占い四柱推命
本文へジャンプ  
             
 依存と共依存と相互依存
はじめに
私の、ものの考え方の根本にある方向が、相手(夫、子供、両親、友人、知人)に対してどうだったんだろうかと反省をさせられる(考えさせられる)時期がありました。私の考え方や行動のパターンが、自分では正しいと思って話をしたり、この人を何とかしてあげないといけないと思ってむきになったり、反発してみたり、相手の問題は私が何かに欠けているから(自分の姿の鏡ではないか)と思って自分を反省してみたり、いつも何故だろうと考え問いかけて行動をしてきました。しかし、それが反って(結果として)相手を窮地に追い込む結果となってしまいました。私の「この人を何とかしてあげないといけない」という思いが、なぜこんな結果になったのか?何が間違っていたのだろうか?よくよく考えてみました。
「この人を救ってあげたい」と思う考え方の中に、その人の自立を「助ける」どころか、その人が立ち上がりたいと思ってはいるけれど、自分で立ち上がろうと決心していない望みまでまるまる叶えてあげようとしている事に気付きました。そして、その人の現状を否定していることから物事を考えていることに気づいたのです。「救う」と「助ける」の違いに気づき、「相手を信頼しているか」の問いかけに、「現状を肯定している」か「現状を否定しているか」という考え方の方向が結果を創り出す(創造)されると言うこと、考え方の方向で現状が大きく変わっていくという、原因と結果の原理原則があることが分かったのです。
全ての出来事は自ら引き寄せていると考えます。そして与えられる環境や出来事は偶然ではなく、必要、必然、ベストタイミングとして、自分の成長のために与えてくれた環境であると考えます。否定的感情が続く時は、気づきや成長のチャンスと思って考え行動することで、解決の道や、運が開けると考えます。
 

日本の女性は共依存者が多い              

共依存とは、人間関係そのものに依存をするアディクション(嗜癖・依存症)です。

共依存の人は、自分自身を大切にしたり自分自身の問題に向き合うよりも、身近な他人(配偶者、親戚、恋人、友人)の問題ばかりに気を向けてその問題の後始末に夢中になります。身近な人の取らなかった責任を一生懸命代わりにとり、結果、現在の困った状況を身近な他人本人が決意して解決する必要を与えず、困った状況をそのまま続けるはめになる・・・・あるいはますます困った状況に陥っていく人たちのことです。度を越して他人への責任を感じてしまうのです。

身近な相手の大きな問題・・・・・アルコール依存症やギャンブル依存症、非行や暴行、買い物中毒症、仕事中毒症、絶えない人間関係のトラブルなどを抱えているため、共依存症の人の「依存症」と言う問題がクローズ・アップされることは滅多にありません。

けれども、そういった見た目に派手な依存症や問題を抱えている人たちの側に必ずと言っていいほど共依存者がいると言われています。共依存の人たちが問題の後始末を一生懸命してくれるので「困った人達本人」は「困った状況」が「なんだかんだと言っても何とかなる」と無意識で感じています。このため問題を解決せずにほったらかしにし、悪化させます。この現象をさして共依存者のことを「依存症の支え手(イネイブラー)」と呼ぶこともあります。

ここで誤解をしないでいただきたいのは、身近な誰かが何かの依存症にはまっているのは、その人に問題があるからです。問題の無い人は、依存症にはまりません。共依存症者と他の依存症者が一緒にいると、2人とも依存症がエスカレートしやすくなりますが、共依存症者が側にいなくても、他の依存症者は依存症にハマっています。「私が共依存症だから、相手がパチンコ依存症なんじゃないか」というのはハッキリと間違いです。

共依存症者が側にいなければ、他の依存症者のエスカレートはゆるやかになるケースが多いと言われています。それと同じように、他の依存症者が側にいなければ、共依存症者のエスカレートもゆるやかになります。

立場は同等であり、どちらにも同じように問題があります。どちらが悪いという話ではないことをご理解下さい。

日本の女性はとくに「我慢して尽くすこと」が美徳とされているので、共依存者が多いとされています。ある程度までは「人間関係の潤滑油」ですが、共依存症者にとってその人生は他人(相手)の後始末、後始末、後始末・・・・・そして忍耐、忍耐・・・・・他人(相手)の責任の代行ばかりで自分のための人生を生きることが出来ません。自分自身の人生も惨めですし、周囲も惨めなままになってしまいます。


