二十三夜待


二十三夜待とは?
二十三夜待の掛け軸(現在使用)
二十三夜待
 明和8年(1771)に世に出た淡海子作『操(あやつり)草子』(『徳川文芸類聚』所収)に「二十三夜待」の章があり、以下の一文を載せる。「得大勢至菩薩、天竺にては摩訶那鉢(まかなぶ)と申す。無諍念(むじょうねん)王第三の王子なりとぞ。縁日は二十三日。午の歳の人足を信仰す。よって午の歳の者は、二十三夜待をして祭る事なり。惣七も午の歳なれば、勢至菩薩を信心して、とり分け正五九月の二十三夜待には、一家一門は勿論、心やすき朋友よりして、町内の人々迄も呼集め、浄瑠璃三味の楽み、または謡の声色のとて夜を更(ふか)すことなり。」草紙は中世、近世の読物で、当時の世相をよく映し出している。これもまた、その頃の二十三夜待の風俗をよく伝える好資料といえる。
 この簡単な記事から二十三夜待についていくつかの事実が知れる。(1)、勢至菩薩を祀る行事であったこと、(2)、正五九月の行事がとりわけ重視されたこと、(3)、必ずしも講単位でおこなわれたわけではなかったこと、回、特に午歳の者が祀る行事であったこと、(4)、夜ふけまで遊びに興じたこと、など。夜を徹して遊び興ずることは日待、月侍などのマチ事に共通することである。
 二十三夜待のことは同時代の近松門左衛門の『今宮心中』にも出てくる。「返事眠たき夜なか声、廿三夜の代待や・・・・」とあって、戸を叩いた返事の声がねむたそうだったので、二十三夜待を代行する人の声ではないかと思った、というわけで、比喩に用いられるほど、当時は二十三夜待が盛んだった。主人公の四郎左衛門が灸をすえてもらう別の場面では、鍼灸師が「今日は二十三夜なれど一向宗はお構ひない」と言い、一向にかまわない、のシャレだが、これによって灸をすえるのに良い日、悪い日があったこと、一向宗だけは二十三夜待をおこなわなかったことが知れる。
 ところで二十三夜待の本尊とされる勢至菩薩だが、「操草子」が「天竺にては摩訶那鉢と申す」と言うのは、えらく省略したもので、正しくは摩訶薩駄摩鉢羅鉢多(まかさたまぷらぷた)という。観音と共に阿弥陀の脇侍(わきじ)をつとめる仏で、観音は慈悲門を、勢至は智慧門を司る。観無量寿経に「知慧の光をもってあまねく一切を照らし・・・・・・」とあり、あらゆるものを照らして、その苦を除くとされる菩薩で、智慧の光、即ち月光とみなされたふしがある。像は観音に酷似し、観音が頭上に化仏をいただいているのに対し、勢至は宝瓶をいただいているという違いしかない。宝瓶(水瓶)は、本尊への供養のための水を入れる器で、それをみても、いかにも脇役的な仏ではある。
 同じ阿弥陀の脇侍でも、観音の人気は絶大で、独尊立像として造られるだけでなく、六観音のように分化展開している。他方、勢至は観音のように種々の霊験譚も無く、ごく地味に阿弥陀の脇侍としての地位に甘んじてきている。一尊独立で祀られることはほとんどない、といわれてはいるものの、実際のところ、二十三夜待では独立で祀られており、しかも月待信仰の中では人気を独り占めしている感すらある。二十三夜塔は全国的規模で存在し、月待とは二十三夜待のこと、言い換えれば、勢至苦薩の信仰とみてよいほどである。
 縁日は二十三日で、この日におこなわれる行事に、先述の七夜待と、六斎日の行事がある。六斎日とは毎月の八日、十四日、十五日、二十三日、二十九日、三十日で、辞書類の説明では、この日は四天王と、その眷属の神将、鬼神が天下を巡行し、一切衆生の善悪の行為を視察する日なので、人々は身をつつしみ、悪行を避けて心身ともに清浄持戒しなければならないとある。これは三長斎月の思想と大差ない。帝釈天が四天王に代り、宝鏡の代りに四天王の替属が世を見てまわる、というわけである。
