懐かしの釜石フォトギャラリー 




 
私が写真を始めた昭和50年代の釜石を紹介します。

 昭和50年代前半は、人口が減り続けてはいましたが、釜石はまだまだ元気な街でした。
盛岡に次ぐ県下第二の都市として、税収や市民所得も多く、総工費1,000億円以上の湾口防波堤の着工や県民会館に次ぐとまで言われた立派な市民文化会館、10階建ての市民病院や都市型ホテルなどの大型施設が次々と建設されました。
学校の統廃合もほとんど無く、県内他市町村に出かけてまで買い物をする事もあまりありませんでした。
私の青春時代のいい思い出とも重なり、昭和50年代前半までは、釜石にとって本当にいい時代だったのかも知れません。

 写真は学生時代に撮影したものがほとんどですが、現在は解体され無くなってしまった釜石の代表的なシンボルや建物などをあまり撮影していなかったのが残念です。
これらの写真をご覧になり、少しでも古き良き時代の釜石を懐かしんでいただけたら、と思っています。


                                          (写真の無断転載はお断りしております。)


1・旧国道より橋上市場と製鉄所
昭和51年(1976)の5月に、旧国道から撮影しました。
東京の大学に進学し、帰省で春の連休に帰ってきた時は、釜石に帰省する楽しさを初めて実感した時でした。
釜石製鐵所の二基の高炉と工場群、そして橋上市場、この釜石らしい風景は、もはや見る事はできません。
橋上市場の脇を岩手県南バス(現在岩手県交通)の赤いバスが走っています。



2・旧国道より製鉄所
鈴子周辺には日通のトラックターミナルや国鉄貨物の引込み線などが無数にあり、活況を呈していました。
右端にはすでに解体された「釜石製鐵所病院」の建物も見えます。
この写真も旧国道から撮影しました。


3・製鉄所  4・釜石駅前
釜石駅前では、昔に比べると少なくなりましたが、大煙突群がお出迎え。
列車で夜中に帰ってきても、製鐵所の音や光、吐き出される煙で夜道も心強かった。
駅前の製鐵所の壁には大型の広告看板などもたくさん貼ってありました。



5・大渡鉄橋より市街地
昭和53年(1978)に、建設中の大渡鉄橋から中心市街地を撮影しました。
この鉄橋は、現在の三陸鉄道南リアス線ですが、当時は国鉄の三陸縦貫鉄道盛線で、なかなか開通しない路線に沿線住民はやきもきしたものでした。
写真左側には、川に架かる赤い屋根の「橋上市場」と、山の中腹に木造の「大渡小学校」が少し見えています。
写真中央付近には、山のそばに「県立釜石病院」、その右、順に黄色い建物は釜石初のビジネスホテル「ホテルマルエ本館」、広告塔のある「釜石化成ビル」、そして奥には「丸光釜石店」も見えます。
これらの建物はすべて解体されて今は見る事ができませんが、釜石を代表する歴史的建物でした。
大渡川河川敷は無料の駐車場になっていて、橋上市場や青果市場、市内の事業所などで働く人たちが利用していました。
ただ大雨が降ると、車が流される被害も多かったです。



6・大渡商店街入口
大渡商店街入口には大きなアーチがありました。
アーチはネオンサインとなっていて、右側の中央ビルデパートのネオンと共に、昔はさぞかしきれいだったと思われます。
大渡商店街は、大町に丸光デパートができる直前まで、釜石一の繁華街でした。
釜石駅にも近く、橋上市場と青果市場、朝市や県立病院などもあったので、活気のある商店街でした。
子供の頃、釣具はササカメ、プラモデルやおもちゃはマルダイ商店に良く通いました。
中央ビル1階には工藤肉屋があって、東北一の売り上げを誇った事もありました。
三交代の製鐵所帰りの人たちが、和賀商会や菊池屋などの「もっきり屋」や飲兵衛横丁などに繰り出すので、朝昼晩とこの辺はにぎわいました。
パン屋の松前屋と食品卸の国分商店に同級生がいたので、できたての「こっぺぱん」やよく冷えた「フルーツ牛乳」などを、ただで飲み食いさせてもらった楽しい思い出があります。
アーチ下に見える広告塔のビルは「釜石化成ビル」で、地下1階には「グリル釜石」というレストランがあり、通りまでカレーの匂いがぷんぷんしていました。
道路中央には「丸光デパート」も見えますが、残念ながらこれらアーチ、化成ビル、丸光は今はもう見ることはできません。
昭和53年(1978)撮影



