縁期暦紀 巻ノ一

雪花 ―雪女郎―




 雪がもつもつと降っている。
つうは、木造の教室の窓からぼんやりと枝に雪が積もっていく様を見つめていた。
 教室の真ん中では大きなストーブの中で薪がはぜる。
 廊下のきしむ音はまだしない。
 朝、六時半――
 外は一メートルを越える雪が積もり、それでも尚、雪はやむところをしらずに降りつもる。
 その朝も、つうは週番で、朝早くから学校に来ていた。
 教室の大きな薪ストーブに外から運んできた薪をくべ、始業前に教室を暖めておくためだった。
 今も、年の割に小さな手をしもやけに真っ赤に腫らして外の薪小屋から薪を運んできて、ストーブにくべ終えたところだった。
 ストーブの炎と教室のさして明るくもない電気の中、つうは無意識に真っ赤にしもやけた指をかきながら、白くくもった窓におでこをこつんとくつけた。
 (冷たい)
 それでもなお、強くおしつけていると、次第におでこはひりひりと痛んできて、ついにたまらなくなってつうはおでこを窓からはなした。
 冷たく、心なしか硬くなったおでこにしもやけた手をあてながら、つうは窓に黒く半楕円の奇妙な形を残したその部分から、まだ明けやらぬ外を覗き込んだ。
 つうが朝早くに学校に来ていたのには、週番という理由のほかに、もう一つ理由がある。
 つうには両親がいなかった。
 母はつうが乳離れをしてすぐの一歳ごろに姿を消した。
 それから先ごろまで、ずっとつうのことを養育してきてくれた心優しい父も、昨年の冬、出稼ぎ先で姿を消したあと、二日後になぜか村近くの山で雪原に埋もれているのが発見された。すでに体は凍りつき、息はなかった。
 それでも穏やかな顔をしていたというのだから、村中、そう簡単に騒ぎがおさまろうはずもない。
 一方、残されたつうは、母方の親戚はおろか、父親の年の離れた弟も出稼ぎに出たきり行方知れずになっていたため、天涯孤独の身の上だった。
 そんな彼女をしぶしぶ引き受けたのが、この村の村長だった。
 この男がえらくしみったれで、手に入れた金品は大きな蔵の中に特製の錠前をかけて貯めこみ、自分以外には誰も、たとえ実の父であろうと、妻であろうと子であろうと、その蔵に立ち入ることはおろか鍵に触れることすらも許さないような男だった。
 そんな男がいくら立場上とはいえ、つうのような血縁もなければ何の財産も持っていない子供を快く受け入れるはずもない。
 つうは世間体上学校に行かせてもらってはいるが、家に戻ると下人以下の扱いで、住まう場所は馬小屋の隣の隙間風どころか吹雪が直接吹き込んでくるようなおんぼろな納屋をあてがわれ、朝の掃除と飯炊き、夕の風呂焚きが日課として与えられていた。
 専ら、家の主人である尊重だけではなく、その年老いた父母や、まだ年若い後妻やその子供たち四人も、つうを歓迎するどころかなるたけ存在を抹消しようとしていた。
 ただ一人、前妻の忘れ形見である長男を除いては。
 そんなわけで、つうは早朝まだ朝とも分からぬうちから邸内一番に飛び起き、朝食などに使う湯を沸かす一方で、冷たい井戸の水をくみ上げて、決して狭いとはいえない村長の家の廊下や玄関を雑巾がけし、一家が起きだす頃にはすっかり朝食を並べ終え、炊き上がった飯を二つ、大きめに握って、逃げるように学校へ登校するのだ。
 だいぶ白んできた空を曇った窓越しに見ながら、つうはいつものように塩だけで握ってきたおにぎりを一つ取り出すと、がぶり、と一口大口をあけてかぶりついた。
 すでにおにぎりは冷えきってはいたが、ごま塩が程よくきいていて、かむほど甘いご飯と風味よい胡麻の香りが口の中に広がる。その小さな幸せをかみ締めつつ、つうは一口、一口、いとおしむようにおにぎりを味わって食べる。
