No.3 ジサマの愛するつばき

小倉 寛

ジサマがこよなく愛している、つばき!、椿!、そしてツバキ!、ツバキの古典名花、と新品種を集めて庭に植えた。数えると約三百品種になるそうだが、何故?ジサマが、これほどツバキに拘り、コレクションしたのか?、オラ、日頃その訳を知りたいと思っていた。ある日、咲いたツバキを目当てに訪れた客人が、オラの思っていたことゝ同じ質問をジサマにした。それを聞いて漸く、ジサマがツバキに執着する理由を知ることができた。

それには、ある女性が深く係わっているという。そのお方は、いまは幽界に旅立して、在世の人ではないが、知る人ぞ知る安達?子という。今日はその寝言から始める。

安達?子は1936年に安達式挿花の家元・安達潮花氏の愛娘として、東京都に生まれた。安達?子の「?」の文字は、瞳(ひとみ)ではなく、日偏に童と書き、トウと読む。パソコンではIMEパットのマウスで手書きして漢字を呼び出し、単語登録しないと使えない文字だと、ジサマはいう。

尊父、潮花は広大な屋敷に、古今の名花1000品種に及ぶとも言われる椿を蒐集して、椿コレクションでも、有名な感性の豊かな文化人であった。これに対して?子は、「私は桜を挿したい」と父に反逆、晩年の潮花は、?子に裏切られ、失意の中で天界に旅立った。ときに?子は33歳であった。?子は生来の才能を発揮し、尊父に勝る独自の新風を開拓、そして「50歳にして悟る」といって潮花が残した安達式挿花も、自分の花芸安達流に取り入れ、英語フランス語に優れた才能を活かし、広く海外にも進出、多くの友人知人に恵まれていた。

そして?子は、絶えず世界のマスコミに、次々と素晴らしい話題を提供することでも、有名であった。この様な優れた日本女性が、存在していたことを、ジサマは、胸を張って誇りに思っていた。

ジサマは己の歳を忘れて、足達?子の追っかけフアンの一人であった。その後、安達?子は57歳のとき、日本ツバキ協会の六代目・会長に就任したというニユースを聞き、ジサマも、われ遅れてならぬ、と、日本ツバキ協会に入会し、会員になった。2006年3月10日、安達?子は、急性肝不全の病魔に侵され、享年70歳で、花の生涯に幕を降ろした。それから早くも8年の星霜が過ぎたが、久兵衛どんの、庭のツバキは、年輪を重ねる毎にシンボルフラワーとして、早春の庭に、晩秋の庭に主役になって登場して、他に類例のない、独創的なオープンガーデンとして、多くの訪れたゲストに、ツバキの切花を惜しげもなく切って進呈している。

ツバキは他の花々と異なり、大量の切花ができる花木だからだと、ジサマは云う。時には観光バスで訪れるゲストもいるが、全員に記念の御土産に無料で進呈している。

ツバキにはヤブツバキと雪ツバキの2種類があり、北限は青森の下北半島にも自生している。徳川時代の話になるが、肥後の細川藩主、加賀百万石の前田藩主などの外様大名は、幕府が放った隠密の目を晦ます深謀熟慮の秘策から、家臣に茶道・華道や能の道を奨励した。下級武士は、殿の意を汲み、競って椿の新花を作出に努め多くの名花を後世に伝えている。

越後の国でも長岡藩主の牧野公は、愛椿の「初刈」があると聞いたので、この品種も安田の椿華園から取り寄せて庭に植えた。と、ジサマは語っていた。

今日では、ツバキの本家である日本よりも、欧州や米国の上流階層に広く珍重され、育種も盛んで、今では品種数は日本より外国のほうが多いという。

特に米国の南部は、気候が温暖で昔からツバキの栽培が盛んであった。軍資金が尽き、南北戦争に敗れた南部の街で、その年に発行された園芸店のカタログには、日本の一重咲き赤色ツバキ苗が1本1ドル、八重咲き紅白混じりのツバキが1本10ドル、と掲載されているという記録が残っているという。当時は1ドル金貨5枚で家が建つと言われた時代の貨幣価値から想定すると、日本人の常識を遥かに超えた、高価な椿の存在であったことが推察される。