7・薬師公園より大渡商店街と製鉄所
昭和51年(1976)3月、薬師公園より大渡のビル群と釜鉄高炉を撮影しました。
大学に入学する直前に、釜石の風景を東京に持って行きたいと思い撮影した最初の写真でした。
今となっては貴重な写真で、釜鉄の高炉や化成ビル(広告塔)、旧県立病院(手前)、交差点には東殖会館なども写っています。
写真中央の交差点角には昔「東殖」という大きな衣料品店がありました。
当時小学生だった私が国際プロレスの放送を見ていた時に、火災が発生し大火になったのを覚えています。
その後「東殖会館」が建てられ、釜石東宝(映画館)やパチンコ球殿などが入りました。
隣の黄緑色のビルは、東殖と同じ系列のホテルマルエ本館です。


8・大渡交差点より釜石駅方向
昭和53年(1978)に、大正軒の交差点より釜石駅方向を撮影しました。
ここからは駅前の煙突や商店街入口のアーチも見え、大渡商店街にはアーケードもありました。
化成ビル屋上にはコカコーラの大きなネオンサインがあり、夜はきれいにスクロールしていました。
但し反対側と側面はネオンサインではなく、コーラとファンタの看板に光を当てるだけの広告塔でした。
昭和53年秋には人口がついに花巻市に抜かれ、県内第三の都市に転落した年でした。



9・旧県立病院
現在釜石市保健福祉センター(のぞみ病院など)が建っている所に、以前は県立釜石病院がありました。
当初は3階建てでしたが、後に4階建てに増築されました。
その後県立病院は松倉に移転し、新たに10階建ての釜石市民病院がこの地に建てられました。
当時はここ大渡町に県立病院、大町には市民病院があり、市民の生命や健康を守る事の他に、丸光や橋上市場などと共に中心街の賑わいに大きく貢献していました。
丸光や橋上市場は解体され、市民病院までも廃止となりました。




10・錦館
大町の青葉通り交差点には、青いタイル貼りの市民会館がありました。
この建物は映画館「錦館」を改装したもので、古いながらも数々の歌謡ショーや式典なども行なわれ、2階は市立図書館になっていました。
錦館は昭和30年(1955)に東北一の映画館として完成。
当時トップスターだった美空ひばりを迎えての新築記念興行が二日間に渡って盛大に行なわれたと、当時の東海新聞は伝えています。
錦館の記憶はあまり覚えていませんが、小学校一年の時に祖父に連れられて、「モスラ対ゴジラ」を見た記憶だけはしっかり覚えています。
その後東宝の怪獣映画に魅せられ、特撮監督を夢見た頃もありました。
現在この場所にはホテルサンルートが建っていますが、昔は写真右の交差点角には「菊丹」があり、お菓子の量り売りをしていました。
ガラスのショーケースがずらりと並んで、甘い物からせんべい類まで、ありとあらゆる菓子を売っていました。
残念ながらこちらは火災で焼失してしまいました。
昭和53年(1978)、旧釜石郵便局の跡地より撮影。



11・大町交差点より丸光・化成ビル
昭和53年(1978)、市民会館(錦館)前の青葉通り交差点より大渡方向を撮影しました。
この頃、左角には釜石郵便局、右角には太田文房堂がありました。
写真中央付近には、丸光デパートや釜石化成ビル、遠くの山際には釜石製鐵所がわずかに見えます。
この頃の釜石の人口は6万8千人で、全盛期ほどの活気はありませんでしたが、郊外型の大型店も無かったので、丸光周辺の人通りはまだ多かった。
歩行者も多く、バスも次々来ていました。



12・釜石の夜景
昭和53年(1978)9月、東前の山から釜石の夜景を撮影しました。
今この場所は木々が生い茂り、すばらしい釜石の夜景を見る事はできません。
この頃の釜石は人口が6万8千人、製鐵所の第二次合理化前でまだまだ元気な街でした。
夜景もすばらしく、釜石の夜景は「東北の上海」、「不夜城」とまで言われた事もありました。
特に製鐵所の明りがすごく、電灯なしでも山中は歩けました。
製鐵所の工場群や駅前の大煙突、音と光、桟橋に停泊している外国の貨物船などから、釜石市民は元気をもらっていたのかも知れません。
狭い場所に製鐵所と街が同居していた時代が今となっては懐かしい。



