閉じた瞼の上なら 憧憬のキス ―あこがれ―

 あなたに、触れてみたかった。
 生きているうちに。
 でも、触れるのは恐かった。
 あなたは私の手を、唇を拒むから。
 見開いた目が、恐怖と嫌悪を湛えながら私を見るのが恐かった。
 閉じた瞼の裏、浮かぶあなたの姿は幼少のみぎり、噴水の周りで光と戯れ踊る姿。
 私は手を伸ばしてもあなたに届くことはなく、あなたを包む光の中にこの手が入り込むことさえ私は忌んだ。
 美しいあなたを穢してしまうこの手が憎かった。
 私が触れた途端、あなたの清らかな美しさは途絶えてしまう。
 あなたはそれを分かっているから、私を側近くに置こうとはしなかった。
 視界に入らぬ影に置き、しかし決して離さぬあなたの意地の悪さに、心中身悶えしながらも従うしか術はなかった。
 あなたの纏う光を守りたかったから。
 この目裏に焼きついた少女のあなたを傷つけたくはなかったから。

 頬は冷たい。
 陶器のように滑らかで、期待を裏切ることのない丸みを帯びている。
 幾度この頬をこの手で包み込みたいと願っただろう。
 額も冷たい。
 何度あなたが病に倒れ、熱に浮かされる姿を見てきたことだろう。
 その度に私は熱を冷ます氷を求め奔走した。
 鼻の頭も今はもう、冷たくなってしまった。
 つんと尖って天を向いた生意気な鼻。
 いつか触れてやりたいと思っていた。
 そして、薔薇の花びらのような唇。
 赤い色を失ってもなお、あなたの唇は美しい。
 啄んだ唇に蜜の残滓が移る。
 おやすみ、かわいい私のあなた。
 閉じた瞼の上に許される、憧憬のキス。
 あなたの恐怖に慄く目を見ないで済むから、私はようやくあなたにこの想いを告げられる。
 おやすみなさい。
 光の世界に生きた、私。




 レイリィンを殺されたのは私の失策だった。
 彼女のかわりに玉座に座り、物理的にでも心理的にでも数限りなく飛んでくる矢を受け止めるのが私の務め。必要とあらばこの顔で寝所に要人を呼び寄せ必要な約束を取り付ける。
 この顔と身体はそのためにある。
 小さい頃から薄暗い地下牢のようなところに閉じ込められて育った。そこから出たければ、いつか女王となる人と同じだけの知識と、それを上回る武術を身につけろと言われた。
 自分と同じ顔の少女が何十人もそこには集められていた。
 やがて自分たちが遺伝子操作で生み出されたのだと知らされた。
 全ては本物の女王を守るために。
 私とその女王とは何が違うのだろう。
 真実を知って「私」の何人かは首を吊り、手首を切って自ら人生を放棄した。
 残ったのは図太い神経の「私」と死ぬことなど思いもしなかったぼんやり系の私。
 死んでいった彼女たちは、女王とは違う自我がすでに出来上がっていたのだ。だから、誰かの代理とされることが堪らなかった。自分は自分らしく生きたい。そう願ってこの地下からの脱出を試みた「私」もまた、教室には帰ってこなかった。
 ここは地獄だ。
 死ぬ勇気のなかっただけの「私」は呟いた。
 そのうち彼女も食が細くなって教室に来られなくなった。
 その後の消息など知らない。
 同じ一人の遺伝子情報を掛け合わされながら、何十人もいるとたくさんのバグが発生していた。「私」の自殺や絶望は失敗作だった「私」の成れの果てなのだ。
 自我というものがほとんど育まれることのなかった私は、結果的にその教室で長く生き残った。
 たくさんの個性豊かな「私」は淘汰されていき、個性のない私が生き残っていった。
 わたしに自我と呼べるものが芽生えたのは十の時。
 はじめて地下教室から地上へと出た日だった。
 それは全くもってたまたまだったはずだ。いや、もしかしたら仕組まれた予定だったのかもしれない。
 私は他の二人の「私」たちと王宮の間取りを覚えるために、はじめて地上へと連れ出された。聞きしに勝る眩しさに目を細め、生白い腕を布越しにでも焼いてくる日差しの強さに水膨れを作りながら、中庭を囲む渡り廊下を歩いているところだった。
