トレッリ 悪魔のトリル
前橋汀子を聴く



 何年か前のことである。その年の暮れ、クリスマスには、まだしばらく
間のある、ある日のこと。私は久しぶりに前橋汀子のバイオリン
演奏を聴く機会を得た。その日、たしか夜の六時ごろ、数日前に降り
積もり、そのまま凍結した雪道をスリップに注意しながら会場である
そのホールに向かっていた記憶がある。

 私が青森県の上北地方にある、そのコンサート・ホールに着いて、
まもなく ** クリスマス・コンサート と名のついた演奏会が開演となった。

 今となってはオープニングで何が演奏されたかなどは忘れてしまったが、
共演がイタリヤの合奏団でバッロク期の曲目が多かったことを憶えている。

 確かコレッリやビバルディ、ベラチーニなどの演目の中に、トレッリの2曲の
ソナタが入っていた。
二曲とも ト短調のソナタであり、それぞれ”見捨られたディド”
そして”悪魔のトリル”の愛称を持った、バイオリンソナタとしてはポピュラーな曲である。

 その日の、ステージに立った彼女の凛とした姿と、ピーンと張りつめた演奏を
今でも思いだす。
 そして、あの独奏曲の終楽章に入り、震えるような反復・装飾による
旋律が始まると、私は、しばし幻影の世界を彷徨った。

 繰り返される旋律を聴くうちに、その演奏会の何日か前に登った
吹越烏帽子岳での自分の姿がみえた。

 地吹雪を思わせる降雪の中、山頂から下り始めた私を目指し来るかのように
吹きつける雪の粒。
 雪はトリルの旋律に乗り、私めがけて吹きつけ、そして乱れ降るのである。
(ティラ・ラティ・・・・・ティラ・ラティ・・・・・ティラ・ラティ・・・・・)

 拍手の音で我に返った。 ・・ が、まだ耳の奥底で、あの旋律は鳴り続けていた。
(ティラ・ラティ・・・・・ティラ・ラティ・・・・・)

 頬にあてた掌の先に耳が触れた。それは異常に冷たく感じた。

 八時過ぎにコンサートは終演した。会場を後にして底冷えのする屋外に出た。
見あげる夜空には、みだれ降る雪粒にかわって、星々のさんざめく北国、
上北の冬空が広がっていた。

 「ドク・・・ドク」と脈打つ様な星達を見上げたまま、私は大きく深く、白い息を吐いた。


尚、演奏会の何日か前に登った吹越烏帽子岳の模様は 北東北・山歩きのページ (山行NO.12)に書き込みしてあります。



    つ ん
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