった。その飴はコカコーラの味を模しただけの、異様な味と香りのするものだったが、日頃コーラを飲めない私には、偽物と分かっても「コーラ」を楽しめる得難いチャンスだった。

千里中央と樫の木公園

1970年に北大阪急行の千里中央駅が開業している。調べるとちょうど万博が閉幕した頃のようだ。

以降、週末に家族で大阪の中心部に出かけるときは、阪急北千里線でなく、北大阪急行を利用することが多くなった。北大阪急行のほうが若干速く、心斎橋や難波まで直行できるからだ。

平日の買い物にも母はときどき千里中央のデパートに出かけていた。デパートは阪急と大丸の二つで、駅を中心に対称な位置にある。当時、千里セルシーという商業施設はまだオープンしていない。

当時は大丸の一階にパン屋の「エーワン」があって、そこでよくシュークリームとチーズロールを買って食べた。同じ階にヒロタのシュークリームもあって美味しそうなのだが、エーワンのはヒロタの倍以上もある。だから買うときはいつもエーワンで、当時ヒロタのシュークリームを食べたことがない。

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買い物への行き帰りは初めのうちはバスを利用していたが、私は5歳を過ぎて大きくなっていたので、歩いて帰ることも多くなった。

千里中央から行って青山台に差しかかる手前に大きな公園がある。樫の木公園という名の公園であることを最近になって知ったが、当時はそこに大型の回転遊具があった。回転するジャングルジムだが、よくあるのは球形のもの。その公園にあったのは扁平な回転楕円体で半径2〜3メートルはあろうかという巨大なものである。

止まっているそれに入っていると、ちょうど小学生くらいの私よりずっと大きい子供たちもそこで遊んでいて、外にいる子供の一人が突然、回転遊具を回し始めた。あまりにも大きな半径で回るので、恐怖もあり、目を回しそうにもなった。誰か止めてくれと思ったが、周期的に視界に入ってくる母は微笑んでいるだけである。必死につかまっていると、動きはだんだんと緩やかになってやがて止まった。あの時、恐怖のあまりもし手を離していたらどうなっていただろうと思うとゾッとした。

45年ぶりに樫の木公園に来てみると、あの巨大な回転ジャングルジムはすでになくなっているようである。

風船揚げ

やはり1970年だったと思うが、幼稚園の園庭で風船揚げをしたのを覚えている。

専門の業者がその場で風船に水素ガスをつめていき、園児たちが各々それを手にもって一斉に揚げるのだ。どの風船にも「ふじしろ幼稚園」の名が印刷されている。

前年か前々年に揚げた風船が、九十九里浜で見つかったという話がなされた。当時は幼かったから、その九十九里浜がどこにあるか見当もつかなかったが、ずいぶん遠いところであろうことは想像された。

自分たちの揚げた赤や青、色とりどりの風船が上って行き、やがて互いの色の区別がつかなくなって、どれも黒い点になるまで見送った。

あの年に揚げた風船は、日本のどこに着いたのだろう。

ミシマユキオ事件の日

その年の11月25日。三島由紀夫事件のあった日のことはよく覚えている。

幼稚園の授業が終わって、母が何かの役員をやっているので、いつものように職員室へ行くと、何やら様子が変である。先生たちも役員の人たちもテレビの前に釘付けになって、それぞれぶつぶつと何かをしゃべりながら、目を凝らして画面に見入っている。

職員室には、折り紙に使う色紙を整理して入れてある棚があって、私は退屈なのでそこから紙をとってみたりしていた。いつもならそんな私をかまってくれる先生がいたりするのだが、その日に限っては誰もが私のことにかまわず、落ち着かない様子で職員室を出入りしていた。

どれだけ時間が過ぎたか覚えないが、やっと母が私をつれて帰る時間になった。そのとき母は「ミシマユキオ」がどうした、こうした、とつぶやいていたが、もちろん五歳の私にはチンプンカンプン。幼稚園のすぐ近所にある、役員の誰かの家にちょっと立ち寄ったあと、社宅に帰った。

その夜、テレビは三島由紀夫割腹自殺事件のことを伝えたと思うが、それを見ていた記憶はない。

寝る時間になったが、私は日頃からなかなか寝付かれない癖があった。とくに気にしていたわけではないが、今日の大人たちは変だと思った。

やがて帰宅した父が玄関のベルを鳴らし、母が錠を外しに行く。父はいつもなら「ただいま」といって玄関のドアをあけて入ってくるはずだが、しばらく反応がない。

やはり変だ。

母がドアをあけながら「あなた、どうしたの?」と訊くと

「ミシマユキオが死んだんだってな」

「そうなのよ」

そんな会話があって、やっと父は中に入った。父は新聞の号外を玄関の外の明かりで読んでいたのだろうか。それにしても、またミシマユキオだ!

それ以降の両親の会話を私は覚えていない。とにかくその日は幼稚園でも家でも「ミシマユキオ」という人物を大人たちは話題にしていたのである。

テレビっ子

私は物心が付く頃からテレビを観て育ったテレビっ子である。当時見ていたテレビ番組を思い出すままに挙げていこう。

福岡にいたころは「マグマ大使」を見ていたようだが、これはおぼろげな記憶しかない。

「仮面の忍者 赤影」を見ていたのも福岡時代だっただろうか。我が家のテレビはまだ白黒だったから「赤影」「青影」の色が見えず、十分に楽しめなかったように記憶している。ただ「赤影」の面を紙で作ってごっこ遊びをしたり、「青影」の「がってんがってん、しょ〜ち」をよく真似たりしたものだった。それから今 YouTubeで見て、凧に乗る「白影」のおじさんの姿がとても懐かしい。「白影」の白は白黒テレビでもはっきり見えたし、しかもインパクトのつよいキャラクターでとても印象的だった。

北千里に来た頃は特撮では「光速エスパー」、「ジャイアントロボ」を見ていた。

光速エスパーをカラーで見ていたのは確かである。とすると千里に来てまもなく、我が家のテレビはカラーに変わったわけである。エスパーの赤いブーツに銃を差しているのが格好良くて、あれを真似たかったものだが、赤くてしかも玩具の銃を差せるブーツはあるはずもないから、あれは高嶺の花であった。

ウルトラシリーズでは「ウルトラQ」「ウルトラマン」「キャプテンウルトラ」「ウルトラセブン」を見ている。

けれども「ウルトラQ」は怖くて、当時の私には難解だった。「キャプテンウルトラ」はひたすら宇宙が舞台であった。これも時々しか見ていなかったが、宇宙服に身を固めた「アカネ隊員」の美しさにうっとりで、とてもストーリーを追えるどころではなかっただろう。

「ウルトラマン」は何度も再放送を見てきたが、全話を通して見たことがまだない。爆笑問題の太田さんも偶然同じことを語っていたが、「ゼットン」に倒される最終話でさえ、近年になってやっと見たくらいである。だからウルトラマンを倒したゼットンとはどんな怪獣なんだろうと、子供のころは本当に興味津々であった。

ウルトラマンの怪獣ではあのころ「ダダ」が怖くて、印象がずっと残り、幼稚園バスで北千里駅前を通るときもビルの窓から「ダダ」が覗いているような感じがしてゾッとしたことを憶えている。

「ウルトラセブン」は本放送を見ていたと思う。あの幻の第12話も見ていたのではないか?「セブン」は再放送を何度も見たが、これも全話を通して見たことはないと思う。けれどもウルトラマンよりは多くを見ていると思う。オカリナを吹く少年の出てくる話があるが、それでオカリナに興味をもって心斎橋あたりのデパートで見てみた。しかしそれはあまりに高価で、買ってもらえる品ではなかった。

それから私は特撮を見ていても、ストーリーよりメカニックなものに興味があったから、ウルトラセブンの地球防衛軍の装備には惚れ込んだものだった。三体に分離するウルトラホーク一号のプラスチック模型(たぶん完成品)を持っていて、それでよく遊んだものだった。

特撮ヒロインも好きだった。アカネ隊員は別格として、私はじつは科特隊のフジ隊員が好きであった。さっぱりしたOL風のところが好きだったのだろう。だからフジ隊員と一緒にいるホシノ少年が羨ましかった。ウルトラ警備隊のアンヌ隊員は嫌いではないが、可愛すぎる感じがした。

ウルトラシリーズのあとは「スペクトルマン」。ウルトラシリーズの続きはもうないのかな、と諦めかけていた頃、「帰ってきたウルトラマン」が始まった。

それから特撮では洋物の「サンダーバード」が母も姉も大好きで、皆で楽しんで見ていた。

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アニメではまず「ムーミン」。調べるとこれは1969年10月に放送が始まっている。当時新聞の折り込みか何かで新番組がずらりと紹介されていて、そのなかにムーミンがあったのを覚えている。ムーミンとノンノンの絵を見て、最初は何の動物か分からなかったが、あとでカバと知った。実はこれも間違い。妖精というのが正しいようだ。ミムラ姉さんか誰かの声優が母の幼なじみだったそうである。だから母も楽しんで見ていた。

それから「タイガーマスク」。その他「マッハGoGoGo」「ハクション大魔王」「新オバケのQ太郎」など。姉は「リボンの騎士」「魔法使いサリー」「ひみつのアッコちゃん」などを好んで見ていた。

私は手塚治虫の作品がどうしてか好きになれない。だから「りぼんの騎士」はノーコメント。「魔法使いサリー」はたまに付き合って見ていた。よし子の三人の弟がいたずらばかりしている。あれを私などは当時は憎らしく感じたものだが、ときどき三人が肩車を組んで大きな着物を羽織りちょうど大人の背の高さになるところは面白かった。

ところで「ひみつのアッコちゃん」は当時わたしはほとんど見ていなかったし、オープニングの曲にも無関心だったわけだが、最近YouTubeで視聴しているうちにオープニングの曲を歌っているのが岡田恭子さんという歌手であることを知った。この歌手の情報はあまりない。しかし「どんなふうに」(1969年)というボサノバ曲をYouTubeで聴ける。・・・甘くいい声だ。そして曲の陰から陽への展開に60年代カンツォーネの影響を感じる。この曲を聴けばあの時代の空気を感じていただけると思う。・・・「アッコちゃん」のエンディング曲「好き好き♪」のほうは当時から好きだ。ドラ猫四人衆の踊りが見ていて楽しい。「勉強やれー」という怖い校長先生は当時もういなかったのか、私のもっている「校長先生」のイメージと大きく異なっていた。こちらは水森亜土さんが歌っている。

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ドラマでは九重佑三子の「コメットさん」。ケンちゃんシリーズは「チャコとケンちゃん」あたりから覚えているが、ケンちゃんにトコちゃんという妹ができた「ケンちゃんトコちゃん」から大好きになった。とくに好きだったのは「すし屋のケンちゃん」(1971年)。この年だけ母親役が吉行和子さんだった。他に工藤堅太郎とか石田信之といった脇役がおもしろかった。

「すし屋のケンちゃん」で見ていない回がある。一家で富士五湖に旅行に出かける二話連続の話で、ケンちゃんがそこで出会った少年と二人で本栖湖を探検しに行くのだが、そのあとどうなったか後編を見ていないので知らないままなのである。

ドラマではほかに桜木健一主演の「柔道一直線」、「刑事くん」。

歌番組ではピンキーとキラーズが主演した「青空にとび出せ!」か「ハット・ピンキー!」のどちらか。

レコードとピアノ

我が家に、いつごろからかナショナルのポータブルレコードプレーヤーがあった。たぶん北千里に来てから買ったものだと思う。もう持っていないから、型番は分からない。ネットで検索すると同じか似た機種の画像がいろいろ出てくる。本体が白で蓋の赤い奴である。母は結婚前、月賦でビクターのレコードプレーヤーを買っていたが、それは実家に置いてきたまま。このポータブルプレーヤーだけがしばらくの間、我が家のオーディオ機器のすべてであった。

