手のひらなら懇願のキス
―手のひらから掬い取った水を飲むように―

 掬い取った水に口をつけるように、その人の手のひらに口づけた。
 柔らかな起伏が唇に触れた瞬間、渇いた喉に冷たい水がしみていくように、胸に抑えきれない衝動が広がっていく。
 今すぐこの手を引いて貪るように口を塞いでしまいたい。
 この手が切なく空を掴み、やがてこの身体に助けを求めてくる瞬間を手繰り寄せたい。
『姫様、あなたに永遠の忠誠を』
 幼かった日、この手の甲にそう言って口づけた。
 姫と騎士になりきったごっこ遊びにすぎなかった。
 それでも約束は約束だ。
 おれは本当にその人の騎士になった。
 しかし、そんな約束、するのではなかった。
 明日、その人は遠路遥々やってきたこの国の王と婚姻を結ぶ。
 十三番目の妻として。
 四十も年の離れた男と。
 思い出せば今でも握った拳が白くなる。
 おれは、その人があの男の妻となっても、その人の騎士として側近くでその人の身を守らなければならない。
 誰から?
 その人を傷つけるすべてのものから。
 なのに今はもう、おれが傷つけたくて仕方ない。
 おれのものにしてしまいたくて仕方ない。
 それで婚姻が流れ、遠国の王がプライドを傷つけられたと怒って戦争になろうが構うものか。この先ずっと、赤ら顔の四十も離れた男にその清らかな身体を蹂躙され、若さもそこそこに未亡人となって朽ちていくのを見守るくらいならば、今、おれがこの手で摘み取ってしまいたい。
 その人の立場も、役割も、国の平和も人々の幸せも。
「アシュリー」
 水の雫が滴り落ちるかのように、垂れた頭の上にその人の可憐な声が降り落ちる。
「あなたの忠誠に、感謝します」
 戒めるように。
 分かっています。
 分かっているのです。
 ですが、貴女がいないと、おれは渇いて渇いて仕方ないのです。
 忠誠などもうとうに枯れ果てました。
 貴女に抱くのは、欲望だけ。
 貴女を自分のものにしたいという欲望だけ。
 貴女だけがこの渇ききったおれの心を潤すことができる。
「エレイン」
 騎士に叙された時から、自らその名を口にすることを禁じてきた。心の中でさえも呼ぶことのないようにきつく、きつく。
 ああ、それなのに、なぜ、どうして、こんなにもその人の名の響きは甘露なのだろうか。
 久方ぶりに朝露を口に含んだかのようなこくのある爽やかな甘さが口に広がる。
 おれはもう、この人の手のひらを翻させることはできない。冷たく滑らかな、指の骨が浮き出た硬い甲に、忠誠の口づけをする気にはならない。
 お願いだ。
 分かってくれ。
 おれの気持ちを。
 この切なさを。
 愛しい女を、ただ人質として男と言えるかも怪しいようなものに差し出さなければならない哀しみを。
 おれがもっと強ければ、あの国は遠国にあるこの国の助けなどいらなかったろう。
 おれが王ならば、貴女を他の男の元になどやるものか。
 だけど悲しいかな、この胸には貴女を守った功績に応じた数の勲章が垂れ下がっている。
 そして、明日、本当の意味で貴女をおれは守れなくなる。
 それくらいならば、何を捨てても、たとえ明日命が無くなったとしても構わない。
 両手で押し抱くように包み込んだ彼女の右手。
 そこに湛えられる水はなく、ただ潤んだ冷たさだけが運命に怯えて差し出されている。
 でも、おれはもう飲んでしまったのです。
 貴女の手のひらから。
 貴女を愛しいと思う気持ちを止められなくする甘い清らかな水を。
 渇きに死にかけた旅人が、たった一滴でも水を口にすれば生き返るのをご存知でしょう。
 そして欲深く、もっと飲みたい、渇きを潤したいと貪りはじめるのを、貴女もよくご存じでしょう。
 あれは、二人で冒険した砂漠でのことでしたね。
 貴女は砂に埋もれかかった旅人を見つけ、自分の水筒が空になるのも構わず旅人の口に水筒の飲み口をあてがった。旅人は息を吹き返し、貴女から水筒を奪い取り飲み干し、さらに足りないと貴女に襲い掛かった。
 あの旅人を刺し殺したのが、この一番初めの勲章の所以でございます。
 覚えているでしょう?