 中庭の噴水は間歇的に時折吹きあげ、白い水飛沫が日の光を浴びて虹色に輝いていた。その噴水の周りを一周するように楽しげに飛び跳ね踊る少女がいた。
 彼女はこちらには気づかない。
 時折噴水の水に手を伸ばし、水飛沫に目を眇めては無邪気な笑い声をあげている。
 あれほど無垢な「私」を、私は見たことがなかった。
 美しいフリルが施された白いドレスの裾が風に翻り、彩り豊かな草花を撫でていく。
 闇を知らない、光の中だけを歩いてきた者だけが纏うことのできる透明な光あふれる雰囲気。
 庭に三毛猫が入り込んでくると、今度は毛だらけになるのも構わず三毛猫と戯れる。
 三毛猫はすぐに彼女に馴染み、楽しげに遊ぶ友となる。
「なに、あれ」
 「私」の一人が呟いた。
 彼女は震える拳を握りしめていた。
「あれが本物の『私』だというの? 違う! あれは『私』じゃない! あれは偽物よ! 『私』はあんなに綺麗じゃない!」
 彼女の言葉はまことにその通りだった。
 あれは『私』ではない。
 『私』たちはあんなに綺麗ではない。
 しかし、わたしはそのことに怒りを覚えなかった。
 私と同じ顔をした人間が、あれほど幸せそうに生きることもできるのだ。
 あれはもう一人の『私』だ。
 光の中を歩いてきた『私』。これからも光の中を歩いていくべき『私』。
 決して彼女を穢させてはならない。
 彼女が穢れるということは、本当の『私』が穢れることだ。
 そうならないために、私がいる。
 生まれた時からずっと影に身を潜めてきた私がいる。
 光の中で踊る彼女の姿に、私の胸は心臓を掴まれるように痛んだ。
 あれは『私』だ。
 本当の道を歩む本当の『私』。
 なんて美しいんだろう。
 なんて楽しげなんだろう。
 ああ、彼女に触れてみたい。だけど、触れたくはない。この穢れた手で触れてはいけない。
 あれは『私』。
 私の一部。
 この足の下に反転した世界があるのなら、そこを同じ歩幅で歩む者。
 美しい。
 彼女は、私のもの。
「ぐっ……なにを、する、の……」
 私の手は彼女を拒んだ『私』の頸動脈を掴んでいた。
 顔が青黒くなっていく『私』は裏切り者を見るような目でわたしを見上げていた。
 本来なら武術や暗殺技術は彼女の方が上だったが、今は負ける気はしない。
 暴れる『私』は強かに私の腹を蹴ったが、二発目が来る前にわたしは指に力を込め、手首を捻った。
 『私』は口元から涎を垂らし、だらしのない恰好で脱力していた。
 私は軽く放り投げるように手を離す。
 怯えた目で残る一人の『私』が私を見ていた。
 何も言わずに見守っていた引率の先生は、私と床に転がる彼女とを見比べ、一つ頷いた。
「よい判断です」
 そう言って、前を向いて歩きだした。
 私は殺した『私』の姿を目に焼きつけた。
 あれが、いつか私に訪れる姿だ。
 遅いか速いかはわからないが、この姿でここに生まれついた限り、ろくな死に方はできないだろうと思っている。きっと私の最期もあの『私』と同じように口から泡を吹き、裏切られた絶望で一杯の目を見開いて殺した者を意思もなく見上げているのだろう。
 いや、あの光の中の彼女を守って死ぬのであれば、きっとあんな目にはならなかろう。
 決して触れあい、交わることのない彼女を遠くに見ながらその身代りに彼女の清らかさを守ることができるなら、私は喜んでこの身を幾戦もの刃の前に差し出そう。
 光の中の私が十二になった時、私は初めて私と対面した。
「この者がレイリィン様の影となる者です」
 夜中、寝所に呼び出されて先生に彼女と引き合わされた。
 彼女は絹のネグリジェを纏い、同じ顔の私を驚いた顔で見下ろしていた。
「レイリィン様に生涯の忠誠と安全を」
 首を垂れる前は驚きだけに満たされていた彼女の顔は、私が顔を上げた時には見下すような嫌悪感に溢れていた。
 それでいい、と私は思った。
 怒りも残念な気持ちも哀しさも微塵もなかった。
 拒絶してくれてよかったとさえ思った。
