「――君……り…君…」



 遠く向こうから微かに聴こえる声。
 何もかもが真っ白な世界の中で、途切れ途切れに聴こえるその声は、小さな鈴を鳴らしたように可愛らしく、それでいて綺麗な音色で、何故だかひどく懐かしく、何よりも愛しく、耳に響く。

 それは何処かで聴いたことのある声。いや、むしろよく知っていたはずの声だ。
 夢にさえ何度も聴いたはずの。
 なのに、播磨拳児はその声が何だったのか思い出せずにいた。

 思い出せない――そんな筈はない。
 これまで幾度となく聴いてきた声だ。
 ずっと聴いていたいと望んでいた筈の声なのに。己の記憶の片隅まで探しても、それが何なのかが分からない。
 播磨は、喉に刺さった魚の小骨がなかなか取れないような、そんなもどかしさを覚える。

 それを少しでも拭いたくて声のする方を探しても、全てが白い闇の中で、何も見えてこない。
 播磨はただ、そこに立ち尽くしたまま。
 もどかしさだけが、募っていく。

 それでも、声は途切れる事なく聴こえてくる。



「……は…ま…君…」



 途切れ途切れの声はだんだんと鮮明になり、個々の音は言葉へと紡がれていく。
 それに伴うかのように、白い世界の中から一つの人影が浮き上がる。
 それは、ピョンとはねた二つの横髪が可愛らしい少女だった。

 そして声も、とうとう一つの言葉に紡がれた。



「――播磨君」



 少女の姿を視界に捉えた播磨は、半ば反射的に口を開く。
 その少女の名を呼ぼうと。



 だが、『名前』が出て来ない。




 出て来ないのだ。『彼女の名前』が。
 何度呼んだか知れない彼女の名前が。
 必死で思い出そうとするが、まるで頭の中のその部分だけ霞がかかったかのようにぼやける。

 そして、気が付くと彼女の姿も、ぼやけていた。

 口元を見れば、微笑んでいるのが分かる。
 けれど、目元も鼻も、どこか霞んで、知覚することが出来なかった。
 まるで、のっぺらぼうであるかのように。



「播磨君……」



 少女は自分の名前を呼び続ける。
 けれど、その少女の事がどうしても思い出せない。
 その姿も、女神のような笑顔も、愛らしい声も、彼女のことなら全て脳裏に焼きついていた筈なのに。
 彼女は真っ白な世界で霞がかかったようにぼやけていた。

 思い出さないといけない。彼は直感でそう思った。
 彼女の名を呼ばないといけないと思った。
 でないと、もう二度とその少女に会えない気がしたから。
 この世界の誰よりも大切な存在であったはずの少女に。



「播磨君……」



 彼を見つめる少女の切ない瞳。
 自分と少女以外何もいない、真っ白な世界。



 ――思い出せねぇ……。君は一体誰だった?



 少女に再び出会えた安心感――
 少女から笑顔を向けられた歓喜――
 その少女を思い出せない困惑――

 ない交ぜになった感情が播磨を襲う。

 伝えたいことがあったのに。
 言葉が出ない。呼び方さえも思い出せない。
 何よりも大切なものだったはずなのに。
 彼女がそもそも何だったのかさえ記憶の中に霞む。
 苦しげな表情を浮かべる彼に、少女は哀しそうに微笑んだ。

 その時、何故だか播磨は彼女が「さよなら」と言っているような気がした。



 そして、少女の姿は次第に鮮明さを失っていった。



 ――えっ……おい?! 何処行くんだ?



 咄嗟に出したその声は、真っ白な闇に吸い込まれて響かない。
 少女は真っ白な世界へと溶けていく。ずっと微笑んだままで。



 ――待って…待ってくれ……



 播磨は声にならない声を叫び続けた。



 ――行かないでくれ……君に…言わなくちゃいけねぇことが……



 『言わなくちゃいけねぇこと』

 播磨はその言葉を発した瞬間、それが何なのか分からなくなっている自分に気付き、絶句した。
 少女に言うべき言葉すら、彼はもう持っていなかったのだ。
 播磨は、眼前の成り行きをただ見守るしかなかった。

