![]() ![]() なお堂がある。この堂宇は普段は六角堂と呼ばれているが、本尊が如 意輪観世音菩薩(以下如意輪観音)のため、具(つぶさ)には如意輪観 世音菩薩堂と言い、元治甲子元年(一八六四)十一月連光山大圓寺 (だいえんじ)第二十一世朝昌導師のもと建立した。頭梁は成田屋常 吉、寶珠鋳師は坂本久右衛門及び櫻庭弥太郎、書画は外崎左馬之助で ある。弘前城下本町の豪商一野屋の当主二代目一戸宇三郎庸友が嫡男 運次郎の供養の為に建立したものである。 ![]() ![]() ![]() 宇三郎は作詩家一戸謙三の先祖である。謙三は詩集『ねぷた』の中 にある『弘前(しろさぎ)』で一躍名を全国に馳せた人で、幼少の頃弘 前で一番賑やかな最勝院宵宮の日、この六角堂へ一族で集まり過ごし た事を懐かしい思い出として語っている。 ![]() ![]() この六角堂は永い星霜の中で軸部の傾斜や寶珠露盤の破損とそれに 伴う内部雨漏り等老朽化が進み、修繕するかどうかの判断に迫られて いた。しかし、喪失していた御本尊を寺庭布施美智子が施主となり新 たに制作の運びとなった為、修繕の方向で進める事と相成った。建物 は半解体、基礎石交換、屋根銅板張替、寶珠交換、扁額塗替修繕、扉 弁柄緑青塗替及金具一部取替、白壁漆喰塗替、木部弁柄塗替、金具取 替を行った。内部は御本尊新規制作、荘厳関係全て新調、障壁画新規 取付を行う等実に大規模な修繕となった。建物修繕は堀江組堀江敏 志。御本尊は滋賀県大津市の渡邊勢山、障壁画は弘前市出身の渡邊載 方によるもので、ご夫婦での制作である。修繕は平成十八丙戌年四月 から十一月まで行われ、翌平成十九丁亥年四月八日に新たなる御本尊 を迎え、落慶入佛開眼供養式が厳修された。入佛開眼供養式は四月八 日の開白法要後、一ヶ月間に亘って行われ、五月七日の旧暦弘法大師 正御影供の日に結願を迎えた。供養の導師は最勝院第三十八世公彰で あった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 惟(しゆい)する姿で座している。梵名を眞陀(しんだ)摩尼(まに)とい い、如意寶珠(ほうじゅ)を意味する。眞陀は思惟の意もあり、この観 音が思いを廻らし思惟する姿はここから来ている。如意輪観音の象徴 である三昧耶形は紅蓮華上の八輻金輪に輪上の三瓣寶珠である。寶珠 は福徳、輪は説法の智徳であり、蓮華はその体たる観音を表す。如意 輪とは、蓮華部説法の徳を示す観音が、寶部の三昧に住する処からき ている。六臂は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天に通じ、この六道を 輪廻転生する魂の済度であり、更には六根罪障の滅除消滅をも意味す る。この観音堂の六角形もそこに由来する。 ![]() 如意輪観音は真言の修行者が阿闍梨位を目指し修行に入る時一番最 初に出会う仏(但し法流により相違有り)である。最初の修行は四度 加行(しどけぎょう)といい四つの段階に分かれる。1.十八道(じゅ うはちどう)、2.金剛界(こんごうかい)、3.胎蔵界(たいぞうか い)、4.不動護摩(ふどうごま)がそれである。このうち第一の十八 道に入る前に世俗の垢を流す為の礼拝行という修行がある。一座で五 体投地(ごたいとうち)の礼拝(右左肘、右左膝、額を地面につける) を百八回繰り返し、それを一日に初夜(しょや)、後夜(ごや)、日中 (にっちゅう)と三座行い、更にそれを二十一日間続けるもので体力的 にも精神的にもかなり厳しい修行である。その礼拝行の本尊が如意輪 なのである。礼拝行最後の頃には礼拝回数は六千回を超え修行者の足 は内出血を起こし歩くこともままならない状態となる。修行者は歯を くいしばって痛みに耐えながら、ひたすらにこの如意輪におすがりし て苦行を終えるのである。慈愛に満ちた慈眼のまなざしで静かに見守 る如意輪は、礼拝行という苦しさを乗り越えてこその達成感を修行者 に与え、心の支えと拠り所としての存在である。これは今も千古の昔 も変わらず真言寺院の僧侶が紛うかたなく厳しい修行体験の中で出会 う如意輪の真の姿である。 ![]() 如意輪観音の三昧耶形は蓮華である。蓮華は水中の泥の中に種を落 とすが、その汚泥によごされることなく可憐で清楚な花を結ぶ。仏教 ではその有様を人の心、即ち菩提心(ぼだいしん)と表現するのであ る。菩提心は本来清浄なものであり絶対に汚されることのない佛性で ある。
![]() |