濁りの月




 茶色めいた雲に翳らされるのではなく、泥のたまった水たまりに映るのでもなく、月は 清らかに白濁した光を僕に降りそそいでいた。 「花月」 「なに、穂白?」 「いつまでも外にいたら風邪引いちゃうよ」  肩に引っ掛けただけのフリースが穂白に引っ張られてずり落ちていった。  タイミングよく僕はくしゃみする。 「あっ、ごめんごめん」  慌てて穂白は僕の肩にフリースを着せ掛ける。  そのついでに僕の手に触れ、ぎょっとしたように手放した。 「花月、手冷たくなってるじゃない」 「うん? うん、そうだね」  放られて所在無くなっていた自分の手を頬にあてて、僕は心無く頷いた。  ずっとベランダの欄干を握っていたからだろうか。手は氷のように冷えて硬くなってい た。 「それで? なに祈ってたの?」  ややもすると非難しているとも取れるような口調で穂白は僕を見上げた。 「祈ってた?」  彼女はたまに思ってもみないことをいう。 「それともにらめっこしてたの? お月様と」  うーん、と僕は考え込む。  僕が今まで何をしていたか、ではなく、どうしてこういうとき彼女に合わせて適当に頷 いてあげられないのか、を。  そして、決まって僕が答えを出す前に穂白が答えを勝手に出してしまうのだ。 「ああ、月の姫にでも想いかけてたのね」  突拍子もない答えを。 「そんないるはずもないものに恋するわけないだろ」 「いいえ。あの顔は恋する者の顔だったわ。すごく真剣だったもの。あたしに告白してく  れたときよりもずっとね」 「穂白」  困ったように僕が彼女の名を呼べば、彼女は満足したように相好を崩す。  その表情がすごく子供っぽくて、僕は苦笑しながらそっと頬にキスを落としてやる。  風呂上りの彼女の頬からは、無香料を謳っているはずの化粧水の匂いがほんのりした。 「花月、知らないでしょ? あたし、ほんとは月から来たかぐや姫なんだよ」  いたずらっぽく目配せした穂白にあわせて僕は冗談を口にした。 「知ってるよ。だからお祈りしてたんだ。お月様、穂白を連れて行かないでください、っ  て」  穂白はちょっと笑って僕の手を両手で包み込んだ。  ふやけて柔らかくなった手は、あっという間もなく僕の手に熱を吸われて冷たくなって いった。 「花月の嘘つき」  冷えた手を自分の頬にあてて穂白は幸せそうに目を閉じる。 「穂白の方こそ、そんな薄着で風邪引くだろ。先に中入ってろよ。僕もすぐに行くから」 「いーや。一緒じゃないといや」 「穂白の駄々っ子」 「そうよ、駄々っ子よ、あたし」  目を閉じたかと思えば、ちょっとした言葉に反応して乞と真っ直ぐに僕を見上げる。  そういうところが、穂白は子供だった。  くるくると変わる表情は見ていて飽きない。 「あたし、花月のそういうところ嫌い。一人だけ大人ぶっちゃってさ。何もかも分かって  ます、って顔してあたしのこと見るの。仕方のない子だなぁ、って感じで」 「そんなこと……」 「あるでしょ?」 「……かわいいなって思ってるんだよ。思うままに僕にいろんな顔を見せてくれるから」  俄かに、穂白の顔は月明かりに晒されてなお赤く染まっていった。  僕の言葉一つで照れたりふくれたり、時に泣き喚いたり……穂白の表情はいつも素直に 反応してくれる。  大人っぽい色気のある美人。  それが彼女の同級生の男子達の見解らしい。  マドンナたる彼女はそのイメージを崩さぬよう、忠実に大人を演じ続けてきたわけだけ れど、女優でもないのにそれがいつまでも続くわけがない。  ぷっつりと、穂白は社会生活をやめてしまった。 「子供って思ってるんじゃない」  子供に戻りたがっていたはずの穂白は、それでも僕に子ども扱いされるのは嫌らしい。 「十近くも違えば仕方ないだろ」  仕方なく僕は事実を突きつけてみる。 「うわぁ、最低ー。こういう時ばっかオジサンぶっちゃってさー」 「オジサンじゃないって。まだそんな歳じゃないだろうが」 「じゃああたしももうそんな歳じゃないもん」 「へぇ、まだ親の脛かじって生きてるひよっこのくせに?」  いつもなら向きになって突っかかってくるはずの穂白は、なぜかこのとき唇をかんで黙 り込んでしまった。  だがすぐに、思いついたように穂白は口を開いた。 「ねぇ、花月。あたしね、ほんとは花月がかぐや姫じゃないかって思ったんだよ」  穂白の思考は時々どこに飛ぶのか見当がつかない。  チャットをしているときは、多少の兆候はあってもここまで飛躍することはなかった。  