瀬戸川流域の歴史(郷土の先駆者達の巻)


郷土の先駆者達の巻
郷土の先駆者達

平成12年度  稲葉公民館講座「歴史物語」資料

はじめに
 この,1世紀,我々の周辺では、いろいろな大変革が相次ぎましたが,如何なる逆鏡にも前向きの努力を惜しまない先人達の努力が有りました。さらに、その背景に目を転じると、昔から現在に至る、各時代に郷土発展の礎となった、先人達努力の足跡があります。
 郷土の先覚者達は、どのような努力の足跡があったのか、その生きかたと努力その精神を、現代に生きる我々が学び取る時であり責務と思います。
 今回は、華々しい歴史の舞台に登場することのない先覚者の後を学びたいと思います。
江戸時代
水野監物忠善
(みずのけんもつただよし)
水野監物忠善は、第3代の田中藩主として、官営12年、4万5千石で着任した。
  イ.島田の監物と灌漑用水路
  ロ.瀬戸新屋の千貫堤の構築。
石上清兵衛
(いしがみせいべい)
 江戸初期の義農 志太郡高柳の庄屋。元禄3年(1690年)不作の時の、田中藩主大田攝津守資直に直訴。元禄5年(1692年)処刑。24歳。
岩堀兵太夫
(いわほり・ひょうだゆう)
 志太郡高洲村開拓者。慶長年間、寛永年間大井川洪水による、荒廃地の再開発を、時の田中藩主松平大膳大夫に願い出て、幾多の苦難の末、志太平野開拓の先駆者となる。
坂本藤吉
(さかもと・とうきち)
志太郡伊久美村出身。玉露茶・抹茶の製法を山城国宇治より導入し広めた。
青野三右衛門
(あおのさんうえもん)
菜種油によるウン力駆除発見者
増田五郎衛門
(ますだごろうえもん)
志太郡細嶋村の義民。文化13年8月当地区を襲った、風雨水害による凶作のため、田中藩庁に直訴。後、源昌寺ヶ原で処刑される。
 詳細はこちらを
椎茸師嘉兵衛
(しいたけし かへい)
椎茸師嘉兵衛は、志太郡滝沢村の出身。椎茸栽培の技術を乞われて、西日本を指導した。かれの墓は,阿波国(今の徳島県)那賀郡喜沢村にある。
ほかに、金右衛門なる人物,駿河入舟村出身が、伊勢松坂付近で文化元年死去した記録がある。


