No.5 芝生の庭

小倉 寛

オラは、越後・久兵衛の庭の庭に棲むモグラのオラだが、ジサマは先代と交わした約束を果たすため、約20年の歳月を暮らした住み馴れた大阪の街に別れを告げ、生れ在所の新潟に転居して来た。この家は、先代が永い年月をある事情から空家にしていた、人の住まない家は損傷が激しく進むもので、童の唄う「故郷の廃家」♪幾年故郷、来てみれば、咲く花、鳴く鳥、そよぐ風、そのあとに続く歌詞そのもの……、屋敷は背丈を超える雑草で、狸や狢、イタチが棲みつき、オラ達の先祖が主食のミミズを求めて少し土を動かすと、忽ち奴等に察知され、オラの先祖は、恐ろしい悲しい苦難の時代が連綿と続いていた。

ジサマが、庭造りを始める前に先ず、家の改築と、新築というハプニングがあったが、それを語るとオラがタイムオーバーになるから、短縮しクリックカットして語る。先祖が植えた樹齢100年を超える杉の銘木を伐採、3年の歳月をかけ、見事に復元する大仕事があった。その後に始めた庭造りは、先ず雑草退治が先決、池を作れば多くの残土が出る。その残土を雑草の上に覆えば一石二鳥に退治できると、3ケ所に池を造った。それで雑草の大半は退治され、オラ達モグラ族の天敵の狸やイタチは忽ちホームレスになり、一キロ先の山に遁走、ジサマのお陰でオラ達にも、漸く安穏平和の日々が訪れた。

最初の庭は、ジサマの人生に深い係わりあった芝生の庭であった。ジサマの現役時代は商社マンだったそうで、40歳の厄年が過ぎると、連日、不健康な夜の飲食接待が厭わしくなり、もっぱら昼間の接待ゴルフに切り替えることに努めたという。会社所有の法人会員のゴルフコースもあったそうだが、ゴルファは贅沢なもので、いつも同じコースのプレーは歓迎されない。趣味と実益を兼ねて、いつしかジサマも、4ケ所のゴルフ場の個人会員になっていた。

土日は、専らプライベートでコース通いを続けた。土日は混雑して、スタート時間が遅れることが多く、待ち時間にグリーンキーパーの仕事振りを眺めたり、親しく会話を交わしたりで、プロの芝生の管理ノーハウを学んだという。

こと芝生に関しては、いつしか専門技術・知識を習得したジサマは、芝生の庭を作るノーハウは確かなものであった。

ゴルフ場で一番工事費のかさむところは、グリーンで、例えば、雨の中で球を打ち、回転する球が水しぶきをあげながら転がるような排水の悪いグリーンでプレーをさせるゴルフ場は、最低の三流コースであるという。

考えて見ると、ゴルフ場は、三粍カットしたグリーン上に、スパイクシューズを履いたゴルフアーが、毎日3~400人もワシワシと歩き回る。それでもゴルフ場の芝生が緑を失わず、生きているのが不思議だとジサマはいう。

ゴルフ場のグリーンの面積は平均300坪程になる。グリーンの造成費は、坪当り最低10万円以上掛るというから、グリーン一つに3千万円以上の費用になる。

つまり、コースは18ホールだから、グリーンだけでも5億4千万円以上の資金が要る。テーグランドからグリーンに至る間をフェアウエーというが、短く刈った高麗芝のエリヤで、その外周は長く伸ばした野芝でラフという。その外側は松林などでセパレートする。各ホールごとにバンカーを平均5・6ケ所は設ける。コースには風致目的の池を4ケ所は構築する。クラブハウス、駐車場、送迎バス、電動カー、キャデーカート等々、更にアクセス進入路、土地代、等々を合算すると、概算建設費は最低でも50億円~70億円になる……。

ジサマに聞いた話であるが、兵庫県が日本一ゴルフ場の多い県と云われ、伊丹空港から新潟行きの飛行機に乗ると、神戸から日本海に出て飛ぶが、130を数えるゴルフ場が、山肌を削って造られ、ゴルフ銀座と言われる数のゴルフ場が眼下に展開する。

首都圏のゴルフ場ガイドを開いて見ると、茨城80、栃木70、千葉100、神奈川60 静岡90 群馬50 長野30とゴルフ場が造られている。

雪の多い新潟が最もゴルフ場が少ない。新潟にもっとゴルフ場を造っても良いではないか?と、ジサマは、ある大手建設会社からコースを造成する基本資料を入手、一年余も密かに土蔵に篭って、プロも舌を巻く本格的なゴルフ場の建設企画書を完成した。幸いこの企画書が1千万円で買手がつき、開発するオーナーも決まり、地上げの責任者にジサマが抜擢され、地上げの成功報酬は一億円という契約が纏まり、夢は大きく膨らんだが、その後、計画地が地滑り地帯で、開発認可不調となり、一画千金の夢は儚く消えた。

……話が脱線したが、芝庭造りの話に戻る…先ず地盤に傾斜をつけて整地する、地盤の排水効率を良くするため集水管にカンレイシャを巻き配管、集水マスに導き、次に平均15㎝の厚みに、川砂を入れ、培養土を鋤き込み、芝生を貼る。続いて陸屋根14坪の車庫屋上にも15㎝の厚みに川砂を運び揚げ、芝生を貼る。……ジサマの造った芝庭は、ミニ・ショートのゴルフ場を造ろうというのが目的であった。車庫屋上はアウト一番の打ち下ろしのティーグランド、眼下は育成中のブナ林越え、33ヤードのパー3。アウトの2番は、車庫横からグリーンを狙う、3番はハザートの池越えになる。エ・ト・セ・ト・ラ……完成した約400坪の芝庭は、18ホール493ヤード、パー46の超ミニ・ショート・コースのゴルフ場であった。グリーンはアウトとインの二つで、カップは球がカップインすると快い反響音を発する本物で、カップに立てるフラックポールも本物で、昵懇の後楽園石打カントリーの支配人から二組、譲って貰った。スコアカードも千枚印刷した。各ティーショットの位置には、焼き板にホール№を書き、支柱に取り付けた。完成後、暫く芝生の養生の後、日頃親しいゴルフ仲間を招いてオープン記念コンペを開催。コースサイトには、バサマが茶店を開いた。冷やしたビールや茄子の一夜漬けが好評。競技ルールは、ハンデなしのスクラッチルール、最初のラウンドは練習ラウンドにして、そのあと2ラウンドのコンペであった。

手の5番と足の8番は、ローカルルールの採用で、3ペナルテーとした。競技に使用クラブは、ピッチングとパターの二本である。

大会の結果は、オーナーのジサマが、日頃の本コースのペットの負けを取り戻し、さらに、サービス茶屋のビール代を上回るベスト・スコアで優勝、初代のクラチヤンになった。オーナーの特権である事前のコース攻略の研究の成果であった。スコアカードも諸賢に披露したいが、いまはこのコースは杉苔の庭に変貌したので当時の面影は消えている。次号に続く

注、月刊キャレル 2009年5月号に掲載の記事を一部補足し転載いたしました。

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