13・薬師公園より丸光釜石店 14・丸光釜石店前
丸光デパートがオープンしたのが昭和39年(1964)、ちょうど釜石の人口が9万2千人のピークを迎えた頃でした。
当時浜町には「及新デパート」、只越には「カワミデパート」、大町にこの「丸光」があり、釜石は沿岸各地や遠野・宮守などからも買い物客が殺到しました。
特に丸光デパートは釜石一の人気で、1階には食品売場の他に喫茶や握り寿司屋などもあってだいぶ賑わいました。
5階には大食堂や結婚披露宴などのできるホールなどもありました。
屋上には観覧車や乗り物、ゲームコーナーやペットショップなどもあり、子供たちが楽しめる場所でした。
私の子供の頃の記憶は、店内にジュークボックスがあり、大音響で歌謡曲が流れていた事や、おもちゃや怪獣のプラモデル、切手や手品用品などもたくさん売られていて、子供たちのあこがれの場所でもありました。
試飲で清涼飲料水の「コアップガラナ」をただで飲ませてくれた事もあり、友達とよく飲みに行った思い出もあります。
クリスマスの頃にはジングルベルの音楽で通りを華やかにしてくれました。
その後ニチイ釜石店となり、平成14年5月に長い歴史に幕を閉じました。
写真左は昭和51年(1976)3月に薬師公園より撮影、右は昭和54年(1979)8月にバスの中から撮影しました。


15・閉店日のニチイ釜石店
左側の入口を入るとエスカレーター、右側の入口を入ると「甘栗太郎」とエレベーターがありました。
当時は美人のエレベーターガールもいて、デパートに来るのに子供たちは着飾って来ました。
また5階の大食堂でソフトクリームを食べるのが当時の子供たちの楽しみでした。
この写真は平成14年(2002)5月31日の完全閉店日に撮影。



16・八幡様山頂より鈴子地区
昭和55年(1980)大渡の八幡様の山の上から、釜石の西部市街地を撮影しました。
この頃はまだ鈴子地区に製鐵所の工場や関連施設がたくさんあり、左端には今は解体された「釜石製鐵所病院」も見えます。
駅周辺にはディーゼル機関車の転車台や貨物車輌などが見えますが、昭和52年まで釜石駅は盛岡鉄道管理局管内でナンバーワンの貨物量を誇っていました。
写真下には川岸に沿って当時「0番地」と言われた地区も見えています。
釜石はきれいな川が流れ、緑の山々に囲まれて、本当にいい町だと思います。



17・八幡様山頂より大渡・中番庫
昭和53年(1978)、大渡町の八幡様の山の上から撮影しました。
左側の高台には木造の大渡小学校の校舎、中央奥には中番庫に広がる新日鐵の鉄鉱石・石炭ヤード、右端には橋上市場と古い大渡橋も見えます。
今は無き丸光や警察署、化成ビルやホテルマルエ本館などの建物も見えています。
大渡小学校は昭和54年3月に強風で屋根が吹き飛ばされ破損、校舎は新しく建て替られました。
現在は「釜石小学校」となっています。



18・尾崎アスレチック公園より釜石市街地
昭和54年(1979)、浜町に出来たばかりの「尾崎アスレチック公園」から市街地を撮影しました。
遠くに製鐵所の高炉や駅前の煙突、丸光なども写っています。
中央に見える通りは浜町の商店街ですが、手前左側には昔6階建ての「及新百貨店」がありました。
昭和51年(1976)、初売りを控えた正月に大火となり、その後解体されました。



