高遠石工の狛犬〜栗木御嶽神社(川崎市麻生区)
高遠石工とは

石造物に興味を持ち、石工について調べて行くと、必ず「高遠石工」の名に出合います。
高遠藩は小藩で、財政的にも非常に苦しかったため、藩の政策として、石工の旅稼ぎをすすめ、石工の技術を習得させ、全国各地(青森県から山口県まで足跡が確認されている)へと送り出しました。
石工たちは高遠藩の統制下におかれ、当国組と旅稼組とがあり、旅稼組のものたちは諸国の石工とも交流をはかり技術の研鑽に励んだと言われています。
また、旅から帰らぬものや石屋を開業した定住組(鐸木さんの調査研究による小林和平・寅吉の祖、小松布弘のように、脱藩し「高遠」を隠してその地に居着いた石工など)もあらわれました。
中でも多くの石工が中部地方や関東地方を旅し、
幕末には全国的に高遠石工の名声を高めたといわれています。

高遠石工の狛犬

近年、高遠石工についての研究がかなり進んでいるようですが、何故か狛犬についてはほとんど報告されていません。
と言うより、その名を刻んだ狛犬がほとんど無いと言うのが実情のようです。
円丈師匠の調査では、新潟方面で3対を確認したのみとのこと。ネット上では岐阜県に1対あるとの情報を見つけました。
円丈師匠によると「3対見ましたが、タイプは全部バラバラです。これが逆にあまり狛犬を彫らなかった証明でしょうね。もしたくさん彫っていたら、ある種のタイプが出来るものですが、それがまったくありません。」とのこと。
そんな中、川崎市に1対の高遠石工による狛犬がいますので、ご紹介します。
10年前に訪れた時にはハッキリと「高遠石工」の文字が確認できたのですが、現在は風化してしまい、全く読めなくなってしまっています。


※ 追加情報〜白岩山長谷寺(群馬県高崎市白岩町448)の高遠石工の狛犬はこちら

拝殿前には平成6年の神社移転・新築された時に奉納された新しい狛犬がいます。
そして、裏参道側の鳥居のそばに、こんな風に置かれた狛犬がいます。

吽像は首をかしげて、かなり下を向いています。
申し訳なさそうな表情にも見えますが、元々は石段の上にあって、下を見ていたのかもしれません。
摩耗していますが、2段になったツノが付いています。
表情は人面的ですが、キバが目立ちます。

一方、阿像は残念ながら破損してしまっています。
宝珠を乗せて、まっすぐ前を向いています。

尾は阿吽とも小さくシンプルな板状で、ほんの少し江戸タイプ的に前に流れています。

「高遠石工」だからと言って、特別技巧に優れた作ではありません。
しかし、神奈川や東京で見る狛犬とは一味違った印象ではあります。

銘について

下記のように、建立年・願主・世話人については
明確に記されています。
しかし残念なことに、現在は摩耗して石工名だけが確認できません。
その石工名のヒントが上の写真の灯籠にあります。

この灯籠と狛犬は主が全く同じ。
奉納は灯籠が2ヶ月早い天保11年6月で、同じ石工かあるいは何らかのつながりのある石工の作と思われます。
その灯籠の石工銘が左の写真。

信州高遠石工 伊藤友蔵 と読めます。
もしかすると、「友」は違うかもしれませんが…

10年前に見た時の狛犬の銘は
「信州高遠石工 伊藤◎◎」と、伊藤は読めましたが、名前は判読不能でした。

 神社名 
 栗木御嶽神社
住 所
 神奈川県川崎市麻生区栗木1-10
建立年
 天保11年庚子8月(1840)
石 工
 信州高遠 石工 伊藤◎◎
奉 納
 世話人 村役人 惣氏子

 願主 江戸牛込 三浦三郎右衛門

【参考】

栗木御嶽神社からほど近い、町田市野津田の野津田神社には、阿吽のカメの灯籠1対と、水盤が1対あります。
これらも高遠石工の作で
灯籠は文久2年(1862)、信州高遠石工 伊藤十兵衛
水盤は文久1年(1861)、信州高遠石工 伊藤義廣
と刻まれています。