レコードはほとんど北千里のミヤコで買った。プレーヤーもたぶんミヤコで買ったものと思われる。姉はピアノを習っていたから「エリーゼのために」の入ったコンパクト盤のLPなどを買っていた。コンパクト盤LPは33回転で掛けるが、ドーナツ盤と同じシングルサイズである。だからこれを誤って45回転で掛けることがあった。当然ピッチが異様に高いから慌ててダイヤルを33回転に回したりした。

私は「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」や「タイガーマスク」などテレビ番組の主題歌の入ったシングルレコードをよく選んで買ったもらっていた。これらはもちろん45回転のドーナツ盤である。「タイガーマスク」はオープニングの歌もいいが、エンディングの陰気な歌も好きだった。当時の私には「みなし児」の意味が分からなかったし、世間的に見て恵まれた家庭に育った私だが、性格にひがみっぽいところがあって、見捨てられて社会の底辺で生きる者への「共感」があった(そういう人は周囲にいないにもかかわらず!)。この感覚はその後もずっと持ち続ける。後年の時代劇好きもそういうところから来ているだろう。

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LPでは「うたのえほん3」というのがあった。これは私の大のお気に入りで、何度も掛けて聴いたものである。もう持っていないからネットで検索して調べた結果だが、内容は A1 かもつれっしゃのうた、 A2 でんしゃごっこ A3 バスのうた A4 トラック A5 オートバイのうた A6 きしゃぽっぽ B7 パトカーのうた B8 ジェットきキューン B9 ダンプカー B10 はしれ でんしゃ B11 ブルドーザーでいこう B12 ロケット となっていて、水谷玲子さんがA面を、真理ヨシコさんがB面を歌っている。私は最後の「ロケットブーン♪」というところを憶えている。レコードのジャケットは収録曲それぞれの歌詞内容を描いた絵をタイル状に並べたものである。

テレビ番組の主題歌も「うたのえほん3」も10年以上前に処分してしまったから、今は手元にない。とくに「うたのえほん3」はCD化されていない貴重な音源だから、処分しなければよかったと悔やんでいる。

1970年ころ、皆川おさむさんの「黒ネコのタンゴ」が流行って、それのレコードも買っていた。どうした訳か、それは処分せずに今も我が家にある。B面には置鮎礼子さんが歌う「ニッキ・ニャッキ」という曲が入っている。当時、ニッキ・ニャッキはあまり聴かなかったと思うが、今聴いてみると面白い。「ニッキ・ニッキ・ニャッキ・ムッキ〜」と歌うと、嫌いな食べ物を食べられるようになるようである。

「黒ネコのタンゴ」「ニッキ・ニャッキ」は「ゼッキーノ・ドーロ」というイタリアの子供向け歌謡コンテストの入賞曲らしい。当時、日本の歌謡界はカンツォーネが流行っていたから、「黒ネコのタンゴ」もその流れだったのだろう。

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姉は北千里に来てまもなくアップライトピアノを買ってもらい、近所の浜口先生の教えるピアノ教室に通ってピアノを習い始めた。幼いから母も同伴で、もちろん私も付いて行った。しかしレッスン中、私は黙ってじっとしていなければならなかったから、この時間はひどく退屈で、途中眠っていることも多かった。退屈させてはかわいそうだというので、私もピアノを習ったらという話もあったが、それは私の方から断った。当時、ピアノは女の子が習うものだという偏見が私にあったからだ。後年、あのとき私もピアノを習っていればよかったと思うことが度々あったが、もし習ってピアノが好きにでもなれば、姉とピアノの取り合いになったかもしれない。だからあれでよかったのだと今は自らを慰めている。

社宅のピアノの前で撮った姉と私の写真がある。ピアノの譜面台に何かの楽譜が見えるので、また好奇心からルーペを使ってタイトルを読んでみた。「Contentement」と書かれてある。調べるとこれはどうやらメトード・ローズという教則本の一頁らしい。ページの挿絵は私もなんとなく憶えている。メトード・ローズは今も書店にあるが、今のメトード・ローズの挿絵は黒と赤の二色刷りになっている。当時はモノクロじゃなかったかと思う。絵自体も昔と今とで微妙に違っている。例えば、走る人の足の上げ方などが違う。

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私のアルバムに何かの演奏会の様子を撮った写真が一枚ある・・・指揮台に立って指揮を執る人、グランドピアノを弾く人、4台ある木琴あるいは鉄琴を叩く人々、その後ろにハーモニカを吹くグループ、トライアングル・カスタネット・リングベルを鳴らすグループ等が写っている。ずっと幼稚園での演奏会だと思ってきたが、最近それが誤りであることに気付いた。姉のアルバムにある数枚の写真と比較対照してやっと分かったのだが、それは浜口先生(とその仲間たち)のピアノ教室の演奏会であった。姉の記憶によれば場所は「さゆり幼稚園」だったという。 私はピアノを弾けないからトライアングルを鳴らすグループに入っている。当時トライアングルを鳴らしていたのは憶えているが、ずっとそれが幼稚園での演奏会だとばかり思っていたのである。それに写真には浜口先生らしき人の一部が写っているが、顔は隠れているのでずっと気付かなかったのである。当時こうしたあどけない子供たちばかりの演奏会に、ひねくれ者の私も一応参加していたことが分かって、うれしく思った。

ラボとgingerbread man

正しくはラボ・パーティというのだそうだが、幼稚園の放課後に「ラボの英語』(と私は記憶している)の時間があって、希望する園児だけがそれに参加していた。

姉はそれに参加していた。というより、母が幼稚園の役員をやっていたから一緒に帰るまでの時間に姉にそうさせていた、というのが近いだろう。

私はといえば、放課後は園内をぶらぶらしているだけだったが、教室で英語で書かれた「ぐりとぐら」の絵本が使われていたのは覚えている。

特殊な形のカセットテープを用いた録音機器も購入したものらしい。ラボの機械がどうして標準的なカセットを用いなかったのか分からない。 当時すでに標準的なカセットテープはあったと思うが、もしかしたらまだ「標準」となっていなかったのかもしれない。私は当時、ラボの機械のテープ以外にカセットテープというものを見た事がなかった。録音テープといえばオープンリールの時代であった。

「ぐりとぐら」より易しいレベルの本で「STOP TARO」というのがあった。それは家で何度も聴いたことがある。子供の太郎がお使いか何かの用事で外出する話で、出かける際に太郎の母が、Be careful! Don't get hurt. と声を掛けてやっている。それを受けて太郎が、OK, Mammy. I'll be careful. と答える。姉はどうだったか知らないが、私は意味もわからず聴いているだけで、I'll be careful がアイビーケアフルと言っているように聞こえた。そのあと太郎がてくてく歩いて信号機の前で止まったりしたと思うが、私には退屈でそれから先の話は知らない。

「STOP TARO」は退屈だし、よりレベルの高いとされた「ぐりとぐら」も敬遠していた。それよりも録音機器を玩具にして、自分の声を録音したり再生したりするのが面白かった。しかし「自分の声」が外にある機械から流れ来ることは、気味の悪いものであった。だからこれも長くは続かない。

たしか「ABC」という題の(米国人の)身の回りのものや生き物の英単語を絵で説明しただけの薄いハードカバーの絵本も、そのラボで購入したのだと思う。英単語はアルファベットではなくカタカナに直されて綴られていたかもしれない。その辺は記憶が曖昧だが、この絵本は興味をもって読んだおかげで易しい英単語はこの時期にかなり覚えてしまった。たとえば動物園を zoo と呼ぶこと、凧は kite であることなど。絵本の凧が洋凧でダイヤ型をしているのは面白かった。もちろん、それは「たこをあげるひとまねこざる」ですでに知っていることであったが。

私も姉も母も分からなかったのは gingerbread man というものである。実際の寸法が書いてないので、私には怪しげな人形と見えた。こんな人形を何に使うんだろうと少し気持ちが悪かった。gingerbread man がただの小さなクッキーだと知ったのは、ずっと後のことである。

レゴとシズラーカー

福岡にいたころは積み木などをして遊んでいたようだが、その記憶はほとんどない。

ブリキの車の玩具のことは初めのほうに書いた。車種はフォルクスワーゲン・タイプ3。当時の新型車である。

それからどこかボタンを押すか扉を開くかすると、梓みちよの「こんにちは、赤ちゃん〜♪」が流れてくる不思議な箱があった。中を開けたことがないので、これの音源が何だったのか、電池で拡声するものだったのかは謎のままである。

4歳の時、梅田のキディランドでレゴを買ってもらって以来、レゴに凝った。最初買ってもらったのは複葉機だったが、家、ポリスステーションと増えてくるうちに、だんだんと頭にイメージしたオリジナルの形も作れるようになった。

クリスマスプレゼントはレゴの鉄道模型のセットであった。その当時、レゴの鉄道模型のセットはAからFまで6種類のセットがあって、私が買ってもらったのは最上位から二番目のEセットという立派なもの。最上位のFセットは給電用レールが付いていたと思うが、Eセットはそこまで上等のものではない。電池を載せてモータで走る「蒸気機関車」に客車と貨物車が三台ばかり付いている。レールはかんたんな長円形であるが、ポイント(分岐)の付いたものもあった。5歳の頃は、社宅にあった本(中央公論社「世界の歴史」)を床に置いてそれにレールを掛け、急坂をつくったりと、これでずいぶんと遊んだものだ。

ネットで「lego locomotive 1969」などのキーワードで画像検索すると、私が持っていた模型と同じかそれに近いものが色々出てくるのは有り難い。それを見て、連結器がマグネットであったことなどを思い出した。

友達がもっている怪獣やGIジョーなどのフィギュアにも興味があったが、これは買ってもらえなかった。ほかにもミニカーの電動立体駐車場、サンダーバードの工作車の模型など、欲しいものは山ほどあった、強請ってもダメだった。やはりレゴは相当にお金がかかっていたのであろう。

だから私の当時の玩具はレゴばかりといっても過言はない。

あの時代のレゴは、ブロックが白・黒・赤・黄・青の5色しかなかった(芝生を模した基礎の緑のブロックや窓に使う透明のブロックは例外)。そこが当時、唯一不満な点であったが、今のレゴを見ると、多彩でいいのだが落ち着きがないという印象をうける。だからレゴは北欧風の少ない原色で止めておいたほうがいいのではないかと、今は思う。レゴ全体のかたちも今のレゴは実物に近づきすぎている。昔のレゴはブロックの凸部がむき出しだったが、そこにかえって味があるといえるし、凸部がむき出しであることは、そこに別のブロックをはめこむ余地があるということで、拡張や改変の自由度が高いのである。「60〜70年代のレゴ」を一時的にでも復刻してほしいと私は願っている。

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当時遊んだ玩具はほとんどレゴだけ、と言ったが例外はある。例えば父がキディランドで買ってきたシズラーカーのセットである。シズラーカーは、モーターと充電池が内蔵されたミニカーで、外部の乾電池で充電してレールの上を走らせる玩具だ。父が買ってきたのは最も単純なセットで、一台がやっと通れるだけの橙色の狭い長円形レールと一台か二台のシズラーカーだった。だからやがて飽きてしまう。キディランドへ行くと、アスファルト色の4車線はありそうな太いレールで、全部見渡せないほど長く入り組んだサーキットを作ってあった。そこに何台ものシズラーカーが疾走しており、ガラス越しに見ても見応えがあったが、それはとても個人の住宅で実現できるものではなかった。シズラーカーはそれっきりで止めてしまっている。