パソコンのモニターを通してでも、彼女は自分を繕っていたのだろう。  実際に会って、それから月二回逢うだけの中距離恋愛の関係になって一年近く。穂白は 身構えることが少なくなった分、自由奔放に自分を出すようになった。  それでもたまに不安そうな顔をする。  あたしのこと、嫌いになってない?  そういうとき、穂白はストレートにそう訊ねるのではなくさらに奇想天外なことを言い 出す。  試されている――落胆してため息をつくのが普通なのかもしれない。ため息をつく回数 が増えれば増えるほど、愛情も冷めていくといったのは自称恋愛のエキスパートの里見だ ったか。  けれど、不思議と僕の口からため息が漏れ出たことはなかった。 「花月は晴れてお月様が出てるといつも、あたしが横にいるのにああやってぼんやりお月  様を見ているでしょう? 自分じゃわかんないかもしれないけど、すごく切なそうな顔  して見てるんだよ?」  かわりに僕は噴き出していた。 「僕がかぐや姫? まさか。仮にもオジサンに姫はないだろ、姫は」  穂白は笑わなかった。 「あんまり花月が切なそうに月を見てるとね、いつか花月がお月様に帰っちゃうんじゃな  いかってあたし怖くなるんだよ」  僕は、はじめて穂白の異変に気がついた。  ――あたし怖くなるんだよ。  穂白がこんなに真っ直ぐに不安を打ち明けるなんてこと、これまでに一度でもあっただ ろうか。  おかしなことを言い出して試しても、結局いつも穂白は笑ってばかりいた。僕はさほど 危機感を感じもせず、むしろ一緒に安穏と笑っていたのだ。  発端が不安の表れだと分かっていながら。  そう思い至った瞬間、僕は慄然とした。  これは、ため息をつくよりもひどい仕打ちだったんじゃないだろうか。  僕が一緒に笑ってなかったことにしてしまっていたから、穂白は言い出せなくなってい たんじゃないだろうか。 「穂白」  喉につっかえたものを押し出すように、ゆっくりと僕は彼女の名を呼んだ。 「僕は月のお姫様なんかじゃないよ。だから月に帰ったりもしない。穂白に秘密でいなく  なったりもしない」  僕は子供をあやすように馬鹿らしくなるくらい一つ一つを言葉にして解きほぐしていく。 「秘密じゃなかったら……はっきりそう告げた後だったらいなくなることもあるの?」 「それはない。僕が言ったのは、出張とかでこの部屋からいなくなることはあるけど、っ  てこと。穂白のことを嫌いになったりはしないよ」  試されるたびに愛情を感じてしまっていた僕は、あまりに幸せすぎて彼女の不安に鈍感 になっていたのかもしれない。 「本当に?」 「本当に」 「じゃあ、教えてくれてもいいでしょう? お月様に何があるの?」 「何って……」  穂白の目はまだ不安に淀んでいた。  口ごもった僕を、珍しく今日は許してはくれなさそうだった。  僕は回答を用意するためにとっさに思いをめぐらせる。  嘘はつけない。  自分に嘘をつくことに疲れた穂白に、僕までが嘘を信じ込ませることはしてはいけない と思っていたから。  だから安易に彼女の意見に相槌を打ってやることもできずにいたのだ。  思えば正直すぎる僕の反応に、穂白は痺れを切らしてではなく進んで救いの手を差しの べていてくれたのかもしれない。  穂白はじっと僕を見据えたまま待ってくれていた。 「夢、かな」  言葉にして、あまりの恥ずかしさに僕は一秒前の言葉をかき消したくなった。 「夢?」  繰り返した穂白の顔に嘲るような笑いは見えなかった。 「笑わないの?」 「どうして笑わなきゃならないの? 別に三十路間近の男が夢語ったって笑いやしないわ  よ」  穂白は面白くもなさそうに言って続きをせがむ。  どうして月に夢があるのか、と。 「別に発展的展望がみられるような夢でもなんでもないんだよ」 「だから、どんな夢?」  今日何度目か、僕の喉元には重いものが詰まった。  苦くて、口にするのが辛いもの。 「子供の頃、天文学者になりたかったんだ。ただ地球から望遠鏡越しに眺めるだけじゃな  くてさ、実際に月に行って月の石を持ち帰ってきたりとか、宇宙ステーションに滞在し  て大気に左右されずにいろんな星観測したりさ」  諦めてきた夢は多かったけれど、この夢は今でも手放してはいけなかったのだと思う。  さすがに宇宙飛行士までは切望していなかったけれど、せめて地学の先生にでもなれて いたら、今見る月はもっと優しく輝いて見えたに違いない。 「おかしいだろ。