紙布≠ニの出会いで        

 43歳の時に世田谷区生涯学習「和紙造形大学」卒業を間近に控えた頃、講師の先生より「お前は、織りが出来るんだから和紙造形の中の紙布≠やれと言われて、この道へと誘われました。
白石紙布≠ニの出会いで会社勤めを辞めて、家族や友人の非難を受けながら織りの世界へと。それから20年近くを経て、ようやく見えてきたものが……。

 22歳の時から24歳の頃まで趣味でアメリカの組織織りを教える教室に通っていたのが、白石紙布≠ヨの道へとつながりました。24歳の時に官庁での非常勤から外郭団体へ転職したため仕事が忙しくなり、お稽古には行けなくなったのですが、その後も趣味として自宅で織り続け、43歳で再度染織教室に通い始めました。

  紙布≠やれといわれても紙布≠知らなかった私は、図書館や紙の博物館を
   手始めに、宮城県白石まで行き調べてみました。
   ようやく見つけた白石和紙研究所の遠藤氏から紙布≠ノついてレクチャーをして頂き、
   糸作りは、奥様のまし子さんの手ほどきを受け、
  白石紙布≠ヨの長い道のりが始まりました。
   遠藤氏の熱い思いを聞くほどに、中途半端にできるレベルのものではないことを知り、
   基本から勉強し直すことに。 

   平成7年42歳の時に大阪出張の際、阪神大震災にあい、命を拾いました。
   前日夜中まで大阪の友人と神戸三宮にいて、
   友達の勧めで新大阪にホテルを取り直し、一緒に帰ったたことが幸いしました。
   地震は、ホテルに着いて4〜5時間後の事です。
   この経験が、悔いなく生きたいという思いを強くし、周囲の反対を押し切り、織りの道へと進むきっかけとなりました。

倉敷手織り研究所で学び、民芸とは、用に足るものとは、用の美とは、そして木綿往生の世界へと誘われ、『華美ではなく、無駄のない良質のものを見極める目を養いなさい。』と教えられました。
ここでは、手織りの基礎の習得しかできなかったので、白石紙布≠織るために、その後の勉強が始まります。

  その後、織りの産地の米沢で、今もお世話になっている織元さんや、業者さんとのご縁が
  出来ました。
  織りを続ける中、米沢の色々な業者の方々に、また各地の業者の方々に、今も大変お世話
  になっております。お年を召されて、おやめになっていく業者の方も少なくありませんが、
  後進が育ってくれるよう、手を尽くされている方々もおります。

  織りの産地の生き抜くための分業制度。織元・卸・仲卸・買い付け業者・小売店を経て、消
  費者の手へ。織物はその都度、倍々ゲームで消費者の手に届きます。昨今は、業者も少
  なくなり直接消費者の手に届くことも多くなり、若干ですが手に取りやすくなってきているよ
  うです。

そして、織物の産地で見つけた青梅の『月明塾』へ。
手織りの基本を身に着けたのみで、絹を満足に織れなかった私が、
天然染料で糸を染め、色々な糸で手織れるようになったのは、ここでの勉強の賜物です。
先生も御年、90歳を過ぎ、現在は特養ホームへ入所なさいました。

東京へ戻り、『月明塾』で、天然染料で染める絹の輝きに魅せられ、
先生に導かれ、その糸に負担をかけずに手織ることを
心がけ、
千年持つ糸への試みへと歩み始めます。
望みは高く、、長い道のりを歩み始めました。やはりこれも用の美≠ナす。


副産物としての座繰りでの糸引き。精力の強い“生繭”で好みの太さの糸を引き、天然染料で染めて、正倉院の御物に近づく織物へと。羽衣のような布から、しっかり手織られた布まで手掛けたい。

ところが、手織り会の大先輩 佐藤和子女史の書かれた本を読んで、
また、直接お会いしてお話をする機会に恵まれて、
副産物ではなく、江戸時代の紙布≠復元するうえで、必要であった事を知りました。
神様に導かれたのでしょう。

22歳から始めた手織り、会社勤めで途中離れていた期間を除いて、手織三昧が、足かけ20年、手織っていた期間は、併せて30年程になりましょうか。その間、沢山の職人さんのお世話になりました。

