天災台風十九号襲来
 


 それは、忘れもしない平成三年(一九九一)九月二十八日未明のこ
とだった。未だかつて体験したことのない、言語を絶する、猛烈な台
風が青森県津軽地方を襲った。この台風の進入経路は、長崎県佐世保
市の南に上陸後、日本海に抜けたが、そこで勢力を強めるようにして
一気に東北地方を襲った。これは昭和二十六年(一九五一)に大惨事
を引き起こした洞爺丸台風の進入経路と酷似していた。
 弘前市消防本部での公式発表では、最大瞬間風速三十五bを越える
計測が四回あったと記録されているが、それはその計器の上限が三十
五bであり、実際には、一体どのくらいの強さの風が吹いたのかは数
値としては残されていない。しかし、公式記録ではないものの、近隣
町村の最大瞬間風速を調べてみると、大鰐町では五十六b、板柳町で
は四十六b、田舎館村では四十五bとなっている。青森気象官署発表
では、同署観測史上の記録を大きく塗り替える、最大瞬間風速五十三
bであったという。最も被害の大きかった弘前周辺では、最大瞬間風
速は六十b以上あったのではと噂されている。大鰐町に程近い弘前市
石川では、旧国道沿いの電信柱が軒並みなぎ倒され、民家の屋根は丸
ごと吹っ飛び、まるで巨大怪獣でも暴れたのかと思わせるほどの惨状
で、この地区での最大瞬間風速は一体どれ位であったのか想像もつか
ない。
 さて、最勝院である。前日の夜は余りにも穏やかすぎた。台風が来
るゾ、という情報はあったものの、テレビ等のマスコミによる緊迫し
た報道も殆どなかったように記憶している。私達はある程度、風に対
する支度をして、日常の夜と同じように十時頃には就寝した。
 しかしその安眠も、火災報知器のけたたましいベルの音に破られ
た。そしてこのベルの音は、まさにこれから青森県を襲う未曾有の激
甚災害を暗示する警鐘だったのかも知れない。家内と共に受信機の前
に駆け寄ると、それは『五重塔上層部から火災発生』の赤い警報光を
発している。この赤い光と警報のベル音は何とも激しい不安感をかき
立てる。
 外に出ると・・・生暖かい。いや、暑いくらいだ。九月末としては
考えられないような外気の温度である。空は黎明を迎えようとして薄
明るいが、夜の帳は明け切っていない。五重塔は・・・外観からは良
くわからないので、懐中電灯を持って中を確認せねばと思ったその刹
那、物凄い風が轟と走り抜けた。一瞬遅れて、木々の折れた枝や葉が
空中を突き抜けてゆくのが見えた。その暴風の余りの凄まじさと、吹
き飛んでくる物の圧倒的な量にしばし我を忘れて見入っていた。家内
の『危ないから中へ入って』との叫び声に、ハッと我に返った。その
時私は、自然の猛威の前に恐怖し、生命の危険すら感じていたように
思う。
 火災報知器は復旧しており、誤報と判断、一階の居間に家族皆で身
を寄せる。風は更に強くなってきた。まるで荒い呼吸でもするかの如
くであり、よせては返す波の如くでもあり、風の強さも更に強くなり
つつあるようだ。
 突然、炸裂するような激しい音。廊下に出ると、信じられないよう
な強い風が通り抜けていた。「音は本堂の方だ・・・」と直感して、
風の吹き荒れる廊下を本堂へ向かおうとすると、電気が数回瞬き廊下
の電気が全て消えた。振り返ると居間も暗い。電気系統は全てダウン
だ。一緒にいた長女を居間の家内に預け、再び本堂へ向かう。灯りは
バッテリーで生きている警報機の赤い光だけだった。その光を背に受
け、ボンヤリと赤い影が前を歩いて行くのが、何かしら恐ろしげであ
ったのを覚えている。
 最初に見たものは、屋根が吹き飛んだ渡り廊下だった。薄明るくな
りつつある空が、まる見えであった。その先の廊下に面した本堂の扉
が吹き飛んでいる。更に西側の濡れ縁に面した戸と窓に、本来ついて
いるべきガラスが殆どなくなっている。その、遮る物を失った窓と扉
から、物凄い音を発しながら風が中へ突っ込み、本堂の中で暴れ回っ
ている。行き所を失った暴風が、廊下を突き抜けてゆく。何も出来な
い・・・ただ見ているしかなかった。
 外が明るくなるのに従い、今境内で何が起こっているのかが見え始
めた。目の前のサワラの大木が、必死になって風に抵抗していた。木
に裂け目が走っており、繰り返し襲う暴風の度に大きくなって行くの
が見える。ついに、生木の裂ける大きな音。断末魔の叫びである。裂
けた大木は鐘楼を直撃し、太い枝を屋根に突き刺し、そして倒れた。
今まで木が立っていたところに空間が出来、その向こうに、大きく揺
らいでいる五重塔が見えた。私達に出来ることは、ただただそれらを
見守り、最悪の事態が起きないようにと、手を合わせて祈ることだけ
であった。


 天上が吹き飛び空が見える


       ガラスが散乱し畳にザクザクと突き刺さっている




倒れた樹木の向きで風向きが分かる


建物を避けるように通路へ倒れている
狙ってもこうは行かないだろう   


聖徳太子堂付近も大変な有様である  


間一髪、屋根まで数十aか?聖徳太子堂は無傷。




正面の連子窓から入った風が後ろ
の扉を吹き飛ばした。扉は遠くま
で飛ばされていた。      


銅屋町からの唯一の車道は倒れた
アカシアで塞がれた。

 台風一過、午前七時過ぎ頃、外の様子を見に出ると、境内は惨憺た
る有様であった。松、杉、サワラ等の大木が至る所に倒れている。大
きな木だけで、実に五十数本の被害であった。五重塔は・・・立って
いる。よくぞと思わず目頭が熱くなったのを覚えている。それにして
も、五重塔は瀕死の重傷の体であるのは一目して明らかであった。北
側の扉が二枚とも吹き飛び、それは遠い地面の上に、まるでこの建物
と関係のない物のように落ちていた。初重の接合部分が大きく口を開
け、柱が傾いているのが分かる。相輪の一部である請花が破損し、蓮
弁があちこちに散乱していたので、近所の人達と拾い集めた。また、
位牌堂の屋根のトタンが半分ほどなくなっており、行方は分からな
い。代わりといっては何だが、川むこうの弘前高校の屋根のトタン
が、裏庭に覆い被さっていた。
 境内の復旧には雄志の方々が参集下さり、倒れた木々を片づけるの
に大変な労力を頂戴したのには、本当に有り難く、思わず頭が下がっ
た。倒れた木々は1b程度に切り分け、一個づつ取り去った。境内の
片づけが終わった時には数週間が過ぎ、既に遠くの山々の頂が白くな
っていた。



 五重塔には、即座に国の調査が入り、全面解体修理が決定する。そ
の後、平成四、五、六年と足かけ三年の歳月をかけ国、県、市の補助
と檀信徒の寄付を受け、総予算約三億円で、大修理が実施された。全
面解体は、建立より約三百三十年にして初めてであった。そして、平
成六年秋、ついにその優美な姿を、待ち望んだ多くの人々の眼前に再
び現した。平成七年四月二十日(旧暦三月二十一日)の正御影供を吉
祥の日と定め、竣工落慶法要が厳修されたのである。


布 施  公 彰  識



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