第二章:怠惰の魔王ベルフェゴール。
序章:不死身鳥
四月一八日。午後一時。
白衣を着こなし、黄紋大学病院の廊下を闊歩する女医。
一五五センチと身長は小柄。長い黒髪を腰に流し、白衣の下にはタートルネックのセーターとGパンのラフな格好なのは、この病院に勤務するものではない。だが、内側から滲み出る雰囲気は、先頭をキビキビ歩く女医と、その後に続く看護婦以上の貫禄を見せていた。
廊下で談話する患者の全員が、彼女を眼で追ってしまうほど。
「ごめんね、アヤ? 今日、友達が帰国する日だって聞いていたけど?」
「いいのよ、ユウ子ちゃん。あいつには、少し待たせて置く位が丁度良いもの。時間通りに入ったら、お酒でワタシが潰れるもの」
「いや・・・・・・・・・あんたを潰す、酒豪? ちょっと見てみたいわね・・・・・・・・・」
その一七六センチある女医に微笑む小柄な女性は一五歳の息子、九歳の娘を持つ二児の母とは誰も思えないほど、若々しく瑞々しい。しかし、その内側から滲み出るオーラは誰も無視が出来ない。
自分と同じ三〇代後半にも係わらず、二〇代に通用するプロポーションと肌のきめ細かさ。柔和で緩やかな輪郭、優しさの水面のような大きな瞳。
しかし、これはまだポーズだと、長い付き合いであるユウコは知っている。
無知のようでいて、誰よりも賢い。それが、医学部の同期たる旧姓戸崎で、今は如月アヤメの本質。
現在は、如月クリニックという町医者、喫茶店キサラギ。その両方を経営する同期のアヤメは昔と変わらない、あっけらかんとした笑みを見せていた。
「でも、ユウちゃん?」
「ユウコちゃんまで、許す。でも、ユウちゃん言うな・・・・・・・・・って、言うだけ無駄か・・・・・・・・・で、何?」
「ワタシを呼んだ理由は何?」
「うん? う〜ん・・・・・・・・・」
チラリと、後ろに付いてくる若い看護婦の様子を窺う。彼女の顔は既に顔面蒼白でこれ以上、近付きたくないと顕著に表れていた。
「ほら、あんたってこう言う現代科学じゃ説明付かないことに、強いじゃない? ほら、高校時代だっけ? オカルト研究部で部長していたでしょう?」
「ワタシよりも、こういうのは夫の俊一郎が専門だけど?」
「何でもいいの。今は藁でも縋りたいの」
ワタシって、藁? そんなに頼りないの?
そんな、言葉以上に伝わる眼差しだが、ユウコ自身は上等過ぎる藁だ。むしろ、地獄に仏と思っている。だが、口には出さない。出したら、得意気になって止まらない。
「ああ〜何ていうか、本当に理由が解らないのよ? ここ数日中に、入院患者が行方不明でさぁ〜」
「そうです。ここ最近、患者が失踪して・・・・・・・・・中には、看護最中の目の前で消える人もいて・・・・・・・・・皆、不気味がって・・・・・・・・・」
余計なことを・・・・・・・・・歯噛みするユウコと違い、その当人はいきなり眼差しを変える。否、こちらが、本性と思うほど鋭い視線で廊下の隅から隅まで、注意深く観察する。
ユウコは歩きながら頭を掻き、看護婦は歯の根を震わせて続ける。
「アタシだって、目の前で人が消えたら何か違うって思いますよ? 霊感とか全然無いですけど! あの患者が、ここに運び込まれてきてから変なことが起こりっ放しで!」
理性をギリギリ保った切迫後、看護婦の声を目障りと断じたかのような怪奇音が響く。
何かが弾けたような・・・・・・・・・そんな音が、鳴り響く。
明らかに、これ以上近付くなと、警告を発するような――――だが、魔術世界最高峰《神殺し》の一人にして、不死身鳥のアヤメは廊下を歩きながら、先ほどの眼光を置き去りにして看護婦に微笑んだ。
