桃李ものいはざれど・・・(2002.4.17)



 【阿蘇のふもとにある、一心行の桜・・・・・2002年 G氏撮影】

休日に阿蘇方面へ出かけられたG氏の撮影写真である。
とても大きくて、立派な桜である。
この立派な桜の下に、たくさんの人々が集まって来て仰ぎ見ている。
この写真を見せてもらって、私は、即座にひとつの漢文を思いだした。

『桃李不言、下自成蹊』
「桃李ものいはざれど、下(した)おのずからこみちを成す」と読む。

私なりにその漢文の意味するものを、あらためて考えてみた。
桃李(とうり)とは、桃や、すももの花(木)。転じて立派な人物を指す。
つまり、立派な人物のもとには、その人が何も言わなくても、自然に大勢の人々が
集まって来るので、おのずからそこには小道ができるというのである。

諸君、見てみたまえ!上の写真を!
桜の木は何も言わないが、大勢の人が仰ぎ見に集まってきているではないか。
そして、そこには、何本も小道ができてしまっているではないか。

いつの世も、人の上に立つような人は、桃李(とうり)のような人でなくてはならない。
普段、何も言わないが、自然に醸し出される、その人格の素晴らしさ、指導力、洞察力、
包容力、寛容さ・・・・・そのような人の元で、一緒に仕事をしたいと私は思う。

何が嫌いかと言って、私は、偉い人というのが最も嫌いである。
ここでいう偉い人とは、人間的に偉い人ではなく、○○長とか、
ただ単にこの「長」がついているだけの人間である。
そんな人間は、例外無くゴマスリ野郎であり、実力もなく、人間的な魅力もない。

上司は部下を選べるが、部下は上司を選べない。
不況によるリストラ、構造改革が日常茶飯事に行われる現代、
少なくとも自分だけは、桃李に向かって、一歩でも、半歩でも近付きたいものである。


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