 渇いた者に慈悲を与えてはいけないのです。
 一滴たりとも。
 隙を見せてはいけないのです。
 水は、もっと欲しくなるから。
「アシュリー!」
 咎める悲鳴はすぐに立ち消えた。
 細い腰を抱き寄せ、もっと水を寄越せと唇を塞ぐ。
「っ!」
 甘い、甘い衝動。
 突き放そうとする貴女の腕から自由を奪って壁に押し付け、唇から命を奪うように貪り尽くす。
「何を……!」
 涙に濡れた目で非難がましくおれを見上げても、おれには次を求められているとしか思えない。
 突き放そうとした手が義務的だったことを、おれが見逃すとでも思ったか?
 僅かでも貴女の舌がおそるおそるおれに応えようとした瞬間を、おれが気づかないとでも思ったか?
「やめて、お願い」
 なのに貴女はおれの手を捉え、両手で大切なものを包み込むようにしながらおれの手のひらに唇を這わせたのだ。
「お願い。もう、やめて」
 懇願に震える唇が、感じやすい手のひらから想いを伝えてくる。
 おれは、その手で貴女の口を再び塞ぎ、思いを遂げることもできたはずだった。
 だけど。
「アシュリー、愛してる」
 その昔忠誠を捧げた手が、濡れたその人の頬に押し当てられる。
 それだけでおれの頭は真っ白になった。
 もうこれ以上、その人を求めることはできなかった。
 言葉に満足したからじゃない。
 その人の真実に触れたからこそ、その人からこれ以上何かを奪い取ることはできなかった。
 未来も、その人の矜持も、心も。
 エレイン。
 その名ももう、呼ぶことはできなかった。
 手のひらに染みてくる涙に額を寄せるように、おれはうなだれる。
 貴女の唇はすぐ目の前にありながら、今は何と遠いのだろう。
 塞ごうと思えば塞げる距離にありながら、お互い求めているはずなのにどうして、こんなにも近寄りがたいのだろう。
 おれはこの夜の記憶を胸に、これから何年、何十年と貴女の側に寄り添っていなければならないのだろうか。
 貴女がそうしろと望むのならば、おれはもう、従うことしかできない。
 それが貴女の願いに報いることであるならば。
 言い聞かせても、心は納得しない。心は永遠に貴女を求め続ける。
 互いのどちらかがこの世から消えてなくなるまで。
 だから、せめて貴女の心に囁くだけ、許してほしい。
「おれも、愛しています」
 愛しげにおれの手を包み込む手を開き、その甲に唇を寄せる。
 この手を引き寄せる前はあれほど甘露だったのに、今は海の水のように塩辛い。
 こんな水を飲んでいては、いつか塩辛さに渇き果て、再び真水を求めるようになるだろう。
 だから望むのだ。
 この言葉が呪縛となり、いつか貴女が自らおれを求め懇願する日が来ることを。
 不安に慄きおれを見上げる貴女が、何を恐れているか当ててみせましょう。
 貴女は恐いのです。
 いつか自分が遥か遠くなってしまった生国を捨て、近くに寄り添うおれを選んでしまう日が来ることが。
 あるいは。
 もしかしたら貴女は、この国で変り果てるかもしれませんね。
 あの男の十三番目の妻として、愛よりも別なものを欲し求めるようになるかもしれない。
 それとも本当にあの男を愛するようになるのか。
 我慢比べの末に、おれたちは何を見るのでしょうね。
 愛していると言いながらおれを拒んだ貴女の行く末を、おれは貴女の一番近くで見届けましょう。
 いつでも、この手のひらを返すことができるように。

〈了〉
201502230307