 少女が静かに消えていくのを。

 呆然と立ち尽くしたままで。




 そして、

 少女が完全に消え去る寸前、たった一言、『あの時』一番聴きたかった一言が確かに聴こえた。










 ――播磨君、すきだよ――





No Surprises






「…………」

 目の前には白い天井。気が付くと播磨はベッドの上に横たわっていた。
 二人用のベッド。もう一人隣で誰かが寝ていたらしく、うっすらと温もりが、そしてシャンプーだろうか、ラベンダーの香りが残っている。
 播磨は少し身体を起き上がらせると、ぼんやりとした頭で辺りを見回す。木製のラックの上には英国製のアンティーク。壁には、橋の上で語らう恋人達の姿を切り取った油絵。そして調度品に囲まれた部屋に不相応な大きな作業机。その上にはトレース台や、漫画用の原稿の山などが辺り狭し置かれていた。

 ああ、ここは自分の家だ。どうやら、今の今まで寝ていたらしい。

「夢……」

 そう、夢。あまりにベタな展開に播磨は少し苦笑する。白いレースのカーテンから零れる陽の光がやけに眩しい。もう起きなければならない時間だろう。そんな事を思っている間も無く――

「ねぇ、いつまで寝てるのよ。いくら休みだからって、少しは限度ってモノがあるでしょ?」

 リビングから少し怒ったような少女の声が聞こえてくる。

「おう、今行く」

 播磨は少女に生返事して頭をクシャクシャと掻きながら、さっきまでの夢を思い出す。

「何だったんだ…あの夢は……」

 ひどく不思議な夢だった。そしてひどく哀しい夢。
 だが、久し振りに見た夢のような、気もする。
 前に見たのは果たしていつだったか。
 そして、あの少女は一体……

 播磨はしばしベッドの傍で佇みながら、ない頭を絞って考えてみる。
 ――間も無く、さっきより少し怒りの度合いを増した少女の声が聞こえてきた。

「ねぇ、モーニング出来たわよ。さっさと来なさいよね」

(そろそろ行くか。愛理をこれ以上怒らせても面倒なだけだしな)

 そうなると話は早い。

「すぐ行くから待ってろ」

 播磨は手近にあった部屋着を纏うと、いそいそと恋人の待つリビングへと向かった。
 その時には、先ほどの夢のことは彼の意識から消えていた。





「おはよう」

 リビングに入ると、ブロンドの髪をツインテールに束ねた美しい少女――沢近愛理が食卓の席から播磨に挨拶をした。播磨もおう、と返事をすると、少々眠たげな面持ちで彼女の席へと歩いていく。木製の椅子に腰掛ける愛理は、下着にシャツを羽織っただけの格好。目の前の男に全く無警戒な彼女の姿だけでも、この二人が特別な関係であることが伺える。それを証明するかのように、播磨は顔を愛理のそれにスッと近づけた。

「ん……」

 ただ、唇を触れ合わすだけの軽いキス。でも、二人にとっては欠かすことのできない朝の日課。
 行為を終えた二人は、頬を紅らめてどちらからともなく微笑みあう。

「何回もしてるのに……顔、真っ赤にして。初心なカップルじゃないんだから」
「そうだな」

 播磨は愛理の言葉に、内心、「お前もそうだろうが」と苦笑しながら、愛理の向かいの席に座った。

 食卓にはすでに朝食が二人分並べられていた。バスケットには小麦色の美味しそうなフランスパン。カップに注がれていたコーヒーの香りが心地良い。
 だが、食器の上に乗せられていた肝心の料理はそうはいかなかった。スクランブルエッグは見事に黒焦げで、朝食に彩りを与えてくれる筈のキャベツや胡瓜も無残な姿に切り刻まれていた。極め付けは愛理がコーンポタージュと『言い張る』スープで、通常ではありえない色をした『それ』からは、少々『風変わりな』香りがしていたりする。