 それだけ彼女と私は違う。
 同じ顔と身体を持っていながら。
「レイリィン様、この者に誓約の口づけを手の甲にお許し願えますか?」
 先生の言葉に、彼女は拒むように一度震える自分の右手を胸元に引き寄せ、慄く目で私を見下ろした。
 私はその視線をまっすぐに受け止めた。
 そんなに怖がらないでほしい。
 本当は。
 歓迎されることはないと思ってはいても、私はあなたの一部なのだ。あなたの背負うべきもう一つの道を代わりに背負う者なのだ。そんなに忌まなくてもよかろうに。
 歓迎しなくていい。
 ただ、理として私という存在を受け入れてほしい。
 私は彼女に視線を逸らされる前に瞼を閉じた。
「よい、許す」
 凛とした声が静かに響き、私の前に右手がさしだされていた。
 私は恭しく両手で彼女の手を預かると、その甲に軽く口づけた。
 柔らかく、繊細な王族らしい苦労を知らない手。
 石のようにひんやりとしていて、玉のように滑らかだった。
 生きている彼女にこの唇が触れたのは、それが最初で最後だった。
 それから私は日向に日陰に彼女の側にぴったりと張り付いて行動を共にするようになった。彼女の身が危ういと思しき他国からの使節を招き入れた時には玉座にも初めて座った。予想通り、わたしは一週間の怪我を負った。しかし、怪我が癒えまいと彼女の側から離れるわけにはいかない。怪我をしたのは防ぎきれなかった自分の責任だ。三月後、使節が帰ってこないとやってきた使節は、玉座に放たれた小刀を全て叩き落とし、牢に連れて行かせ、夜中の内に毒を盛るよう指示した。
 十五の時、はじめて他国の王子と寝所を共にした。
 十三の時に教え込まれたとおり、いかにじらし、いかに満足させ、約束を引き出すか、そんな駆け引きに一時、光の世界を歩む彼女の代わりだということも忘れて私は没頭した。面白いくらいに彼は言いなりになり、持参金代わりに国境沿いの領土つきで彼女の夫となった。
 しかし、結局彼が彼女と寝所を共にすることはなかった。
 潔癖な彼女は女王となるべく教育を受けてきたためか、男というものをいつの間にか嫌悪するようになっていた。
 閨で国政を司るのは私の仕事になった。
 夫はそれに気づかない。
 結局、彼は殺されるまで自分が抱いていた女が婚礼の式を上げた光の君ではなく、娼婦同然の私とは知らなかったに違いない。
 彼女の夫を殺したのは、もう一人の『私』だった。
 そう、十歳の時噴水の畔で光と戯れる彼女に嫉妬した『私』を私が殺した時、怯えた目で見ていた彼女だ。
 彼女もまた、女王に仕えていた。
 ただし、私ほど公的な場所には出てこない。どちらかというとわたしが女王から離れている間、重点的に王女を警護する役目だ。
 その彼女は、私よりも女王に好かれていた。
 その王女の頼みで、彼女は夫を暗殺した。
「なぜ、そんなことを! ヘンドリックはまだこの国に必要でした。子もまだですし、隣国アルカシアとの関係が悪化するだけではありませんか!」
 あの時、私は初めて彼女に反抗した。
 いつも唯々諾々と命令を呑んできた私だったが、ヘンドリックを失えばこの女王国がいろんな意味で危うくなることを分かっていたからこそ、責めざるを得なかった。この後どうこの国の舵を取っていくつもりだ、と問い詰めずにはいられなかった。
「いいのよ、これで。だってあなた、最近ヘンドリックとばかりいるじゃない」
「それは、あなたのかわりに……」
 頬がはたかれていた。
 彼女は手に持った扇子をこれ見よがしに広げて見せる。
「戦争がしたいの。商人からたくさん軍艦や装備を仕入れることができたのよ。ミサイルも。あの男もそれと気づいて故国に何通も手紙を書き送っていたから、あの男が死んだと分かれば準備万端、きっとすぐに戦争が始まるわね」
 私が守りたかったのは、綺麗な私だ。
 穢れを知らない綺麗な私。
「戦争など……」
 彼女は平和の象徴だ。平和の中を歩むだけでいい人生を約束されていたはずだ。
 何故戦争など望む?
