足の爪先なら崇拝のキス ―夏のエフェメラ―
足の五本の指を丁寧に解いていく。
履きなれないヒールの中でずいぶん窮屈にしていたのだろう、大分固まってしまっている。
花嫁に限らず、女性は大変だ。こんなきつい思いをしても綺麗に微笑んでいなきゃならないのだから。
「やだ、貴ちゃん、くすぐったい」
昼間の披露宴のときのおもてなし用の笑顔が掛け値なしの本物の笑顔に変わる。
わざとくすぐると身を捩って笑い声を立てた。
綺麗にメイキングされたキングサイズのベッドのシーツに少しずつ皺が寄っていく。
まだ脱がせきっていない純白のドレスのスカートの裾が幾重にも空気をはらんで、彼女が身を捩るたびに花びらのようにゆらゆらと揺れる。
「もうっ、続きはシャワー浴びてから」
起き上がった彼女はけらけらと笑いながら僕の頭を上から抱きしめる。
柔らかな胸に押しはさまれて、一気に頭に血がのぼる。その勢いに任せて、ベッドの上に押し倒す。
「貴ちゃん?」
天真爛漫な笑顔はちょっとした驚きに取って代わられ、不思議そうに僕を見上げる。
はじめてじゃないくせに。
上から見下ろして、意地悪な思いが余計に胸を焦がした。
衝動的に口づける。深く、中を抉るように舌を差し入れて絡め、吸いつくすように何度も何度も貪る。甘い苺のような唾液は次第次第にとろけるような甘さに変わって頭をいかれさせていく。
彼女の唇が煽るほどに求めてくるのを確かめて、胸の小さな蕾へと手を滑らせる。仰け反る白い首に軽く歯を立てて、そのさらに向こうにある秘奥にも手を伸ばす。
シャワーなんて無意味だと思わせるほど汗だくになりながら彼女を貪り終えたとき、彼女は湿ったシーツの上でぐったりと目を閉じていた。
白くやわらかな身体には無数のキスの痕。
全て僕がつけたものだ。
獣のように喘ぐ彼女の声も僕だけのもの。
僕の口と手と身体で彼女の身体をいっぱいにして支配し尽し、これでもかというほど自身を注ぎ込み――それでもなぜだろう、彼女が自分のものになったという気がしない。
目の前に伸びたまま横たわる彼女の肢体は僕に蹂躙し尽されてなお、白く美しく艶めかしい。
ベッドの下に脱ぎ捨てられたウェディングドレスがまた痛々しさを誘っている。
これからはいつでも好きなだけ彼女を抱ける。もう誰にとられる心配もない。彼女は僕だけを見ると神様の前で約束してくれた。
それなのに、どうして満たされないんだろう。
彼女を初めて見たのは教会の聖堂だった。
十五歳の夏。
キリスト教徒でもないくせに、夏休みに親戚の家に遊びに行った時、二歳上の従兄連れて行かれた。
従兄は熱心なキリスト教徒とまではいかなくても生まれた時に洗礼を受けたのだという。洗礼名はヨハネだったかパウルだったか。一度聞いても聖書に出てくる人の名前、というくくりでしか聞いていなかった僕は、未だにちゃんと従兄の洗礼名を思い出せない。でも、その従兄がとある夏の昼下がり、秘密を教えてやると言って連れてきてくれたのがその教会だった。
ステンドグラスから差し込む夏の日差しは、聖堂中に溢れんばかりの光と影が織りなす万華鏡のような世界を描き出していた。彩り豊かな光と黒い影。光の届きにくい丸天井の中心は宇宙のようにしんと静まり返って光に乱されることはない。下へ下へと行くほどに、上方の薔薇窓から差し込む色とりどりの光と丈長い窓から差し込む溢れんばかりの光とが地上に光と影の洪水を作り出し、混沌とした有様を描き出していた。
その中で、祭壇の前に跪き祈る一人の少女が白く浮き上がって見えたのは、偶然ではない。
薔薇窓とは別にひっそりと設けられた一つの窓。色のついていないその窓から差し込む光は、時間になると祭壇の前に跪く者を神々しく照らし出すよう設計されていた。