父とプラモデル

父のプラモデル趣味は千里の社宅で始まった。

いつ頃からかキディランドか北千里のマッハ模型で買ってきた模型を、休日の午後に部屋にこもって作ることが多くなった。

大概、家族の他の者は邪魔しないように中へ入らなかったから、進捗状況が分からなかったが、翌朝になると帆船、クラシックカーや戦車の模型が出来上がっていたりして、それを見るのが楽しみだった。

ドイツのタイガーとアメリカのパットン。(有線)リモコンの戦車を二台ほとんど同時に作ってしまったこともある。その時は父自ら「世界の歴史」を障害物にして戦車に登らせて遊んでいた。

社宅にいた頃、父は他に「タイタニック」「原子力空母エンタープライズ」「F104ファントム」なども作っている。何種類かある「F104ファントム」のデカールのどれがいいか、そのときは家族に相談して決めていた。

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私ものちにプラモデルに凝るが、この頃は父のプラモデル製作をちょっと手伝うくらいで、ほとんど何も作っていない。

北千里のマッハ模型でムーミンのプラモデルを買ってもらったことがある。私がムーミン。姉がノンノン。どれも傾斜した地面に置くと、トコトコ歩き出す仕掛けになっていたが、私は誤ってムーミンの両足を接着してしまい、歩けなくさせてしまった。私は早とちりをする傾向が昔からある。

あと古江台マーケットでサンダーバード2号の発射台付きの模型を買ったこともある。傾斜台からバネの力でビョーンと勢いよく発射させる子供だましの玩具である。

南千里ゴルフセンター

父のゴルフ趣味が嵩じたのは40代に入ってからで、何かのコンペでホールインワンしたことがきっかけのようだ。北千里に来てからもよくゴルフの試合に出て、たびたび優勝していた。社宅にトロフィーがたくさんあった。

父は日曜日はかならずゴルフ練習場に通った。平日は子供たちと接する機会がないので、この機会をとらえて私と姉を練習場に連れて行くのが習慣になっていた。練習場ははじめは「南千里ゴルフセンター」だったが、豊中に300ヤードの練習場が出来ると、後はもっぱらそこに通った。

父はこの当時、車に乗らなかったから、練習場に通うのにタクシーを使った。社宅を出てバス通りを渡ると、いつも青山台の団地の前にタクシーが一台停まっている。憶えている情景は、客を待つ運転手がドア窓に肘をもたせかけ、手にもったタバコの灰を三角窓から捨てているといったものだ。60年代の車といえば三角窓である。私たち子供が後ろの座席に座って待っている間、父は車のトランクを開けさせ、ゴルフバッグを入れる。それから父は助手席に入ってタクシーは出発するのだった。南千里ゴルフセンターへはすぐで、近くに武田薬品の大きな看板があった。

父のゴルフの練習に付き合うのは正直、子供たちには退屈であった。それで、父がボールを打っているあいだ、練習場にある柔らかい土を盛った砂場のようなところで、やはり父親に連れられてきている他所の子供と一緒に遊んだりした。練習が終わると、父はコカコーラの自動販売機でコカコーラを飲み、私と姉にはファンタオレンジかファンタグレープを奢った。コカコーラとファンタオレンジ、ファンタグレープ。初めはその三つが自動販売機のメニューのすべてで、その後スプライトが出てきたと思う。どれも瓶入りで、この当時、缶入りのドリンクはない。自販機に固定された栓抜きで開けて飲むのである。

姉によると、南千里ゴルフセンターのレストランのカツサンドが美味しかったという。いままでに食したなかで最高に美味しいカツサンドだそうだが、残念ながら私はそのあたりの記憶が消失してしまっている。

それから練習場の遊び場にブランコがあったというが、それも忘れている。一度、姉はそのブランコから下に落ちて、下が砂利だったから頭に大けがを負った。その時はゴルフ場に近いどこかの外科に行った。それは覚えている。練習場に来ていた若い医者が自分の車に乗せてその外科まで運んでくれたのである。・・・私は後部座席の右端に座っていたが、その座席に救急サイレンの器具が無造作に置かれてあることに興味をもった。救急車のようにサイレンを車の屋根にのせて鳴らしながら走ることもあるのだろうかと疑問に思ったが、その時はサイレンを付けずに普通に走った。

さて着いた先の外科の先生というのは、後で聞くところによると「軍医あがり」だそうで、怪我人の姉をかなり手荒く扱った。泣く姉を「泣く奴があるか!」と叱りつけながら水道場で水を流して砂を落とし、それから傷口を何針が縫って塞いだ。

70年代までは、元軍医とかいう怖い医者が少なくなかったのである。

北プールとMBSミリカプール

北プールへは幼稚園からも行ったし、既に書いたように親戚のりょう子ちゃんとも行った。いずれも子供用の浅いプールだったから、泳いだというより水遊びをしたというのに近い。

家族で行ったときは、父に無理やり大人用プールに連れて行かれて、そこでバタ足の練習をさせられた。大人用プールは中ほどに人工の島があった。

姉と私はプールサイドにつかまってまず身体を水平にすること、顔を水につけることを習い、それからやっとバタ足をすることを習った。プールサイドから離れることはなかったから、泳ぎをマスターしたとはいえない。おまけに父は途中で島に向かって勝手に泳いでいってしまい、姉と自分だけがプールサイドに取り残された。長く浮いていると疲れてくるので、立ちたいのだが、大人用プールは幼稚園児には深すぎて立つことができない。あのときは母の助けを借りてプールから上がったと思う。

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1970年ころ、南千里にMBSミリカプールというのが出来て、そこに母と姉とで何度か行ったことがある。私達は略してMBSのプールと呼んでいたが、MBSミリカプールというのが正しいらしい。場所は南千里の駅からも遠いから、たぶんタクシーに乗って行ったのだと思う。

そこはウォータースライダーの付いたレジャープールだったが、私は恐がりだからウォータースライダーに挑戦したことはない。自然の海岸を模したプールには波を起こす装置がついていた。私はプールの浅いところで、人工の波をおもしろがりながら、浮きを使って泳いでいた。だからここでも泳ぎはおぼえていない。子供の頃に玄界灘で泳いでいた母は泳ぎが達者で、旧いカエル足の平泳ぎでたのしそうに泳いでいた。

ウォータースライダーの横には車の展示コーナーがあって、いつも何かの車が展示されていた。その前で撮った写真が一枚ある。写真の車はずんぐりした形の小型車でクリーム色をしている。車種を調べると、スバル R-2 というものらしい。

北千里の寅さん

「北千里の寅さん」と私はいま勝手に名付けているが、そのおじさんが子供たちからどう呼ばれていたかを知らない。

藤白台の団地の中にある広場で一度だけその人を見た。

映画の「寅さん」シリーズは1969年に始まっているが、それもちょうどその頃だったと思う。母が幼稚園の役員をやっていたという話は既にしたが、別の役員のMさんが豊中の家に引っ越す前、幼稚園近くの団地に住んでい頃である。幼稚園のことで母がMさんと会って話す用事があった。

その時は母とMさんは広場で立ち話をしていたか、あるいは母だけがMさんのお宅に上がっていたかは覚えない。一人で待っていると、どこからともなくそのおじさんは広場に現れた。

記憶が曖昧だからはっきりしたことは言えないが、たぶんフェルト帽を被っており、ジャケットを羽織っている。寅さんのようにジャケットの下は腹巻にシャツ一枚というようなラフな恰好ではないだろう。たぶん「ワイシャツ」を着ていたのだと思う。ネクタイを付けていたかは何も言えない。雰囲気ももちろん寅さんのような陽気さはない。老人といってもいいほどの年齢で、多くの年輪を刻んで来たという顔である。怪しいといえば、怪しい感じもする。

私から見ると昼間は子供と女性だけになる団地に、そのような正装の男の人を見るのは珍しい。

おじさんは手に提げたアタッシュケースを地面に下して中を開けだした。すると、団地の広場で遊んでいる子供たちがおじさんに近寄ってくる。おじさんは鞄のなかにたくさんの飴を入れていたのだ。

寄ってくる子供たちの期待に答えるかのように、おじさんはジャケットのボタンを外し、ジャケットの中にある商品も取り出し始めた。そのとき私はあッと息を飲んだ。

特別に裏地を誂えてあるらしく、ジャケットの裏のたくさんのポケットに玩具がぎっしりと刺さってあるのである。玩具というのは当時の駄菓子屋や学校の近所の文具店で売ってあるような小さな玩具だ。シャボン玉、ゴム風船、紙風船、プラスチックの胴体にスチロールか厚紙の翼をはめこんで飛ばす「紙飛行機」などなど。挙げて行けば切りがない。

そのとき私は紙飛行機に少し興味があったが、買っていない。似たようなものを古江台市場などでも見るから、そのおじさんから買う必要もないなと思ったからである。それに、そもそも私は小遣いを持っていない。仕事中の母を呼んで、買ってくれと言うのもためらわれた。やはり日頃からレゴという高価な玩具で遊ぶことに慣れているからであろう。駄菓子屋の玩具は私にはほとんどの場合、かえって憧れて見るだけのものだった。

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「北千里の寅さん」を見たのはそれっきりである。おじさんから玩具は買わなかったが、その様子は昭和の風景として今も脳裏に焼き付いている。

社宅の公園での遊び

私は昼間でも部屋にとじこもってレゴで遊ぶことの多い子供だったが、屋外でまったく遊ばなかったわけではない。

D35号棟とD36号棟のあいだに社宅の公園があった。滑り台に砂場、シーソー(ぎっこんばったん)、ブランコ、回転ジャングルジム、箱ブランコ、それに鉄棒があったと思う。社宅に来た当初は母の見守るなか、同年代の子供たちとこれらの遊具でよく遊んだり、鬼ごっこをしたりした。

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自分より年上の小学校低学年くらいの子供たちと遊ぶこともあった。 一度だけだが、電車さんごっこに誘われたことがある。 社宅の階段を下りるとたまたま「電車さん」をやっている子供たちが通りかかったので、切符をもらって中へ入れと誘われた。 切符は手製でなく、どこかの玩具屋で買ったと思われる本物そっくりのものだったので驚いた。 それから「出発、進行!」の掛け声とともに、全員が足並みを揃えて走り出す。 D35棟は階段が4つある長い建物だったから「駅」がもう一カ所あった。そこで止まって降りる客がいれば乗る客もいる。私は乗ったばかりだから降りなかった。それから建物の角を曲がって社宅の公園を左手に坂を下っていく。D36号棟の駅で止まって、そこで降りる客は多かった。私もそこで降りたか、さらに坂を下ったところにあるD37号棟の駅で降りたかは忘れた。短い間だったが、あのときの興奮は今も忘れられない。その後、年長さんたちがまた電車さんごっこをやっていないか、北の窓から下をのぞいてみることが度々あったが、あのとき限りだったのは残念である。

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公園の東隣に空き地があって、丈の高い雑草がぼうぼうと生い茂っていたから、幼い私はなかに入れなかった。今はその場所にも高層マンションが建っているようである。当時、その空き地で一人の中学生がよく模型飛行機を揚げていたのを覚えている。模型飛行機というのは、竹籤かなにかの胴体に和紙を貼ったもので、捻ったゴムの力で二枚のプロペラを回して飛ばすものである。着地したときのために、車輪を刺した硬い針金の脚もついている。よく文房具屋の店先で売られていたが、製作の難易度が高そうで、幼い私には高嶺の花だった玩具である。たまたま母と公園にいたときに、その中学生とちょっとお話をした。その人は隣町から来た人で、模型飛行機をあげる場所が近くになく、ここの空き地が恰好の場所なので揚げに来ているということだった。空き地が街の所々にあるというのは窮屈でなくいいものだと思う。