 空がすっかり明けきり、冬のお天道様が弱々しく昇ってきた頃、今朝一人目の廊下を走る音が近づいてきた。
 がらがらがらがらっ、と古ぼけて油も切れた木造の引き戸を勢いよく押しきって飛び込んできたのは、二学年上の学校一のガキ大将、すなわちつうが厄介になっている村長の家の長男だった。
「うおーっ、あったけぇー。って、ぅおっ、さみぃっ」
 開けっ放しの廊下から吹き込んできた風に背中をなで上げられて、長男はぶるぶるっと震えて、室内に融けかけた雪をばら撒きつつ戸口を閉める。
「何だ、おつうちゃん、まーた一人で寂しく食ってんのか」
 入ってきた人物に一瞥すら投げかけないで一身におにぎりに喰らいついていたつうは、どさっと目の前の席に座った影に驚いて顔を上げた。
「口元に飯粒ついてるぞ」
 大胆不敵な長男は、つうの口元についた飯粒をとると、ほいと自分の口の中に入れてしまった。
 つうはぽかんと長男の口に入ってしまった飯粒を見つめていたが、再び三分の一ほど残っているおにぎりにかぶりつく。
「今日はおれも握り飯持ってきたんだ。お前、いっつも一人だからさぁ」
 薄汚れた布かばんから一包みの新聞紙を開いて、長男はつうのよりも大きなおにぎりにがぶりと喰らいついた。
 おにぎりからはまだほこほこと暖かな湯気が立ち上っている。
 はふはふとせわしなく口を動かしながら、同様に手もかばんをあさる。
「そうそう、沢庵も持ってきたんだ。四切れあるから半分こな」
 長男は寒さであかぎれた手で二枚一度に沢庵を口に放り込むと、残りを包みごとつうの目の前に押しやった。
 嫌でも視界にねじ入れられた薄く黄色に色づいたそれを見て、ようやくつうは食べるのをやめて、うつむき加減にゆっくりと首を振った。
「なんでだよ。いいから食えよ。あんなに朝から働いといて、朝昼あわせてそんな小さな握り飯二つじゃ育たねぇぞ。前は教室で一番でっかかったくせに、今じゃ同じ年の女どもにおいこされて、前から三番目じゃねぇか。沢庵二切れでもきっと違うぞ」
「……」
(ご親切はありがたいのだけれど……)
 心の中で言おうと思った言葉は、しかし喉に引っかかり、告げるために吸い込んだ息だけが、同じ分量で吐き出される。
 つうは生来口がきけなかった。
 言葉も覚え、かくこともできたが、音声にすることだけはできなかった。
 仕方なく、つうはもう一度首を振る。
「ちぇっ、おいしいのに。せめて握り飯に梅干くらい入れろよ。梅干の一つや二つ、暗い壷の中でなくなってたって誰も気づくもんか」
 とんでもない、と激しく首を振ったつうに、いい加減あきれ果ててしまって、長男はふぅーっと長い溜息を漏らした。
 つうは長男の心遣いをありがたく思いはしていたが、いかんせん、つい昨夕、村長や後妻がこの長男にあまりつうに心を使うなと叱りつけているのを立ち聞きしてしまったせいで、素直に頷くことができなくなっていた。
 つうと同時に二個の大きなおにぎりを食べ終わった長男は、すっく立ち上がり、おにぎりを包んできた新聞紙を丸めてストーブの中に放り込んだ。
「そういえば、今日はお前の父ちゃんの一周忌だったな。親父の奴、ケチでどうしようもないからさ、法事もしてやれないけど、学校終わったらお墓に寄っていこうぜ」
「……」
 つうは頷くでも首を振るでもなく、返事も聞かずに自分の教室に行ってしまった長男を見送っていた。
(父さんの命日を覚えているのは、自分だけだと思っていたのに……)
 つうはぐちゃぐちゃとかき回された心を吐き出すために、深い深い溜息をついた。
(あのひとさえいなければ、わたしは余計な手を差し伸べてくれた村長一家に仕返しして、そのあと、どこにだって逃げることもできるのに……)
 何度も何度も繰り返し味わってきた歯がゆさに、つうはまた身を震わせた。