「……相変わらずだな」

 播磨は半ば呆れた顔をして呟く。すると、愛理は少しむくれた顔をした。

「うるさいわね。あんただって同じようなもんでしょ?――これでもね、前に比べて少しはマシになったのよ!?」

 『前に比べて』――確かにそうだろう。最初に彼女から料理を振舞われたときには、正直死ぬかと思った。他は何でも器用にこなす愛理なのに、料理だけは上手くいかない。彼女が手料理を振舞うたびにある意味『絶品』が食卓に並べられる。そして播磨は半ば強制的に全部平らげさせられるのだ。『前に比べてマシに』なったのは、少しでも彼女の腕が上がったのか、それとも食べ慣れてしまったのか――もっとも、何故かカレーだけは普通に作れるのだが。

「――何考えてんのよ」
「ぎくっ」

 今の思考を読んでいたのか? 播磨は驚きの余り、言わなくてもいい擬音を口走る。自分のジト目にちょっとうろたえている播磨が可笑しくて、愛理はクスリと微笑う。

「顔見れば分かるわよ。あんたってすぐ顔に出るから。――でも、そういうのがいい所でもあるけど」
「すまねぇな。俺は飯すら作れねぇのに、偉そうなこと言って」

 愛理の言葉に少し申し訳なさそうな顔をして答える播磨。だが、それは事実だった。愛理の料理もひどいが、播磨はもっと悲惨だ。何せ料理もロクに作れないから、かつてはペット用のビーフジャーキーを食べることもしばしば、という有様だったのだから。



 ――そう言えば、昔それを見とがめた『妹さん』がパスタを作ってくれたっけな――



 いつしか播磨は過去を思い返していた。漫画家『ハリマ☆ハリオ』になるきっかけになった高校時代のことを。どこか懐かしく、幸せだった記憶の断片が頭を駆け巡る。しかし、それはどこか曖昧で、肝心な部分がぼやけていた。そもそも、何故自分は漫画を描き始めたのか。何かとても大切な理由があった筈なのに、目の前に高く積まれた原稿の山と格闘していく内に記憶の彼方へと去ってしまったのか、全く思い出せない。播磨はそれが少し気になった。すると唐突に、さっきまで見てた夢が頭をよぎる。

 だが、愛理の言葉がそれを遮った。

「何ボーっとしてんの? 冷めちゃうから、食べなさいよ」
「あ、あぁ……いただくぜ」

 愛理の怪訝そうな顔に、播磨はどことなく後ろめたさを覚え、取り敢えずスクランブルエッグ「らしきもの」に箸をつける。愛理の料理が失敗するのはいつものことだから、さして躊躇いもせずそれを口に運んだ。

「……なんだ。見た目は確かにあれだが、味は…食えねぇことはないぜ」
「えっ?」

 まったく予期しなかった言葉に、愛理はきょとんとした眼差しで播磨を見た。播磨はそんな愛理の様子に意を介さずカップに注がれたスープに口をつける。

「色はありえねぇが、普通に飲めるな」

 追い討ちをかけるその台詞に、愛理は軽い恐慌状態に陥る。意図しないのに顔が火照っているのが分かる。

「お、おだてたって何もでないわよ?」
「別におだててはないけどな。美味しくなったと思うぜ」

 照れ隠しに吐いた少しばかりの悪態もあっさりと返されて、愛理はいよいよ進退窮まる。初めて自分の料理を褒めてもらって、嬉しくて、顔の火照りは留まるところを知らない。多分、目の前の彼はもう気付いてる。でも、悟られたくない。そんな小さな意地が、彼女に更なる憎まれ口を吐かせた。

「ふ、ふうん。あ、あんたがそういうこと言うなんて、き、気味悪いわねっ! ……あ〜あ、明日は嵐かしら」
「何だよ、その言い草は。人が折角褒めてやってんのに、礼の一つも言えねぇのかよ。これだからお嬢は」

 口調のわりに播磨の表情は穏やかだ。播磨は知っている。こういう時にこそ素直になれないのが愛理なのだ。そんな播磨の心中を知ってか知らずか、愛理は矢継ぎ早に次の句を告げる。

「うるさいわね。そりゃあ、私だって馬鹿じゃないんだから、少しは成長するわよ。まぁ、天――」

 愛理は何かを言いかけて、ハッと口をつぐむ。その瞬間、愛理の頬から火照りは消え失せていた。彼女の端正な顔に険しさが宿る。まるで触れてはならぬものに触れてしまったかのような戸惑いと一緒に。でも、それは一瞬。