まるでスポットライトに照らしだされるように白く浮き上がった少女の姿は、全ての罪を暴きつくされ、眩しすぎる光によって影すら見えなくさせられたもののように僕には見えた。
少女が白いワンピースを着ていたことも、眩しいばかりに光り輝いて見えた要因だろう。
のちに従兄は、彼女を初めて見た僕のことを「見惚れていた」と言ったが、純粋に一目惚れしていたかと聞かれると、そうではない気がする。
僕は畏れたのだ。
黒い点ひとつ見えない彼女が、こちらの世界の者に戻る瞬間が来ることを。
染みひとつない彼女の姿が、実は完璧ではないことを知ってしまう瞬間が来ることを。
祭壇には大理石で彫られた聖母マリア。
ローブを纏っているとはいえ美しく一点の歪みもない均整のとれたプロポーション、慈愛に満ちた微笑、差し伸べられた両手。
物は裏切ることはない。
でも、人は裏切る。
人は汚れる。
汚れている。
気づけば、祈りを捧げたまま動かない少女にこのまま動かないでいてほしいと願っていた。息すら止めて、その場にその姿のまま固まってしまえばいい。光を動かす時すら止めて、この空間を抱きしめることができたらどんなにか――そう、どんなにか幸せだろうと、そんなことを思った。
生きている彼女に興味はなかった。
よく喋り、よく笑い、あられもなくスイカにかぶりつく彼女の姿など、ちっとも魅力的だとは思えなかった。
あの時見た一瞬に閉じ込められた彼女の姿が、僕の中で永遠になった。
それでいいと思っていた。
目の前でくるくると動き回る彼女は、また別のものだと思っていた。
何より、彼女の特別な視線は従兄に向けられていた。従兄もまた、彼女を自慢したいがために、あの夏の日、僕を教会の聖堂なんかに連れ出したのだ。
彼らが付き合おうが、キスしていようが、セックスしていようが、僕には関係ない世界の出来事だと思っていた。
親戚の家での夏休みはあっという間に終わり、僕は別な都市にある新しい家に帰った。
父と、新しい継母のいる家で、僕の二学期はスタートした。
継母が嫌いだったわけじゃない。むしろあの人はとても良く僕の母親であろうとしてくれていた。僕の好物をよく研究し、嫌いなものと分かれば二度と食事に出すことはなかった。話題も同じだ。犬が嫌いだと言ったら、二度と飼いたいとは言わなくなった。狂ったように大学の受験勉強に精を出す僕を、精一杯心配して甘やかすことが愛の証だと思っていた。
父が出張でいなかったある夜、継母が職場の飲み会で酔って帰ってきた勢いで聞いてきたことがある。
「貴ちゃんは何が気にくわないの? 私のどこが嫌いなの? 私はこんなにこんなに貴ちゃんのことが大好きなのに!」
両手を大きく広げて、彼女は酒臭い胸の中に僕を抱き込んだ。
酒とたばこの混ざり込んだ臭いの中に、朝につけた愛用の香水の香りがいじらしくまだ残っていた。確か父と新婚旅行に行ったときにハワイで父に買ってもらったという思い出の香水だ。
離婚された母はついぞつけることのなかった高いブランド物の香水の香り。
女だと思った。
こいつは母じゃない。女の香りしかしない汚れた生き物。
「僕も好きですよ、ゆり子さん」
唇の端を引き攣らせるように持ち上げて僕はせせら笑った。
驚きの表情を浮かべた継母の瞳に、期待の色がなかったとは思えない。それが余計、僕を失望させた。
父と二十も違う継母。
僕とは九歳違うだけの継母。
馬鹿らしいくらいにあっさりと継母は僕の身体に溺れた。
それだけで十分だった。
女なんてくだらないと思うには。
父から贈られた香水をつけて僕に抱かれる継母。
僕の指によがり、僕の言葉に悶え、僕の与える快楽の虜になっていく様は、AVよりも生々しく、夢のないものだった。