「こんな話しがあるわ? 多感な時期に、実の両親がいがみ合いを見ていた小さな女の子。そのいがみ合っていた父親が、ある日突然行方不明になってしまったの。
その父親は一月もせずに自分の足で家に帰ってきたわ。
今まで何処に行っていたのか、どれほど心配していたかと奥さんは言う。そうしたら、夫はこう言ったの。「私は、娘の心に居た。そこで私達は、醜くいがみ合っていた場面を、永遠と見せられた。それに見るに絶えず、全身全霊で許しを請うと、現実に戻ってきた」って・・・・・・・・・そんなメルヘンでロマンチックなお話しがあるように、こういう不可解な事でも、必ずハッピーエンドはあるものよ? それに、現代科学で解明されないことなんて、ある訳ないじゃない?」
そう絞め括る微笑みだけで、看護婦の顔色は見る見ると良くなる。眼差しなど、全てを解決できる魔法使いを見るようだった。
同じ職場で、同じ境遇に遭っている自分よりも信頼した眼差しは気に喰わないが、仕方が無い。彼女が絡むと、何時もそうなる。
そした苦笑を浮かべる頃、件の病室の扉で足を止めた。
「じゃ、アヤ、お願い。ウチらにパッピーエンドを見せて?」
個室の名札は磯部綾子と、書かれていた。だが、その病室を前にしてアヤメの表情は先ほどの看護婦以上に緊迫と緊張の表情を浮かべていた。
《神殺し》で、魔術世界において被免達人の名に列なる彼女が、呼吸を忘れてその病室のドアを凝視した。
目の前にあるのは、ただの扉。だが、魔術師の目に映るそれは、狂った建築物の強硬な扉にしか見えない。
入れば、囚われ、嘆きすら無視する牢獄。
これは――――結界という一種の異界への扉となっていた。
この場所に看護婦が足を踏み入れ、医者が入った? 何て、無謀か!
最初に浮かんだのは、そんな感想だった。だが、一呼吸で鼓動を押さえ込み、ミリ単位で自制する。
すでに、彼女の眼差しは全ての現実に牙をむく魔術師の眼光を灯していた。
「ユウちゃん。入るのは良いけど、看護婦さんはこの患者のカルテを取って来てもらって良いかな?」
「えっ? まぁ、良いけど」
頷いて看護婦に指示を出すと、看護婦は何故か安堵を浮かべた。この部屋に入らなくてすむことに安心する表情が顕著に表れていた。
小走りに去っていく看護婦を尻目に、アヤメは病室のドアをノックする。
「お邪魔します」
扉に入った二人の顔を、一気に顰めた。
腐臭というに相応しい、空気。
毒々しいカビがリノリウムの床を這い、禍々しいガスが漂っていた。
花瓶にいけていた花など、濃い青の腐汁を垂らしていた。
「何で? 昨日はこんな風にはなっていなかったのに!」
「うわぁ〜これはファブリーズを買って置けばよかったかな?」
ユウコ女医の慌て振りと真逆を行く、アヤメは鼻を摘んであたりを見渡す。
「どういう事よ! 何で?」
アヤメは半狂乱で周りを見渡す。次の瞬間、ドアは甲高い音を響かせて隙間一つ残さずに閉まった。
アヤメもユウコもドアから離れているにも係わらず。
「あっ、閉まっちゃったね?」
「呑気すぎんのよ、あんた!」
鼻を摘んだままのアヤメに怒声を放って、ドアを開けようとあらん限りの力を振り絞る。しかし、ピクリとも動きはしない。
息を荒げ、地面にへたり込もうとしたが、リノリウムに這うカビに触れた感触に飛び上がった。
「何なのよ? 昨日の晩に見たときは変わっていなかったのに!」
ユウコの狂乱した悲鳴を聞きつつ、アヤメは暫時の間思案する。
――――ワタシが来たせいだろうな。ワタシは神格の〈魂〉を持っているせいで、この異界の主は払われるのを畏れて、強固に世界を広げたみたいね――――結論、無駄に刺激させちゃったかな?