「? 『まぁ、』何だ?」

 怪訝顔の播磨に、愛理は誤魔化すように微笑んだ。

「ま、まぁ、褒めてくれたのは嬉しかったわよ……アリガト」

 最後の『アリガト』がほとんど聞き取れないほど小さかったのは御愛嬌。彼女の照れ隠しだ。その証拠に、言った直後の愛理は頬を紅らめて、播磨から目を逸らすように少し俯いていた。

 播磨はそんな愛理がとても可愛いと思った。





「ねぇ、今日、どこか出かけない?」

 愛理がそんな提案をしてきたのは、食卓の上の料理があらかた片付いた頃だった。

「どうしたんだよ、急に」
「だって、最近あんた連載が忙しくて休みの間もずっと仕事で……デート、してなかったじゃない」

 そういう愛理の口調は少し寂しげだ。『ハリマ☆ハリオ』は『ジンガマ』の看板漫画家になってしまった上に、人付き合いがまだ苦手な播磨はアシスタントも雇わないから、最近は愛理の大学が休みの日でも、机に噛り付いて原稿を描いていた。おかげでデートらしいデートはできずにいた。

「今日は珍しく原稿に追われてないみたいだし――それに……」
「それに?」
「それに……今日は……ね?」

 途端に歯切れの悪くなる愛理の言葉。まるで何かを期待するかのような口ぶりだった。

「今日? さぁ……何だっけか?」

 播磨の返答に呆然とする愛理。この男のことだから予想はしていたが、いざそうなってみるとやはりショックなわけで。苛立ちを隠しきれずにもう一度念を押してみる。

「何だっけって……分からないの?」

 それでも首を捻る播磨の仕草に、愛理はカチンときた。別にそこまでこだわっている訳ではなかったが、申し訳なさそうな態度を微塵も見せないのには腹が立った。今日は大切な日だから期待も大きかった。その分だけ愛理の身体は怒りに震える。だから、播磨の顔に浮かんだ悪戯な笑みには全く気付かなかった。

「あんたってサイテー! 一番大切な日を忘れ――」
「――冗談だよ。今日は記念日だ。――俺たちが恋人になった、な」

 忘れるわけがない。この日のために原稿を早めに仕上げたのだし、愛理が言わなくても自分から誘うつもりだった。愛理はここにいたって播磨の笑みに気付く。何てことはない、からかわれていたのだ。すると、さっきまで怒っていたのが急に恥ずかしくなってくる。

「ちゃんと分かってるんじゃない! 最初からそう言いなさいよね」

 恥ずかしさを隠そうと、口を少し尖らせて憎まれ口を吐く。そんな愛理の仕草はとても可愛らしい。だから、ついつい意地悪なことを言ってしまう。そんな調子で言い合う関係は結構昔からだったはずだが、いつの間にか心地良さを感じるようになっていた。

 そのまましばらく他愛のない会話をしながら、二人は穏やかな朝を過ごした。





 デート、といってもそれほど特別なことをしたりしない。付き合い始めた頃はテーマパークのようなデートスポットにも出かけたりしたが、一緒に暮らすようになってからは、大して散歩と変わらない感じになっていた。せいぜい愛理の買い物に付き合って街のブティックをハシゴするくらいだ。もっとも、そうなると播磨は大量の買い物袋と格闘してその日の体力を全て使い果たしてしまうのだが。別にドラマの中のように素敵なデートをしなくても、一緒に居られるだけで二人は満足だった。

 この日も、まずは動物園――これだけは付き合い始めた頃から変わらないデートコース――に行き、ピョートルたちに会ってきた。愛理も昔から動物園が好きだったから、退屈などせず、むしろ楽しんでいた。播磨が動物と意志を交わすことができると初めて知った時は、何かの冗談かと思ったが、今では普通に受け入れている。動物達と会話しているときの播磨の優しい横顔、昔では想像すらできなかった穏やかな横顔を眺めるのが、愛理は好きだった。

