image005寺町通り商店街

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

桑名市寺町通り商店街

寺町通り商店街資料館

久波奈名所図会 ↓

 

 

*  桑名の歴史

インデックス

* 古代の桑名 

* 名称の由来

* 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)

* 桑名首(おびと)

* 日本書紀・・・壬申の乱 

* 駅家(えきけ) 

* 荘園 

* 伊勢平氏 

* 中世桑名(水運と商業)  

* 室町時代(十楽の津) 

* 桑名商人(エピソード) 

* 戦国時代(長島願証寺) 

* 長島一向一揆 

* 桑名の町割り 

* 東海道の宿場町 

* 七里の渡し 

* 宝暦の治水 

* 薩摩義士

 

*  商店街の取り組み

桑名市寺町通り商店街は、3日、8日、13日、18日、23日、28日の3と8のついた日に、三八市という朝市を開催しています。商店街では、桑名市寺町通り振興組合を中心として、三八市の運営や、各種イベントの運営をしています。イベントは、年6回の抽選売り出し、さくら祭や夏の夜店、秋の御台所祭、冬の餅つき大会など恒例となっているイベントのほかに行政とタイアップしたエコロジーに関するイベント、昔の大道芸を現在に再現したり、地域の子供たちに昔ながらの商店を体験してもらうため、社会見学の受け入れをしています。平成15630日に寺町堀完成記念式典、及び、完成イベントを行いました。イベントには、各小学校の木として「河津桜」が植樹され、桑名の春は、寺町の花見イベントからとのうたい文句で、平成16年2月河津桜開花記念、甘酒無料サービスを行いました。

 このホームページは、平成16年3月鰍ワちづくり桑名様の支援により、寺町通り商店街活性化のためのプロジェクトとして、作成されたものです。使用ソフトは、Microsofut Wordを使い、誰でも書き換えの出来るホームページ作成方法として企画制作いたしました。

 

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広重 保永堂版 東海道53次 桑名

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柳々居辰斎 桑名渡

 

 

 

 

 

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桑名の歴史 ↓

 

 

 

 

*  古代の桑名

 

 

 

 

 

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古代の桑名は、北に木曽・長良・揖斐の三川が流れ、現在の近鉄養老線が走るあたりが、川岸でした。南側にある町屋(員弁)川は、走井山の山裾を流れ、現在の三岐鉄道北勢線が走るあたりが、川岸でした。そして、東は伊勢湾に臨み、現在の近鉄名古屋線の走るあたりが古代の海岸線でした。このような地形から、桑名は、河川海上交通の要として、古代から近世に至るまで、常に重要な位置を占めてきました。

 

 

 

*  名称の由来

 

 

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桑名の名称の由来は、桑名一帯を支配していた豪族、「桑名首(おびと)」の名前からとったとか、桑の木が多く植えられていたことから名付けられたとか、いろいろな説があります。仮名では、「久波奈」の字が当てられています。

 

 

 

*  日本武尊

 

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古代の伝説としては、日本武尊(倭建命・ヤマトタケルノミコト)が、東国征伐の時に桑名を通り、志知の平群(へぐり)神社付近で足を洗い、歌を呼んだと伝えられています。

 

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隷書東海道

 

 

*  桑名首(おびと)

 

 

 

 

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桑名の豪族、桑名首(おびと)を葬ったといわれる高塚山の古墳は、全長約50m の前方後円墳であるといわれていて、北勢地方でも大きな古墳です。高塚山は、桑名で一番高い場所にあり、伊勢湾をはるか彼方まで見渡せる絶好の位置にあります。ここに古墳を築いたということは、かなりの権力を持った被葬者だったといえます。

 

 

 

*  日本書紀

 

 

 

 

 

 

 

 

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桑名が始めて歴史に登場するのは『日本書紀』です。壬申(じんしん)の乱のとき吉野から不破の関に向かった大海人(おおあま)皇子は、途中桑名に立ち寄りました。そして、妃の菟野(うの)皇女は乱が終わるまでの約1ヵ月間桑名に滞在しました。乱の終結後、大海人皇子は即位して天武天皇となり、菟野皇女は皇后となりました。壬申の乱で功績のあった地方には寺院の建立が許され、桑名にも、額田に浄蓮寺が建てられ、現在は額田廃寺とよばれています。また、天平12年(740)藤原広嗣の乱を避けた聖武天皇が、桑名を通り、「石占の頓宮(いしうらのとんぐう)に泊まられたとの記録がありますが場所は定かでありません。

