入会案内で言い足りないことを中心に、剣道や剣道教室についてなるべく短文で書き綴ります。
ご入会を検討中の方も、すでに入会されている方も、ぜひご一読ください。

団体名称について
八千代町の剣道
剣道教室の雰囲気
剣道教室の目的
お子様に剣道をお与えください
国際社会と剣道
剣道の理念と試合の位置づけ
感情のセルフコントロール
武道とスポーツの混濁
裸足の効用
練習じゃなくて稽古をします

団体名称について
当サイトでは「茨城八千代剣道教室」という表記を用いておりますが、これはインターネットというワールドワイドな場所での表現を意識し、千葉県八千代市を代表とする全国各地にある八千代という地名の場所を活動拠点とする剣道団体との混同を避けるための手段です。

通常使用している団体名称は「八千代剣道教室」であり、「茨城」は付きません。垂ネームの団体表記も「八千代」です。

でも将来、全国大会にでも出るようになったら「茨城八千代」に変えるかも。

八千代町の剣道
八千代町では旧来より剣道原理主義者的なリーダーシップを発揮してくださる方が不在でして、段位や年齢による序列が全く無い状態で剣道愛好家が集い、稽古し、飲んだり食べたり(どっちの比重が重いかはご想像にお任せします ^^;)するスタイルが継続しております。

良い意味での"ぬるま湯体質"とでも言いましょうか、求道者的な剣道とは対極にあるものの、自身の本職にほど良い刺激を与え、地域コミュニティの潤滑油として機能しているあたり、八千代町の剣道もある意味で剣道の本質を体現しているものと自負してます。

剣道教室の雰囲気
平成18年度現在、小学生16名、指導員10名(常時稽古に参加する指導員は3〜4名程度)で活動してます。

前段「八千代町の剣道」で述べたような剣風の中にある剣道教室ですので、「日本一を目指す!」とか「試合で負けたら稽古倍増だ!」みたいな雰囲気にはなりえません。普段の稽古による徳育が活動の本分であり、「試合のための稽古」ではなく、「稽古のための試合」という考えに立ちます。

週3回の稽古では、日常生活よりワンランク上の緊張感の中に身を置き、礼節を正し、剣を放ち放たれる一瞬一瞬に全力を尽くすことを求めます。その結果は体力と集中力が向上することに表れ、学業や将来の職業に大いに役立つことでしょう。

剣道教室の目的
「剣道の技が上達する」「試合に勝てるようになる」等というのは、どれだけ充実した稽古の日々を送っていたかを測る「ものさし」に過ぎずません。とくに試合結果という「ものさし」は時として大きな誤差を生じることがありますので、試合の勝敗よりも中身、勝って驕ることなく、敗れて挫けることのない姿勢を保つことができるか?に焦点を当てます。

そんな八千代剣道教室ですので、運営目的は1人でも多くの小学生(もちろん中学生〜大人の初心者も大歓迎)に剣道を体験してもらうことであり、剣道教室の生徒の最大目標は休まず稽古に参加することです。剣道の体験で得たものが、良識を備える立派な社会人に育つための肥やしとなるような運営を心がけてゆきたいと思います。

お子様に剣道をお与えください
ある程度お読みになられた方はお分かりになられたかと思いますが、当サイトの大部分は大人に向けて情報発信しております。

なぜかと言えば、親兄弟が剣道をやっているならともかく、そうでない場合は「お母さん、僕、剣道やりたい」とねだる小学生などいないからです。ごく稀に、テレビやマンガの影響で剣道を始めてくれる小学生もおりますが、一見すると「痛そう」「重そう」「暑そう」「寒そう」「怖そう」な剣道ですから、大多数の小学生は自分から剣道を始めたりはしません。自然、大人への情報発信となります。

保護者の皆様には、実際の剣道は「(他の格闘技よりも)痛くない」「(意外と)軽い」「(炎天下の野外より)暑くない」「(北風が吹きつける野外より)寒くない」「(慣れると)怖くない」ことと、徳育と体育の面で優れていることにご理解を頂き、どうか、お子様に剣道を与えてくださるよう、お願い申し上げます。

私や周囲の剣友も(強制力の有無や強弱はともかくとして)保護者の勧めにより剣道を始めてますが、勧めが無ければ今も剣道をしてないでしょうから、保護者が剣道を勧めてくれたことに、とても感謝しております。

国際社会と剣道
21世紀に入り国際社会の一員としての資質を求められる現代だからこそ、剣道の価値が高まっていると言えます。

国際社会では母国文化が求められます。
各国出身者が母国文化に立脚したぞれぞれ異なる観点から物事を考え、その意見を相互交流させることが多面的に物事を分析することになり、結果として最良のものを生む というのが、国際社会のあるべき姿です。

