聖封神儀伝 外伝2
チョコチップクッキー
お腹が……空いた。
頭が、くらくらする。
お腹が……すいた……
もうどれくらい食べてないんだろう。
ダメ。考えちゃダメ。頭を使うとお腹が空くんだって、維斗が言ってた。
食べ物が、ない。
お菓子の包み紙まで舐めたけど、もうどんな甘さも残ってない。
お腹が、空いた。
カップ麺の空容器とお菓子の包装紙と、蓋の開いた缶詰の空容器だけが、ごちゃごちゃと体の周りに散らばっている。もう、片付ける気力もない。
寒い。
かじかんでいるはずの手は、あかぎれているはずなのに、焦げ茶色に垢が凝っている。
せめてカーテンが閉められればいいのだけど。
レースカーテンの合間から、朝から降りつづけている白い雪が見えた。それは窓の枠にも降り積もっては、重さに負けてごそっと落ちていく。
部屋の中は薄暗い。電気は来ているけど、私がスイッチの場所に手が届かないからつけられない。キッチンから椅子を運んでくる力もない。空の冷蔵庫だけが唸りを上げているのが、冷たい床伝いにお腹によく響いてくる。
私、どうして生きてるんだろう。
ああ、せめてこの腹這いのまま、リビングのカーペットのところまで行けたら少しは温かいだろうに。
静かだった。
時計の音がかちこちともう何度繰り返したか分からないほど時を刻み、窓の外の遠くからジングルベルの陽気な歌声が聞こえてくる。
五歳の去年、お母さんを亡くして、父の転勤でニューヨークに連れてこられた。ニューヨークでは、クリスマスは家族で祝うのだという。でも、今年の誕生日、もといクリスマスイブは、家族で過ごすどころか、もしかしたら一人で過ごしきるのさえ難しいかもしれない。
父は、どこだろう。
今年の私の誕生日はお母さんの一周忌だから、当然私なんかに会いたくはないか。日本のお母さんの墓前に参っているのかもしれない。
料理なら出来た。お母さんといつもお夕飯や朝ご飯やお弁当を作っていた。それだけじゃない。維斗の誕生日やクリスマスイブにはチョコレートケーキも作ったし、毎日のように維斗の大好きなチョコチップクッキーを焼いてあげていた。
父はいつも家にいなかった。お仕事が忙しいから仕方ないのよって、お母さんはいつも笑ってたけど、どこか寂しそうだった。でも、私本当は知ってる。週に一回は私が寝静まった後にちゃんと帰ってきていたこと。でも、決して私の寝顔をのぞいたりはしない。お母さんと簡単な会話を交わして、着替えをトランクに詰め替えるとまたすぐに出て行ってしまう。お母さんは、決して昨夜お父さんが帰ってきたのよ、なんて言わない。何事もなかったかのように、お父さん帰ってこないわねぇ、と寂しげに笑っている。
私、知ってるんだ。
父が私のこと、すごくすごく嫌いだってこと。
顔も見たくないほど、憎いんだってこと。
でも、どうしてかは知らない。
だから、お母さんが去年のクリスマス・イブにチョコレートケーキのデコレーションをしている最中に急に倒れたっきりになってしまった後、私を赴任先のニューヨークに連れていくと父が言った時には、心底驚いたものだ。それと同時に、行きたくない、と小さくごねた。
姉夫婦のところには維斗がいる。姉に引き取ってほしいとは言えなかった。それに、姉はいつも私と会いたがらず、家に遊びに来るのは毎日維斗一人だった。
ニューヨークに来たばかりの時、この家にはお手伝いさんが一人いた。でも、いつの間にかそのお手伝いさんが来なくなってしまった。家事なら、洗濯だってアイロンがけだって私一人で何でもできる。小さいけど、その辺はお母さんからみっちり仕込まれたから。だけど、私は父から生活費が振り込まれてくる銀行の名前も口座も、カードの暗証番号も知らなかった。お手伝いさんがいつもカードで買い物をしてきて、冷蔵庫の中を満たしてくれていたのだ。お手伝いさんはメリッサといったけど、気のよい明るいお姉さんだったと思う。一か月前までは、笑顔でここに通ってきていたのに、急にぱたりと来なくなった。父から渡された生活費用のカードを持ったまま。
私は父の会社の電話番号も知らない。英語も分からない。電話の横に書きつけられた番号を片っ端からかけたけど、全て英語で何を言っているのかさっぱり分からなかった。
家の前を通りかかったおまわりさんに助けを求めようとも思った。でも、そんなことをしたら、外聞を気にする父は意地でも帰ってきてくれないのではないかと思って、結局玄関の扉を開くことはできなかった。
昔、マッチ売りの少女をお母さんに読んでもらったことがある。
もし、今ここにマッチがあったなら、私は何に使おう。やっぱりマッチ売りの少女と同じことを願うだろうか。
あったまりたい。
お腹をいっぱいにしたい。
じゃあ、三本目は?