自分がこなければ、ここまで一気に変貌は無かったのだろうが、どのみち何時かはこうなっていただろうと前向きに考えていた矢先だった。
アヤメはふと、視線を向けて怪訝と首を傾げた。
ユウコも釣られて同じ方向に見た瞬間、驚愕した。
今、自分達の足で立っているのはカビに彩られたリノリウム。しかし、目の先にあるのはレール――――闇の向こうにも届くレールが引かれていた。
そして徐々に近付いてくる不気味で、ありえないはずの音――――
「まさか・・・・・・・・・ここは病院よ・・・・・・・・・?」
だが、その嘆きも虚しく闇から目を焼くほどの白い光芒が二つ。
電車が病室に突進してくるというシュールさと、絶命寸前のユウコの思考はフリーズする。悲鳴すらもあげる暇すらない。
だが、如月アヤメは違う。病室に迫る電車を前に呆然と身を晒しているユウコを左腕で抱える。接触まであと五センチという切迫した時間内、同時に空いている腕を前に出した。
電車に触れた瞬間、ユウコを抱えたまま膝の筋肉で跳躍。そして、車掌のガラスを蹴り破って車掌室の床に転がり、ドアへと二人の頭は強かにぶつけた。
「いったぁい・・・・・・・・・やっぱ、最近は運動不足かな・・・・・・・・・それより大丈夫? ユウちゃん」
逆さまになってドアに突っ伏している旧友に向き直る。ユウコは、目の焦点を懸命にアヤメへと合わした。
「生きてるの? 何で?」
絶対に轢かれたと続く言葉に対して、ぽんと手を合わせてアヤメは言う。
「ジャンプして窓割って、中に入ったけど?」
嘘だと、叫びそうになった。いや、何から何まで悪い夢に決まっている。平然と立ち上がるアヤメを見上げ、
「アタシを抱えてそんな飛び上がれるわけ無いじゃない!」
「飛び上がれたから、助かっているんだけど?」
その通りなのだが、そんな事など出来るわけが無い。
昔馴染みの親友を、初めて恐ろしくなった。
いや、初めてではない。高校の時にある幽霊騒ぎで持ちきりになり、夜の学校を徘徊した時も・・・・・・・・・時に、何があったの? どうして、そこだけ?
「アヤ? アンタ、何者よ?」
それは、高校時の付き合いを含めた設問だった。だが、アヤメは一瞬だけ寂しそうな瞳をするが、すぐに何時もの水面のような瞳を向ける。
「それより立ったら? ちょっと、男の子には見せられない格好だぞぉ?」
アヤメは、ユウコを見下ろして悪戯好きの子供のような笑みを浮かべた。
逆さまのままだったのを思い出され、己の痴態に顔を赤くさせて立ち上がるユウコ。
幾分と冷静になり、この破綻した風景を見渡した。
病室に突っ込んできた電車内。その異様な風景に似つかわしくないアヤメののほほんとした微笑。
これは悪夢だと、精神崩壊寸前の理性は叫ぶが、床に散らばるガラスの破片は掌を小さく切って血の雫が流れていた。その痛みに、現実だと思い知らされる。
アヤメの方は、車掌室の扉を開けた。
車両に一人もいない。不気味な空虚さの車両を見渡してアヤメは首を傾げて唸る。
「何処の電車かな? アーケードならお買い物したいな」
「このぉ! バカ! 今、ウチらは怪奇現象の真っ只中なのよ? シュールすぎるでしょうが! 病室に突っ込んでくる電車なんて!」
「そうかなー?」
「そうよ!」
息も荒げて叫ぶが、アヤメのほんわかした微笑はまったく崩れない。ユウコはアヤメのせいで精神が崩壊しそうだった。
「ねぇ、ユウちゃん?」
「ユウちゃん言うな!」
言い返したが、アヤメは突風の前方を指差す。
「あれって? 学校の校門かな?」
指差す向こうは、夕日に染まる学校の校門。
電車に続いて今度は、校舎。
ユウコの思考はオーバーヒートも通り過ぎ、頭の中が真っ白になった。
そんなユウコを嘲笑うように、更に加速する電車。白い学び舎の壁を目掛けて猛進する。
慌てて、レバーを握るがどう操作すれば良いのかということに気付き、途方に暮れた。もうダメだとユウコは思った。このスピードで校舎に衝突すれば、死ぬに決まっている。これはもう、夢とかではない。自分を殺す悪夢だ。
「ユウちゃん? また抱えるね?」
えっ?
声に出す暇も無く、脇に抱えられたユウコ。アヤメの細腕と持ち上げているアヤメを交互に見上げる。
何をする気なの?
