No.4 田舎の風習

小倉 寛

今年、月刊キャレルの新年号に、知っておきたい「和」のしきたり。の特集記事が掲載され、多くの方々が、さぞ楽しく読んだことであろう。と、ジサマが云っていた。

この和のしきたりの記事には程遠いが、ジサマが昔、庭で老妻と交わした会話が甦ったので、今日はその寝言からはじめる。

オープンガーデン・新潟のホームページや、ガイドブックには、なぜか?昔の屋号で会員庭を紹介してる。が、多くの方々はそれを見て、なんとオープンガーデンになじまないダサイ呼称?と、お感じになっているお方も多分いらしゃると思っているが?、ジサマが、久兵衛どんの庭とか、美佐島・隠居の庭とか?……ことさら昔の古めかしい屋号で紹介している理由を説明せねばならない。

なかでも隠居という屋号の家があり、屋号の由来として珍しい、ところがあるので、紙面を割いて紹介することにする。美佐島の集落には戸田という姓を名乗る家が多い。その中で隠居という家はその昔、家の長男が突然、次男に家を継がせて、俺は隠居すると言って、別に家を建て暮らしたところから、隠居と呼ばれる屋号になった。ところが隠居という形で出家した長男は、本家の財産資産の中で、一番価値のある収穫の多い田畑や、通年枯れることのない水温13度の清水が昏々と湧き出る貴重な池は、 (当時水道の無い時代は生活用水は、すべて流れる川の水を汲んで暮らした時代であった。)最高な価値ある財産であった。その屋敷に、新居を建て暮らしたので、隠居の家号は当初から、名実ともに本家を凌ぐ、豊な生活を維持し、村内でも重達衆(おもだちしゅう)の地位にあった。いうならば、近燐、羨望の資産のある家であったという。

ジサマが、初めて訪ねる前に、屋号が隠居と聞いて、訪ねたが、驚いたことには、玄関の正面の柱に、普通の表札の4倍もある大きな表札に「隠居」と、見事な浮き出し文字で彫刻した、立派な表札が、誇らしく掲載されていた。現在の御当主が、胸を覇って造って掲げた表札であることが判った。

このようにジサマの住む集落の家々にも、昔から呼ばれていた屋号のある家が多い。中には屋号のない家もあるが、それは五指に満たない僅かの数であり、屋号のない家は近年、他村から移住してきた家などが、苗字で呼ばれている場合が多い。

中には移住する前に住んでいた地名&集落名で呼ばれている内に、いつしかそれが馴染んで屋号になった家もある。例えば、妻有(十日町市)の赤倉から移住した家を赤倉と呼び、東京からUターンした家を、東京五郎兵衛というが如しです。

ジサマが約30年振りに生まれ育った郷里、久兵衛家にUターンした直後の話に遡る。近所の家に葬儀があり、その葬儀の行事が終わった後、恒例の御大儀の宴席が開かれた。(注、御大儀とは葬儀執行の裏方として協力した世話役達をねぎらう行事)

勿論、そのときの葬儀の家の姓は、ジサマと同じ小倉であった。慣例ではその宴席の席順は、葬儀の役割によって席順が決まる慣わしがある。各々の席順は、飯方、汁方、けんちん汁方、なます方、引出物係、座配役、等々……、座配役は、各々の家の格式や身分にこだわらず、この役割の順位に従い名札を書いて膳席に置く、特に決まった役割りのない人達は、予め施主の意向を伺って名札の順位を決める通例がある。何故か?そのときはその名札が準備していなかった。必然、客人は夫々勝手に下座から順に席に着いていた。したがって、上座の席は誰もが遠慮して席につく者がいない、上座にづらっと空席ができていた。

それを見た座配役の小倉さんが、ジサマこと小倉さんに、お前さんが、こんな下座に座っていては、他の人が困るから上座の方にどうぞ、と、座配役の小倉さんが、ジサマこと小倉さんの手を取らんばかりに促して上座の席に座らせた。次の下座に座っていた同姓の小倉さんのところに座配役の小倉さんが戻って、「小倉さん、お前さんもこの席に居たら後の人が困るから、上座の小倉さんの方へどうぞ」と促し、小倉さんが次々に小倉さんを誘導して、上座の空席に座らせた。なにしろ、お客の過半数が、小倉の姓を名乗る客だから、笑い話にもならないヘンテコな情景が、しばらく展開した。

「屋号で呼ぶことは封建的な因習だ」と姓で呼び合う申し合わせをしたらしいから……ようやく全員が席につき宴会が始まると今度は、隣の席の小倉さんがジサマこと小倉さんに、まあー小倉さん盃を干してください、と、お酒を注ぎにくる…、

ジサマの住む集落は60戸程だが、小倉の姓を名乗る家は25戸ほどあり、遡れば全部縁戚続きの関係になる。葬儀ともなれば、当然、小倉の姓を名乗る人が、多く集まる。ジサマの若い頃は姓で呼び合うことなど絶対なかった。若い衆が集まっても、必ずお互いが屋号で呼び合っていた。小学生の頃でも屋号で呼ばれる者もいたくらいに多く使われていた。

考えると、屋号で呼び合うことを封建的な因習だとすると、反って公序良俗に反することになる。ジサマは帰宅してから、この情景をバサマに語り「自今、我が家では集落の人に電話するときは必ず「久兵衛ですが」と屋号を名乗ることに申し合せをした。

屋号は本家から分家、独立したときの先祖の名前が屋号になったものと思うが、本家から分家に出ると先ず本家の屋号の下に新宅を着けて呼ぶ慣わしがある。例えば久兵衛新宅と呼ぶのです。そして人々は、いつしか略して「久新」と呼ぶようにもなる。近年、この「久新」が分家を出したら「久新・新宅」と呼んでいる。

もっぱら解らないのは、同じ本家から出た分家でも、本家と異なる屋号で呼ばれる家もある。〇〇新宅と呼ばれていた筈の家が何時から、どうして?本家とは別の屋号に変わったのか、そのルーツを知る人はいない。つらつら考えると、本家より身上を上げたとか、出稼ぎで金を貯め本家の援助なしで田畑を購い家を造り分家に出たからだろうか?……そんなことも想像できる。そこまで詮索しなくてもいいが、……、

ジサマはいう、屋号のある家は、それなりに歴史のある名誉な家の呼称であって、誇るに足る呼称であるという。これを封建的因習の呼び名だと排除する考えは、集落の永年培った由緒ある歴史を否定し、得られるメリットは一つもない、と、十数年前、久兵衛のジサマは、集落の区長に進言した思い出ある。そのためか如何かは定かではないが、いま集落内では、屋号で呼び合う慣習が完全に復活している。

十数年前に、屋号名を入れた電話一覧表を印刷して、全戸に配布して屋号復活を啓蒙するほど、意識変革されている。

屋号の下に「どん」をつけて呼ぶ慣わしは、九州にもあるが、殿が訛ってドンとなったものと推測されるので、「さん」と付けて呼ぶより、「ドン」の方が格が上になる敬称と、ジサマは捉えているようだ。

郷に入ったら郷に従え、集落に入って「小倉さんの家は何処?ですか、」と尋ねるより、久兵衛どんと屋号で尋ねた方が、確実な尋ね方になる。オープンガーデン・新潟のホームページで公開庭の紹介を、屋号で紹介した理由もここにあるのです。次号に続く

注、月刊キャレル 2009年4月号掲載された記事の一部補足し転載いたしました。

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