キンコーン、とチャイムが鳴った。
この家は、父も帰ってこない。私を閉じ込めるためだけの檻。だれも来るはずのない家の玄関のチャイムが鳴った。
そうだ。もし三本目のマッチが擦れるなら、私は維斗に会いたい。同い年だし、誕生日も私より早いけど、私の甥っ子の維斗。弱虫で泣き虫で、私のお母さんであるおばあちゃんのことを、もしかしたら私以上に大好きだった甘えっ子の維斗。もし維斗に会えたら、お母さんの代わりに今度は私が維斗の大好きなチョコチップクッキーを焼いてあげるの。チョコチップが溶けてしまわないように、うっすら焦げ目がつくようにカリッと仕上げるコツを知っているのは、お母さんがいない今は私だけなんだから。
きっと、きっとね、維斗は喜んでくれるの。おばあちゃんと同じ味だって。それ以上だ、って。
ちょっとシナモンを控えめにして、外はさっくり、中はふわっと。チョコチップは舌の上でとろけるくらい。それが維斗の好きなチョコチップクッキー。
ねぇ、維斗。会いたいよ。
維斗、元気かな。
きっと今頃、日本で姉と和斗さんと盛大にクリスマスパーティーとかやってるんだろうな。お母さんの命日だけど、工藤グループのパーティの方がきっと大事だもんね。
ああ、玄関の方がやかましい。
ガタガタ、ガタガタ、扉をこじ開けようとする音が聞こえる。しまいには体当たりするような音まで。
泥棒さん。この家の見てくれは立派かもしれないけれど、中はこの通り、ゴミと湧いた虫しかいないよ。あと数分もすれば、そこに私の死体も加わる。開けてもいいことないよ。
でも、もしかしたら泥棒さんが見つけてくれたら助けてもらえるかもしれない。それとも、殺される?
どっちでも、いいや。
私には夢を叶えてくれるマッチなんてない。まして、こんな異国の地に言葉の通じる人さえいない。
玄関を騒がせていた体当たりの音は止んでしまった。
あーあ。結局、だれも助けてはくれないんだ。
維斗、ごめんね。
たくさんの手紙くれたのに、お返事も出せなくなって。今頃、外の郵便箱には、維斗からの手紙がたくさんたまっちゃってるね。出せないだけじゃなくて読めてもいないなんて、本当にごめんね。
維斗、会いたいよ。
維斗――
お腹がすいた。
床が冷たいのも分からなくなってきた。
身体が静かにゆっくりと凍っていく。
何かに蝕まれていく。
維斗――
ガシャン。
窓ガラスの破られる音が響き渡ったようだった。
雪にまみれていたリビングのガラスが枠ごと突き破られ、黒い塊が転がり込んでくる。
「詩音!」
耳朶を打った声は、幻にしてはあまりに残酷。マッチも擦っていないのに、ついに幻聴が始まったらしい。
そう考えると、神様は意外に優しいのかもしれない。今際の際に会いたい人の声を聞かせてくれるなんて。
「うわっ、なんだここ!? 臭っ! 汚っ! 本当にいるのか、こんなところに。詩音! 詩音ー! いるなら返事しろ! 詩音ーっ」
ゴミの山をかき分け、腐海を乗り越え、おでこから血を出した男の子が、腕にいっぱい白いものを抱きしめて家の中をきょろきょろ見回しているしている。
「い……と……」
やっぱり神様は優しい。最期の最期で維斗の幻影まで見せてくれるなんて。
指はもう動かない。唇も震えるだけで声にはならない。吐いた息が白く染まって、開けた口の隙間から体温を奪っていく。
「詩音ーっ いるんなら返事しろ―、詩音ー!」
維斗の抱えているあの白い塊は雪かしら。きっとあれをかけてくれたら、私、白くきれいになれるわね。
積み重なるゴミの山越しに見え隠れしていた男の子は、ついに私を見つけたようだった。リビングを突っ切って、ゴミを踏みわけ、キッチンに賭けつけると、私の頭の上で茫然と立ち尽くした。
「詩、音……?」
ガラスでも踏んだのだろうか。焦げ茶色の靴が裂けて、裂け目から白い靴下が赤く染まっているのが見えた。
維斗、怪我してる……?
