日待・月待


日待・月待とは?
民俗学の日待、月待論
 日待、月待の研究は、これまでもっぱら民俗学の分野で行なわれてきた。おのずからその取り組み方には限界がある。頭から民間信仰と決めてかかり、"主上の御日待"(『日次記事』)や、五流尊瀧院のお日待法事(後述)、かつて行なわれた住吉大社の日待神事(後述)などは話題にもあがってこない。
 これまで三つのアプローチがあったように思われる。ひとつは柳田国男氏が行なったマチ事としてとらえる方法で、氏一流の独創的な見解を示しているので、別個に扱う。第二は宮座、寺座(講)の活動として話題にしたもので、これまでのところ個々の座の紹介程度にとまり、まとまった日待、月待論へと展開した気配はない。本当なら、この辺から日待、月待の実態を知り、その実体にせまるべきであろう。第三は石仏研究の一環としておこなわれているもので、代表者として前章でみた『日本石仏事典』の編者、小花波平六氏と、『石神信仰』を著した大護八郎氏の名をあげることができよう。
 小花波氏の所論は同事典の日待塔総説にみられる。氏は「日待は本来、人々が一定の日に決められた場所に集まり、夜もすがら忌みごもりなどして日の出を拝した行事であった。この日待の起源について鉄証をあげて明快な説明をするのは困難だが、あるいは古代の日奉部などにも関係ある行事かもしれない。ともあれ日待は古代の信仰に根ざした古い習俗と思われる」としておられる。要するに、よくわからないが、太陽を神として崇めるのは洋の東西を問わぬ普遍的なもので、当然、わが国にも太陽崇拝があったとみてよく、日待という名称から察すると、それは日の出を待って行なう行事であったと考えられる。そして、この信仰の遺風をわが民俗の中に求めれば、それは日待以外にない、ということであろう。だれもが考える常識的な発想だが、小花波氏も言われるように、実証性を欠く。 朝日を拝するということなら、今日でも正月に初日の出を拝する。富士山頂で御来迎を拝し、他の霊峰でも同様のことをおこなう。時と所によって見る朝日は荘厳で、容易に信仰と結びつく。しかし、日の出を拝することに主眼があるのであれば、早朝に起きておこなえばすむことである。なぜ夜もすがらの忌みごもりなのか。この点に考察を加えたのが柳田氏のマチ事論で、次章で紹介することにする。
 ちなみに「日祀部(ひまつりべ)」なるものが創設されたのは敏達天皇6年(577)のことで、これを伝える『日本書紀』の記事が簡単すぎて、くわしいことはわからない。『新撰姓氏録』左京神別の"天神"の部に「日奉連(ひまつりのむらじ)」の名がみえ、「高魂命(たかむすび)の後(すゑ)なり」とある。この氏族のこともよくわからない。結局、日祀(奉)部と日待、月待の関係は、文献資料からは明らかにすることができない。
 ところで、小花波氏は、「庚申待を庚申日待、巳待を弁天日待、榛名代参講の講行事を榛名日待と呼称しているのは、日待が庚申待や巳待などよりも早くから実施されてきた習俗であることを証明する」と言う。なぜ証明になるのか、私には理解できない。下層の方が古い、という地質学のような説ではある。むしろこの用語例は、日待とは"夜篭り"のこと、とする窪説を裏づけるもの、と私には思われる。
 実は大護氏も「庚申塔」で庚申信仰の系統分類を試みた際、「日待月待の系統」をあげ、庚申信仰の母体として日待、月待を考えておられる。民俗学では庚申信仰を舶来でなく、わが国固有の信仰と考え、その講的組織や徹夜の作法などは日待、月待の形式を真似たものとみており、この説を成立させるためには、なにがなんでも日待、月待はわが国古来の習俗でなければならないわけである。
 庚申信仰の根底に日待、月待があるという想定のもとには、庚申塔に日輪、月輪が刻まれているという事実がある。すべての庚申塔というわけではないが、相当数のものに日月輪がみとめられ、日待、月待とのかかわりを疑わせる。先学がこの点に着目されたのも当然であった。ただその解釈が問題で、私見はすでに小著『庚申信仰』で述べたが、後でもう一度ふれることにする。
 さて次は月待だが、これについての小花波氏の見解は次のとおり。日待は古くは十五日の夜、つまり満月の夜におこなわれるのが本然の習俗であった。この日待で月の出を待つ一夜、夜もすがら眺めるのは満月であり、月への崇拝は古くからのことであるから、当然、その夜、月への崇拝や祈願もおこなわれたにちがいない。結局、日待と同様の方式で月待はおこなわれたのである、と。