そんな言葉も言う暇もない。ニッコリとアヤメは笑う。
「舌を噛まないようにね?」
間延びしたセリフに反した急加速に、ユウコの身体は後方に引っ張られた。
先頭車両のドアが蹴りの一発で蹴破られ、第二車両へと入るアヤメ。同時に、車掌室は校舎にぶち当たり、後方に破壊の音色がなだれ込むように響く。
アヤメは止まらない。破壊に巻き込まれ、崩壊していく床に追いつかないほどのスピードで後方車両へと疾駆する。
抱えられているユウコは、アヤメを見上げてさらに驚くべき変化を目の当りにする。
アヤメの顔は、鷲の顔を象った黄金の兜に徐々に覆われていく。
両手も燃えるような赤の燐光を放ち、人の手ではなく真紅の翼。
黄金の燐光を放つ爪の足で、床を抉るように蹴り、地を這うように飛び、第三車両のドアを粉々に蹴り破る頃、アヤメの姿は変身を終えていた。
〈唄う死天使〉、〈太陽神の女王〉と肩を並べた〈不死身鳥〉の姿。〈連盟〉所属中、父でも届かなかった被免達人の頂きに昇った娘。
そして外界の神を討ち取った《神殺し》の一人。
「アヤメ・・・・・・・・・?」
旧友が異形の姿。異様な姿へ変身したのを目の当りにし、驚きの眼は破壊を忘れて見上げていた。だが、ユウコの目にはその真紅の翼を持つ、黄金の異形を見て、素直に美しいと感じた。
黄金に輝く身体と真紅の翼は、何よりもこの狂った世界で神聖な光輝を放っていた。この悪夢のような世界を切り裂く翼を持ち、邪悪を払う神聖な鳥人だった。
目を奪われるユウコと違い、アヤメはチラリと背後を窺う。
電車の崩壊は既に十センチ先と迫っていた。その光景を見て、ユウコの視点から見てもげんなりしている鳥人の雰囲気だった。が、その刹那だった。
【オン ギャロダヤ ソワカ】
静かで、厳かな声音。だが、世界を震わせるに十二分の迫力を蔵した声音。同時に、ユウコの身体に薄い膜が構成していく。ユウコの身体にすっぽりと覆われる頃、翼は待っていたかのように羽ばたく。
フワリと浮く次には、ユウコの視線は針よりも細くなる。
崩壊する床を無視する音速は、床といわず窓すらも粉々に砕き散らせ、後方の崩壊を引き連れるように飛翔する。
衝撃波を巻き起こし、次々と車両に続くドアを破壊させ、最後尾の車掌室を爆砕させる。
同時に最後尾の車両も破壊が伝播し、粉々の鉄屑が雨のように振り注ぐ中を、ゆっくりとスピードを緩めていくアヤメ。
水鳥のように華麗にレールの上に降り立つと、ユウコの身体を壊れ物のような丁寧さで地面に下ろした。
薄い膜は水へと変化して地面に染み込むシミが広がる頃、アヤメの姿はすでに元の姿になっている。
先ほどの神々しい姿とは一転して、いつも見慣れている旧友に目を瞬くユウコ。
「何、これは・・・・・・・・・それより、アンタ! 今、変身していなかった!」
ユウコは頬や肩を触って感触を確かめる。先ほどの兜、翼は何処に消えたかと探し始めていた。
「ユウちゃん、セクハラ?」
アヤメはアヤメでされるがままだが、頬に手を当ててほんのりと頬を紅潮させる。
「ワタシ達は、プラトニックの関係でしょう?」
などと、言われれば呆れるしかない。
呆れるついでに一発頭を殴っておく。
「黙れ、三九!」
「ユウちゃんは来月で四〇だね〜?」
年齢を言われてさらにもう一発。
「なにさぁ〜殴らなくてもいいじゃない?」
「煩い! 同性でも年を言うな!」
――――キョウちゃんと同じ事を言うようになっちゃったなぁ。と、二歳上の親友を思い出しながら、しみじみとお互い年をとったと実感した。
「あぁーもう! アンタと漫才している暇は無いわ! 早く、ここから出なきゃ!」
――――出口・・・・・・・・・か。
じめじめするトンネルの中では、虚しい響きにしか聞こえなかった。だが、如月アヤメはそんなことでは落胆などしない。
これほどの結界は、すでに異界である。いざとなれば、旦那の俊一郎はこの事態に気付いてやってくるだろう。
そしてこの結界の主には悪いが、毒をもって毒を制する方法も取ることは可能だ。だが、それは最終手段としておいた方がいい。なぜなら――――
「キョウちゃんが来たら、こんな結界なんて焼き払っちゃうものね」
医者としては、それだけは避けたい。この結界に囚われているであろう病院患者も丸ごと骨すら残さない。
太陽は大人しく、東に昇って西に沈むのが一番いい。真神京香のように西へ東へと勝手気ままな太陽は、大人しくして欲しいと切に思うアヤメであった。