「末吉一族の系譜」

                              古文記録並びに詳細な系図等、その内容は九十四頁に及ぶ。

                                                主要な部分(系図を除く)を抜粋、ここに転記する。          
                                                            


                                                     平成十九年五月                              
 
                                   

「はじめに」                    

 末吉氏の屋号は、豊臣時代、坂上姓平野氏族の平野勘兵衛利方が豊臣太閣の命によって、平野を改めて、末吉を称することにより始まり、諸国にこの末吉氏の姓を求めても、わずかに九州肥前にみられるばかりである。
 その多くを先の平野氏族より起こりて末吉氏に焦点をしぼり、この氏の系譜並にその事績を各条項に分けて述べることにする。
 これについては、末吉氏の高祖坂上氏並にその祖後漢霊帝の裔といわれる阿知使主(東漢(やまとのあや)氏の一族)の系、並に坂上氏の系また、平野氏の事績、これより分かれて徳川直臣の末吉氏、大阪の豪商といわれた末吉氏の系とその事績、さらに末吉氏より出た摂平野郷の長宝寺代々の方、大名籍等を諸種の系図・史籍・古文書、さらにはその子孫に残された文書等に基づいて稿述するものである。
 

 

「坂上姓平野氏族の末吉氏」

摂津国住吉群平野郷の名族に平野氏あり。

この平野氏のその先をたずねれば、坂上田村麻呂の子広野郷を始祖とす。末吉氏はこの広野郷の裔平野藤左衛門行増の子勘兵衛利方が豊臣太閣の命により、平野を改めて末吉を称し、末吉氏の初代となる。
 今ここで、この末吉氏の譜を記すにあたり、本宗平野氏並に高祖坂上氏の事績とその略系を各項に分けて述べることにする。(以下、省略…)

 

 

「高祖坂上氏について」

 末吉氏の高祖坂上氏は、その先をうかがえば応神天皇二十年、その党類(ともがら)十七県の人々を率いて渡来したという後漢霊帝の裔阿知使主を始祖とする。「姓氏録」に「阿知王・誉田天皇(諡応神)御?、本国の乱を避けて、母並に妻子、母弟迂興徳、七姓漢人等を率いて帰化す。七姓とは、員姓・季姓・皀徳姓・朱姓・多姓・皀姓・高姓なり」と。
 これよりのち一族は大和国高市郡桧前の地を賜って、この地方に移住せるも、居地隘狭なりて、さらに諸国に分置す。すなわち、摂津・三河・近江・播磨・阿波等がこれなり。
 また、阿知使のその先をみれば、東漢(やまとのあや)氏の一族なり。東漢・佞漢ともいう。東漢氏とは、一文に「始め漢武帝の朝鮮国を滅ぼしてその地に四郡を置くや、漢人のその地に移住するもの少なからざりき。楽浪・帯方等の漢人これなり。その後、高句麗・百済等、勃興してこの地を併するや、降りてこれらの国に使うるものありしが、さらに東還して、わが国に帰化したるもの前後。これわが国の漢氏にして、うち楽浪の王氏は前漢高祖の後裔といい、帯刀漢人の長たりし阿知王は後漢献帝の裔なりと称す。(中略)前者楽浪の王氏は河内に根拠を置き、後者帯刀の漢氏は大和を根拠とす。ともに殖産工芸文学に貢献するところすこぶる多し。而して河内は当時の帝都の西にして大和はその東なるがゆえにこれを東漢と記す云々」とある。すなわちのちに阿知王の裔坂上氏は、はじめ東漢坂上氏と複式の氏を称せし由来がこれにある。
 ついでに「坂上系図」を低本とし、その他「別本坂上系図」並に諸系図により、坂上氏の略系を作りここに示す。(以下、省略…)

 

 

「本宗平野氏の譜」

坂上田村麻呂の息広野郷・摂津住吉郡平野庄を領し、子孫代々この地に在りて、平野氏を称す。
 『大阪全史』に「慶長中・伏見銀座の頭役に平野藤次郎・平野九右衛門」とあり、また『銀座由来書』に「銀座年寄安永八亥年五月、平野作左衛門」の名がある。これらの氏は、いずれも末吉氏の祖勘兵衛利方の同族なり。
 また、同族の女子、「長宝寺方丈」となる。次の項を改め、『長宝寺系図』を掲げる。
(以下省略…)

 

 

    「長宝寺について」

 長宝寺は、摂津住吉郡平野庄大字西脇にあり、真言宗女僧院なり。本尊・十一面観世音開基、慈心尼。田村将軍の娘春子、桓武帝妃、葛西親王の御母なり。
 これより素心大師まで三十二代、血脈、相続す。「方丈代々名簿」にてこれを記す。(以下省略…)
(解説)真言宗女僧院(尼寺)「長宝寺」の住職三十二代続く。

 

 