ここでちょっと考えてみてください。
母国文化=日本文化を身につける機会はありますでしょうか?
もし、これから国際社会に通用する日本文化を身につけたいとするならば、ぜひ剣道を選択して頂きたいと思います。

新渡戸稲造の名著「武士道」が『Bushido: The Soul of Japan』という題名にて英文で起稿されたのが1900年(英語版が元で、日本語版は逆輸入したもの)。流麗な英文で著されており、広く読まれたそうです。
これに加えて宮本武蔵の「五輪書」が海外でブームを呼ぶなど、SamuraiやBushidoといった日本語は国際的に認知されて久しいです。

そのSamuraiやBushidoの文化を直接継承する剣道は、まさしく国際社会で活躍しようとする人が身につけるに相応しい日本文化と言えます。

剣道の理念と試合の位置づけ
剣道の総元締めである全日本剣道連盟は、1975(昭和50)年に「剣道の理念」を制定しております。

剣道の理念
剣道は剣の理法の修錬による人間形成の道である

これに基づき、試合は「試し合い」と八千代剣道教室では位置づけてます。
すなわち、剣の理法をどのくらい修め、錬り上げられたかを、対戦相手と試合する=試し合うのです。

試合は、勝てば自信を得られ、負ければ敗因から課題を得られますので、それを稽古に反映させることが更なる修錬につながり、その修錬が人間形成の道=徳育につながります。

とは言うものの、このようなことは小学生には理解できませんから、理解できる年齢と剣道歴に達するまでは、試合を目標にするのも試合結果にこだわるのもOK。ただし「小学生自身は」です。

保護者や指導員を含む周辺の大人は、試合の勝敗に一喜一憂して終わりにしてしまっては憂さ晴らしと自己満足のほかに何も生み出さないことを理解し、理解不足の小学生を導く必要があります。一緒に喜怒哀楽にひたるのはほどほどに抑え、小学生を次のステップに進めるべく後押しをしましょう。

感情のセルフコントロール
剣道では感情をセルフコントロールすることが求められますので、試合で勝ったことに喜びを爆発させる、あるいは負けたことで周囲に当り散らすようなことをすれば、厳しく咎められます。
これに対し、感情は大いに表現するべきだとする意見もあり、しばしば対立することがありますが、誤解があると思います。

「喜怒哀楽の表現を一切するな!」などと言っているわけではないのです。

喜びが油断と他人の嫉妬を招き、怒りが理性の喪失と他人の恐怖を呼び、哀しみがやる気と他人の幸福を削り取り、楽しみが自他の緊張感を失わせることを考えるなら、それらを表現する場は、感情を共有できる仲間内や家族のみがいる私的な場に限るべきというのが、剣道における教えなのです。

試合を例に取れば、試合場という対戦相手・審判・観客といった他人だらけの公的な場では喜怒哀楽の表現を抑え、試合後の祝勝会や反省会という私的な場では大いに感情を表に出しましょうということです。

それに対し、スポーツにおいて感情を爆発させることがある程度許されるのは、スポーツが実生活とは別次元の場において終始完結するものであるからです。剣道の場合は、実生活に反映させるべき姿勢や礼節を修める場であるため、前述したような教えになります。

それともう1つ。
たしかに感情は想像以上のパワーを引き出します。とくに怒りや喜びの感情は大きなパワーを引き出しますが、その反面、コントロールすることが非常に難しく、ときに暴走してしまいます。

暴力、多くの犯罪行為、いじめ、乱闘、暴動、はてはテロや国家間の戦争すらも、感情の暴走が原因である場合がほとんどです。ある程度は感情をセルフコントロールできるようになりたいものです。

クルマや自転車に例えると話が早いかもしれません。
単純に、10kgにも満たない自転車と、10tのダンプカーのどちらが危険かと比べれば、それはダンプカーの方です。しかし、ブレーキの壊れた自転車と、非常によく効くブレーキを持つダンプカーとを比べれば、話は逆になります。安全にコントロールするには優秀なブレーキが必要なのです。

感情のセルフコントロールも全く同じことで、まずはブレーキを備えることが肝要です。

暴走しがちな感情に適度なブレーキを効かせることができれば、喜怒哀楽のどの感情もプラスに働かせることが可能になるということ、上手に感情表現できないことよりも上手に感情を抑えられないことの方が数倍もの害であるということに、多くの人が気付いてくれることを願いつつ、剣道を学ぶことをお勧めします。

武道とスポーツの混濁
スポーツという西洋文化が明治時代に来日した際、sportsにおけるgameという英単語を"試合"と訳し、スポーツを体育の手法の一つとしてしまったことが大いなる間違いでした。

