瀬戸川流域の歴史(志太郡衙)


藤枝市瀬古
志太郡衙
 志太跡は,駿河台団地造成に先立って行われた発掘調査によって,昭和52年に発見され,調査されました。  郡衙とは,奈良・平安時代に全国の郡ごとに置かれた古代の役所で,志太郡衙は現在の藤枝市の西側から島田市にかけての地域を治めていたものと考えられています。  当時,全国にはおよそ600カ所に郡衙が置かれていたようですが,現在ではその場所は殆ど分からなくなってしまっている。  こうした中で,志太郡衙跡からは郡名や郡司の官職名を食器に書き込んだ「墨書土器(ぼくしょどき)」が数多く発見され,この場所がかつての郡衙であったことが証明されました。  全国的にも貴重な志太郡衙跡は,昭和55年に国の史跡にしていされました。そして,昭和57年度から国・県の補助金を受けて板塀・門・井戸・建物の復元,志太郡衙資料館の建設をはじめ,建物の標示(柱跡の標示),環境整備,万葉植物園の整備が行われました。  なお,発掘当時の様子や出土品,遺跡や整備の内容について知りたい方は,資料館で学習出来ます。  

役人の仕事ぶり
掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)
 南側の建物は,郡衙の中でも最大規模の立派な建物です。  柱はすべてヒノキでその径は,30〜40cmもあり,束柱(つかばしら)をもち建物の周囲には雨落溝をめぐらしています。  柱は地面に一辺1.2〜1.4m,深さ70〜100cmの穴を掘り,柱が重みで沈まないように底に礎板(そはん・板片)や礫を敷き,その上に柱を立て,周囲には礫などを詰めて補強しています。
掘建柱建物柱根と礎板役
 この建物は,四方を板塀によって囲まれ,他の建物とは隔離された特別な配慮がなされています。  復元にあたっては,当時の建物が現存していないため建物構造については,「正倉院文書(しょうそういんもんじょ)」に残されていまる藤原豊成板殿(ふじわらとよなりいたどの)を参考にし,屋根は板葺(いたぶき)きの切妻(きりづま)で一枚板の葺降(ふきおろし)しとしています。壁については,土塁とし,春日大社着到殿を参考にして,北及び東西の一部だけを復元しています。  

出土した食器類
陶硯(円面硯や食器を利用したスズリ)


志太郡衙に関係した墨書土器の文字
平城京へ送られた木簡


煎(煮汁を入れた土器)
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