そして今日の南部サクラメント市では、シンボルフラワーのツバキを、市民が競って栽培して、椿の咲くシーズンには、盛大なツバキフェスティバルが開かれ、観光客が毎年200万人も押し寄せるというから、桁違いの涎のでる話である。そして欧米人は、日本人にない豊かな感性があるといえる。春のツバキを例えていうと、新緑に輝やく季節は、照葉の魅力も高く評価されている…とジサマは口惜しそうに呟いていた。

新潟県のシンボルツリーは雪ツバキであことを、どれほどの県人が知っているでしょうか?。加茂市、上越市を筆頭に、10の市町村がツバキをシンボルツリーにしているが、ツバキフェスティバル開催の話は、加茂市以外に聞いたことがない?、…そして県内には、日本ツバキ協会の会員が35名もいるが、しかもその方々は、ジサマとは、桁違いのツバキ栽培の大先輩達であるだけに、オープンガーデン・新潟に参加してホスピタリティを発揮して頂ければ、新潟県のツバキ事情も一変すると思うが、ジサマの呼びかけに応じる気配は、サラサラない。これも控え目を尊ぶ越後人の習性であろうか?と、ジサマはもどかしさを嘆いている。

新潟で生まれ、作出された椿の新品種に、越の麗人、あやとり、津川絞り、日本髪、白鳥、炉開き等々、いまでは雪椿系の二百品種を超す名花が、全国の椿マニアの庭に、広く普及し、愛培されている実情であるという。

雪椿の原種は、花が終わっても花柄が落ちない欠点がある、が、ヤブ椿は開花して、未だ見頃と思えるときに、ボタリと落ちて地面を飾る、世界のツバキマニアは、この情景にたまらない魅力を覚えるものだが、元祖の日本では、椿は罪人が首を切られように落ちる花だから、縁起の悪い花木だから、庭に植えると家の後継ぎが亡くなる?という年寄りがいた。

まったく、ひどい迷信であるが、そういえば、桜の花も僅か三日で桜吹雪で散るが、武士(もののふ)の鑑として語り継がれている。

枝に鋭い棘を持つバラと異なり、病虫害の被害も少なく、栽培が容易で、豪雪に耐え、しかも多様の花型がある。例えば一重咲き種には筒咲き、ラッパ咲き、猪口咲き、盃状咲き、抱え咲き、梅芯咲き等があり、八重咲き種と千重咲き種の椿には、八重・牡丹・蓮華咲きなど複合的な花がある。唐子咲きは蕊が弁化し集まり、特殊な花型で、代表する花に「ト伴」ボクハンと呼ばれる古典名花がある。この花を初めて見るゲストのレデーは、身を震わせて感激していた。

日本人は小輪の侘助系ツバキを好むが、欧米人は大輪の花を好み、今ではダリヤの花を超す大輪種の花も数多く作出され、いまは日本に里帰りしているツバキ事情がある。

ひばりの再来と騒がれて歌手になった小林幸子は、ヒット曲に恵まれず永い年月を前座歌手の苦労に耐え忍び、おもいで酒のミラクルヒットで、宿願の紅白に出場、以来スター街道を歩み、さらには雪椿で大ヒットを飛ばし、カラオケ18番として愛唱するオバ様達が、県内にゴマンといらっしゃるが、アタイの庭にも雪椿を植えよう、とアクションを起こす、オバ様達が現れないのが悔しい、とジサマは嘆いている。

ジサマが庭に植えた約300品種の椿コレクションは、ジサマの人生を語る、多くの秘められた歴史がある。いずれかの機会にそれを紹介したいと思う。次号につづく

注、月刊キャレル 2009年3月号に掲載の記事を一部補足し転載いたしました。

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