(後記)空き地には雑草が生い茂っていたと書いたが、社宅の先輩の話によると雑草の生えていない時期もあったという。そこで子供たちが野球をして遊んでいたそうだ。

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その空き地とD35号棟のあいだにコンクリートの階段があって、社宅の公園から YWCA のある小径に通じていた。社宅の D36、37号棟の人がよくそこを通って買い物に行き来していた。その階段でこれも年長の女の子たちがじゃんけんの「グリコ」をして遊んでいて面白そうだったから、中に入れてもらったことがある。しかし私は初めてだったから「グー」がグリコ、「チョキ」がチヨコレイト、「パー」が「パイナツプル」であることも知らず、勝っても負けてもどう動いていいのか分からないので、手取り足取り教えてもらう始末だった。

社宅は女の子が多く、たくさんの輪ゴムを連ねて紐を作り、ゴム跳びをして遊ぶ光景が見られた。こればかりはいかにも女の子たちの遊びで、中へ入れる雰囲気ではなかった。

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社宅の建物のまわりはつつじの花壇になっていて、毎年春になるとピンク色のつつじが咲きにおった。あるとき、年上の小学生の女の子が花を一輪まるごと摘んで根元を口にくわえてみせ、「甘い味がする」と教えてくれた。真似てやってみると、たしかに蜜の味がするので驚いた。それで一輪、また一輪と摘んでは蜜を吸った。それが幼い子供たちのあいだで流行ったので、花壇のツツジはだんだんと減って行き、以降花壇のつつじを摘むのは禁止になってしまった。

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いつだったか社宅の公園でバッタが大発生したときがある。 これも年長の小学生の男の子たちが公園でわあわあ言って騒いでいるので、何事かと思って降りて行ったら夥しい数のバッタがあちこちを飛び跳ねている。 自分の周囲をざっと見渡しただけでも、二十匹くらいはいただろうか。 バッタは腹のあたりが赤く染まっていて、男の子の一人が「これは『ちいすいバッタ』っていうんや」と教えてくれた。 バッタが血を吸うはずのないことは幼い私でも薄々分かっていたが、腹の赤いバッタは気持ちわるく感じた。以降、私はバッタよりもカマキリのほうが好きになったと思う。

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これもいつだったか、バネの力でぴょんぴょん跳ぶホッピングが社宅の子供の間でも流行った。それで父に買ってもらったのだが、私は気まぐれな子で、買ってもらったもののそれで遊ぶことがついになかった。不器用でうまく跳べないという恐れが出てきたからである。練習場所は外の道しかなく、努力して練習する姿を人に見られたくないという妙な自意識が働き出したからでもある。ホッピングが使われないまま玄関に放って置かれてあることが父にも分かり、以後ずっと何年経った後も、折にふれて父からこのことを責められ続けた。あの頃、ホッピングのあとにカラー竹馬が流行ったが、それを買ってもらえなかったのは当然である。

自意識過剰でホッピングに乗らなかった私も、自転車は練習して乗れるようになっている。

展望台と自転車

北千里に来て、いつごろだったか憶えないが、私と姉はそれぞれ子供用自転車を買ってもらった。姉のは後に大流行?した「まりちゃん自転車」ではないが、同じような型の白の自転車で、私のはナショナルの地味な青い自転車だった。買った店は憶えていない。

最初は補助輪を付け、よく遊ぶ友達と D35棟の前を行ったり来たりして遊んだ。今思い返せば、建物の前を行ったり来たりすることの何が楽しいのか理解に苦しむが、幼児の考えていることとはそんなものだろう。

1970年頃だったと思うが、いよいよ補助輪を外して本格的な自転車の練習を始めることになった。練習場所は、古江台の展望台前の広場で、日曜日に家族4人で行った。このとき姉はすでに自転車に乗れていたかはもう憶えていない。とにかく姉はすぐに乗れるようになったから、広場では私の練習に親は掛かり切りになった。親に後ろから荷台を支えてもらって、ペダルを踏んでスタートさせるのだが、すぐに身体が左右どちらかに倒れてうまく漕げない。何度もトライしては失敗の繰り返しで、結局その日は乗れないままだった。

平日、一人になったときに社宅の前で自転車を漕いでみたが、やはり同じである。どうしたら乗れるようになるのだろう。気は焦るばかりだった。

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お盆に福岡に帰省し、天神町あたりを歩いているときも、頭は自転車のことで一杯だった。

(ここの車道ならば自転車の練習に恰好かもしれない。歩道が車道よりちょっと高く、ちょうどペダルの位置にあるから、左に倒れそうなとき左足を歩道におけばいい・・・)

自転車はあいにく社宅に置いてきたままである。しかしそもそも繁華な天神町で自転車の練習をする人など誰もいない。私は日頃から不思議なことばかり考える子供だったようだが、これも実現不可能といっていい練習法だった。

大阪の社宅にもどる。社宅の前のつつじの植え込みのところがすこし高くなっているが、階段への出入り口ですぐに切れるので、天神町で考えた自己流練習方法はここでは使えないと分かった。半分絶望的になり、しばらく自転車に乗らなかった。

しかし補助輪をつけている友達が、あいかわらず建物の前をぐるぐる行ったり来たりして楽しそうに遊んでいる。それを見ると、私も自転車にやはり乗ろうと思った。それで、こんな練習方法を考えた・・・両足をペダルから離さなずに漕ぐのではなく、漕いだ足をペダルから離して着地させ、その足で地面を蹴ると同時に反対側の足でペダルを踏む。そうやって建物の前をぐるぐる行ったり来たりするようにした。こうすると補助輪なしでも自転車は乗れる。補助輪がないとむしろカーブで自転車をいっぱい傾けられるので快適だ。

こんな感じで乗っていたある日のこと、友達といっしょに D35棟の階段の前を円を描くようにぐるぐる回っているときに、ふと足を地面から浮かせてみると自転車は前に進んだのだった。ペダルにずっと足を掛けてもいても転ばない。やっと乗れる時が来たと思った。

翌日、自転車に乗れた経験が束の間でないことを確かめるように、もういちど乗ってみて、やはり乗れているので自信をもった。

こうして自転車に乗れるようになった。初めはD35棟の前を行ったり来たりするだけだったが、そのうちハンドルを切って棟の角を曲がることも無事にできるようになり、D35とD36の間を自由に行き来するようになった。幼かったから社宅の敷地の外に出たことは一度もないと思う。敷地内でもD37棟へは急な坂だからそこへ行っていない。一度、駐輪場の前で立ち漕ぎをやっていたときにバランスを崩し、痛い目にあった。以後、ペダルの上に立つときはバランスに注意するようにした。ほかに走行中にハンドルから手を離してみたりと、危ないことにも挑戦し、出来ると嬉しくなった。

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自転車に乗れるようになると、乗る姿勢が姉より奇麗だなどとおだてられて、私は得意になっていった。一度、D35棟の角で姉の自転車と年長の小学生の女の子の乗る自転車が出会い頭に衝突する事故があった。たまたま現場にいた私が危険を察知したものの「あっ」と声をかける間もなく起こった事故であった。幸い大事にいたらない軽い事故だったが、「何を呆っとしてるんだろう」と心のなかで姉を馬鹿にした。傲慢になっていたのであろう。後に私はその手痛いしっぺ返しを食らうことになる。

その他、旅行の思い出など

北千里に来てから家族4人か父を除く3人で近隣の数々の行楽地に出かけている。

アルバムにベビーカーに乗った私の写真があって、この頃ベビーカーはふだんは乗らなかったからたぶんその場でレンタルしたものであろう。背景の階段を上がった所に4本の白い柱で成る古代神殿風の円い建物があって、その向こうに壁がある。その壁の向こうには何があるか分からない。それがどこで撮った写真か長年、考えてもみなかった。

最近、同じ場所を撮った姉のアルバムの写真を見てみた。すると、右手に飛行塔が小さく写っているのが分かった。その飛行塔の鉄柱に縦書きで「○○パーク」と書かれてある。ルーペをつかって目を凝らして見たが最初の二文字が読めなかった。諦めかけたころ、最初の字は「阪」じゃないかとふと思った。すると「阪神パーク」という言葉が口をついて出てきた。「あっ」と思いネットで画像検索すると、阪神パークにあったという飛行塔の形がアルバムの写真の飛行塔の形とそっくりである。アルバムの写真に小さく写る飛行機の形も似ている(ずんぐりしたヘリコプターの形)。だからこれは阪神パークと見て間違いないのではないかと思われるが、まだ確定できない。小さいから北千里に来た年に行った場所だと思われるが、あのころ阪神パークに行っていたとは意外である。

当時、東大寺・春日大社・奈良ドリームランドへも行っている。これは記憶しているし、アルバムにも写真がたくさんある。春日大社で姉は鹿をおそれることなく煎餅をあげていたが、私はこわがってあげることができなかった。これがずっと心の奥で気になっていた。・・・今から10年近く前、ひさびさに奈良へ(ひとりで)行ったとき、鹿せんべいを買ってあげてみた。あげる前から鹿に噛みつかれてしまったが、鹿はかわいいものだと思った。こちらの身体が大きくなって余裕が出てきたからでろう。他所の子を観察すると、鹿を恐れない子もいれば、恐れて泣き出す子もいる。恐れるのは私もそうだったからよく分かる。・・・以来、奈良の鹿がかわいくなって鹿愛護会に入ってしまったのである。

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京都へは何度か行っている。ほとんど記憶にないが、アルバムの写真を見ると大覚寺にも行っていたようだ。

いつのときだったか、京都から大阪に帰るのに国鉄をつかったことがある。日が沈んで暗くなった頃、たまたま京都駅に来ていたブルートレインに乗り込んだ。中へ入るとヨイトマケのおじさんみたいな男たちが大勢、通路に座って酒盛りをやっている。たぶん田舎から出稼ぎに来た人たちだろう。そのなかをかき分けるようにして中へ入って行った思い出がある。

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私たちは「大文字焼き」と呼んでいたが、正式には「五山送り火」と言う京の伝統行事を観に行ったことがある。会社の取引先である某酒造会社からの招待であった。あれは1970年頃だと思っていたが、母方の祖母が母宛に送った手紙を最近読んで、どうやら1969年の夏らしいことが分かった。そのときの感想を母が祖母に書いて送っていたのである。

その日、父はいつもより早く帰宅し、すぐにタクシーを呼んで家族4人で京都に向かった。父はとにかく何処へ行くにも電車よりもタクシーを好んだものだった。・・・・・・タクシーは名神高速を通ったと思うが、どこから名神高速に入ったかは知らない。北千里から名神高速に入るまでは空港に行く道と同じだったような気がするが、これも自信がない。

京都に着いて、どこかのビル(招待主の会社のビルだったかは分からない)の屋上に行くと、すでに大勢の大人たちで賑わっていた。子供の姿はほとんど見かけない。仮設の長テーブルの上にはコップが等間隔に伏せて並べられてある。宴会は始まり、働き盛りの脂ぎった大人たちのもつコップにビールが注がれる様子は子供の私には興醒めだったが、お酒の飲めない人のためにかバヤリースオレンジも用意されていて、子供たちには有り難かった。