 午後、つうは村長の長男を待つことなく、父の卒塔婆の立てられた山の雪原へ向かって、吹雪の中をずんずんと突き進んでいた。
 雪の上をがんじきをつけて進むのだが、誰も踏み込んでいない柔らかな新雪は深く、膝がずっぽりとはまりこんで、つうは何度も雪の中に転んだ。
 そのおかげで鼻のてっぺんは真っ赤になり、息も上がって頬が寒さと冷たさで真っ赤に高潮した。
 しかし、吹雪はそんなつうを気遣うことなく、ますます激しくなり、むしろ薙倒さんばかりに吹つけた。
 ついにつうはすっかりやせた体を吹き飛ばされて、雪に埋もれかけていた木の枝にしたたかに打ちつけられた。
 どさどさっと雪が体中を覆うように降りかぶさり、顔には氷の粒が吹きつける。
 鼻から呼吸ができなくなったつうは必死に口から呼吸を繰り返していたが、やがて、口から吐き出される白い息も薄く少なくなっていった。
 あたりはすでに暮れかけている。
 重く垂れ込めた灰色の雲にうっすらと朱紫が映え、激しい風に翻弄される雪までが幻想的にきらめく。
 つうは遠く父親の卒塔婆の立っているあたりをぼんやりと見つめた。
 おそらく、つう一人いなくなったも村長はこれ幸いと数日くらいほっとくだろう。
(早くあんなところ出てしまえばよかった。あんなお金のことしか頭にない村長の家なんか、人の住むところじゃないんだ。どうして思いきれなかったんだろう……)
 雪の重みと冷たさに、手足の感覚はすでにない。
 朦朧とした意識下で、ただ一つ、吹雪の音ばかりをとらえていた耳が、ふと聞きなれた声を遠くにとらえていた。
「おつうちゃーん」
 村長の長男の声だった。
 心の中で村長一家への呪詛を唱えていたつうが、ぴくりと身を震わせた。
 そのとき、どこからか若いが地を這うように低い女の声が聞こえた。
「村長一家が憎いのだな。娘よ、お前の恨みは母が晴らしてやろうぞ」
(娘……? 母……?)
「案ずることはない。お前は私の子。すぐに楽になれる」
 背後から誰かが優しく抱きしめる。
 柔らかな腕。
 雪のすんとした香りがする。
 けれど、決してその腕は暖かくなどない。氷のように冷たかった。
「おつうちゃーん!」
 さっきよりももっと近くで長男の声がした。
「娘よ、まずはあの子供からにしようか」
 感情のない声で、女は尋ねるようにつうの耳元に冷たい息を吹きかけた。
(雪女が出るって本当だったんだ……)
 つうは今更このあたりに伝わる言い伝えを思い出して感心したが、自分を抱きしめていた白く細い腕がすぐ近くまで来た長男に向けられたことに気がついて、あわててもはや一寸たりとて動かせないはずの首を激しく振った。 「しかし、お前が最も疎ましく思っているのはあの子供ぞ?」
 つうは再び首を振る。
「母は、あの子供を生かしておく気にはなれぬ。お前のためにも」
 雪女はさらに腕を上に上げ、雪の中を背をかがめて歩いてくる長男に、立っていられないほどの吹雪を浴びせかけた。
 あっという間に長男が吹き飛ばされていくのを見て、つうはがむしゃらに雪女の腕にしがみつき、はじめてその女を真正面から見据えた。
 女の髪はとれたての絹糸のように白銀にきらめき、白い着物を着た両肩から長く雪の上まで落ちかかる。袖から出る腕は青白く、顔も怜悧な氷を丁寧に削って彫りだしたかのように透き通って白い。面差しはどことなくつうに似たものがあったが、女のほうがずっとなまめかしい美しさがあって、冷ややかな表情に固められていた。
 そして、決して融けることない氷を閉じ込めたような色の瞳は、驚きをこめてつうを見つめ返していた。
 圧倒されつつもつうはしっかりと女の視線を受け止める。
 そして、ゆっくりと寒さにしびれた唇をほぐすように唇を動かす。
『おねがい。やめて』
 まもなく、ふぅっと吹雪は和らいだ。
 同時につうの体は雪の中で凍りついていた。