 一方、「仏教においては十五日の月は弥陀の化現とされ、発菩提心や悟境に達するなどのたとえに用いられてきた。その月の姿により、円満無礙(むげ)や西方指向などの譬喩にもつかわれていた。この思想をふまえ、わが国でも平安、鎌倉の時代に十五日の月を礼拝する宗教的儀礼を伴った行事として夜もすがら月にむかい、勤行看経することが行なわれてきた。」他方、「月は勢至菩薩の化現であると説く経典があり、また三十日仏説では勢至の有縁日は二十三日とされている。そこで、月に対する礼拝は二十三夜に行なうのが本筋であるとする考えから、いわゆる二十三夜の月待が室町時代から仏家で盛行するようになった」というのが小花波氏の見解である。
 氏は月待塔と庚申塔との造立年代を比較し、前者が十五世紀に目立って多く、後者が十六世紀後半から急増することに着目し、庚申塔の造立は、月待塔に入れ替わる形で盛行しており、庚申待という行事は、月待にならって成立したものであることがわかる、と述べておられるが、これは事実に反する。庚申信仰はすでに平安時代にさかんであった。
 次に大護氏の見解を、氏の『石神信仰』を通して少しみておこう。古代人の生活は月の運行を基にした太陰暦の上に立ち、また日本の祭は本来、夜を中心にしておこなわれたものであるから、満月である十五夜と、その前後の上弦、下弦が祭の日に選ばれた。だから何夜待といったところで、必ずしも月に関する信仰とは言い切れない。日待という言葉は農村においては月待以上に今なお一般に用いられており、祭とほぼ同じ意味に用いられてさえいる。しかし、月の満ち欠けは女性の生理と結びつき、生殖、豊饒の思想につながる。というわけで、月信仰は結局、女性によって支持され、盛んになった―と大護氏はみる。月待が多く女性講でおこなわれていることは前章でみたとおりである。
 氏はまた、「太陽と月はそれぞれ独立した信仰を持っているとともに、日月という一対のものとして石神の上部にしばしばその姿を現わしてくる」と、石塔の日輪、月輪に注目する。これについて三輪善之助氏が、月待供養は浄土宗の阿弥陀三尊崇拝に由来し、日は観音、月は勢至を表わし、本尊の阿弥陀と共に三尊具備となる、という説を出しておられるが、日、月輪は庚申塔や地蔵塔、馬頭観音塔などにもみられ、この説では説明がつかない。そこで氏は、農民の最大の願望は「日月清明、風雨順時、五穀豊饒、天下泰平」で、五穀豊饒の根本をなす、風雨順時をもたらす日月清明の象徴であろうとみた。しかし、石塔に示される信仰の信者は農民と限ったものではない。よく知れた庚申信仰を例にとれば、これを守った者の中には町人も商人も漁民もいる。それぞれ願うところは同じでない。従って、石塔の目、月輪を農民の所願で説明することは、当を得ないことになる。
 石塔の日輪が日待、月輪が月待との習合を示すものであれば、日待塔には日輪が、月待塔には月輪が刻まれていてしかるべきである。ところが現実には、日待塔、月待塔にはなにも刻まれていないか、刻まれているとすれば両者が一対で刻まれており、これらが日待、月待のシンボル・マークでないことは確かである。
 日、月輪は石塔以外にもみられる。神社、それも古社、の灯篭の飾りはすべて日月輪である。『続日本紀』に記された朝賀の儀の模様をみると、四神の旗と並んで日像、月像の旗がたてられている。『続日本後紀』の大嘗会の説明では、悠紀、主基の標に日像、半月像が飾られていた。社寺参詣曼陀羅とよばれる一連の密教画にもたいてい日月輪が描かれている。それとつながる庚申曼陀羅にも日月輪は現われる。これらのことを合わせ考えると、日と月はむしろ陰陽道のシンボルであったと考えられる。陰陽道というのは要するに、万事を陰と陽の二元論で説こうとするもので、陰の代表が月、陽の代表が日である。
 換言すれば、日輪、月輪の現われる石塔には陰陽師、あるいはこれと一連の修験者、がかかわっていたということで、日待、月待信仰はこのような視点から再考してみる必要がある。

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