ようやく五山送り火が始まると屋上の客は、柵の近くに寄って送り火を眺め始めた。ビルの屋上といっても今日あるような高層ビルの屋上ではないから、手前の街明かりが眩くて山の送り火を見つけるのは思ったほど簡単なことではない。それでも、私は「大」の字はすでに知っていたから、大文字と左大文字の「大」は比較的早く認めることができた。舟形も何となく分かった。分からなかったのは鳥居である。母の指差す方向にそれがあるというのだが、そもそも私は「鳥居」というものをほとんど知らなかった。奈良や京都の神社に行って見ているはずだが、興味がなかったのか、覚えていない。だから「とりい」がある、「とりい」が見える、と言われても飛ぶ鳥を想像してしまい、鳥居の形をイメージできないから、それを山に見つけることができないのだった。鳥居すら分からないのだから、まして「妙」や「法」にいたっては、何をか言わんやである。

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いつの年だったか忘れたが、年末年始を和歌山の白浜で過ごした。夕暮れに、伊丹空港であの国産プロペラ機YS-11に乗って白浜空港まで飛んだのである。・・・旅館に着いたが、温泉風呂は旅館とは別の場所にあるということでわざわざマイクロバスに乗って出かけた記憶がある。あの頃、私は幼かったから女湯へも自由に入れた。父のいる男湯と母と姉のいる女湯を行ったり来たりしていたのが思い出される。そこで新年を迎えておせち料理、お雑煮を食べて帰ったそうだが、その辺りの記憶はない。帰りはYS-11とは違う別の機種のプロペラ機だったような記憶がおぼろげにあるが、確かなことは言えない。

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1970年は万博の年であるが、ボーイング747「ジャンボジェット」機の就航した年でもある。アルバムの写真に鯉のぼりが見えるからその年の五月だと思うが、どこかの広場でジャンボジェット機の模型のお絵描き大会があった。芝生の広場の中央にジャンボジェットの大きな模型が飾られていて、子供たちがその回りに座り、模型を写生して提出するのである。どこが主催したのか分からない。私はクレパスで描いてよく描けたつもりだったが、あとで新聞か何かで結果発表があり、佳作にも入っていなかったのでがっかりしたものだった。

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大阪の住吉大社へは二度参っているはずである。夏に行ったときは太鼓橋を渡ろうとして渡れなかった思い出がある。これはアルバムの写真にもあるが当時の太鼓橋はつるつるの板が張られているだけで、足を引っかける部分がない。もしかすると橋の中央付近にあったのかもしれないが、欄干の近くにはないのである。だから私は欄干にしがみついて橋を登ろうとしても出来なかったのである。

1970年の七五三のお参りにも住吉大社に行っている。当時の男の子の七五三向けの衣装には紋付袴、ブレザー以外に宇宙服というのがあった。私は紋付袴を着たかったが、母は和服嫌いでブレザーを着せられた。宇宙服はあまりに奇抜で論外であった。行ってみるとやはり紋付袴とブレザーが半々くらい。たまに宇宙服を着てくる子を見かけるくらいであった。

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1969年にタカラヅカ歌劇を観に行っている。会社から招待券をもらっていて、D37号棟の別の家族(初めて見る人たちだった)と二台のタクシーに分乗し宝塚大劇場に行った。舞台の全体が視界一杯に広がる前の方の非常にいい席だったこと、そこから大階段が大きく見えたことなどを覚えているが、劇の内容は覚えていない。和物は網代車がとてもきれいでうっとり眺めていた記憶があるが、ほとんどの時間は退屈して眠っていたようだ。もっともタカラヅカは数年後にまた一度行っているから、そのときの記憶と混同してしまっている可能性もある。古城都さんが出ていたそうだが、そういうことはずっと後で聞いて知ったのである。演目は「嵐が丘」だったのだろうか。

この日、母が宝塚に住む旧友の家を訪ねたそうだが、その記憶はない。

帰りの電車のなかで、連れの家族の小さい男の子が宝塚の玩具屋で買ってもらったレーシングカーの模型を通路で走らせていた。私は本音では自分も同じものを買ってもらって一緒に遊びたかったが、自分は年長でしっかりしなければならないという意識が育っていて、駄々をこねるのは躊躇われた。

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文鳥が迷い込んだ話。

万博のあった年にかぎらず、社宅には来客がときどきあった。 そのときの来客が誰だったかもう覚えていないが、たぶん平日だったと思う。客が帰る時分になり、母が新大阪まで見送りに出かけようと支度を始めた。 そのとき、不用意にサッシを開け放していた南向きの6畳間にどこか他所の宅から来た文鳥が迷い込んでいるのが分かった。部屋のあちこちを飛び回る文鳥を母は虫網で捉えようとするが、捉えきれない。 仕方がないからサッシを開け放したまま私たちは新大阪まで行き、とんぼ返りで社宅に帰ってくると、もう部屋に文鳥はいなくなっていた。ほっと安心したが、あちらこちらに糞をしている。母はそれを丹念に探しては拭いて掃除をしていた、という思い出である。

今も家にある箱入り本の箱にときどき汚い染みを見つけるが、あのときの文鳥の糞の跡だろうかと思うことがある。

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逃げたカブトムシのこと。

あのころの北千里は街路樹が貧弱で緑が少なかったと前に書いたが、図鑑で見るカブトムシやクワガタを見なかったのは私が部屋で遊ぶことの多い子だったからだろうか。長い間、実物のカブトムシをたぶん見たことすらなかった。

ある夏の日の夕方、場所は千里中央だったと思うが露天でカブトムシを売っていて、ずっと憧れだったそれを買ってもらった。いくらしたのか覚えていない。

そのときに虫かごも新しく買ってもらい「これからカブトムシを育てるんだ」と喜び勇んで帰宅した。古い虫かごは吉野の合宿前に買ってもらったよくある緑色のプラ製で、長方形の扉を横にスライドさせて開ける仕組みのものである。対して新しい虫かごは青いプラ製で、扉が丸く12時の位置にある点を軸に、斜め上に回すようにスライドさせて開ける仕組みだ。

帰宅して餌に何をあげればいいかという話になり、結果何をあげたか覚えていないが、スイカか何かをあげたのではないだろうか。オガクズの代わりには鉛筆の削りかすを与えたと思う。今思い返せばじつに無茶苦茶な飼育方だが、初めてのことだから仕方なかったであろう。

夜になり、カブトムシはもともと屋外に棲む生き物だから、人工の照明の明るい部屋のなかに置いておくのはかわいそうだ。星空の下のベランダに出しておこうという話になった。南向きの六畳間が私の部屋であったが、そこのサッシから虫かごを外に出してその夜は寝た。明日はカブトムシの飼育法をちゃんと調べたり、おいしい食べ物を買ってやろうと心に決めていた。とにかく憧れのカブトムシはもう自分のものなのだ。明日が楽しみだ・・・。

翌朝、期待はあっという間に裏切られた。母がカブトムシがいなくなっていると言う。えッと我が耳を疑い、起きてベランダの虫かごを見てみると扉が見事に開いている。カブトムシはもういない。ベランダにもいないから、夜中か早朝に飛んで逃げたのだろう。回転式の扉もあの角で回して開けたのかと想像すると、改めてカブトムシのつよさに感心したが、何よりも私は自分がカブトムシに好かれていないような気がしてがっかりした。

以来、昆虫を買ってもらおうと思ったことはない。

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古江台小学校

1971年3月に「ふじしろ幼稚園」を卒園した。

おそらく卒業式の帰りだったと思うが、霰(あられ)が降った。霰を見るのは初めてだった。3年間歩いて通った藤白台の坂を母といっしょに下りながら、母の霰と雹についての話を興味をもって聴いた。

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4月から古江台小学校に通うことになった。

古江台小学校は、それまで家族で梅田へ向かう際に、タクシーで何度もその横を通っていた。かまぼこ型の屋根の体育館がずっと建設中で、それがいつ頃かに出来上がっていた。

前年度に姉もそこに進学している。姉の担任は1、2年を通じて清水先生という若い先生である。

4月7日に入学式があった。このときのためにブレザーを新調してもらい、胸にフェルトの校章を安全ピンで止めて、やはり新入生の社宅の友達と一緒に、校門の前で記念撮影をした。その写真は今もある。鳩のマークの校章は疾うに紛失してしまっている。

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入学式の翌日だったと思うが、新入生全員が体育館に集められた。壁に各クラスの名簿が掲示されていた。1組から6組まである。

私は最終組の6組。

クラスごとに一列縦隊に並んでいく。最初、自分たちの列の先頭にいる先生がこのクラスの担任なのかなと思ったが、あとでそうでないと分かった。全員が整列し終わると、1組から順に担任の先生を紹介されていった。6組は下平先生という三十前後の先生だった。

そのあと、各教室に案内されたと思う。自分たち低学年の教室は三角波形の屋根の主屋ではなく、正門から入って右、運動場からは左手の袖の平屋の一番端。

どのクラスも机と椅子の並んだ通常の教室以外に、ワークルームといったと思うが、多目的の空き部屋がついている。

教室から廊下に出ることなく直接に外へも出れる。するとそこに花壇や水道場がある。

教室案内のあとクラスの記念撮影があり、それからオリエンテーションという校内めぐりをした。「オリエンテーション」という言葉を知ったのもこの時が最初である。

主屋のどこかで「ここがベルマークを入れる箱」と言われて案内されたが、ベルマークが何なのか知らず、結局ベルマークをそこに入れにいったことは一度もない。

それからまた歩いて「みなさんが6年生になったら、この建物の教室で学ぶことになります」と、主屋の6年生の教室を案内された。同じ小学生といっても1年生と6年生とでは、体格の差が著しい。一回りも二回りも身体の大きい男女の生徒が廊下を走り回るのを見てやっと、幼稚園とは違うとんでもないところに来たのだと分かった。

花壇と蜂

オリエンテーションのあった次の日から授業がはじまったと思う。

最初の国語の時間に、折れ線や螺旋を鉛筆で描く「習字」の前練習のようなことをさせられたこと以外は、何を習ったかほとんど覚えていない。

恥をかいた思い出は忘れずにいる。

私の席は南向きの窓の近く。陽光が差し込み、4月の終わりから5月にかけてぽかぽかする陽気のなかで眠くなって、授業中にうとうとと居眠りをすることがあった。

あれは国語の授業中だったと思うが、先生は教科書を朗読しながら席と席のあいだを歩いていた。うとうとと半分居眠りをしている私にもそれは目に入っている。もちろん朗読の内容は頭に入っていない。

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先生が私の席のすぐ近くに来たとき、歩みと朗読の調子が微妙に変わったのに気付いた。が、気付いたときには遅かった。先生は突然、立ち止まって朗読を止めた。

「外の水道場へ行って、顔を洗ってきなさい」

言われて私はやっと自分が居眠りしていたことに気付いた。周囲の生徒の注視をあびて恥ずかしかった。

幼稚園時代にこんな経験はない。

水道場は、傍に花壇があって、夏近くになると肥料の嫌な臭いがした。水道の蛇口のまわりを蜂が飛び回っていることもあった。そんなときは水道場まで行きたくなく、行ったふりをして済まそうと思ったが、教室の窓から先生が監視しているような気がする。

顔を洗いながら、小学校というのは幼稚園とちがって厳しいところだと思った。

そんなことが一学期に何度かあって、この子はやはり特殊学級に入れたほうがいいんじゃないか、という話もあったようだが、それは没になったそうだ。その没になった理由というのが噴飯物なのだがここには書かない。

今日は「学習障害」だの「発達障害」だの難しい言葉が流行る時代だが、あのころの学校教育は全員画一的で厳しくあったと同時に、のんびりと寛容なところもある時代であった。人と変わった「自分」をどう理解するかは結局、学校以外の場所での経験、ひとりで読む本からの影響などに委ねるしかなかった。

日曜参観

それから5月に日曜参観があって、両親が私と姉の教室を観に来た。私のは国語の授業だった。

国語は、相変わらず私の悪い癖で先生の話に集中できず、退屈すると教科書の関係のない頁をぱらぱらめくって、そこにある挿絵を眺めていたりする。

それを参観日にやってしまったから大変だった。

授業参観が終わって、家族四人で社宅に帰る。帰る途中、父はじっと黙っている。これは嵐の前の静けさという奴で、かならず後で何かがある予兆なのだが、この頃は私も幼く経験が浅いからまだ気付かない。

さて、社宅に帰るなり私は父からその日の授業態度を厳しく注意されてしまった。それまで怒られた経験は何度かあるが、授業中の行動を細かく観察されていたことはショックだった。父は若い頃、学徒出陣で「軍隊経験」があったこともあり、こういうことには厳しい。

私のせいで、ほとんど問題のない良い子の姉までが連帯責任を負わされてしまい、私と姉は以降、毎晩、国語の教科書を父の前で朗読することが日課になった。今、習っているところを10回音読する。これがしばらく続いたと思うが、根は優しい父であるし、帰宅後の疲れもあって、そのうちやめてしまった。

六、四! 三、七!