妙心寺の僧釈南山は『南屏燕語(なんびょうえんご)』(1826)で六斎日を話題にし、提謂(だいい)長経を引いて、「上下弦望晦朔は皆録命上計ノ日也」と言う。つまり、これらの日は司命録神が人の罪状を天帝に報告する日であるというのである。六斎日は朔日を含まず、また、望日、晦日だけでなく、前日の十四日、二十九日が入っていて、日取りが合わないきらいはあるものの、庚申 の日を三尸の上告白とする庚申信仰と軌を一にするもので興味深い。
 六斎日のそれぞれには本尊が定まっている。
八日  薬師如来
十四日 普賢菩薩
十五日 阿弥陀如来
廿三日 勢至菩薩
廿九日 薬王菩薩
卅日  釈迦如来
 その起源は不詳とされる。
 六斎日に一日、十八日、二十四日、二十八日を加えて十斎日という。十斎日の功徳について、高田興清の著した「松屋筆記」(文政頃)は『真俗雑記問答抄』を引いて、次のように言う。一日に定光仏を念ずれば四十劫の罪、八日に薬師を念ずれば五十劫の罪、十四日に普賢を念ずれば百三十劫の罪、十五日に阿弥陀を念ずれば千劫の罪、十八日に観音を念ずれば九千劫の罪、廿三日に勢至を念ずれば万劫の罪、廿四日に毘盧遮那(びるしゃな)仏を念ずれば二万劫の罪、二十九日に薬王を念ずれば四万劫の罪、卅日に釈迦を念ずれば五万劫の罪を滅ず、と。劫は梵天の一日で、人間世界の時間に直せば四億三千二百万年であるといい、気の遠くなるような時間である。
 月六回、もしくは十回の斎日ごとに忌み篭りするのは難儀で、一日だけにしぼるとすれば、もちろん御利益の多い日がよいに決まっている。当然、三十日が選ばれてしかるべきである。それが二十三日に決まったのは、七夜待とのかねあいからであったと思われる。十七日から二十三日まで続く七日待に六斎日がからんでくるのは二十三日だけである。
 と言うのは正しくあるまい。七夜待は六観音信仰から出たもので、本当なら二十二日で終わってしかるべきものである。それを観音でもない勢至菩薩の縁日である二十三日を加えて七夜待としたのは、七という数をとりわけ敬う者がいたからで、山王七社、上中下あわせて二十一社、を祀った比叡天台が疑われる。勢至は阿弥陀の脇待として観音と一対であるから、これを一緒に祀ることに抵抗はなかったと思われる。
 最近世に出た豊田国男氏の『代官所御物書役の日記』(雄山閣)は、青森三戸の南部藩に属した同役で、天保十四年から大正七年までの七十六年間にわたって書きつがれた『万(よろず)日記』を素材にしたもので、それによると、『日記』には二十六回、廿三夜待のことが詳述されているという。氏によれば、三戸や八戸の東北地方には、庚申塔と二十三夜碑の併刻が多く、現在もこの崇拝行事がおこなわれ、「二十三夜御影」の掛軸をかけての個人宅や、持まわりの講形式があり、すべて旧正月二十三夜におこなうものの由である。
 なぜ、この信仰が東北地方で盛行したのか。これは私の憶測にすぎないが、『操草子』が、二十三夜待は「午の歳の人是を信仰す」と述べていることと無縁ではない。十干の午(うま)は馬ではないが、早く中国で馬と結びつけられている。東北地方は言うまでもなく馬の産地で、二十三夜待が馬と関係があれば、当然、同地で篤く敬まわれてしかるべきである。それにしても、なぜこのマチ事を午歳の人が信仰するのか、私には知れず、ご存知の方があればお教えねがいたい。

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