ミッション系の大学に合格して家を出た後、父と継母の間に子供が生まれた。継母から、こっそり父に隠れて行ったDNA検査で生まれた子が僕の子ではないと聞かされた時、僕はさらに失望した。あれだけ僕の身体の虜になっておきながら、父ともやることはやっていたというわけだ。いや、父の子かさえ最早怪しいものだが。
女というのは抜かりがない。
ため息をつくことさえ労力の無駄だと思えるような毎日に、大学の温い授業が追い打ちをかけた。大学に入学してあっという間に垢抜けていく女の子たちが、今度は男に色気を出しはじめる。そんな子たちの餌食になったふりをしながら、翌朝には単位のために礼拝に参加してアーメンと言っているのだから、何がアーメンだか分かったものじゃない。
足りないものはないと思っていた。満たされているかどうかではなく、満たされたいとすら思っていなかった。満たされるべきものが何か分かっていなかったから。
はじめての大学の長い夏休み。
集まって喋るだけの退屈なサークルが終わって学食で安価な食事を摂り、夜の飲み会の約束を確認して仲間たちと別れる。夏の強烈な日差しを避けるために立ち並ぶ広葉樹の木陰を歩きながら、不意に大きく差し込んできた影に情報端末からふと顔を上げる。
いくらかでも涼しい図書館で時間を潰すつもりだったはずが、目の前に深く影を落としていたのは教会の尖塔だった。
教会など、義務でもなければクリスチャンなどでもない自分が近づくようなところではない。
何より、自分は失うのが怖いのだ。
遥か遠い昔になってしまった子供時代に見たこれ以上ないほど清らかな光の欠片。
閉じ込めて、それ以上壊れないように封じ尽くした聖堂の中で跪き祈る少女の背中。
教会の入口の前で揺れる夏の木漏れ日が、まだその先を知らなかったあの頃に見た教会の入口とデジャヴュする。
導かれるように僕は扉を開けた。
それまで天上から聖堂に降り注いでいた光とは別な光が僕の後ろから差し込み、扉を引き開けた僕の身体の影を光の中に抜き取り埋めながら、その背へと光の手を伸ばす。
彼女は熱心に神に祈っていた。
丸く屈めた背。
祈るために胸の前で組まれた両手の肘。
膝立ちでこちらに向けられたサンダルの底。
結い上げられた黒い髪。
彼女の髪が背で揺れることはない。それほど一心不乱に彼女は祈っていた。
僕が扉を開けた音にすら気づいていないらしい。それが気にくわないのと同時に、自分の記憶の欠片を壊さずに済んでほっと安堵していた。
彼女の祈りの言葉はここまでは聞こえてこない。しかし、あまりの集中ぶりに余程大切なことを祈っているのだろうと慮ることはできた。
人の願いなど聞く趣味はない。
何より、彼女が人に戻ってしまう前に、僕はここから立ち去ってしまいたかった。
今の僕はもう、この光景を宝物として記憶の中に凍結してしまいこむには薹が立ちすぎている。
それなのに、足は一歩も後ろに退くことができなかった。
扉を引き広げた両手は取っ手に焼きついてしまったかのようにくっついて剥がれなくなっていた。
恐怖が募っていった。
重ねてしまった思い出ごと今を失ってしまう恐怖。
しかし自分がこの場を壊すわけにはいかない。吃驚な声を上げて逃げ出すわけにはいかない。
言い聞かせ、せめて静かに扉を閉じようと指先に言い聞かせる。どうでもいい時にはよく動く指のくせに、まるでこれでは新雪の中に放り出されて足跡を残すのを躊躇っているかのようだ。
自分が場を壊さずに逃げるのが先か、彼女が人に戻るのが先か。
祭壇の上には、救いを求める者に手を差し伸べる聖母マリア。
助けられたいと思ったことはなかった。救われたいと思ったこともない。
何を願おうが祈ろうが、父と母は離婚し、僕は父に引き取られ、父は離婚原因となった女を新しい妻に迎えて僕と一緒に住まわした。
だからなんだ?