19・国際映画劇場とホテルサンルート
昭和55年(1980)の12月、建設中のホテルサンルートと大町商店街を撮影しました。
右端には懐かしい「国際映画劇場」が見えます。
この頃の映画館はすでに斜陽で、華々しい看板も陰をひそめ、ポスターだけになっていました。
国際では満席立ち見客もいる中、東宝の「ゴジラ映画」と加山雄三の「若大将シリーズ」をよく見たものでした。
サンルートと国際の間には富士フイルムの「佐藤写真用品店」、向かい側にはサクラカラーの「藤田屋写真店」があり、当時の店内はかなり賑わっていました。
昔この撮影場所を左に曲がると「第一劇場」があり、「大魔神」や「ガメラシリーズ」の映画をよく上映していました。
第一劇場の向かいが商工会議所で、隣には「新華園本店」がありました。
遠くにはすでに白亜の釜石市民病院が外観を現し、サンルートの工事も終盤を迎えていました。
人口は相変わらず減少し、製鐵所の第二次合理化も進んでいましたが、この頃は市内中心部での大型建設工事が次々行なわれたので、市民の気持ちには高揚感がありました。
この時の釜石の人口は6万5千人でした。



20・旧市民病院
釜石市民病院は大町の青葉通り沿いにありました。
当時は全国的にも有名な医師がいて、東北に「釜石市民病院あり」と言われた時代もありました。
昭和56年(1981)、大渡に新病院が完成してからは「市営青葉ビル」として、郷土資料館や釜石ケーブルテレビなどが入りました。
この頃は車も多くなってきた時期ですが、駐車場問題もあまりなく、徒歩やバスで通うのが一般的でした。
ベランダに干した洗濯物がのどかな感じがします。
現在この建物はありませんが、新しい青葉ビルが建っています。


21・丸光より市民病院
建設中の釜石市民病院と大渡・釜石駅方向を撮影しました。
釜石初、沿岸初の10階建ての新病院という事で、見物に来る人も多かったです。
市民会館、釜石パンション、市民病院、サンルートと大型高層建築工事が続いたので、都市化に気持ちが弾んだものでした。
この写真は昭和55年(1980)の夏休みに帰省した時、丸光の屋上から撮影しました。
駅前には大煙突、左側には釜石化成ビルも写っています。
写真中央交差点には靴のデパート「ニューワシントン」がありました。
釜石市民病院は2007年3月に閉院してしまいましたが、当時はこの白い巨塔が閉院するとは誰も予想する人はいませんでした。



22・大渡川と製鉄所
アユ釣りのシーズンになると、大渡川の橋上市場下流にも釣り人がよく集まりました。
大煙突を仰ぎ見る川でのアユ釣りは、全国広しと言えども釜石だけだったと思います。
釜石製鐵所の大煙突と橋上市場、この風景はもはや見る事はできません。
昭和52年(1977)夏撮影。



23・青葉通り
昭和54年(1979)当時、大町の青葉通りは時間制の駐車場になっていました。
釜石の中心にあり、係員も常駐していて便利な駐車場でした。
写真は当時三陸一の席数を誇っていた喫茶店「紫苑」前から青葉通り交差点方向を撮影したものですが、トントンの所は後に
「青龍」となりました。
写真右端より順に「白土米穀店」、うなぎの「木の実」、キャバレー「銀河」と並んでいました。
交差点にはサンルートとベイシティーの2つのホテルははまだ無く、奥にレンガタイルの市民文化会館が見えています。



  

24・にぎわう朝市
橋上市場の脇には、大渡川に沿って毎日朝市が立ちました。
夏は「盆市」、年末には「歳暮市」として道路一面に所狭しと品物が並べられ、たくさんの買い物客が詰めかけました。
正面のオレンジ色のビルには「ジーンズショップサワダ」が入っていましたが、新大渡橋の拡幅工事で解体されました。
昭和54年(1979)撮影。


25・橋上市場  26・朝市 
平成に入って撮影した「橋上市場」正面入口と朝市(盆市)。
橋上市場は平成15年1月5日に閉店となり、その後解体されました。
平成に入ってからの朝市は人も品数もだいぶ少なくなってきましたが、今となってはこの活気が懐かしい。



27・浜町市営ビル前
釜石税関前より浜町の市営ビル(右)前の通りを撮影しました。
この頃の市営ビルは3階建てで、電気店や肉屋などが入っていて、角が丸くなっている所から「かまぼこビル」と言われていました。
後に8階建ての現在のビルに建替えられました。
正面の交差点角にはレストラン・喫茶の「ポートまえの」があり、人気がありました。
昭和54年(1979)撮影。