明治時代以降
 明治時代以降は,明治維新による封建社会の終焉と急激な西洋文明により,あらゆる分野で偉業を成し遂げた先人達がいた.青地雄太郎,笹野甚四郎などの偉業はそれだけで講座になるが,今回は、今だ知られていない先人達を紹介したい。
青地 雄太郎藤枝駅の設置慶応元 5月1日志太郡前島村に誕生
 顕著な事蹟
 @東海道線藤枝駅の設置 東京専門学校(早大)を卒業した若冠23才の青年が、広大な敷地を提供し藤枝駅の設置に成功し藤枝市の発展の礎をつくる。
 A15年間衆議院議員として活躍 24才で青島初代村長に就任、36才で衆議院議員に当選、中央政界に進出し改新党の大隈伯、後に国民党の犬養毅等と15年の長きに亘り国政参画し、尚、地域の産業、金融、交通の開発に当たられた。
 B信州飯山鉄道敷設に貢献 政界引退後、電力事業や飯山鉄道専務として活躍、生涯一貫して、愛国心を貫き、産を傾けることも辞せず雅号を後凋と称した。
 後凋とはおくれてしぼむの意、生涯を国家、社会の為に燃焼しつくした郷土の先覚者といえよう。
 藤枝駅前に胸像がある
岡野 繁蔵企業家・代議士(明治27〜昭和50)
 岡野繁蔵は、青島村に生まれました。小学校卒業後、育英学校に進み、卒業後は丸十運送店で働きながら独学し大正2年同志と修養団青島支部を創設し、大正4年東洋商会に就職、インドネシアのスマトラ島で働きました。
 同8年には資金援助を受けて単独「大信洋行」を興し、昭和2年(1927)頃より南洋における雑貨貿易業の一位にまで成長しました。その取扱品目は、陶磁器・ガラス製品・エナメル製品・綿布製品・蚊取り線香・薬品・ゴム製品など取扱総品種45月類にのぼるといわれています。
 しかし、日中戦争と第2次世界大戦の激化により前途に見切りをつけ、昭和18年に店舗を閉じて日本に引き上げました。その後昭和22年の第23回衆議院議員選挙に出馬して当選、中央政界にも乗り出しました。
片岡 総八郎地方開発の先駆者天保14年,小川村素封家片岡家に生まれる。
 時の領主沼津藩水野侯の庄屋を拝命し,維新後は郡政役所より35ヶ村の総代を努める。
 明治24年,時の内務大臣の許可を受け、私財を投じて藤枝大手一焼津間にトロッコ道を敷設して,
通行運輸の便を図り,地方開発の先駆者となった。
 明治42年、66才で病没。
岡崎 平四郎若年で県会議長 慶応3年,木町の麹屋で名高い旧家,豪商の岡崎家に生まれる。一説に中條金之助の子息と言われる。
 「お坊ちゃん」長じて若旦那となるが、才気・度胸があったので,県会議員となり,当選4回,明治36年、37才で第8代県会議長に就任。業績として,瀬戸川堤防の改修,志太中学開設のため,敷地,建設費の寄付,原の新道の開通,蓮花寺河畔の花火大会の行事化,藤枝競馬倶楽部設立,商店街の大出売りの実行。昭和5年64才で逝去。
錦織 兵三郎
教育者 明治12年,宮城県黒川郡落合村(大和町)に生まれる.東京高等師範学校(現・筑波大)卒業後、岩手,浜松の師範学校の教諭を経て,大正13年,県立志太中学校の初代校長に就任.校技に蹴球を取り入れ,理由は,時間浪費の少なさ,運動量,男性的進取の気性,競技の将来性であった。明治12年,宮城県黒川郡落合村(大和町)に生まれる.東京高等師範学校(現・筑波大)卒業後、岩手,浜松の師範学校の教諭を経て,大正13年,県立志太中学校の初代校長に就任.校技に蹴球 を取り入れ,理由は,時間浪費の少なさ,運動量,男性的進取の気性,競技の将来性であった。
サッカー名門藤枝東,サッカーの町藤枝、サッカー王国静岡の礎を築いた。
大塚 柳平
瀬戸ノ谷街道開繋 嘉永2年,志太郡助宗村に生まれる。資性温厚篤実,公益の年厚く,明治28年推されて稲葉村村長に就任。明治30年志太村−赤坂橋間開通、31年赤坂橋−中山間開通、32年中山−槍峠開通34年上博馬−矢崎橋開通の業績がある。本街道開通により,志太北部の産業経済に多大な貢献を見た。
 川根電気索道,大井川鉄道、奥大井電源開発に寄与した。
池谷 政一郎
池谷街道建設発起人 天保5年遠州宗高村に生まれる.常に地方開発公益の年が厚く、明治6年,戸長となり,同志を募り新道建設に着手.大崩海岸の峻険を開繋,浜当目,榛原郡下吉田間3里5丁を開き1882年完成志太・榛原・南部の経済発展に寄与した。現在でも,俗称「池谷街道」として親しまれている。
杉山 裏白
シダ細工の創始者 文政6年生まれ。岡部の杉山惣右衛門の婿養子となる.山野に自生するシダで花器・茶碗等の篭を制作し後継者の養成、産業に成長させた。作品は内国博覧会に出品され,中国,米国に輸出されるまでに発展。その功績により,時の県令、大迫貞清より表彰された。現在では廃ッてしまった。
持塚 弥吉
焼津港整備の貢献者 明治27年金谷町生まれ・焼津で薪炭・箱材の販売を行う傍ら,港の近代化のために奔走。
 趣意書を作り,町内,地区有力者,船元,一般家庭にまで署名運動を展開。「焼津時報」と言う新聞を発刊世論に喚起し,先進漁港の視察,国庫補助金獲得に奔走1939年,焼津港修築事業が決定されたが戦争で中断,戦後再開、1951年完成日本一の水揚げ量,東洋一の規模、遠洋漁業の基地として発展の影には同氏の弛まない努力があったことを忘れて成らない
山下 幸五郎
篤農家 天保13年遠州上泉村に生まれる.郡の各農会の組合長を歴任。明治7年郡下で初めてナシを導入し、「志太梨」の先駆者となる.栽培努力、交配,品種改良に努め,明治40年では,生産農家113戸,売上高8036円が昭和9年では、1451戸、554,433円と急増し,志太梨の知名度は全国に行き割った。現在では栽培農家も減少しているものの,豊田地区では観光農園化して、その伝統を守っている.その他.業績は,田中川,運河の開削に私財を投じたり,銀行設立、など地域発展に貢献した。
 因みに,長男は相川村長、二男は大坂府立獣医畜産専門学校長,長女みすは,和歌山県立粉川高等女学校長となった。


   
瀬戸川流域の歴史に戻る