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平成三年(一九九一)九月二十八日未明、津軽地方を襲っ
た十九号台風により倒壊寸前の被害を受けた五重塔は、建立
より約三百三十年を経て、全面解体修理を行った。部分修理
を含めて、今回で実に七回目の大規模修理となった。
今回の修理で分かったこととして、初重西面南寄り内法貫
に『寛文四年(一六六四)八月十日』の刻銘発見。心柱の製
作にあたり、村市毘沙門堂の裏山より大杉を切り出し、継ぎ
手を付けずにあくまでも一本の材として仕上げた等が挙げら
れる。
また、五重塔の傾斜の原因が、心柱の大きな曲がりである
と考えられたため、心柱の矯正案が現場サイドで浮上した。
しかし、最終的には先徳の為した古材には手を加えず、曲が
りのための負荷のズレ(偏心モーメント)は、もう一本心柱
と同等の柱を添えることで減少させることとした。
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平成六年(一九九四)観桜会の頃のある晴れた日。南塘土
手(旧鏡ヶ池)より工事用素屋根に覆われた五重塔を望む。
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五重塔龍車内に納められていた金剛界大日如来。素材は土
を焼き固めたもの。
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五重塔龍車内に納められていた舎利容器。この二粒の舎利
のご利益を説いた『舎利記』が最勝院に保存されている。
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五重塔龍車内に納められていた舎利容器。半ば開いてまだ
開ききっていない蓮華(未敷蓮華)の形を作っており、中に
は本物のお骨が納められている。歴代の藩主或いは住職のお
骨ではないかと思われるが定かではないが、いずれにせよ五
重塔建立で重要な役割を担った方のお骨であろう。五重塔建
立の着工当時の三代藩主津軽信義公と大圓寺六世住職大僧都
京海は、工事半ばにして幽冥の境を異としている。
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