「末吉氏の譜」

 各項において述べたように、末吉氏は、摂津の名族にして、坂上田村麻呂の男広野のあとの平野氏より分出す。すなわち、平野勘兵衛利方にいたり、はじめて末吉姓を称す。
 この末吉氏については、『大阪府全志』に「坂上七名家の一、勘兵衛利方、天正十一年八月、秀吉より平野のうちにて、百五十石の領地を授かり、文禄三年十二月、河内国丹南郡阿保村にて、さらに百石の領地を受け、かつ天正十四年八月には河内国丹北部布忍村千石の代官を命ぜられたるのみならず、手広く商業を営み、航海業者として、当時、有名なりし伊勢の角屋と並ぶ、天正十六年八月、岡崎城主たりし徳川家康より、その持船六隻の朱印を与えられて、港湾出入の諸役を免ぜられ、豊臣秀吉よりは同年九月、朱印を与えられて、商売についての諸公事を免ぜられる。(中略)
 内地間における航海業に過ぎざりしも、さらに海外に発展せり。当時の朱印船たる末吉船のいかに活躍せしかを推すべし。

 

 

「朱印船末吉船について」

 先に述べたように、慶長初年以来朱印状を受けて、呂宗(ろそん)東京(とんきん)など各地に商船を派遣して貿易に従事す。すなわちこの朱印船を「末吉船」という。
 京都清水寺にこの末吉船の絵馬が三面、大阪平野の()(また)神社に二面ある。
ちなみにこの絵馬船尾丹内に末吉と記せる船旗をなびかせ、帆網の上方には黒奴が作業せるをみせ、按針手(西洋人)の姿あり。また、船長・水夫・多数の便乗商人等、カルタに興じ、三味線をかなで、キセルで煙草を吸いたる人の姿あり。
 すなわち、この朱印船末吉船は、近世初頭における末吉氏の勢威を示すものであるが、これがのち、徳川幕府の鎖国令によって海外渡航を止む。

    

 

「肥前国の末吉氏」

幕末、肥前島原藩総筆者役に末吉行輔の名あり。この次子は儒者末吉捨介。捨介は文化十三年に生まれ、号は雲陽、または鳳洲という。
 捨介年少ながら筑前に出て亀井の家塾に入り昭陽に従事す。帰郷ののち天草に渡って家塾を開く。また、さらに島原串山村、さらに堂崎村に移って弟子を教え、八木矢山と相対峠す。明治二年五月歿す。行年五十四。
 著書に「国語註解」「論語註解」「尚書折義」等あり。                                       

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その昔「満明寺」を中心に、多くの修験者がいたとされる山岳信仰盛んな霊山温泉山(うんぜんさん)。

西の「温泉山」、東の「高野山」と呼ばれ、温泉山・比叡山・高野山とともに天下の三山と称されていた

雲仙はいくつもの山々から成り立っており、平成の大噴火で有名な「普賢岳」の名は「普賢菩薩」の信仰に由来する。
他にも妙見菩薩を祀った「妙見岳」などがある。



◇温泉に恵まれた当地、もともとの地名は「温泉山」(うんぜんさん)だったが、国立公園第一号に指定される際、「温泉山の温泉」とは紛らわしいことから、現在の「雲仙」と改名された。



◇奈良時代、開祖「行基僧」が「満名寺」(現存する)を置き、山岳信仰の中心とする。併せて半島四カ所に四面宮(温泉神社)も祀る。

ちなみに四面宮とは→ 一の宮=千々石町 二の宮=吾妻町 三の宮=諫早市 四の宮=有家町
これらは雲仙の温泉神社を中心に据える。
また、四面宮の末社も加津佐をはじめ半島各地に多く点在する。



◇瀬戸石原(地名)に300房、別所に700房もの僧房を誇り、世の崇敬を集めていた。

ある日、「白雀を貸せ貸さぬ」という子供の喧嘩が、僧同士の争いへと発展し「白雀の乱」が起きる。
時の藩主「有馬氏」がその仲裁に当たった際「そもそもは子供の喧嘩がもと。ならば子供を殺してしまえ」と、多くの子供を滝に落として殺した。

別所には、今も「稚児落としの滝」が悠久の時を刻み続けている。



◇開祖「行基僧」が修行の際、「一切教」というお経巻を、埋めたとも滝に流したとも言い伝えられる「一切教の滝」。

山を分け入った静寂の地には幽玄な滝と、神仏を祀った幾つもの祠があり、参拝者も多いと聞く。



◇霊峰雲仙は女人禁制だったため、尼僧らが遠く麓から信仰した名残か、今でも「慈恩寺」や「観音寺」「寺山」など、地名や字名として残っている。



◇やがて江戸時代、キリスト教が盛んに布教されるようになり仏教は次第に衰退していく。

後に「島原の乱」というさらなる打撃を受け、かつて千もの僧房を誇り、世の崇敬を集めていた山岳信仰は、今や伝説として語り継がれるだけとなった。                               
                                                                                                                                 


                                                                 
(雲仙観光協会HPより抜粋)

山岳信仰「雲仙」」ついて

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