 秋の陽は落ちるのが早く、動物園を出た頃には空は少し紅がかっていた。この後、播磨は愛理には内緒で予約していたレストランに行って二人でささやかなお祝いをしようと思っていた。でも、予約の時間にはまだ間がある――そう思った播磨は、矢神公園へと足を向けた。




 秋の只中にある矢神公園は、木々も地面も紅や黄色に染まっていた。西から射す夕陽がそれらをより美しく照らしだす中、播磨と愛理は仲睦まじく落葉に彩られた並木道を歩いた。手を繋いで寄り添いながら歩く二人は、他愛もない会話を楽しんでいた。それは、よくある恋人たちの風景。
 
「それにしても、あんた外出るときサングラス掛けるの、いい加減やめたら?」

 広場の手前で、愛理はふとそんなことを言った。途端に播磨の表情は険しくなる。口には出さないが、口元の微妙な動きから「またか」と言わんとしているのが見て取れた。そう、播磨は未だにサングラスを掛けていた。もっとも、愛理があまりにしつこいので、家の中では外しているけれど。

「いいだろうが、別に」
「サングラスしないほうがカッコいいわよ」

 痛いところを突かれて、播磨は口ごもる。別に他人からどうこう言われても気にする性質ではないが、恋人から言われると少し辛いところがある。でも、男にはどうしても譲れないものがある。

「…く、クセなんだからしょうがねぇだろがっ! それに、家の中じゃ外してるだろ」
「じゃあ、別に外で外してもいいじゃない」
「うるせえよ。駄目なもんは駄目だって」

 播磨の頑なな態度に、愛理は実力行使を試みた。播磨の前にピョンと飛び出して、彼の頬に手を伸ばす。

「じゃあ、私が外してあげる」
「うわっ、おいっ! 止めろって!!」

 播磨は慌てて愛理の手を止めようとする。その時、播磨がどことなく怯えた表情を見せているのに気づき、手の動きが鈍ってしまった。

愛理の表情が少し曇る。播磨は頑として外に出るときはサングラスを外そうとしない。彼はクセだと思い込んでいるけれど、本当は心の奥底で恐れているのだろう。自分の本当の素顔を晒してしまうのを。――あの娘に晒してしまうのを。

 だから、愛理は播磨のサングラスを外したかった。そう、それさえ外れれば――

(でも、今日もお預けね)

 心の中で呟いて、手を引く。

「ったく、油断も隙もありゃしねぇ……」

 荒い息を吐きながら、播磨は少し乱れた服を直す。愛理はそんな播磨を見ながら乾いた声で笑った。

 気が付くと二人は、大きな楓の木が立つ広場に来ていた。

 ブランコをどれだけ大きく揺らせるか競争している男の子。
 砂場で食事の真似事をしている女の子。
 楽しそうに遊ぶ子供たちの歓声が聴こえる。

 そんな情景を穏やかに眺めている二人の間を心地良い風が吹き抜ける。

 そして、風と共に鈴を鳴らしたような可愛らしい声が聴こえた。





「もみじがとっても綺麗だね、烏丸君!」





 あの声――

 それは一瞬。
 播磨の頭の中で何かが弾ける。
 それはフラッシュバック。
 文字通り唐突に、消え去った、いや、消し去ろうとした記憶が蘇る。

 あの声――何よりも大切だった人――天満の声。

 播磨は声がしたほうに目を向ける。
 かつて、いつもそうしていた行為を体が憶えて勝手に反応する。

 その先には、夢の中の少女が夢と同じ姿のままで、楓の木の下に佇んでいた。
 全く霞んでいない、夢の中と同じ笑顔で。

 端正な顔立ちをした少年――烏丸大路と一緒に。





 愛理も天満と烏丸の存在に気付き、すぐに播磨の手を引いてここから連れ去ろうとした。――が、すでに遅かった。播磨は呆然と突っ立ったまま、楓の下に佇む恋人たちを見つめていた。

 ただ、呆然と。

 多分、思い出してしまったのだろう。漫画を描いた訳も、サングラスを外せない訳も、今こうして愛理の傍に立っている訳も……。愛理は、天満と烏丸がアメリカから帰ってきたと天満本人から聞かされた事を思い出しながら、こうなる可能性に気付けなかったことを後悔した。愛理の二つの眼に映し出された播磨の横顔は、無表情だった。
 驚きも、悲しみも、予想されるあらゆる感情が消え去って、ただ絶望感に彩られた、あまりにも哀しい無表情。