小学校低学年時、成績は5段階で3が多く、ところどころ2が混じっているという普通以下の生徒だったが、一年生のころは漢字だけはそこそこ出来たようだ。

定期的に10字ほどの漢字テストがあって、それで私はよく銀メダルをとっていた。毎回、金をとる男の子がいて、その子には敵わなかったが、私にも金メダルが一度くらいはあったと思う。

出来の悪い私が漢字テストだけ出来たのは、これも父の猛特訓のおかげである。

あまりに出来が悪いのを心配して、父は毎晩私に漢字を、一字につき10回だったか20回だったか忘れたが、何度も書かせるという課題を課した。

「右手の中指にえんぴつダコができるまで書け!」

というのが父の口癖だった。

ところでその漢字テストのメダルだが、生徒全員が給食の牛乳キャップ(紙栓)を色紙でくるんで作っていたと思う。金、銀はそれぞれ金紙、銀紙で。ところが何故か銅紙がないので、銅メダルは青緑色の光沢紙で代用した。たのしい思い出である。

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算数では二学期だったと思うが「足して10になる数」を反射的に言うクイズがあった。

たとえば6なら4、3なら7と答えるのである。

それを先生は、席と席のあいだをゆっくり歩きながらクラスの一人一人に抜き打ちに問いかけてくる。

私の席に近づいてくると、頭のなかで予行演習をする。「六だったら四、五だったら五と答えるんだ」というように。それでも自分に問題が来ると、直前に予想していたものとは違っていることが多いので、一瞬迷ってしまう。

私は最初はできなかったが、終いにはさっと言えるようになったようだ。思えば小学時代、算数で苦労しなかったのも、小学一年時のこの基礎があったからだろう。

幻の水彩画

二学期だったと思うが、図画工作の時間に絵を描くことになった。

夏休み中に各自が読んだ絵本・童話の中から、一場面を選んで、それを絵にするという課題である。

私は幼稚園時代に「ひとまねこざる」シリーズにはまって、そればかり読んでいたことを書いたが、その頃さすがに「ひとまねこざる」ばかり読んでもいけないなと感じ始めて、同じ岩波の絵本の「子猫のぴっち」を借りるか買うかして読んでいた。

「子猫のぴっち」は、話の筋も絵も「ひとまねこざる」ほど面白くなかったが、絵になるいい場面を見つけたので、課題の絵はそれに決めた。

小学生だからもちろん水彩画で、水彩絵の具はありふれたサクラの12色だったが、私は色を混ぜ合わせて新しい色を作る趣味をそのとき覚えた。

たぶんそれは毎日曜日に、親父のプラモデル作りを見ていたからだと思う。親父はレベル社のプラモデル用ラッカーカラーをよく小皿の上で調合して、模型に最適な色を作ってはそれを塗っていたのだ。

私の場合、とくに「みどり」と「しろ」を混ぜると「きみどり」とも違う淡く弱い感じのみどり色が出来ることを発見して、それを絵のなかに入れたことを覚えている。

それ以外にも、自分でいろいろ実験しては、きれいに出来た色を絵のなかに入れて、なかなか色彩の豊富な水彩画が出来上がっていた。一人一人の絵を見て回る先生が私の後ろで、じっと絵に見入っているのが分かった。

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そのときの先生の評価はたいへんなものだったようだ。懇談会か何かの折に母に語ったところによれば、坂本繁二郎の絵のようだということだった。

当時、坂本繁二郎という画家の作品を見たことはなかったから、いったいどんな絵を描く画家なんだろうと、そのときは興味津々だった。後に何かの画集で見て、なるほどなあと思った。構図、あざやかな色彩、それでいて輪郭のぼんやりした淡い感じ。もちろん大家の絵と較ぶべくもないが、自分の描いた絵とまったく似ていなくもない。

とにかく、その絵はたいへんな出来だったようで、学級懇談会かなにかの時に参考資料として使いたいということで、しばらく学校で預かって絵をスライドフィルムに撮ることになった。

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それ以来、絵は返されていないのである。撮ったスライドフィルムはずいぶん長いあいだ家にあったが、それも今は紛失してない。私と姉が小学校で描いた6年分の絵を親が保存してくれているのだが、今見ると私の絵はつまらないものが多い。評価も低く、そもそもそんな絵を描いた記憶が消えてしまっているのだ。皮肉なことに、唯一の思い出に残る、しかも高評価だった絵だけが手元にないのである。

給食の時間

小学校のお昼ごはんは、幼稚園のそれとちがって毎回給食で、食器は金属製の皿。

おいしかったか不味かったかは忘れているが、とくに不味いとは感じなかったのだろう。

ときどき春巻が出た。当時、春巻というものを食べたことがなく、小学校の給食が最初だったと思う。

デザートにムースババロワのようなものが出てくることもあって、それは楽しみだった。

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給食のとき、机と椅子を、先生を中心に車座に並べ替えることがあった。 そんなとき、先生のおもしろい話が聴けた。漠然とではあるが、二つ覚えている。

一つ目は消化と燃焼のはなし。

私たちがこうして食べたものが、胃腸にはいって消化されるとき、 身体のなかで何かが「燃えている」のだという。

赤い火が出てるの?

と女子生徒が訊くから、先生は赤い火ではないが、 目に見えない白い炎が出ているのだということを語っていた。 この辺はよく聴いていなかったから記憶があいまいだが、 私は「目に見えない、白い炎」という言葉がとても印象的だった。

もう一つはパンでお皿を掃除するはなし。

ドイツの家庭では、お皿に付いた食べかすをパンの残りできれいに拭って食べるのだという。

その時は、クリームシチューのような料理が給食で出ていて、先生はそんな話をしたのだろうと思う。

先生がそれを給食で実演してみせ、私たちも金属製のボウルのような皿に残ったシチューの残りをパンで拭き取って、食べることになった。私は最初なんとなく下品な気がして抵抗があったが、まねてやってみた。

私はこの時の話をその後もずっと覚えていて、家でカレーやシチューとパンを食べるときは、今も思い出してはパンでお皿を掃除する習慣になっている。

学校への行き帰り

小学校低学年は、ランドセルを背負って通うのが普通であるが、 我が家ではランドセルは黒のが一つしかなく、姉がそれを使っていた。 私は古江台ではマックレガーだか何だかのビジネスバッグを手に提げていた。 教室の黒板に向かって左側が窓側で、窓の下に各生徒の持ち物を入れる開いた棚があったが、 それを見る限り、手提げバッグで通学している生徒はクラスで私ひとりだけだったと思う。

バッグは空色のデニム地で、裏地が紺のビニールレザー。 その滑らかな感触が気に入っていた。 蓋に鍵がついていて、最初は鍵をかけたりして遊んだが、通学時は鍵をかけなかった。

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行きは集団登校だったと思うが、記憶があいまいである。

登校のとき、小学校の角の交差点で赤信号を駆けて渡った小学生に、 走ってきたトラックの運転手が窓から身を乗り出して

「バカヤロー!」

と怒鳴るのを目の前で見たことがある。赤信号を渡るのも問題だが、 子供に「バカヤロー」とはずいぶん荒っぽい人がいるものだなと感じた。

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授業が終わると、私はまっすぐ社宅に帰った。 私は自分から積極的に友達をつくるタイプでないから、 まわりの生徒となかなか馴染めない。 古江台小学校の新入生は、私の知らない古江台幼稚園の卒業生が多いことも原因である。 ふじしろの卒業生は私だけだったのではないかと思う。

休み時間も最初は運動場の遊具で遊んだが飽きてしまい、 教室にこもることが多くなった。 教室にこもる男子は私ひとりで、 女子の何人かと仲良く話しをしたりして過ごした。

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いつだったか忘れたが北大阪に光化学スモック注意報だか警報だかが出て、 授業が午前で終わったことがある。 そのときは社宅を目指し一目散に三丁目の坂を駆け上がった。 雲ひとつない青空のどこがスモッグなのだか分からないながらも、 何か目に見えない恐ろしいものが空から襲ってくるような気がしたのだった。

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何学期だったか忘れたが、国語の時間に「いなばの白兎」の話を聴いた。私は朗読を集中して聴くことが苦手で、このときも朗読がはじまってすぐに気が散って自分の空想の世界に入ってしまったのだと思うが、どうしたわけか途中から話の内容が面白くなってきた。・・・うさぎが鮫に皮を剥がれて、傷口を塩水で洗ったら治ると騙され、かえって痛みがひどくなったが、たまたま通りかかった大国主命の教えに従い、蒲の穂で身体を包むと傷が治ったという、その話にたいへん感動し、帰宅したら母に話そうといつものようにまっすぐ社宅に帰ったこと、その有名な話を母はもちろん知っていたことなどを思い出す。いなばの白兎の話は小学校4、5年時にも聴いて、二度聴いたという思い出があるから、たぶん一度目は一年時だと思う。そう言えるのは帰宅中の街の風景の記憶と話の記憶が結びついているからである。・・・しかし私の記憶に間違いがあるのかもしれない。もしかすると4、5年時に二度聴いているのかもしれない。

焼津の半二と鎌倉彫

私は社宅の鍵をもっていないから、帰宅して母が不在のときは困った。 そんな時が幼稚園の時代からときどきあった。 幼いころは大声で泣き叫んだものだが、 小学校にあがってからは泣かなくなった。 仕方がないから上階に向かう階段に座って、 鞄から教科書を取り出し、面白そうな頁を開いて読んでいた。 階段は暗かったが、社宅のベランダから読書には十分なだけの外の光が入って来ていた。

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当時興味をもったのは社会科の教科書である。記憶に間違いがなければ、その教科書の始めのほうに、富士の裾野の鳥瞰図が描かれていた。そのなかの焼津という所に何故か興味をもった。ほぼ同じ頃、テレビ時代劇に登場する品川隆二演ずる「焼津の半二」が人気で、その時代劇は子供の私は見てはいなかったが、父母がときどき口にするから、言葉だけは知っていた。その焼津と教科書の焼津のどちらを先に覚えたかは、今となっては不明である。

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社会科に退屈すると、国語でも理科でも片っ端から教科書を取り出しては読むのだが、 どれもすぐに飽きた。そのうち母が帰宅する。

母が帰宅する前に、隣の和田さんが帰ってくることもあった。 そんな時は、和田さんが宅に預かってくれた。

宅のベランダからは万博公園の太陽の塔がぎりぎりで拝めたのではないかと思う。 すぐ隣の私たちの宅からは建物の陰で見えなかったのである。

それから私は宅にあるミニカーに興味津々で、 じっとそれに見入っていたことは覚えている。 けれどもそのミニカーは旦那様が大切にしている飾り物で、 手にとって遊ぶことが出来なかった。 子供の私には、手にとって走らせない鑑賞するだけのミニカーという存在は理解できなかった。