 

 

 

 

 

*  駅家(えきけ

古代律令体制においては、重要な場所に『駅家(えきけ)』が定められ桑名にも『榎撫(えなつ)駅』が置かれました。  

 

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三代広重 改正東海道

 

 

*  荘園

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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平安時代には各地において荘園が出来ますが、桑名で一番大きな荘園は「益田荘(ますだのしょう)」で貴族の荘園でした。益田庄の領地は、はっきりしていませんが、在良地区に「増田」の地名が残っています。また太夫には、増田神社があります。その他、伊勢神宮や天皇の荘園、領地もあり、伊勢神宮の領地には、御厨(みくりや)、御薗(みぞの)と呼ばれることが多く、御厨神明社が置かれていました。桑名にも、中河御厨神明社(坂井)や平田御厨神明社(赤尾)が残っています。また、矢田付近は、神戸岡と呼ばれた領地で、神舘神社が御厨神社だといわれています。古地図によりますと、増田庄内の海岸部に「(おのころすざき)」「加香良洲崎(からすざき)」「泡洲崎」があり、三ヶ村と呼ばれていました。これが、「禁裏御領所」といわれる天皇領だったようです。

 

 

 

*  伊勢平氏

 

 

 

 

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平安時代末期、桑名・富田・津地方を拠点とする「伊勢平氏(へいし)」が発祥し、瀬戸内海を制した平氏は、明との貿易のため、水運にかなりな力を注ぎ、平清盛が「大輪田泊(おおわだのとまり)を開き、湊機能を持つ場所を拠点としました。志知には、伊勢平氏一門の平影清(かげきよ)の屋敷跡といわれる所があり、伊勢平氏発祥地をみても、湊機能を持った地域を拠点としています。

 

 

 

 

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*  中世桑名 

水運と商業

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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桑名は 中世のこの時代においても水運で、重要な位置を占めていました。その中心であったのが、伊勢神宮の年貢米と木曽木材でした。桑名付近や美濃には、伊勢神宮の領地が多くあり、そこから取れる米は木曽三川を川舟で運ばれて桑名に集められ、海を渡る大型船に積み替えられて、大湊(伊勢)に運搬されました。遷宮に必要な木曽木材も筏に組んで、木曽川で桑名に送られ、船に積むか、筏を組みなおして、曳航して、伊勢まで運ばれました。

 中世の遺跡から出土している土器をみると、瀬戸焼や常滑焼が多く、伊賀や信楽の焼き物はありません。これらから考えると、陸路、鈴鹿峠を越えて、重たく、壊れやすい陶器を運ぶより、水路、舟を使った方が楽で、効率がよかったのではないでしょうか。しかし、陸路がなかったわけではなく、近江の商人は、八風(はっぷう)峠や千草峠を越えて往来していました。桑名の商業は、これら近江商人や美濃の商人の中継地として、栄え、また、これら商人の定宿が、桑名にあったようです。

 

 

 

 

*  室町時代

(十楽の津)

 

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 室町時代、桑名には、共同自治を行う財力を持った商人がいました。戦国時代の堺のように湊を中心とする「十楽(じゅうらく)の津」と呼ばれる自由湊がありました。十楽(じゅうらく)の津とは、十楽とは、仏教用語で、極楽のようなという意味で、武家の支配下での「座」に属さない、誰でも自由に商売が出来るところでした。

 

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広重 東海道

 

 

*  桑名商人

(エピソード)

 

 

 

 

 

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桑名の商人の実力を示すエピソードがあります。

 永正7年(1510)津地方に勢力を持っていた長野氏が桑名に侵攻して来ました。桑名の住民たちは 武力抵抗はせず町から逃げてしまいました。その結果、舟は動かず物資は滞り、年貢米が来ない伊勢神宮は大変困り、伊勢神宮は、再三再四、長野氏に桑名から撤退するように要求しました。せっかく桑名を占拠したにもかかわらず、長野氏は兵を引き上げなくてはならなかったのでした。

 

 

 

*  戦国時代

(長島願証寺)

 

 

 

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戦国時代には各地に群雄が割拠し、桑名には40余りの砦が築かれ、北勢地方には、四十八家と呼ばれるほど多くの豪族がいました。全地域を治めるほどの大勢力はなかったのですが、宗教上ほとんどの豪族を門徒とする長島願証寺門徒衆がありました。長島願証寺は格式が高い寺で、門徒衆10万人を擁し、本願寺派の東海地方に本拠地でした。