「アルカシアにはもう急使を出したわ。事前にメールもしてあるから、おそらく彼は戻っては来ないでしょうけれど。心臓発作で亡くなったと言われてはいそうですかと納得するような国じゃないでしょうしね。使節が殺されてくれれば、こちらは戦争の大義名分が立つ」
「なんということを……」
「やっぱり、男女の契りを交わした仲だと情が湧いていた?」
 くすり、と彼女は嗤う。
 私は、答えなかった。
 どう答えようとも、彼女は自分が好きなように考えるだろうと思ったから。
 隣国アルカシアとの戦争は、我が国が攻防の末辛くも勝利を得て終結した。
 しかしハイテク機器を駆使した五年の長きに渡る戦争は、国土を荒廃させ、せっかく得たアルカシアの地も農耕がままならないほど汚染されたものとなっていた。
 食料自給率は落ち、国民一人あたりの生産高も下落、耕すことのできない大地に貼りつかされた農民たちは方々で一揆を企て、やがて王都でのクーデターへと繋がっていった。
 国民たちが城に押し入ってきた際、城門を守る者たちも、城を守る者たちも率先して門を開け、彼らを女王のところまで導いた。
 城を埋め尽くすほどの人の数に揉まれ、まずは女王に気に入られていた「私」が囮となって討たれ、その隙にわたしと女王は森の地下教室へと逃げ込んだ。
 だが、その時には彼女は流れ弾を脇腹に受けていた。
 逃げるのに夢中で、気づかなかったのだ。
 自分が盾になってでも彼女を生かすべきであったのに、彼女は私を庇って銃弾を受けたのだ。
 散弾銃の弾は彼女の腹部を万遍なく黒つぶてで一杯にしていた。
「なぜ私など庇ったのです!」
 いたわる声など出てこなかった。
 なぜ。
 私を嫌いぬいていたはずなのに。
「なぜ? 何を言っているの。決まってるじゃない。あなたがこの国の本当の女王だからよ。闇と光を併せ呑みながら、玉座に座り、まともな執政をしていたじゃない。あなたこそこの国の女王よ。私はこの国の女王にはついぞなれなかった。あなたなどいなければいいと何度呪ったことか」
 呪った?
「そんなことを言わないでください。私はあなたの影です。本物ではありません」
「あの玉座はあなたのもの。ヘンドリックもあなたのもの。大臣たちもあなたの政策には耳を貸す。私はできそこないのあなたの影。お飾りの綺麗な女王。違う?」
 そんな風に思われていたのか?
 ただ卑しき身を忌まれていただけだと思っていたのに。
「違います。あなたこそ私の光です。私の女王です。私はあなたを守るためにあなたの影となったのです。あなたは光の中だけを歩んでいてほしいがために……」
 女王はごぼりと音を立てて血を吐きだした。蒼白な顔は最早蝋人形に近く、とても回復は見込めない。
 私の光の中の女王が死んでしまう。
「あなたは私から光を奪った。闇も。あなたは私から全てを奪っていった。だから……私はあなたから全てを奪う。地位も、夫も、国も、そして、主(私)も……」
 してやったりと歪んだ笑みが口元に浮かび、彼女は私を甘く睨みつけた。
「あなたには、何も、残さない」
 がくがくがくと彼女の身体が震えて、血まみれの指先が最後の力を振り絞って私の唇に触れる。
 「私」は私の唇に血の口紅を引いて力尽きた。
 それが、彼女の私への最初で最後の愛情表現。
「お慕いしておりました、レイリィン様」
 力を失って落ちた手を握りしめ、私は言った。
 「私」はいかにも苦々しそうに、吐き捨てるように、言葉を噛み砕きながら微笑んだ。
「知って……たわ……だから私は……あなた、が、大、嫌い……」
 私の腕の中で、光の中の私は死んでいった。
 忌むべき者の腕の中で生涯を閉じなければならない苦渋に唇を歪ませ、仇を取ったといわんばかりの爽快な光と憎悪とを目に宿して私を睨みつけ、こと切れるとともに一度瞼が落ちると二度と彼女の瞼が開くことはなかった。
 私よりも先に死ぬこと。
 それが、彼女が私にしたかった意趣返しだったのだ。
 彼女を生かすためだけに存在しているわたしの存在意義を真っ向から否定するため、彼女は国を潰し、自分を死の生贄に捧げたのだ。
「さすがです」
 私は呟いた。
 もう二度と開くことのない瞼に、人差し指で触れてみる。
「私の気持ちなどとうにお見通しでしたね。国も政治も私には関係ない。私はあなたのためにある。あなたは光の世界の私。私は闇の世界を生きる者。私がそう考えていると分かっていたから、あなたは私を拒み続け、私を虜にし続けてくれた。感謝しています。もう一人の聡明な私。だから、これからは晴れて私は一人のあなたになれる」
 二度と吐息の漏れることない唇を啄み、「おやすみなさい」と両の瞼にキスを落とした。
 そして私は、元女王レイリィンとして断頭台への道を顔を上げて上った。



〈了〉
初稿(前段)(201409250037)、追記(201502090238)