『雪女たる者、小正月と満月の夜には気をおつけ。小正月一月十五日と満月の夜には、人間に姿が見えてしまう。姿を見られて雪女は、その人間を殺さねばならない。これは掟ぞ。破れば己の命がなくなると覚えよ』








 つうが死んでから、あっという間に四年の歳月が流れていた。
 あの村長一家は、つうが死んだのと同じ日、屋敷が雪に押しつぶされて倒壊し、家にいなかった長男をのぞいて一家八人が犠牲になった。
 そして、ちょうど四年目、小正月一月十五日の夜、一人の雪女が雪の重さにたわんだ枝の上にちょこんと座っていた。
 年のころは十五、六。
 銀の絹糸のごとき髪を腰の辺りまで伸ばし、真白な着物を着ていて、袖口からは着物の色とさほど変わらぬ雪のようになめらかで白い肌がのぞいている。
 表情のない蒼氷色の瞳は、きっぱりと晴れた瑠璃紺の空ときらきら煌く一面の雪原を映すだけ。
 空気は時間と空間ごと凍結してしまったかのように一切の動きがなく、ただ光がまばゆいばかりだった。
 その雪を煌かせているのが、つい今しがた上りだした欠けたところのない月だ。
 雪女はその月を背にし、じっと動きを止めていた。
 人に見つかるから外に出てはいけないその夜、彼女はじっと何かを待っていた。
 地平線の緩やかな丸みを帯びたこの雪原に、ぽつりと黒い影が現れた。
 それはずんずんずんずん深い雪に足跡を残しながらためらいなく雪女の座っている木の下までやってくる。
 黒い帽子、黒い外套、そして、手にはまだこのあたりでは咲きそうもない小さな紫スミレが二本握られている。
 雪女は掟も忘れ、この小正月の晩にたった一人で、普段誰も踏み込まないこの雪原に来た黒い外套の男を、それは興味深そうに氷の瞳に映した。
 男は紫スミレを木の下の雪に花が出るように埋めると、帽子を取ってしゃがみこみ、瞑目して手を合わせる。
「おじさん、おつうちゃん……」
 ざわりと雪原さながらの雪女の心に風が吹き込んだ。
 それに同調するかのように、突如吹き上げた風が小さな雪花ごと男の黒い帽子を巻き上げる。
 男はあわてて立ち上がり、風に運ばれる帽子を目で追う。
 帽子は木の上に佇む少女の手の中におさまった。
 男はその真白い小さな手からさらに上へと視線を這わせる。
 蒼氷色の瞳。
 二人は言葉もなく、ただ数刻、じっと互いを凝視していた。
『姿を見られた雪女は、その人間を殺さねばならない』
 意識下で低い女の声が警告する。
 しかし、雪女は無意識のうちにその蒼氷の美しい瞳から一筋の涙を流していた。
 声にならない叫びを上げながら、闇雲に一つの立派な家を雪の重みで押しつぶした記憶から彼女の生は始まる。  そして、気がついたときには、たった一人で雪の原にいた。
 自分が持っていたのは低い女の声がささやき残した掟だけ。仲間がどこにいるのか、自分が何者かすらよく分かってはいなかった。
 誰とも会わず、話さず、特に何かを食することもなく、ただただ雪原を見つめながら孤独のうちに日を送り、夏は根雪の残る山に入る。その山にも自分と同じものはいなく、やはり白い雪面を見てすごすのだ。
 だから、孤独だといっても、彼女はその寂しさに気がついてはいなかった。
 今、目の前に何かを感じさせる自分とは異種のものを見て、はじめて、心のうちから形にならない叫びがこらえきれずに涙になって、とめどなく頬を伝い落ちていくのだった。
 若い雪女はとっ、時から飛び降り、黒い外套の男の前に立った。
 男は目の前の少女を顔色一つ変えず、じっと見つめたまま。
 雪女は何かを言おうとして口を開く。
 しかし、彼女の口からは喉もとを息が通り抜ける音しかしなかった。
「……やっぱり、おつうちゃんだ……」
 確信して男はつぶやいた。
 一方の雪女は、自分が喋れないことすら知らなかった。咳払いをしてみたり、喉もとを触れたりするが、一向に声の出る気配はなく、顔をしかめるしかなくなった。
「雪女に……なっちゃってたのか……」
 泣き笑いのような表情を浮かべて、男は言った。
 その言葉に、雪女ははたと掟を思い出し、ぐっと爪立てて背の高い男にしなだれかかり、唇を寄せる。
「おれを殺すんだね。兄さんのように」
 唇の触れ合う寸前、雪女は凍りついたように動けなくなった。
「おつうちゃんのお父さんは、おつうちゃんのお母さんにこうやって殺されたんだ。小正月の、それも満月の晩だった。それでおつうちゃんは一人になってしまった」
 目を見開いて間近に男を見つめる。
 男の瞳はどこか懐かしい色をしていた。
 しかし――
(つうなんて知らない)
 勝手なこの男の思い込みだろう。
 助かりたいがために、口からでまかせを言っているのだ。