 

 

 

 

*  長島一向一揆

 

 

 

 

 

 

 

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石山本願寺に呼応して、願証寺を中心に長島一向一揆が起きたとき、桑名、多度、員弁の豪族達も門徒衆に味方しました。これをよく思わなかった織田信長は、伊勢地方に攻め込みました。桑名も平定され、信長の家臣の滝川一益(かずます)を矢田城(現在の走井山公園)に置き、伊勢攻略の拠点としました。伊勢平定後は、桑名・長島を滝川一益の領地としました。一益は、長島に在城し、桑名には代官が置かれました。豊臣時代は、織田信雄(のぶお)、豊臣秀次(ひでつぐ)が領主になりましたが、桑名には代官が置かれました。

 

 

 

 

*  桑名の町割り

 

 

 

 

 

 

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桑名に本格的な城が築かれたのは江戸時代に入ってからです。慶長6年(1601)桑名の初代藩主となった本田忠勝は、戦国時代に東城があったところを中心に桑名城を築城し、大山田川と町屋川の流れを変えて城下の守りとし、町割を行いました。現在の桑名市街の原型はこのときのものです。忠勝が行った都市計画を「慶長(けいちょう」の町割り」と呼びます。桑名はただ単に城下町としてだけではなく、東海道の宿駅に指定され、さらに湊としての機能を持っていました。

 

 

 

 

*  東海道の宿場町

 

 

 

 

 

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東海道には五十三次と呼ばれたように53の宿駅が置かれました。宿駅に指定されると、大名の参勤交代や幕府の役人や公家たちの旅行のために馬と人夫を常備し、また宿泊の施設や、幕府の文書や荷物を運ぶ飛脚も備えなければなりませんでした。しかし、物資の流通は前の時代より盛んになり、渡海のためだけでなく、交易のための舟の出入りも活発になり、桑名湊には、蔵が建ち並び、宿の数では、宮の宿に次いで、東海道中第二位を誇りました。

 

 

 

 

*  七里の渡し

 

 

 

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桑名宿と宮(現在の名古屋市熱田区)の間では、海路七里をわたるのが正式な東海道のコースでした。渡し場には、舟の出入りを監視する舟番所や舟を手配する舟会所などが置かれれていました。また、桑名と宮間は七里あったことから七里の渡しと呼ばれていました。

 

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末広東海道

 

 

*  三里の渡し

 

 

 

 

 

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東海道には、三里の渡(佐屋の渡)もありました。この渡しは、木曽川を渡るもので、桑名と佐屋を結び、海上が荒れた時や舟に弱い人に利用されていました。三大将軍家光が利用してから公認され、利用する人も増えました。渡し口には、江戸から伊勢の国に入る印として鳥居が設けられ、伊勢の国に入る一番目の鳥居ということで「伊勢の国一の鳥居」と呼ばれています

 

 

 

*  宝暦の治水 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*  薩摩義士 

 

 

 

 

 

 

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水運によって繁栄した桑名ではありましたが、反面、水害にたびたび悩まされていました。この付近は、輪中(わじゅう)と呼ばれるように土地より水面のほうが高く、しかも、長良川の川底は、木曽川の川底より、1m程低いので、尾張側に比べ、伊勢・美濃の側のほうが、氾濫することが多かったのです。桑名の水害は、江戸時代はじめから150年間で、記録にあるだけでも100回余りに及びました。

 宝暦3年(1753)幕府は、薩摩藩(現在の鹿児島県)に対して、木曽三川の治水工事を命じました。これは、大名の財力を削るためと、幕府に対して、忠誠を誓わせるためのもの政策で、江戸城の修復や河川の改修に幕府は各大名に土木工事を命じています。これを「お手伝普請」といい、経費のほとんどは大名が出さねばならず、大変な財政負担でした。

 治水工事は宝暦5年までの3年間かかり、薩摩藩は巨額の費用を費やし、藩士にも50余人の犠牲者が出ました。これらの責任を取って、総奉行を勤めた平田靭負(ゆきえ)は自刃しました。薩摩藩士達(薩摩義士)の墓は、美濃・多度・桑名に点在しますが、桑名市内では、海蔵寺・長寿院・長禅寺にあります。

本年(平成16年)海蔵寺において250年法要が営まれました。

 

 

*  桑名藩

 

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