和田さんからは北千里を去る際、鎌倉彫の茶匙を餞別に頂いた。我ながら驚くことに、その鎌倉彫の茶匙を今でも煎茶を入れるのに毎日使っている。

学校でのその他の思い出

入学して間もないころ、色覚検査があったのを覚えている。検査用紙の数に限りがあるのでクラス(40人ばかりいる)をいくつかのグループに分けて、何日かかけてグループごとに検査を行う。私は色覚にとくに異常はなかった。このような検査を幼稚園でも受けたことがあるかもしれない。

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体育の授業は校庭か体育館であったが、校庭での授業でいちばん印象に残っているのは鉄棒である。鉄棒といっても一年生の授業だから難しいことはしない。私は社宅の公園の鉄棒ですでに前回りが出来ていたから、これには自信があったが、授業でやったのはより基本的な「すずめ」である。 ところがこれが自分には予想外に難しかった。身体を水平に保ったまま静止するのが難しかったのである。先生は「電線にとまる雀の恰好よ」と実演しながら指導するが、私が先生の恰好をまねると重心が前に来てバランスを崩してしまい、くるりと前に回ってしまう。前回りを防ぐために脚を下げていると注意される。このときはそんな感じで「すずめ」を奇麗に出来なかったと思う。

「すずめ」で思い出した。先生が「電線にとまる雀の恰好」と言ったときに、何のことを言っているのか分からなかったのである。多くの人は驚かれるだろうが、その時分の私は電線にとまる雀というものを見たことがない。これには理由がある。千里ニュータウンは多くの場所で電線が地下に埋設されていて、私の生活圏である社宅の周囲もそうだったはずだ。電柱や電線を知るようになったのは神戸に来てからである。「電線に雀が三羽止まってた♪」の「電線音頭」が流行るのは1976年。それを学校からの帰りにともだちと口ずさんでいたから、電線に止まる雀はずっと親しんで見慣れている光景だとばかり思っていたが、古江台にいた1971年には私はまだ知らない。そのことを思い出した。

体育でほかに思い出すのは、二人ずつ組になって馬跳びや逆立ちをしたこと、広い校庭をぐるっと一周したことだが、これはその後の(神戸の学校での)記憶とごっちゃになっているかもしれない。

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小学校のプールは私たちが入学した時はまだ工事中で、それが完成したときにクラス全員で見に行ったのは覚えているが、そこで泳いだ記憶がまったくない。もしかするとプールの利用は翌年からだったのではないか・・・。と思っていたら、姉のアルバムに二年生のクラスのプールで泳いでいる写真がある。すると一年生もプールの授業があったのだろうか。

姉の記憶によれば、一年時(ということは1970年時)は学校のプールがまだなかったので、電車に乗って南千里かどこかのプールで泳ぎに行ったそうである。

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それから古江台小学校は1年だけいたが、校外へ遠足に行った思い出も一つだけしかない。秋頃だったと思うが、一年生全員でバスに乗って万博会場へ行ったことである。

万博は1年前に閉幕して、会場はがらんとして人気がなかった。 遠足の目的地は、会期中は3時間以上待たないと入れなかった、あのアメリカ館だった。 展示物の目玉「月の石」はすでにアメリカに持ち帰られていたが、何かの展示物がまだ残っていたのだろう。それを見て回って終わっただけである。

遠足の場所は他にあったかもしれないが、記憶にないし、写真もない。古江台小学校で撮った写真というのは、入学したときにクラスで撮った一枚だけなのである。

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これは遠足ではないが、小学校の前の通りをずっと南に下ったところにある、 何かの医療機関で一年生全員で心電図検査を受けにいった記憶もある。 上半身のあちこちをクリップで挟まれ、くすぐったかった。 心電図の結果がどうだったかは覚えていない。

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いつだったか、体育館で学年全員が歯医者さんから歯磨きの指導をうけた。横に磨いては歯と歯のあいだの食べかすがとれません、縦に動かしましょう、ということだった。これが当時の歯磨きの教えで、今と違っている。

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家庭訪問

2学期だったと思うが、先生の家庭訪問があった。それはよく覚えている。

家庭訪問の前に各生徒の自宅から学校までの道を分かりやすく描いた地図をそれぞれの保護者に描かせたはずだ。母はどう描こうか思案していたが、私はこういう抽象的な図を描くのが得意であったから、このときも私が代わって描いたと思う。

ある日の放課後、先生が校区の地図を広げて、古江台何丁目は何曜日にという計画を生徒に話していたことも思い出す。

家庭訪問当日、私は一度帰宅してから古江台マーケットに出かけたのだと思うが、マーケットのあたりで先生と数人の生徒のグループを見つけてその中に加わった。小学校の先生の家庭訪問には子供たちがついて回るというのが懐かしい光景である。

新聞販売店の並ぶ通りに出ると、自転車を牽いたヤクルトおばさんが挨拶をしてきて、その人は先生としばらく立ち話をした。たぶん生徒の誰かのお母さんだったのだろうと思う。

ところで当時、ヤクルトはスーパーに行ってもなく、家はヤクルトの宅配をうけていなかったから、どんな味のする飲み物なのかこの頃は興味津々であった。

立ち話は済み、いよいよ三丁目の家庭訪問になる。すでに何件かの訪問を終えていた先生は最後の三丁目の坂を上るのがきつそうであった。先生は途中別の生徒の家に寄るからと私を先に帰し、ここでいったん分かれた。

さて社宅に戻って先生を待ったが、なかなか来ない。道に迷われてしまったのだろう。こんなことが幼稚園の宮脇先生の家庭訪問でもあった。幼稚園の先生はまちがってYWCAの前の道に入ってしまったからである。社宅を見つけるのは外部の者には意外に難しいらしい。

しばらく経ってやっと下平先生が来た。社宅の敷地に南門から入れたものの、まちがってそこにあるD37棟を訪ねたのだそうだ。私は地図を上手に描いたつもりだったが、やはり地図のどこかに問題があったのか。

この訪問のときに先生は私が漢字テストで「金メダル」をとったこと、算数の「足して10になる数」がさっと言えるようになれたこと、などを話されたと思う。

私は幼稚園の先生たちからいつも決まって「大人しい子ですね」と言われきたが、それが嫌だった。下平先生の面白いのはそういう評価をまったくしなかったことである。

和凧と雪だるま

母は当時、籐(とう)編みが趣味で、それで果物皿や傘立てなどを作っていた。余った籐が食堂兼居間に散乱していた。

親父がそれで凧を作ろうと言い出し、冬休みは親父と私とで凧作りにはげんだ。

凧が完成し、正月二日、凧を揚げに小学校の校庭に親父と二人で行った。凧糸とそれを巻くリールは古江台マーケットで買っていた。

ところが何度も走って揚げようとしたが、風が足りないのか、少し揚がっては落ちることの繰り返しだった。

結局、諦めて古江台の坂をとぼとぼ歩いて帰ることになった。帰る間じゅう、揚がらない原因はどこにあるのか親父は考えたことをつぶやいていた。

当時の凧というのはまだ和凧である。ゲイラカイトが流行する前で、古江台マーケットの文具店などの店先に展示されている凧は、武者絵の和凧ばかり。そんな時代だった。

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昭和47年(1972年)。

この年、先生から年賀状が届いている。ずっと忘れていたが、20年ほど前に母がそれを保存していると言うのを聞いて驚いた。

志賀高原スキー場から出された絵はがきで、スキーがやっと滑られるようになったが、体中痣だらけになった、古江台に雪が降ったらみんなで雪合戦をしましょう、と書かれてある。

先生は生徒ひとりひとりに年賀状を出していたのだ。

残念ながら古江台で雪合戦をした記憶がない。この年だったか、北千里に雪がつもって社宅の公園で私より年長の小学生たちが雪だるまを作るのを手伝った記憶はあるが、新学期がはじまるころには雪は止んでいた。登校のたびに見ると雪だるまが日増しに小さくなっていくのが寂しかった。

古江台の雪

3学期のある日。一日の授業の終わりに宿題の詩の提出を求められた。私は宿題を覚えておらず、私を含めて宿題をやっていない生徒が数人いて、放課後に教壇の前でひどく叱られた。こんなに怒った先生を見るのは初めてだった。先生は「5時まで学校にいるから、それまでに提出しなさい」と言って教室を去った。

私は「詩」というものを聞くのが初めてだった。隣の生徒に「『し』って何?」と訊ねると、「この前習った、短い文のあれやろ」と答えるので、こちらは「ああ、あれか」でやっと分かる。それにしても「し」とは嫌な響きだなあ、と思った。

自宅まで古江台の坂を登りながら、何を書こうかと考えているうち、日頃から思っていたあることを書くことに決めた。

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これも私の記憶違いかもしれないが、当時の国語の教科書に雪国の「かまくら」と呼ばれる伝統行事が書かれていた。雪で小さなお家を作って、そのなかに子供たち入り、明かりを灯して甘酒をのんだりして楽しむ。その話にたいへん興味をもった。なんて素敵な風景だろう、と。当時の私は雪国への憧れが強かった。ここ大阪ではお家が作れるほど多くの雪が降らないことを恨んだ。

古江台でも粉雪が風に舞う季節である。小さな花びらのような雪が風にくるくる舞って、見ているとズックの靴の上に落ち、すぐに消えてしまう。そのとき、白い雪が一瞬にして溶けて靴の上で染みになる。その空しさ、儚さというものを日頃から感じていた。

社宅に帰って自室にこもり、そのことを稚拙な初めての「し」で書いた。

原稿用紙を鞄にしまって、母には忘れ物を出してくるとは言えないから、古江台マーケットに行ってくると嘘を言って社宅を出た。一日に二度も登校するのは初めてである。

学校に着くと教室に先生はいないので、職員室に行った。これも初めてである。入り口付近にいた誰かの先生に、下平先生はずっと先へ行った奥にいると案内された。行くとデスクに積んだ書類の山の奥で、眼鏡をかけた見たこともない先生が仕事をしている。どうしようか戸惑っていると、その先生は仕事の手を休めることなく、書いてきたものを左端の書類の上に置くよう小声で指示した。私は狐につままれた気分で恐る恐る何かの書類の上に原稿用紙を置いて出て行った。・・・眼鏡をかけたあの先生は下平先生だったのだろうか。教室では眼鏡をかけないから別人に見えたのだろうか。私の宿題はちゃんと受け取ってもらえたのだろうか。・・・不安な気持ちをかかえたまま、またとぼとぼと帰宅した。

それからしばらく経って、母がPTAの役員をやっていたので保護者懇談会とは別に先生と話す機会があるのだが、その「詩」の話をされたらしい。「かわいらしい」詩を書いてきたそうだ。母もそれを読んで面白いと感じていた。私は何よりも怒った先生の顔をほころばすことが出来たのがうれしかった。

まぼろしの「北千里小学校」

5年近く過ごした北千里を去るときが近づいてきた。親父が神戸に分譲予定のマンションを見つけて、来年度からそこに引っ越すことに決めたのだ。

そして40数年後、北千里を訪ねてきた私が、社宅のあった場所の近くに「北千里小学校」の表札をみつけて驚いたのは無理もないことだった。北千里小学校は私たちの去った昭和47年春のちょうど一年後、昭和48年春に開校になったからだ。

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と、ここまで書いてきて、はっと思い当たることがあった。新しい学校が出来るという話、校区が二つに分かれるという話が当時あったことを、40数年の時を経てやっと思い出したのだ。