28・釜石市街地
昭和58年(1983)当時の釜石。
この頃は釜石製鐵所のドル箱だった大型工場の休止後でしたが、煙突や高炉からも煙が出ていて、まだまだ元気な釜石でした。
中番庫には石炭などが置かれ、街には市営ビル、市民文化会館、サンルートや市民病院などの大型高層建築物も建てられました。
この頃の釜石人は、みんな生き生きとして元気だった様な気がします。



29・大渡川
昭和57年(1982)当時の大渡川と釜石製鐵所。
赤い鉄橋の下は「三の橋」で、ここから下流は私の子供の頃からの遊び場でした。
甲子川は昔「釜石川」とも呼ばれ、本州一の鮭川でした。
街の人は甲子川を「大渡川」と呼びますが、雨が降って数日すると透き通る様な清流となる美しい川です。
河口付近でこの清冽な流れは全国的にも誇れます。

30・大渡川と製鉄所
大渡川からは釜石製鐵所が良く見えました。
三の橋下流には、冷却用の海水を運ぶ大きな配管が川を横切ってありました。
子供の頃は怖かったがその橋を無断で渡り、松原側に渡った事もありました。
製鐵所からは大量のお湯が流れていて、その付近では大きなカニが良く釣れました。
現在この橋と釜石製鐵所関係の建物はすべて無くなっています。

31・三の橋より大渡川
昭和53年(1978)春、大渡鉄橋より三の橋下流方向を撮影しました。
当時は松原に通じる道路は狭く、鉄や石炭の様な匂いがして、ほこりっぽかったのを覚えています。
屋根のある橋は製鐵所に石炭を運ぶ橋で、右側の工場群と共に今はありません。
この頃は大渡川に漁船も何隻か係留してありました。



32・釜石港
昭和58年(1983)、新浜町に新しくできた第二魚市場前から撮影した釜石港です。
春の陽気も手伝って、釜石港が活気のある生き生きとした港に見えます。
増強工事が完成した製鐵所の南桟橋には、長さ260メートルの10万トンを越える大型鉄鉱石運搬船が横付けされ、釜石の町が見えなくなる位の威容です。
背後には製鐵所の二基の高炉も見え、岸壁には遠洋漁業の大型漁船も何隻か停泊し、活気ある港を演出している様です。
昭和51年度(1976)は釜石港の貿易額が史上最高の370億円となり、製造品出荷額も県内初の1千億円を越え、1,136億円を記録した年でした。
釜石税関は函館税関の名門支所として東北に名を馳せ、大船渡と宮古を出張所として従えていましたが、高炉休止後は貿易額も激減し、大船渡税関支所釜石出張所という無人の事務所になってしまいました。
年間貿易額も一時は80億円台にまで落ち込みましたが、2010年の貿易額は約220億円まで回復し、再び県下一の貿易港として復活しました。
釜石魚市場の水揚げも昭和50年代後半には100億円を突破、第二魚市場建設等により300億円の水揚げをめざす計画でした。
しかし現在の釜石魚市場の水揚げは、約30億円と激減しています。
当時はこの様な景気のいい数字に支えられ、釜石は東北の中でも際立った存在でした。
昭和58年の釜石の人口は6万3千人、人口は減り続けていましたが、本当にいい時代でした。



33・大橋全景
昭和55年(1980)の秋、釜石に帰省した時に汽車の車窓から大橋の町を撮影しました。
この頃は大橋駅にも急行が止まり駅舎もあって、現在の様に無人駅ではありませんでした。
当時は釜石鉱山の社宅もずらり並んでいて、これを見ると「釜石に着いた」と実感する場所でもありました。
大橋駅を過ぎると列車もスピードを増し、釜石の町が近くなる予感で胸が高鳴りました。
「こんな不便な土地にこんな街があろうとは誰が想像しましょう」と林芙美子が釜石の印象を述べたように、遠野を抜けた列車がどんどん山奥に入ったかと思うと突然大橋の町が見える感動は今でも忘れられません。


34・鉱山社宅@  35・鉱山社宅A
平成6年に大橋の釜石鉱山社宅を撮りました。
現在は大橋駅舎を含め、この辺はすべて解体され何もありません。
これらの建物は、鉄の町釜石を支えた貴重な歴史遺産でした。



 
こちらは母が卒業した昭和16年頃(1941)の釜石国民学校の写真です。
場所は廃校となった釜石小学校の所ですが、校門の門柱や一中に降りる階段は今も残っています。



                     
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