本来スポーツは、ルールに則ったゲームをエンジョイするためのものであり、その練習はゲームをよりエンジョイするためのものであるはずなのに、明治時代の日本人は、練習は体力と精神力の向上を目的とし、試合においては喜怒哀楽の表現は厳禁でひたすら勝利を目指すというような、極めて武道的かつ求道的な取り組み方をしてしまったのです。

それは高校野球に代表されるとおり現代にも続いてます。
プロのアスリートならともかく、一般人はゲームの中で喜怒哀楽を自由に表現してエンジョイすることにより、日常生活のストレスを昇華させることこそ、スポーツの持つ真の価値。少なくとも小学生には、そのスポーツをエンジョイするところから入ってほしいものです。

それに対し、武道は日々の稽古による体育と徳育が本分であり、試合はその向上具合を測る場に過ぎない(だから"試し合い"と書く)のですが、こちらは徐々にスポーツ化しており、真の意義を自ら薄めているような感もあります。

残念ながら、スポーツを学校行政とゴッチャで文部科学省の管轄下にあるうちは体育という教科を通じてのスポーツが主流であり続け、そこに武道も巻き込まれてしまい、スポーツの武道化、武道のスポーツ化は止まらないものと懸念してます。

このような世の中の流れに逆らっているかのように見えて、実は私共も「八千代町剣道スポーツ少年団」という団体だったりします。矛盾を逆利用してスポーツ保険は利用しますし、スポ少として剣道大会にも参加しますが、武道としての本文は保ちたいと思ってます。

裸足の効用
日本も年々と生活様式が洋風化していく中で、靴を履いている時間が長くなってます。結果、靴を履く生活に適した足=偏平足(へんぺいそく)の人が多くなっているそうです。

偏平足の弊害については検索サイトにて「偏平足」をキーワードに検索すればワラワラと出てきます(お試しください)ので省略しますが、剣道家に偏平足の方は99%おりません(稀に先天的に偏平足の方がいます)。板の床にての裸足の稽古が足の裏を刺激するためだと思います。

また、常に足の親指を相手に向けるように足さばきを指導されるので、O脚やX脚が矯正されます。

足は健康の源。剣道は健やかな足を育てます。

練習じゃなくて稽古をします
八千代剣道教室では練習ではなく稽古をします。
稽古と練習は明確に違うのです。

稽古の「稽」という字は訓読みで「稽える」=「かんが・える」と読み、単純に「考える」と同意義ではなく、「比べて考える」ことを意味します。
つまり稽古とは、古(いにしえ)と比べて考えること。例を2つ挙げてみます。

(昔と比べて考える稽古の例)
指導員の指導を受けて実行してみる。(指導員の剣道体験=古)
→ 実行前と比べて考え、少しでも得るものがあれば継続し、なければ実行前に戻す。

(ついさっきと比べて考える稽古の例)
さっき打って失敗したメン打ちの反省点を修正して実行してみる。
→ 実行前と比べて考え、少しでも得るものがあれば継続し、なければ実行前に戻す。

これに対して練習は「よく練りよく習うこと」と書くように、指導や教えを自分のものに消化するために噛み砕く(考察する)ことが欠落しており、稽古とは似て異なるものなのです。

実は、稽古より練習の方が、剣道のテクニックを修める点では効果が早く表れます。考察する時間が無い分、短い時間でマスターできるからです。

しかし、剣道は実生活に反映すべき姿勢を学ぶ場です。
指導や教えを鵜呑みに理解するばかりでは、世の中にあふれるサギやペテンやインチキ宗教にコロっと騙されやすくなってしまいます。稽古により、指導や教えをよく噛み砕いて毒か薬かを判断し、毒なら吐き出す、薬なら消化する、そんな姿勢を身に付けたいと思います。

ただ、剣道を始めたばかりの小学生は、生まれたての雛鳥みたいなもので、指導や教えを噛み砕く歯も無い状態ですから、指導員が噛み砕いてあげることになります。

例えば「竹刀はまっすぐ振れ!」で終わりにせず、「竹刀を斜めに振るよりも、まっすぐ振ったほうが、剣先の移動が短くて済むよね? 短く済むってことは、早く打てるってことだよね? それに、斜めに振ると自分のメンがガラ空きになるよね? 相手から見て、技を起こすのが見えやすいよね? だから竹刀はまっすぐ振るんだよ。」という具合の指導になります。

余談になりますが、練習を英訳するとトレーニング(Training)、稽古はレッスン(Lesson)。英語圏でも明確に区別されるのですね。

八千代剣道教室では、大人の威圧により問答無用で練習させるようなことはせず、稽古により指導員も小学生も共に剣道を学びます。