この歳で未だに消化しきれない夢があるなんてさ」  僕は自嘲して話を終らせようとしたが、穂白はぽろぽろと泣いていた。 「何で諦めちゃったの?」  そしてざっくりと痛いところをついてくる。 「妥協って言葉を知らなかったから。プライドばかり高くてさ、極端にしか考えられなか  ったわけ。天文学者がだめならもう全く違うものでいいや、って。馬鹿だったんだよ」 「どうして天文学者がだめだったの? 新聞記者にはなれたのに?」  僕は笑った。力ない笑いだった。 「勘弁してくれないかな。……数学に歯が立たなかったんだよ」 「好きこそ物の上手なれって言うじゃない。頑張れば……」 「うん、頑張れればよかったんだ。そのときもっとたくさんのものが見えてれば、ね」 「見えなかったの?」 「そう、見えなくなってた。勉強した数学の成績がどん底で、何にもしてない国語はたま  にびっくりするほど大当たりすることがあってね。あまりにびっくりしすぎて、夢まで  見えなくなってた。天文学者って言ったけど、ほんとは星見て暮らせれば幸せだったん  だ。そんなちっぽけな夢すら見えなくなってた」  逃げるように僕はその幻の光に縋りついた。  幻は、いつか消えてしまう。もともとその場所に存在などしていなかったのだから。  自分に嘘をついて生きるようになった僕は、案の定人生という道で路頭に迷った。  願うことが怖くなってしまっていたのだ。  どんな小さなことでも、叶わない時のことをまず考えてしまう。叶わなくても傷つかな いように、僕はもう一人の自分を装い、できるだけおとなしく縮こまっていることを覚え た。  けれど、願わなきゃ前に進めないのだ。  自分で方向を見つけなければ、いつまでも同じ場所にしかいられない。 「花月もあたしと同じだった? だからあたしのことが分かったの?」  僕があのどん底から抜け出せたのは、やっぱり人との出会いだった。  その人とは付き合うことなく終ってしまったけれど、去年、里見に付き合わされたチャ ット部屋で偶然穂白と出会って、僕は彼女をそのままにはできなかった。  親父くさい説教癖が発現してしまったと当時はこっそり嘆いたものだけれど。 「そうかもしれないね」  あの月が濁りなく澄んで見える人生だったなら、穂白と出会うことすらなかっただろう。  今よりも人の痛みに鈍感で、向こう見ずに進むことしか知らないままだったかもしれな い。  それでも、未だに月が白く濁って見えるのは僕が過去の選択に折り合いをつけられてい ないからだ。  僕はようやくうすら寒さを感じて穂白の肩を抱いた。  穂白の体もとうに冷えてしまっている。 「湯冷めしちゃったね。中に入ろう。僕も一緒に戻るから」  穂白への愛は、自己愛とは違う、と思いたい。  穂白を愛して満たされるなら、月は澄んで見えてくれるはずだから。  だから、穂白が家に来る度に僕は月を眺めて確認するのだ。  月がちゃんと濁っているか、を。 「あのね、花月」  部屋に肩を押し戻そうとすると、やにわに穂白は体をこわばらせて震える声を押し出し た。  おかしい、おかしいと思っていたが、やっぱり今日の穂白はいつもに輪をかけておかし い。 「ん?」 「付き合いはじめるとき、花月が付き合ってって言ってくれたでしょう? だから、今度  はあたしが言うよ。花月、あたしと結婚してください」  穂白と付き合って一年。  言葉に詰まることはあっても、絶句したことはなかったと思う。  深々と下げた頭から、胸半ばほどの髪がはらはらと零れ落ちていった。 「結婚って、大学は? 留年しそうって言ってたじゃないか」 「何とかする。何とか卒論書いてしまうから、だから……」  ここで穂白が小説によくある如くつわりに口元でも押さえれば、僕もそれと確信できた のかもしれない。  でも現実はそう都合がよくもないらしい。  直接愛情を確かめたり、情緒不安定に涙を流したり――そんな些細な変化から僕は推測 するしかなかった。 「もしかして赤ちゃん、出来た?」  否定的でなく、かつ具体的にことを確かめるために僕は言葉を選んで問うた。  穂白の体がさらに深く折れ曲がる。 「うわっ、そんなにお腹に重圧かけたら……」 「花月、あたしのこと見えてる? あたしのこと……」  起こそうと肩にかけた手を止めて、僕は月を振り返った。 「穂白しか見えないよ」  顔を上げた穂白は、見たこともないほど穏やかに笑っていた。  僕は、一生濁りの月しか見えなくていいと思った。  



管理人室 読了