背中なら 確認のキス ―二律背反―
背骨に沿って縁の唇がゆっくりと刻むように吸いつきながら腰に向かって下っていく。
くすぐったさと怖気が蓄積した衝動となってこみ上げてくるその度に、緋色は弓なりにのけぞり、シーツを両の指で掴みながら強張った身体を震わせる。
「っはっ、やめ、て……」
切ない声をあげつつも、続きを求めて縁の身体を払いのけることはしない。
背は預けたまま。
縁の指は緋色の乳房の頂にむけて脇腹を撫で上げ、到達した極上の瞬間に再び腰にほど近い背骨に口づける。
親の決めたまま、半ば借金の肩として売り払われるように戸籍上、縁の妻にされた。
だが、縁は緋色の背を愛でてばかりで、未だ本当の意味で緋色は縁の妻になってはいない。
「どうして、背中、ばっかり」
一度尋ねたことがある。
「背中なら薄い皮の上からでもごつごつした身体の中心に触れられる。これほど体の奥深くを貫いていながら表面からこの指で、唇で触れられる器官があるか？」
きっと薄い唇に酷薄な笑みを浮かべながら縁はそう言っているのだろうが、いつも背を向けさせられている緋色には確認する術はない。
ただ、背中で感じるだけ。
顔など見なくていい。
緋色は縁の顔が嫌いだ。
尖った鼻先も、出張った頬骨も、歪めるように嗤う薄い唇も、緋色を見下すぎろりとした三白眼も。
大嫌いだ。
借金取りの怒号まみれの生活から抜け出せたのは、この人が提示した条件のお陰だったとしても、愛し愛されているわけでもないこの人の声は冷たく緋色の心を突き刺す。
『返せないなら借りなければいいのに』
緋色を縁の元に置いて早々に逃げ出すように帰っていった父の背中を二階の窓から見下ろしながら縁が言ったことを、緋色は今でも忘れてはいない。この男が緋色の父にどんどん金を借りるように甘言を弄し追い詰めていったことを知らないではない。父に返す当てなどあるわけがないが、賭け事に弱い父は元手を得ればあっという間に負の借金に代えてしまった。
背中へのキスは、緋色に縁への憎悪を確認させる。
緋色が縁の手に落ちるように策を弄された結果がこれだ。
それなのに。
「っひっ」
唇が離れたと思えば、人差し指が背筋の上を一閃する。
弄ぶ縁の指先に法則性などない。まして唇と舌の動きなど、背中をどう這い回るか予想などできない。
縁の指は、唇は、ただ刹那的な快楽を、緩急をつけながら緋色の背中に刻みつけていく。
もっと、違うところにも触れてほしい。
そう願いはじめたのは昨今のことではない。
背中をキャンバスに弄ばれるようになってから、もうずっと、疼く熱を解き放てないまま不満ばかりが蓄積していく。
その指で、もっと下までなぞり下りてほしい。
そんな懇願を心の中だけとはいえ、抱く自分を許してはならない。
そう思うのに、見えない縁の指先を思うとそれだけで身体が震える。
躾けられているのだ。
どんなに憎んでいても離れられなくなるように。
仕込まれているのだ。
どれほど嫌っていても受け入れたいと冀いたくなるように。
だから、決してその指先を受け入れてはならない。この口づけを甘受してはいけない。
そう思うのに、体は込み上げる怖気の中に快楽の渦を少しずつ広げ、今や緋色の心と体は縁の思い通り快楽を求め、それを是としはじめている。
だめなのに。
この人は自分を愛していない。
自分も愛してはいない。
この人は自分をただの愛玩人形にしているだけだ。
自分は弄ばれているだけ。
それなのに。
「っっっ」
肩甲骨と肩甲骨の間、縁に抉るように噛みつかれて、解放直前まで高まっていた快楽がはじけ飛ぶ。そして、押し当てられた歯の痕を拭うように縁の唇が押し当てられる。
その瞬間だけは、優しい。
滲んだ血は、決して舌では舐めとらない。唇だけで丁寧に拭い取っていく。
背中中に刻み込まれた快楽が、この時ばかりは偽りの愛となる。
折り曲げた肘で上半身を支えながら、交互に訪れる痛みと愛を、緋色は記憶の中に刻みつける。
こんなのは間違えている。
何度も縁の刻むキスを否定し、痛みを愛の甘い疼きと勘違いしそうになる自分を戒めつづけながら、それでも背で縁の唇を感じてしまう。
薄い、酷薄な唇。
その唇が、また新たな悦楽の点を選んで飛び火する。
指は両脇腹をなぞり、へそに触れ、再び乳房を手のひらに納めたかと思うと頂に爪を立てる。緋色の身体はのけぞり、長い髪が降り乱れて天井を仰ぎ、そしてこの時ふと、すぐ目の前に自分の顔を見出した。
鏡が貼ってあった。
壁一面に鏡が。
灯された薄明かりに、火照った顔で茫然と自分を見ている間抜けな顔が映し出されている。
唇を噛んだ。
鏡の中の自分もその通りに唇を噛む。
縁は後ろから緋色の身体を抱きすくめ、貪るようなキスを背中に植えつづけている。