手を伸ばしてあげたかった。「大丈夫?」って尋ねてあげたかった。包帯を巻いて手当をしてあげたかった。
でも、私の体はもう、目を開いていることもできなかった。
維斗。
心の中で呼んだ時、ばらばらと体の上に何かが降り積もった。
さっき維斗が持っていた雪の塊だろうか。ううん、それにしては冷たくない。やけに角が立っていて、薄っぺらで、でもとってもたくさん。
「詩音! あれほど約束したのに返事を書き忘れるどころか、手紙すら開けていないなんてどういうことだ!?」
うっすらと、最後の力を振り絞って目を開けると、目の前にはローマ字でDear Shionと綴られた手紙が何通も重なりあっていた。
「バカ詩音! これからも誕生日は詩音の作ったチョコレートケーキで一緒にお祝いしようって約束したのに、ケーキ一つ作ってないのか!? 僕の大好きなチョコチップクッキー作って待ってるんじゃなかったのか!?」
そういえば、日本を発つとき、そんな約束をしたっけ。
がくん、と目の前に維斗の膝が折れてくる。維斗が私の頭を持ち上げて膝の上にのせる。
ほっぺたにとってもあったかいものがいくつも滴り落ちてきた。
「帰ろう、詩音。日本に帰ろう。うちで一緒に暮らそう。おばあさまはいないけど、あの家に帰ろう。帰ってたくさんチョコチップクッキーを僕に作ってよ。それからチョコレートケーキ」
ばかだなぁ。そんなにチョコレートばっかり食べてたら、鼻血出ちゃうよ。
「なんで何にも言わないんだよ。ほら、チョコチップクッキー買ってきてやったぞ。でもシナモンが効きすぎてて不っ味いんだ。とてもじゃないけど食べられないから詩音にやるよ」
口元にクッキーの欠片があてがわれた。つーんとシナモンの香りがする。
でも、口がもう自力では開けられない。
維斗は夢中で私にそれを食べさせようと、頬を手で掴んで口を開けさせる。
舌の上に固い塊がのっかった。
唾液すら、もう出ない。
私の口から、うっすらと湿ったクッキーの欠片が零れおちた。
「詩音ーっ」
維斗が泣きじゃくりながら私を抱きしめる。
泣き虫維斗。そんなに泣かないで。
私まで、泣いてしまうから。
アメリカ特有の救急車のサイレンが近づいてきたような気がしたのは、維斗に抱きしめられて心が少し緩んだ時だった。
「でーすーかーらー、どうして貴女はそうも強情なんですか?! おばあさまは、決して自分の命日だからといって詩音の誕生日を祝うな、なんておっしゃるような人ではありませんでしたよ。そんなに心の狭い人じゃありませんでしたよ!」
「分かってるわよ、そんなこと! だって私のお母さんだもの、あたりまえでしょう!? でも、これは私が決めたことだからいいのよ!」
「よくありません! おかげで二十四日の午後十一時になるまで、こうやって貴女と二人きりで顔を合わせていなければならないじゃないですかっ」
「文句があるなら……一人で騒いでいなさい。チョコレートケーキは私一人で食べるからっ」
隣の部屋の古時計がボーンボーンと、ちゃんと十一回低く鳴り終わるのを待って、私はそっとフォークをチョコレートクリームの中に差し入れる。
夕飯は食べたけど、こんな時間まで起きているとやっぱり小腹が空く。
食べたら太るとわかってはいるけど、今日だけは特別だ。
たった一時間だけの自分のための時間。
一つ目のケーキをペロッと別腹に納め、ムカついたので維斗の分までとり返し、フォークを突きさす。
「あ゛~~~~~~~~~~~~~っっっっっ」
あれから――ニューヨークから日本に戻ってきて十回目のクリスマス・イブ。
私は栄養失調で死にかけたものの、今はダイエットが気になるくらいの体型に戻って、身長も一六三センチまですくすくと伸び、今日に至っている。
それもこれも、あの時、維斗が私を見つけ、姉――都子さんがすぐに救急車を呼んでくれたおかげだった。三か月ほど向こうの病院に入院して、三月末に日本に帰国。四月の半ばから、ちょっと遅い初等部の入学式を迎えた。
一応病院に駆けつけたらしい父は、都子さんから散々、仕事人間で私をネグレクトした挙句殺しかけたことについて怒鳴られつづけ、私を姓は草鈴寺のままながらも工藤家で養育することについてうんと言わされたらしい。
日本での生活は初めこそ親しげに話しかけてくる同い年の子たちに戸惑い、馴れるのに時間がかかったものの、今は死にかけたことも忘れて維斗と口喧嘩できるくらい元気になっている。
とはいっても、この十年間、父とは一度も口をきいてもいなければ、顔すら合わせてはいない。
父は病室で点滴されて眠る私に一言、「すまない」と言ったらしいが、昏睡状態に陥っていた私がそれを覚えているわけもない。