それは小学校のいつだったかの全校集会で、校長先生が話されたことだった。聞いても校区が分かれるということがよく理解できなかったし、すでに北千里を去ることが決まっていたので、自分に関係のない話だと思って、それ以上その新しい学校のことは考えなかったと思う。

とはいえ、北千里のピーコックへの買い物の行き帰りに、その横を通る空き地がいつのまにやらフェンスで囲われ、中に工事の車が入って、雑草を刈り取り、工事の準備を始めたこと。そこが新しい学校の出来る場所だという話を父が話していたことも、そういえばあった。それを40数年のあいだにすっかり忘れていたのだった。

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北千里の人口増加の余波をうけて1973年に開かれた新校「北千里小学校」は、近時の少子化の波に抗えず、2009年の3月をもって廃校になったそうである。私が見たのは廃校後7年たった北千里小学校跡だったのだ。

北千里小学校は36年続いた。36年は相当な年数である。そのあいだ、そこへ通った生徒たち、先生たちにとっては、それぞれに生きた思い出のある学校であろう。私にはまだ青写真の未来と廃校となった過去をしか知らない、「まぼろし」のような学校である。

ゲンゴロウの跫音

父が引っ越しを決めた理由は分からないが、福岡時代から引っ越し魔といっていいほど何度も転居を繰り返し、一つところに満足することがない。社宅でペットを飼えないことは不満の一つであったようだ。父は犬猫が好きで、とくに大の犬好きであった。

新居のマンションはペットを飼えるという話を誰から聞いたのか、これも分からない。実はそこでも禁止だったという話をずっとあとで聞いた。この点は当時と今とでは意識が異なる。当時はマンションの規約など曖昧な点が多かったと思う。今は色々なトラブルを経験しているだけに細々した規定がどこも多くなっている。

とにかく父は、もちろん他にも理由があるが、新居でペットが飼えると信じて引っ越しを決めてしまったのである。

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我が家では干隈(ほしくま)の一軒家に住んでいたごく短い期間に、コリーを飼っている。写真でコリーと遊ぶ私の写真があるが、私は不思議なことにこの犬のことをまったく覚えていない。そのコリー犬はわが家に懐かず、二度ほど家出を企て、二度目はついに帰ってこなかったそうだ。

私の知っている犬といえば、あのピーコックからの帰りに追いかけられた野良は別として、帰省中に出会う親戚の飼い犬だけである。

3月頃、今度の新居に来る犬の種類までが分かった。血統書付きのテリア犬だ。父の会社の同僚か誰かがそのテリア犬のブリーダーになっていて、仔犬が生まれたら譲ってもらえるのだという。

早速、犬の写真集を書店で買って来て、その犬種の写真を見た。真っ黒な犬だった。

平日の午後、母と姉と私の三人で食卓を囲んで、今度くる犬の名前を考えようということになった。母も姉もテリア犬らしい名前を思いついては口に出して議論する。私は真っ黒な犬だから一も二もなく

ゲンゴロウ

がいいと主張したが、これはもう完全に聞き流されてしまった。

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私がゲンゴロウにこだわったのは、当時夢中になって読んでいた昆虫漫画にそのゲンゴロウが描かれていたからである。

その昆虫漫画はたしか古江台マーケットの書店で買っている。作者も題名も忘れてしまったが、昆虫に興味をもつ少年と擬人化された昆虫が生き生きと描かれてあった・・・ノミはその体長の150倍の高さまでジャンプできる。人間なら富士山頂まで10数回で到達だ。そんなことが書かれてあった。それからナナフシの擬態、米びつに潜むゾウムシ、毒蛾など見たことのない昆虫が紹介されている。水に棲むゲンゴロウもその漫画に描かれていたのである。どういう描き方かは忘れてしまったが、おそらくカッコいい印象を私はもったのだろうと思う。

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結局、今度くる犬は母の言った名前がいいというのでそれが採用されたのだが、私は今思い出しても悔しいので、ここでは「ゲンゴロウ」という仮名でその犬を呼ぶことにする。

ゲンゴロウは神戸に来てしばらくした頃、やってくるのだが、北千里の社宅ですでにゲンゴロウの跫音は聞こえている。

古江台マーケット

古江台3丁目の坂を下ると新聞販売店の立ち並ぶ道があり、いつもそこを通って学校に行くが、新聞販売店のちょうど裏に古江台マーケットがある。

45年の間に、そのマーケットの場所をすっかり忘れてしまっていた。私の記憶では新聞販売店の道沿い、ちょうど小学校の敷地の筋向かいにマーケットがあるのだった。とんでもなく間違った記憶である。いつのまにか記憶が変質してしまったらしい。実は新聞販売店の存在もすっかり忘れてしまっていた。だから新聞販売店を見たときに「既視感」というのか、かすかに懐かしいような感じがした。

古江台マーケットの方はずいぶん変わってしまったと思う。昔は文房具と玩具を売る店があったはずだが、今はない。他にたくさん店があったが、昔の風景をすっかり忘れてしまっているし、今のマーケットには当時の面影がない。

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たぶんその店でだと思うが、よく跳ねるという「スーパーボール」を買ったことがある。ピンポン球ほどの小さなゴムボールで赤や青の複雑な模様が描かれている。社宅に持って帰って床に落とすと、たしかにものすごくよく跳ねるので驚いた。

しかし社宅の公園でボールを滑り台の上から滑らせるという愚かなことをしてしまった。ボールは意外にも砂場でもよく跳ね、そこを飛び出し、社宅の坂を加速しながら下った。追っても追っても追いつかない。後を追う私を嘲笑うかのように、ボールはさらに南門の下をくぐって外に飛び出し、側溝に入って坂を下ってしまった。側溝の蓋の下のどこかに引っかかったのか、それとも勢いで坂をさらに下ったのか。私は3丁目の坂をずっと下ったところまで探したが、結局見つからなかった。

終業式

終業式の日のことはよく覚えている。

私たち一年6組はそのまま二年6組に持ちあがるのだが、担任の先生は変わるのだった。 その先生の名前は覚えていない。

最後に、転校していく生徒が紹介され、 黒板の前へ出るように言われた。 私ともう一人、背の高い女の子がいた。

下平先生はそれぞれの転校先を黒板に書いてくれた。 もう一人の子は同じ千里ニュータウンのどこかの小学校。 私は神戸市立本山第二小学校。

神戸は北千里からは遠い所という印象だが、先生は「そんなに遠くはない」と言った。 実際、電車で一時間もあれば行ける距離だから遠くはないが、結果として遠い所に行ってしまったことになる。

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それから先生は、残った生徒たち全員を教室の窓際に移動させ、一人一人前に出て、転校する二人と握手してお別れの挨拶をするように言った。

一年間同じクラスにいたのに話したこともない生徒がほとんどだったが、 このとき笑顔で対面してくれる子もいて驚いた。 最後に先生と握手し、また転校する生徒同士が握手して、終業式は終わった。

さようなら北千里

小学校の終業式から引っ越しまで一週間ほどあった。その間、両親は荷造りやら住民票の異動その他の事務処理やらで忙しかったと思うが、子供たちは気楽なものである。私は普段通りにレゴで遊んだり、古江台マーケットで文具を物色したりしていただろうか。・・・当時、黄色い丸のなかに点々の目と折れ曲がった線の口で笑顔を表した「スマイル」マークの商品が流行していた。古江台でスマイルのワッペンや下敷きを買ったと思う。私のこのスマイル集めの趣味は神戸・岡本時代へと続く。

引っ越し当日(土曜か日曜だったと思う)は、玩具も文具もすべて引っ越しの荷物の箱に入ってしまっているから、することがなかった。午前をどう過ごしたか憶えていない。調理器具もないからお午は家族全員、北千里のうどん屋さん「水車」に行った。千里中央が出来てから休日は千里中央に出かけることが多く、北千里駅前ロータリーに足を運ぶ機会がほとんどなくなっていた。だから本当に久しぶりの「水車」だった。出来上がるのを待つ間、私は差し向かいのテーブルに座る見知らぬ家族の様子を見ていた。二歳くらいの幼児を相手に祖父らしき人が、右手の人差し指と中指を人の両脚に見立てて人形芝居をしている。道化の「人形」の滑稽な動きを見て幼児はケラケラ笑い転げている。

今思えば、私が北千里に来たのもこの幼児とほとんど変わらぬ年頃であった。あれから5年、私は大きくなり、孫を相手にした祖父の即興の芝居を見ても、どこか白けた気分になる。

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社宅に帰ってまだ時間があるので、友達と自転車に乗って遊ぶことにした。いつものようにD35号棟の角を曲がって公園の横を通る。このときは私ひとりだった。最後の日に社宅の全貌を見ておこうと思ったのであろう。D36号棟の横を通り過ぎ、いつも行かない下のD37号棟の前まで自転車で行こうと思った。・・・急坂を下りブレーキをかける。

変だぞ

このとき異変に気付いたが、どうすることもできなかった。私の乗った自転車は、あれよあれよという間に勢いよく坂を駆け下り、D37号棟に激突してしまったのだ。その勢いで私も建物にぶつかった。

顔にボールが当たったり、顔を平手でぶたれたときに感じる、異様なきな臭さをそのときも感じた。意識はある。私がぶつかったのは幸い、棟の外にある配水管だった。それが緩衝材の役割を果たしたのだろう。コンクリートの外壁に直に当たらずに済んだのが幸いだった。

近くにいた年長の女の子二人が「大丈夫?」と声をかけながら駆け寄ってくる。私は当時のドラマの台詞によくある(これしきのことで負けるものか)と心のなかで呟いて必死に平静を繕い、自力で自転車を押して坂を上がっていったが、女の子たちは大人たちを呼びに行った。

衝突の原因は前ブレーキの故障であった。このとき何故、後ブレーキをかけなかったのか不思議である。思い起こせば当時の私は右手で前ブレーキをかける動作ばかりに慣れて、左手を使うことがなかった。だから咄嗟のときに左ブレーキをかけられなかったのである。まったくドジな奴である。

3階の自宅にたどり着いた。私の身を心配してくれた年長の女の子たちとはそれでお別れである。自宅に着いたが生憎、医薬品は引っ越しの荷物の箱の中なので、母はどうすることもできない。だから前日か当日、お別れの挨拶に行ったばかりの隣の和田さんにまた頼ることになった。和田さんには最後までお世話になり通しだった。和田さん宅のソファに座って、何かの薬を塗ってもらい、その上からガーゼと油紙を貼ってもらったが、その頃には内部から来る傷みが強くなり出していた。

これだけの怪我をしていれば普通なら外科に行く所だが、引っ越し当日のドタバタで外科どころではない。とりあえず応急処置をして外科は引っ越し先で行くということになった。

ようやく引っ越し業者が来て、家具・荷物が運ばれていく。故障した自転車もそのまま運ばれた。怪我人の私は横になりながら部屋が閑散としていくのを眺めていた。カーペットを敷く前、うっすらと赤い何かの模様が描かれたタイルの床。4年半年前、ここに来たばかりの時がこうだった。

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やがて部屋は空になり、私たちもそこを立つ時がきた。父は引っ越しのトラックに同乗し、先に引っ越し先に向かっていた。母と子供たち二人はタクシーに乗って後から向かう。タクシーは社宅の敷地の中まで来てくれた。それに乗り込み、見送りの人たちに中から手を振った。あの人、この人・・・長く一緒だった私と姉の友達の顔を見るのもこれが最後になるのだ。さようなら、さようなら・・・悲しみと個人的な傷の苦しみの拮抗する重苦しい気分を抱え、私は半ば機械的に手を振った。

さようなら北千里。4年半年を過ごした北千里を後に、私たち家族を乗せたタクシーは西国街道を下っていった。

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「プラモデルの時代」(神戸に来てからのこと)に続く