 そして、それはいつか見た表情。

 ――そう、天満を失ってからしばしば見せていた表情。愛理が傍にいるようになってからも、愛理の想いを受け入れてからも、天満を思い出しては、何度も見せていた、あの哀しい無表情。

 愛理はずっと努力していた。出来るだけ天満のことを耳に入れないように、天満に会わさないように、天満を見せないように。播磨の心を占めては彼を苦しめる彼女を忘れさせるように、必死で愛した。大好きな人の哀しい顔を見たくなかったから。そして、あの哀しい顔を見るたびに親友に向けられる醜い感情を晒したくなかったから。

 それなのに、思い出してしまった。彼女を。見てしまった。あの哀しい顔を。しばらく感じることのなかった感情が彼女を襲う。それは嫉妬。それは、何年もかかって播磨から彼女の影を消したのに、一瞬にして彼の心を取り戻してしまったことへの怒りにも似た感情。そして、自分ではどうしても彼女に勝てないという諦めにも似た感情だった。

 愛理の表情も、いつしか、絶望に彩られた無表情に変わっていた。





 播磨は、その少女に魅入られていた。
 すでに、傍らにいる愛理の存在は意識から消え去っていた。
 ただ耳に聴こえるのは、あの夢の最後の言葉――



 ――播磨君、すきだよ――



 でも、違った。
 聴こえてくる現実は、残酷だった。



 「烏丸君、すきだよ」



 少女が呼んだ名は、自分ではなく、彼女の傍にいる少年だった。

 胸が痛んだ。

 懐かしい痛みだった。とてもとても苦しいのに、懐かしい。そのことが播磨をさらに苦しめた。彼の眼は、あの二人からどうしても離れようとしない。





 視線の先に立つ烏丸は何も言わない。けれど、昔の彼らしからぬ穏やかな表情が全てを物語っていた。



 そして――



 烏丸は唐突に天満を抱き寄せる。

「?! 烏丸君?」

 驚いた声をあげながらも、天満の愛らしい顔は想いと期待に満ち溢れていた。

「……」

 何も言わず互いに見つめ合う二人。まるで、この世界に自分達だけしかいないと錯覚しているかのようだった。

 播磨にとって、目の前の光景はスローモーションで動いているかのように見えた。

 重なる二つの唇。
 天満の上気した頬は目の前の少年だけでなく、播磨にも溢れんばかりの歓びを伝えていた。

 胸が苦しい。
 瞼が熱くなる。
 いつか味わったあの感覚が再び身体を締め付ける。

 それは、発作のようなもの。
 愛理が傍に居るようになってからも、愛理の想いを受け入れてからも、度々襲われた発作。
 久しく感じていなかった、苦い感覚。

 訳が分からなかった。天満のことをさっきまで忘れていた筈なのに。
 愛理が傍にいてくれることを幸せに感じているのに。
 何故こんなにも胸が締め付けられるのか。





 でも



 声が聴こえる。けれど外からは何も聴こえない。
 心の中から、声が聴こえた。



 本当にこれでよかったの?



 心の奥底で問いかける声。
 それは、夢の中の少女――天満の声。
 現実の彼女ではなく、いつも妄想に描いていた、この世で最も可憐な少女が播磨に問いかける。
 あの夢の中の、哀しい笑顔で。



 今のあなたは、幸せ?



 ――ああ



 本当に?



 ――当たり前だろ? 今の俺には大切な人がいるんだ。



 その人といて、あなたは本当に幸せなの?



 ――幸せに決まってるだろうが。何度も言わせるな。



 私じゃなくてその人でも?



 ――もう昔のことだ。今の俺には……



 じゃあ、あなたの頬を伝うものは何なのかな……?



 ――それは……



 播磨は言葉を失くす。

 頬を伝うもの、

 それは、涙。



 ――何故涙が出る?

 ――どうして涙が出る?

 ――俺は幸せなんだろう?

