唇の上なら愛情のキス ―チョコレート―

「どうしたの」
 音楽の満ちた部屋でソファにかけて雑誌を読んでいた裕一朗が、苦笑しながら顔を上げた。
 さっきからちらちらと向けているわたしの視線にようやく気付いたものらしい。
 いや、あるいはさっきから気づいていて、お気に入りのコラムを読み終わるのを待って、ようやくわたしに構ってやってもいい気になったのかもしれない。
 ふっとわたしが目を逸らすようにスマホに視線を戻すと、十歳年上の裕一朗はくいと眼鏡を上げて、さっきからわたしがスマホと裕一朗の顔とを見比べていたものと推察してくれたらしい。
「何か面白い記事でもあった?」
 おっとりとして優しい物腰の声と喋り口調なのに、わたしにだけちょっとからかうようなテイストを混ぜた時の裕一朗が、わたしはたまらなく愛おしい。
 この人が欲しくて欲しくて、結局大人ぶって背伸びしていることなんかできなくて、スーパーで駄々をこねる子供のようにぶつかって何度も砕けて、それでようやく手に入れたのが裕一朗だ。
 きっと今だって十歳年下のわたしのことなど子供か妹か飼い猫くらいにしか思っていないに違いない。
 それでも裕一朗のところに毎日通ってくる猫がいると聞けば、近所の野良猫にだって嫉妬するわたしだ、もはや彼にとって自分がどんな存在なのかなんてわざわざ確かめるまでもない。こうやって一緒の時間と空間を共有できることが大切なのだ。
 なにより、他愛ないことを聞いてくれる優しさが好きだ。
「あのね、チョコレートを食べるとキスをするよりも何倍も何十倍も快感を得られるらしいよ。ドーパミンがたくさん出るんだって」
「へぇえ」
 予想通り、適当な反応だ。
 まあ、そうだよね。草食系を通り越して仙人クラスにまで到達していた人だもの。快楽も快感も、そんな表だって興味示すはずないよね。
「てわけで、用意してみました」
 わたしはにやにやしながら裕一朗のソファのところまで包装されたチョコレートの小さな箱を片手に近づく。
「チョコレート?」
「そう。今日、何の日だ?」
 いかにもバレンタイン商戦用に用意されたちょっとリッチに見える包装紙を裕一朗の目の前で丁寧に開け、ひと箱三個入りの高級チョコレートを彼の目の前に差し出す。
 裕一朗はしばしチョコレートと睨めっこしたのち、答えにたどり着いたという喜びに輝く顔を上げた。
「バレンタイン!」
「正解。ご褒美に一つどうぞ」
「ご褒美って」
 苦笑した裕一朗がチョコレートに手を伸ばす。
 一つ目を無事につまみ上げ、口に入れ、満足そうに眼を閉じて頬張る。
 子供みたいだ。
 そんな表情がまた愛しくてたまらない。
「おいしい?」
「うん」
 言った側から裕一朗が二つ目に手を伸ばした瞬間、わたしは彼の指先がチョコレートに触れる前にチョコレートの箱を手の届かない右上に逸らした。
 不満げな顔で裕一朗はわたしを見上げる。
「くれるって言ったでしょ」
「あげるよ」
 わたしは左掌の上に載せたチョコレートの箱から一つ丸いトリュフをつまみ、彼の膝の上にまたがる形でソファに膝をつき、彼を見下ろす。
 わたしを見上げる裕一朗の優しげな苦笑に警戒心が混ざる。
「はい、あーん」
 一瞬躊躇した後、裕一朗は目を閉じて小さく控えめに口を開けた。
 その唇にトリュフをのせ、少し力をかけて押し込む。
「どう?」
「ん」
 再び満足げにチョコレートを味わっている間に、わたしは裕一朗から眼鏡を外し、近くの棚の上にあげておく。
「ちょっと!」
 すぐに抗議の声が上がったが、究極の甘党さんはチョコレートの誘惑には勝てないらしく、視線はわたしの左手に注がれている。
 裕一朗の眼鏡は伊達ではないけれど、なくてもそれなりに良く見えることは昔から知っている。あってもなくてもこの距離なら問題ない。
「ねぇ、このチョコレート、わたしとキスするよりも美味しかった?」
「な、それとこれとは話が別でしょ?」
「聞いてなかったの? キスとチョコレートと、どっちが気持ちいいか試してみようって」
 はっきり告げた途端に真っ赤になるのはいまだに変わらない。
 そんな、数えるくらいしかキスしたことがないわけでもないのに。
 だけどいつもそんな新鮮な反応をしてくれるから、こっちはいじめるのをやめられなくなる。
「いいなぁ、わたしも食べたいなぁ。でもこれ、裕一朗が喜ぶ顔見たくて買ってきたしなぁ」
 さぁ、これで「いいよ、一個くらい」なんて残酷なことは言えなくなったでしょう?
 だってこれが最後の一個だもの。
 わたしは三つ目のチョコレートをつまみ、答えあぐねている裕一朗の口に押し入れる。
 そして耳元に囁く。
「呑みこまないでね」
「え?」
 わたしは箱を投げ出し、裕一朗の肩に腕を回した。
 何をするのと言わんばかりの不安げな目でわたしを見てきた裕一朗に、わたしは極上の笑みを浮かべる。
「わたしにもちょうだい」
 そう言ってわたしは一度裕一朗の唇に軽く自分の唇を重ね、二度目は深く吸いついて舌でそっと中に押し入った。
 チョコレートの味がする。
 甘ったるくて濃厚でちょっぴりほろ苦いカカオの香り。そこに裕一朗の味が溶けている。
 押し出されてきた丸いチョコレートを受け取って舌の上で転がしていると、今度は裕一朗がチョコレートを取り戻そうと深く入り込んでくる。さっきまで赤くなっていたなんてうぶさはどこにもない。
 チョコレートが溶けてしまうまで取り合いをして、最後の風味を名残惜しく二人で貪る。
 ようやく唇が離れた時、熱に浮かされるように裕一朗は呟いた。
「くらくらする」
 わたしはしたりと笑んだ。
「わたしも」
 ふと、裕一朗はいつの間にか握っていたわたしの手の指先に目を向けた。
 指先にはさっきチョコレートをつまんだ時の残滓がうっすらとついている。
「実験、続行していい?」
 獲物を見つけたように、温和な微笑を浮かべる目の奥に獰猛な光が宿る。
 そんな目で射すくめられると、わたしはもう自分でもどうすることもできない。
 きゅっと心臓が縮み上がる。
「いいよ」
 差し出すまでもなく、裕一朗はわたしの指先に唇を這わせる。
 人差し指、中指、親指。
 綺麗に拭われて、ソファに押し倒される。
 何度でも高鳴る鼓動。
 お腹の奥底から湧き上がってくる衝動。
「裕一朗」
 唇が重ねられる。
「チョコレートとキスは併用するのが一番みたいだ」
 カカオの香りが残る唇が、いじわるにそう囁いた。

〈了〉
201502070406