僕は溜まった憂さは自分で晴らした。家からも自力で抜け出した。
苦境にあるとき、自分を救うのは自分しかいない。
目に見えない神だろうが、目に見えるマリア像だろうが、祈ることは無意味だ。誰も助けてなどくれないのだから。
『貴志、何泣いてるんだ?』
従兄が本気で驚いてあげた声が思いがけず聖堂中に響き渡って、あの時、光の時間は粉々になった。
泣いてなんかいない。
今だってそうだ。
泣いてなんかいない。
裏切られた気持ちになんか、なっていない。
信仰に触れた瞬間。
信じたいと思った。祈りたいと思った。
この世界に、まだこんなにも綺麗なものがあるのだと。綺麗なものはきれいなままありつづけるのだと。
もしそれを叶えてくれるなら、クリスチャンにでもなんにでもなってやると思った。
いや、ただ祈る相手が欲しかったんだ。祈りをかける相手が欲しかった。
救ってほしいなんて思ったわけじゃない。自分も含め、この瞬間が止まればいいと思っただけだ。そこに居る自分がきれいか汚いかは関係ない。祈りを捧げる少女がきれいか汚いかは関係ない。純粋なものだけで構築された空間がこの上なく愛おしく思えただけだ。
無音の空間に油蝉の鳴き声が入り込む。
はたと我に返った時、彼女は目の前にいた。
「貴志くん」
思いがけない再会に無邪気に笑いかけてくる彼女は、十五歳の夏、出会ったままだった。
二度恋した彼女の洗礼名はマリアという。
まぎれもなく聖母マリアから名付けられたものだ。
彼女はやはり僕の隣でよく笑い、よく喋り、ニンニクの効いた味噌ラーメンもお構いなしに注文した。流行りの曲を聞き、流行りの曲を歌い、抱きしめれば赤くなり、キスをすれば恥ずかしそうに笑う。触れる度に彼女が薄汚れていく気がしていたが、気のせいか抱けば抱くほど彼女は眩いばかりの光を放つようになった。
今だってそうだ。
これほど僕を夢中にさせておいて、ぐったりと意識を無くしてベッドの上にしどけない姿を晒していても、唇は再び僕を誘うように赤く色づき、閉じた睫毛が頬に落とす影は再び開く時を心待ちにさせる。僕の唇の痕を残された白いうなじは呼吸するたびにかすかに蠢き、再び触れてほしいと訴えかけてくる。
僕はベッドサイドに落ちたウェディングドレスを拾い上げ、彼女の上に広げた。
彼女が目を覚ます気配はない。
満ち足りた顔で小さな寝息を立てている。
僕はひとつ溜息をつき、まだ指を解いていなかった彼女の左足を両手で押し戴くように持ち上げ、その爪先に唇を寄せた。
親指、人差し指、中指、薬指。
「やっ、ちょっ、くすぐったい」
小指を口に含んだ途端、目覚めた彼女が笑いながら足を引っ込めようとする。
幾重にも重ねられた柔らかなドレスの裾がめくれ上がり、程よく丸みを帯びた白い足が目の前に曝け出される。
本能的に身体の芯が熱を持ったが、飛びつくようなことはしなかった。
「静かに。黙って」
どれだけ自制できるのか、自分に架すように、僕は再び彼女の爪先に口づけた。
どうか彼女が、美しいまま在りつづけますように。
彼女は静かにその祈りを受け入れた。
〈おまけ〉五年後。
「貴志ー、咲の服とりこんどいてって言ったでしょ!」
「帰る途中で雨が降ってきたんだからしょうがないだろ」
「あーもうっ、ハンバーグ焦げたぁ」
「焦げたところ取ればいいだろ」
「ちょっと咲の様子見てきて。さっきから大人しすぎ!」
「和室でDVD見てるから大丈夫だって。貸してよ、焦げたところ取るから」
「濡れた服は?」
「今乾燥機。ったく、誰だよ、こいつこんなに可愛くなくしたの」
ため息が漏れる。何か美しい思い出があって結婚したような気もするが、重ねたら今度こそ完全に崩壊するような気がする。
「今、なんか言った?」
「いえ、何も」
取り繕った笑顔は彼女に限っては何の効果ももたらさない。
「何も言ってないわけじゃないわよね? もう一度言って御覧なさい」
「今乾燥機」
「戻りすぎ。その次」
「……誰だよ、こいつこんなに可愛くなくしたの」
あまりの可愛くなさに心を込めて本気で呟くと、彼女は庖丁を片手に極上の笑みを浮かべた。
「時の流れよ」
そう言って、八つ当たりするかのようにこの五年でスキルを上げたキャベツの千切りに取り掛かる。
思わず生唾を呑みこんでいた僕は、緊張を解かれて糸の切れた人形のようにぎくしゃくと手足を動かし、焦げたハンバーグに手を付ける。
「可愛くな」
ぼそりと口の中だけで呟いたはずだった言葉は、きっちりと彼女の耳にも届いていたらしい。
「あなたよって言われるより、ましでしょう?」
千切りをやめて、彼女はにっこりとほほ笑む。
その笑顔に、久しぶりにぞくりとする。
まだ愛想は尽かされていないらしい。
僕の祈りも、まだ破られてはいない。
〈了〉
(201511032103)