No.6 杉苔の庭

小倉 寛

今回も過ぎ去りし昔話になりますが、久兵衛どんの庭の中央位置に、以前は年貢米を収納した3・6の蔵(さぶろく)つまり3間×6間、2階建の米蔵があった。その蔵は、ジサマの先代が往年の全盛期時代に、大小2つの蔵を分家の房吉に譲り、新たに6年の歳月をかけて造った。先代はこの蔵の建設記録を克明に書き残している。当時の先代が書いた年貢米取立帳には、約750俵の年貢米が蔵に収納されていた記録が残る時代であった。栄枯盛衰は世の倣い(ならい)戦後の農地開放に加えて、今のジサマの代になると、最早ネズミの喰う米も入らぬ無用の蔵に変わっていた。往年の久兵衛家を偲ぶ遺物として、虚栄を満たす存在に価値を求めるなら別だが、甲斐性のないジサマには厄介物であった。幸い著名の豪農の館「龍言」の支配人が噂を聞いて訪れ、譲って欲しいという。

解体して天地人の直江兼続、幼名、樋口小六の生誕地、坂戸山の山麓に運び、見事に復元、今はジサマとは、凡そ身分も境遇も異なる、懐の温かい人々の旅情を癒す龍言のメーン施設に納まり、観光資源の1翼を担っている。

蔵が消えた跡地には、幅1尺2寸の御影石の見事な布基礎が残っていた。これを庭のアプローチ園路に活用、中の土を掘り揚げ、モネのスイレン、弥生時代の地層から出土したハスの種を発芽させた、悠久のロマン「大賀ハス」の咲く池を造る計画を立て、土質を調べると、拳大の砂礫土で庭土には不適の土であった。

宅地外に搬出するには、多くの人力と費用が掛る。この残土を池内に盛り上げ、島を造る。島の土留めに焼き杭を打ち、杉苔を貼った。工事費は池底に打設した生コン代金と打設の手間代だけで済んだ。

この池の島を「ヒョッコリ瓢箪島」と命名。御影石の園路は、誰も気付かないようだが、これを新たに造るとしたら、法外な費用が掛かる代物で、杉苔を貼った緑の瓢箪島は、土留の焼き杭に程よく調和し、水は8の字の弧を画いて流れる。久兵衛家の庭のステータスなシンボルゾーンになった。

この池の工事が終わると、ジサマは、ひたすら丹精込めて管理していた芝庭の芝生に鍬を振り、めくり始めた。オラ、ビックラ驚天、親譲りの蔵を壊した祟りで、ジサマの気が狂ったのでは?と一瞬思ったが、訪れた客人と交わす会話を聞いて、ジサマの魂胆が読め、ひと安心した。

芝生の管理には、撒水、芝刈り、施肥、消毒、雑草抜き、芽土入れ、エトセトラ、芝生ほど手数の掛かる植物はない。というのだ。だから今度は、手数のいらない杉苔の庭に切り替えるという。しかも苔の雑草は、除草剤の撒布で済む。

蔵を解体する直前まで、ゴルフ仲間が訪れ、談笑しながらプレーを楽しんでいたのに……突然、苔庭に衣替えるというジサマは、永い年月、人知れず考え抜いた、挙句の行動であった。そのとき歴史は動いたと、オラ思った。

芝生をめくる作業を数日、ジサマは汗を流した。めくった芝生を裏返して、天日に当て乾燥する。こんどは特大の餅搗き杵を持ち出し、どすんドスンと乾いた芝生を搗き始めた。芝生の根に絡んだ土を、落とそうという魂胆だが、ジサマが杵を振り下ろす度に、オラのねぐらに響く、昼寝の夢を破られ、頭にきたが、考えると、年貢も納めず勝手に棲み付いる手前、辛抱することにした。

早朝から日没まで、アフガンの空爆モドキが数日続いた。やがてこの戦闘も終る。土を震い落とした芝生は膨大な量になったが、天日に当て乾燥すると、忽ち干草のように軽くなり、アケビやツバキの根元に、マルチに敷いて最後は土に還した。

やがて10頓ダンプが運んでくる山土を、1輪車で運び始めた。杉苔の床つくり作業である。シルバー人材センターから4人も応援を求め10日間も続けた、大工事であった。

この作業の中、ジサマは1ヶ所山土を盛り上げて、佐渡ケ島の形に整形する、島が出来たら杉苔を貼る段取りになる。島の周囲は一段深く掘り下げ、水抜き排水用の集水管を配管。そして砂利業者が運んだビリで島の周囲を埋める。

注、「ビリ」とは、採石業者が、砂利を振って砂をとり、砂を振ってビリをとる。最後に振い分けた製品を豆砂利ともいうが、またの名をビリともいう。

脱線したが、クリックして反転、日本海の荒波に浮かぶロマンの孤島、佐渡ケ島を庭に再現するという、ジサマの非凡な遊び心、豊かな感性の発露であるとオラ思った。

砂に砂紋を描くには、鋸刃のような道具を使えば、波は簡単に描ける、と、誰しも思うが、ドッコイ!波の深さに対応した砂を手前に運んでしまう。その引き寄せた砂を元の位置に戻さないと、終点に砂が偏り、美しい砂紋の波は望めない。ジサマは、大阪時代に足繁く通った京都の龍安寺で、滅多に見れない雲水が、作務修行の一環に砂紋を描く場面に遭遇したことがあった。

そのときは後年、よもや己が砂紋を描く庭を造る立場が訪れるとは、夢々想定外であった。雲水が手にする道具に目線が及ばず、千載一隅のチャンスを失ったと、ジサマはしきりに悔やんでいた。されど殿!、ご安心召され、ジサマは思考錯誤の末、砂紋を描く会心の新兵器を考案した。その用具は、東京特許許可局には、申請していないが、特許を得て一山当てようと目論む御仁がいたら、ロハで権利を譲ってもよい。特許申請の手続き方法も教えてやるとジサマは言っている。

本来この砂紋の海は、京都産の白河砂が欲しいところだが、通称ビリという豆砂利を代用に供したが、砂紋を描くと素朴な味わいを醸し出す。

……瞼を閉じ瞑想すると、一世を風靡した寿々木米若師の♪佐渡へ佐渡へと、草木も靡く、佐渡情話が聞こえて来る。……こともあろうに、この砂紋の海を野良猫が公衆トイレと間違って、時々マナー破りをする。考えてみると、奴等にとっても風光明美な佐渡ヶ島を眺めながら用を足す気分は、格別な心の安らぎと憩いの場所になっているのであろう。次号に続く

注、月刊キャレル 2009年6月号に掲載の記事を一部補足し転載いたしました。

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