 ――天満ちゃんじゃなく、こいつと一緒にいて幸せなんだろう?



 ――でも、



 ――ホントウニコレデヨカッタノカ……???――





 あの時、天満の想いを聞かされて何もできなかったことへの後悔。
 絶望の果てに、自分を慰めてくれた少女の好意を、流されるままに受け入れてしまったことへの後悔。
 少女を悲しませたくないがために、天満への想いを、そして天満自身すら心の奥底に封印してしまったことへの後悔。
 そして、忘れかけていた天満を思い出してしまったことへの後悔。

 あらゆる後悔が播磨の心にどっと押し寄せ、揺さぶる。

 続いて、自分は本当に幸せだったのか、という疑念と不安感が一気に襲い掛かる――





 ――刹那。

 右腕が急に重くなって、播磨は現実に引き戻された。

 見ると、愛理が右腕にしがみついていた。
 愛理は震えていた。瞳を潤ませながら、無理して微笑んでいた。まるで播磨に縋り付くように、懇願するように。
 遠くに行かないで、私を見捨てないで――と、すすり泣く捨て子のように。

 絶望に囚われながら、愛理は必死の思いで言葉を紡ぎだす。そうしなければ、目の前の愛しい人を失ってしまう、と彼女の本能が告げていたから。



「私が傍にいるから。ずっといるから」



 そうだ。もう、今の俺にはこいつがいるんだ。



「だから、もう泣かないで」



 こいつがずっと傍に居てくれたんだ。



「だから、もうあの娘のことなんか考えないで」



 もう、こいつしかいないんだ。



「だから……私の、こと…だけを……」



 愛理の瞳から涙が溢れる。
 嗚咽がその小さい唇から漏れる。

 播磨は彼女をそっと抱き寄せた。

「愛理……」

 愛理は播磨の耳元に唇をそっと近づけ、囁いた。精一杯の甘い声で。









 ――播磨君、すきだよ――




 





 これ以上耐えられなかった。
 両腕にさらに力を込めて、目の前の少女を抱きしめる。

 強く。

 強く。

 これ以上彼女をそんな表情にさせないように。
 不安にさせないように。

 そして、
 こうして抱き締めていることで『目の前にいる彼女を愛している』ことを再確認するように、強く強く抱きしめた。

 いつしか、
 頬を伝う涙が雫となって、愛理の金色の髪を濡らしてゆく。
 胸の中にいる愛理の瞳からこぼれ落ちる涙が、播磨の黒いジャケットを濡らしてゆく。

 そのまま二人は、抱き合いながら声を出さずに、泣いた。



 

 暫くしてふと後ろを振り返ると、もう天満の姿は消えていた。烏丸も一緒に。どうやら、彼女は自分達に気付くことはなかったらしい。
 すでに陽はほとんど落ちて、辺りは薄暗くなっていた。もはや子供たちの姿もない。公園には自分たち二人だけ。

 播磨は無言でかぶりを振ると、愛理の左手に指を絡める。

「帰るか」

 溜息がどことなく混じった様な播磨の言葉。
 それを聴きながら、愛理は俯いたまま播磨の肩に身体を預けた。

 紅や黄色に埋め尽くされた並木道を歩く二人。
 寄り添う二人は、何も語らない。
 ただ、静寂のみが二人を包んでいた。

 播磨はふと隣に歩く愛理を見た。
 愛理はそれに気付いたのか、何も言わず、ただ微笑みだけで返事をする。

 あまりにも可憐で、美しく、そして哀しげなその微笑み。

 播磨はそれから目を逸らすかのように前を向いて、また歩き出した。
 そして、愛理には聞こえないように、心の中で何度も繰り返し、呟く。





 これが最後の発作だ。
 もう心を揺さぶられることなんか無い。
 俺の傍にはこいつの笑顔がある。
 こいつが居てくれる。
 それで俺は満ち足りているんだ。
 不安なんてもう何処にも無い。

 だから、もう俺の前に現れないでくれ。
 その笑顔を見せないでくれ。
 俺を惑わさないでくれ。
 不安になりたくないんだ。
 これでいいんだ。

 そう、これでいいんだ。

 本当に、

 もう――










 ―fin―


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