 静かな怒りをこめてにらむと、男はふっと微笑んで雪女の腰を抱き寄せ、ためらうことなく彼女の口唇に口唇を重ねる。
 雪女は警鐘のように鳴り響く教えの通りに何の感慨もないまま冷気を吹きこむ。
「一人になったおつうちゃんは、村長の家に引き取られた。おつうちゃん には一人、叔父がいたけれど、行方不明だったから。……君が、あの一 家を呪い、殺してしまったのは、よく、分かる。口もき…けなければ、自分の気持ちを、素直に、吐き出…せる相手も、いなかっ、たのだ…か…ら……」
 男の顔は次第に歪みはじめる。送り込まれた冷気が喉を、肺をやき、胸をきしませる。
 それでもなお、男は間を見ては雪女の耳元にささやき続けた。
「それでも、人の言葉を解してしまうのは悲しいことだね。あの家では、おつうちゃんの悪口しか言ってなかったんだから」
 雪女は不意に男から口唇を離した。
 男は息荒く、雪原に倒れこむとのたうちまわりながら酸素を求めた。
 雪女は苦しむ男の傍らに膝をつく。そして、どこで覚えたのか思い出せぬ文字を指で雪原になぞった。
『アナタハ ダレ』
 男は咳き込みながら、視界にその文字をとらえる。
「おれは、二度、雪女にあって命を助けられた。一度目は、おつうちゃんの、お父さんが、死んだ…とき。二度目、は、おつうちゃんが、死んだ、とき。村長のい…えも、帰ったら雪に、押しつぶされていた。……三度も雪女…に、助けてもらおうなんて、思っちゃいない……。おれを殺せば、君は答えが、得られるかもしれ…ない……」
 微笑んだ男に雪女は小首をかしげた。
『ドウシテ ソンナコトヲ イウノ』
 男は雪女の頬に腕を伸ばす。
「綺麗に、なったね。おつうちゃん」
 何とか届いた人差し指と中指の先で、寒さに小声震える指を励まして男は流れっぱなしの雪女の涙をぬぐう。
「雪女が、人間を殺さなければならないのは、出会ってしまった、異種の者に、未練を残さないため、だよ。同性異性に関わらず、人間は雪女が人間だったときの、記憶を呼び覚ましてし……まうことが、あるから。
 たとえ、雪女が人間のふりをして、こっちの生活に溶け込んでも、子供ができる…と、雪女はえらく短…命になる。子供を身ごもらなければ、雪女は不老不死を、維持できる…のに…。子を残すことが、雪女という種族を、減らしてしまう。だから、雪女は、人間を殺す…のだそうだよ。
 男なら、なおさら……」
(言っていることがよく分からない……)
 雪女はしばらく迷っていたが、やがてもう一度男の口唇から冷気を吹き込み始めた。
(殺せば分かるといっているのだから、殺してみればいい。案外、死ににきたのかもしれないのだし)
 かすかな疑問を浮かべたまま、ほぼ無表情で口唇を触れ合わせる雪女を、男はまだほんのすこしだけぬくもりの残った腕でやさしく抱きしめた。
 体に初めて伝わってくるかすかな温みが雪女を混乱させた。
 覚えのあるぬくもり。
 それは父の腕だったか、母の腕だったのか。
『母はあの子供を生かしておく気にはなれぬ。お前のためにも……』
 あの時、視界に入ってきた人影は……殺さないで、と母を名乗る雪女にしがみついて懇願したのは、そう、あの人影のためだった――。
 と、男の腕から力が抜け去った。両腕は雪女の背をすべり、男の腕は重く雪花を舞い上げて雪原に埋もれる。
 つうは、はたと冷気を吹き込むのをやめた。
 そっと口唇をはなし、重くなった男の半身を抱き上げる。
 その体はすっかり冷たく凍りつき、呼吸もとうになくなっていた。
(村長の息子だ……)
『殺さないで』と母に懇願したひとを、自分が殺めてしまった。
 その事実に、つうは呆然と残された骸を見つめた。




 それから、村は四年前に死んだはずのつうによく似た少女を前の村長の屋敷跡で見かけたという噂で持ちきりになった。
 さらに、つうによく似た少女は、村長一家の長男について、なにかしら役場に尋ねると、深追いされる前にどこかへと去っていったのだという。
 少し遅れて、帰郷中の学生の凍死体が村外れの雪原で発見された。
 学生は、この村の前村長の長男で前妻の連れ子だったという。
 村人たちは、全村長一家に関連した人物が皆、冬に雪原で凍死したり、雪に家を押しつぶされて死んでいることに気がついて、きっと雪女の呪いがかけられていたのだと噂しあった。
 ある者などはこっそり「死んだつうが雪女になって村長一家に復讐したんだろうよ」と呟いた。

 四月の初め、雪深い山間の村から雪女や前村長一家の噂が消えた頃、小さな雪花がちらほらと若草の芽吹く野原に舞い降りた。
 以来、この村で雪女に殺された者はいない。





〈了〉







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