    古来より伝わる技法を追い求めると、今ある道具ですと具合が悪く、
    職人さんの手を借りて作ることになります。

ヒット作は、和竿の技術の粋を生かした60年持つ整経用の節抜きの竿。
半綜絖で着尺が織れるレベルになった生徒用に新たに頼んだのですが、
私に作って頂いたような竿は、生徒には作って頂けませんでした。
でも、新たに作って頂いたものも手をかけた素晴らしいものです。

糸を染め、手織ることがきちんと出来るようになった今、ようやく白石紙布≠ヨと辿り着いたように思います。

木綿紙布・絹紙布・諸紙布・紗紙布・紅梅織り紙布・紋紙布・縮み紙布・縮緬紙布と、江戸期に織られていた紙布作りに励みたいと思います。

2018年春に念願だった四国徳島の木綿(ゆう)、『白妙』を見せて頂きに行ってきました西暦700年以前、大嘗祭で麁服と共に飾られたであろう『白妙』も今では織れる人は織りません。材料の穀(カヂ)が手に入れられることになったので、老後の楽しみとして『白妙』の再現にも取り組みたいと思っています。
材料の手配等、穀で作る『白妙』よりはずっと楽に作ることのできるカジ和紙を使っての『紙布』は、先人の知恵の結晶だと思います。

2018.年9月


     

和紙の拡大写真                  和紙の拡大写真

 
楮・・・和紙屋さんに、梶(穀)の木で漉いた和紙が欲しいというと、「えっ?」と
    言われてしまいます。
    うちの和紙は、自家栽培の楮だとか、赤楮、青楮、那須楮、山楮などと
    仰います。
    特に昨今は、版画用というか、字を書くため、印刷するための用途が
    大きいので、俗に日本で一番強くて良い紙は『烏山和紙』と言われたり、
    その原料の那須楮の方が、四国の青楮より良いと言われたり。
    また、和紙屋さんの多くが、栃木の那須楮を購入しているようです。

    繊維が長く、漉くと少しモワッとしていて、薄くしなやかで、柔らかい風合
    いの紙布≠ノ向く和紙の原料は、那須楮とは少し違うようです。
    
    白石では、穀の木のぼうしかぶり、虎斑と言われるものを使用しています。
    それでは、この『穀の木』は何処からきて白石で和紙として漉かれるよう
    になったのか? 何故、紙布≠ノ使われたのか?   
    気になって調べました。

    そうしたら、日本建国に寄与したとされる『忌部氏』に行きつきました。
    
    忌部は、日本全国を開拓して回り、農業・養蚕・建築・鍛冶・織物・音楽
    などを伝えた祭祀民、且つ海洋民であり、産業技術集団です。
    
    穀の繊維で木綿(ゆう)を作っています。穀で織られた上等のものが木綿。
    粗いものは太布(たふ)という分類でしょうか。
    祭祀に当たっては、
    麻(青幣アオニキテ)、穀(白幣シロニキテ)を使います。
    四国祖谷渓には今も太布が残り、天皇即位に当たっては三木氏が麁服
    (あらたえ)を作ってお納めしています。

    はるか昔、阿波より紀伊、静岡掛川、千葉立山(安房)、東京湾を通って
    神奈川川崎を抜け、私の住む西多摩にも痕跡を多く残しています。
    長野の諏訪神社には、天竜川を上っていったようです。
    山の尾根伝いに長野から群馬、福島、山形、新潟へと、
    その道筋には樹皮で織られたり、編まれたりしたシナ布や藤布、籠、縄が残されています。
    山形にも新潟にも紙布≠ェあります。シナ布は、縄文のころからかもしれません。
    弥生時代に農耕を拒んでいた種族が、
    出雲の神により農耕を受け入れた頃からかもしれません。

    この頃忌部の人々は、全国に麻、穀、粟などを植え、農耕やいろいろな
    技術を教えました。
    
    そして、林博章氏によると、長野諏訪神社に穀を植えています。
    片倉氏は、米沢川西の宮司の家で、諏訪神社の下社の宮司の家と言う
    ことです。真田氏も長野、そのような関係から諏訪の『穀かじ』を紙布
    にしたのではないかと思います。

    関川原で紙布≠武士や忍者が着用していたなら、それ以前に有った
    と言うことです。きっとそれは平安以前より阿波や讃岐、紀伊に有ったと
    言うことでしょう。

    『穀』は、かつて衣類の原料として日本に持ち込まれて、それが紙布
    になったと言うことですね。
    だから、他の楮より『穀』が紙布≠ノ向いていると言うことなのでしょう。















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