結局、父は仕事にかまけすぎて、家政婦が生活費のカードをくすねて逃亡したことさえ気づかずに一ヶ月間、生活費を使い込まれていたらしい。家政婦のメリッサはアメリカの警察に捕まって今は余罪も含めて刑務所の中にいるとか。
おかしな話だ。本当に私を殺しかけたのは私を無視しつづけた父だというのに、父は法的には何も裁かれず、今でも戸籍上は私の父のままだ。
でも、そんな辛いことは甘いものでさっさと忘れてしまうに限る。
「食べたい? 食べたい?」
にやにやとスプーンの上にのせられたチョコレートケーキのクリームたっぷりの断片を、維斗の口元にちらつかせてやる。
維斗は口を引き結んでチョコレートクリームの誘惑に耐えている。
ふふふ。この顔が可愛いのよね。私の食べかけのスプーンに食らいつく勇気もないくせに。
「あーげーな……えっ!?」
毎年のごとく、「あーげーないっ」をやって自分の口に運んでしまおうと思った矢先のことだった。
いつもは真っ赤になって見つめるだけのスプーンに、維斗は素知らぬ顔で食らいついていた。
「うーん、やっぱり詩音の作ったチョコレートケーキは最高ですね。おばあさまのケーキの次に」
「それは一言余計よっ。って、ちょっ、何するのっ」
維斗はフォークを持つ私の手の上に自分の手を重ね、そのままケーキを一口大に切りはじめる。
「そう毎年同じ手に引っ掛かるものですか。今年は何としてでもいただきますよ、詩音のチョコレートケーキ。ああ、でもその前に――」
私の手を操って、維斗はケーキを一口分のせたフォークを私の口元に差し出す。
「お誕生日、おめでとうございます、詩音」
にやりと笑った目が、さあかぶりついてみろ、と言っている。
私は顔が赤くなるのを気にしながらも、負けたくない一心でそのケーキにかぶりついた。
「よろしい。それでは残りは全て僕がいただきますね」
わずかばかり私が放心して取落としそうになったケーキ皿を奪い取り、フォークも我がものにして、維斗は悠々と残りのケーキを頬張りだす。
「もうっ、いつものあげないよっ!?」
ようやく気を取り直した私は負けん気に任せて脅すが、チョコレートケーキの虜となっている維斗には聞こえていないらしい。
仕方がないから、私はそれをその鼻先に押しつけてやった。
「助けてくれて、ありがとう」
維斗がチョコレートケーキよりも大好きな、私の焼いたチョコチップクッキーを詰め込んだ袋を。
維斗は口の中のケーキを呑みこんだ後、お皿とフォークをテーブルの上に置き、神妙な面持ちで両手で押し戴くようにその袋を受け取る。ガサガサとリボンを外して、クッキーを一枚取り出し、それを半分に割る。
私と維斗は真面目な顔で向かい合い、見つめあう。
これは儀式なのだ。
私が生きていることを確認するための。
維斗が差し出したクッキーの片割れを、私は口に含み、噛み、呑みこむ。その喉の動きを確認して、維斗ももう片割れを口にする。
「今年もお元気そうでなによりです」
満足そうに維斗は微笑んだ。
私もほっと息をつく。
多分、これが一番幸せな時間。
何度マッチを擦っても出てきてはくれなかったであろう、想像もつかないほどの安楽な時間。
「さて、じゃあ残りのチョコチップクッキーも全部僕がいただくとしましょうかね」
もったいないとは思わないんだろうか。大きく開けた口にざらざらとチョコチップクッキーを流し込み、もぐもぐと噛みながらさらにまたチョコレートケーキまで頬張りだす。
「呆れた。時の生徒会長様がこんな甘党な上に作法知らずとは――」
「僕が他の方からお菓子をいただかないのは、詩音のお菓子よりおいしいものがないって知っているからですよ」
「なーに言ってんの。甘けりゃ味も分からないくせに」
「分かりますよ。詩音が作ったものは」
真顔で言われて顔が赤らむ。
「どうして」
「だって、どのお菓子だって僕好みに作ってくれるから」
ああ、神様。もしいらっしゃるならこのうぬぼれ男をこの塔の上から地上に叩きつけてやってください。
「私は、私好みに作っているだけよーっだ」
「奇遇ですね。味の好みが似ているなんて」
「な、何が言いたいのよ!?」
「詩音の作ったお菓子が、世界で一番大好きだと」
神様。
誓って申し上げます。
私、草鈴寺詩音は、絶対にこの男の言葉にほだされているわけでもなく、私の作ったチョコチップクッキーを食べている時の幸福感に満ちた満面の笑顔に騙されているわけでもありません。
これは、ただの腐れ縁です。
「もうっ、馬鹿なこと言ってないでチョコチップクッキー一枚くらいよこしなさいよ!」
「あ、食べかけたので良ければ。はい、あーん」
「食えるかぁっ」
「詩音」
「何よ」
「メリークリスマス」
〈了〉
聖封伝 管理人室
201105240318