おそるおそる、緋色は鏡の中に縁の姿を探した。
緋色の背に顔を埋めたまま、縁は熱心に緋色の背を貪っている。
そして、息つくために僅かばかりあげられた顔は、どんなに貪っても自分のものにならない緋色の背に苛立っているように見えた。
どんなに快楽を与えても、緋色の背中は縁を受け入れはしない。受け入れてなるものかと、与えられる快楽に溺れそうになりながらも緋色は縁を拒みつづけてきた。
いままでも、これからも、きっと。
シーツを握って再び顔を上げると、鏡越しに縁と目が合った。
いつも背しか向けていないこの営みの最中に、縁と目が合うのは初めてだった。
緋色が気づいていなかっただけで、気づかずとも縁は度々、この張り巡らせた鏡で緋色の表情を読んでいたに違いない。悦楽に切なく歪められた顔を見ながら、どれだけ自分に心許してきたかを確認していたに違いない。
「なんだ、気づいたの。いつ気づくかと思ってた」
意地悪な声が耳元で囁く。
「いつも暗かったから」
切れる息を整えながら、緋色はそう返すのがやっとだった。
「そう」
薄い唇はやはり酷薄に歪められ、声は見下すように嗤いを含む。それでいながら、合わせてくれなくなった目は切なそうに伏せられていた。
どうしていつも灯りをつけないのに、今日は薄明かりを灯す気になったのか。
気づいてほしかったのだろうか。
何に？
鏡の存在？ いつも嘲笑っているはずの唇？ 見下しているはずの目？
再び縁の唇が緋色の背中を啄む。
いつもよりも強く、吸いつく。
愚鈍な痛みが次第に熱を帯びて甘くなっていく。
そしてわざと水音を立てて離される。
チュク、チュク――
いつも以上に淫らな音を立てて縁は緋色の背中を一部の隙もなく啄んでいく。
まるで全てを手に入れようとするかのように。
「どうして、いつも、背中なの？」
前にも聞いた問いを、久方ぶりに投げ出す。
背中へのキスが止まる。
鏡に映った縁は、親に置いて行かれた子供のように緋色の背中を見下ろしていた。
「逃げて、いかないように」
その瞬間、緋色は自ら身体を反転させて縁と向き合い、腕の中に縁を抱きしめていた。
「逃げないよ。わたしは、ここにいるから」
あるいはこれも縁の策だったのかもしれない。それでもきっと、あの表情は本物なのだ。
逃げていかないように繋ぎとめたくて、でも正面から向き合う勇気などはなくて。
それが出会いのきっかけの気まずさからなのか何なのかは緋色には分らなかったが、一つ一つ丁寧に背に刻み込まれたキスの名残が、緋色の気持ちを煽り立てた。
「昔、君に助けられた」
ぽつりと縁は呟いた。
「親無し子、捨て子とからかわれ、ど突かれていたおれを、君が庇ってくれた。その背の、後ろに」
縁の額が緋色の肩の上に触れ、はじめて緋色は縁に正面から抱きしめられた。
「ありがとうも言えないでいるうちに君はさっさと行ってしまって、おれもまた次の親戚の家に預けられるためにあの町を出なきゃならなかった。あれから離れていく君の背中だけが、何度も何度も、頭の中でフラッシュバックしてた。だからもう逃がしたくないと……おれを刻みつけて忘れられないようにしてやりたいと……」
緋色は頭の中で必死に幼い頃の記憶を辿ったが、縁と昔出逢っていたことなど欠片も記憶に残ってはいなかった。ただ、いじめっ子たちは許せない性質だったから、正義感に駆られてそんなことをしたこともあったのかもしれない。そんな記憶がぼんやりと草のぼうぼうと生えた空き地の光景とともに思い出された。
「ごめん、覚えてない」
「だろうな。君はおれの名前すら知らなかったのだから。だけど、あの時おれを助けてくれたのは確かに君だよ。あの時から、いつか君が困っていたら助けたいと思っていた。まさか捻じれてこんな形で再会するとは思わなかったけれど」
酷薄に歪むばかりだった薄い唇がはにかむような柔らかな曲線を描いていた。
吸い寄せられるように、緋色は縁の唇に自分の唇を重ねた。
浅く触れてすぃっと離す。
驚いた顔で縁が緋色を見ていた。
何かを確かめようと縁の唇が開きかけるが、すぐに縁は言葉を呑みこみ、代わりに緋色に口づける。緋色がしたよりも少し、深く。舌の先を差し入れ、触れ合うかどうかのうちに唇を離す。そんな応酬を繰り返しながら、少しずつキスを深めていく。互いの内の奥深くを探りながら己を重ねていくように。
縁のキスはやがて緋色の全身を覆い、はじめて二人は一つとなった。
「お願い。もう一度、背中に、して」
後ろから抱きすくめられながら緋色がねだると、縁は背筋の中心にゆっくりと唇をあてがい、拒まない緋色の背中に、じっくりとその肌に、己を刻みこんだ。
〈了〉
(201502230613)