「共依存」の反対は「自立」ではありません。
むしろ、依存症者と共依存症者は、自立心が強すぎるのです。
依存症者であっても、彼らは世間に反抗をし、常識や理論的な意見に反抗しているのです。
共依存の反対は「相互依存」です。依存から自立へ、そして自立から相互依存へと成長していくのがのぞましく思います。

相互依存
人(相手)が反抗的になるのは、頭の問題ではなく心の問題です。
そして、心の問題を解くカギは、その人との信頼関係の積み重ねをしていくことであり、相手に無条件の愛を示すことです。
依存関係には、建設的な要素も破壊的要素もありますので、まず建設的な相互依存と寄生的な依存の違いを知っておくことが大切です。

まず、「相互依存」は、誰もが生活の中でさまざまに経験をしています。子供たちは皆大人の支えを必要としています。私たちも病気になれば誰かにか看病をしてもらいたいと思います。年をとれば、たいていの人は家族や周囲の人に頼ったり、世話をしてもらわなくてはなりません。相互に依存しあうことがどんな感じか良くお分かりかと思います。相互依存なしには個人の生活も社会も成り立っていかないと、私たちは分かっています。都会の人は、農村からの食料供給が途絶えたら大変困ります。魚を取るため漁業する人がいなかったら、困りますね。社会における相互依存は、私たちに必要な肯定的要素です。

家庭や職場での「相互依存」もまた然りです。家族のため家事を一生懸命やっている母親は、家庭生活において重要な役割を果たしています。彼女の夫は、家庭でただ一人の稼ぎ手かも分かりませんが、妻が自分を頼るのと同様に、子供もまた妻を頼っています。彼らは家庭生活を支持するために責任を維持するために責任を分担しているのです。子供たちは両親から愛情を注がれ、しつけられ、養われて、精神的にも経済的にも親に依存しています。親たちも子供たちも、お互い愛し支えあい、学校や家庭でそれぞれの責任を果たし、家事を分担し合ったりして相互依存しているのです。

問題の破壊的要素を含んだ「依存者」と依存症者の支え手「イネイブラー」の共依存関係は、以上のような生活に不可欠な本来の相互依存とは異なる性質のものです。

身近な人が、アルコール依存症であったり、パチンコ依存症であったりすると、相互依存するのに大変苦労と犠牲が伴います。依存者と共依存者はパートナーを過小評価します。ただでさえ消えそうな相手の自尊心をさらにおとしめるのです。これはどっちにとってもマイナスでしかありません。

いい恋愛や結婚は、共依存関係ではありません。「相手がいなくては生きて行けない」というのは、病的です。一人でも生きていけるけど、二人のほうがもっと楽しいというのが本当の健全な男女関係です。それぞれの個性と人格をそなえ、自分自身の人生を生きて行けるけれど、二人一緒にいることでより人生が豊かになるなら、本当に幸せな関係といえるでしょう。

「依存と共依存」そして「相互依存」の関係と違いがお分かりでしょうか。

私は共依存者であることに気づきました。相手を過小評価していたことに気づき、自分自身を修正するために、たくさんの言葉で勉強をしました。頭ではわかっても、言葉や行動は無意識的に言葉を発したり行動をしてしまいます。やはり意識をして変えていかなくては、性格や環境を変えることは出来ません。ですから理論をしっかり学んで、心で分からないと同じ失敗を繰り返すだけになってしまいます。

「知る」ことはとても大切なことです。

依存症と共依存症の克服(責任転嫁)
私たちが積極的に生きることを妨げている原因の一つに「依存症」があります。
「依存症」は一般的にアルコール依存症からきている言葉ですが、お酒に限らず、さまざまな物や人に過度に依存してやめられなくなることがあります。「依存症」には、例えば次のようなものがあります。
  1. 嫌なことがあると食べずにはいられない、買い物せずにはいられない、必ず後悔すると分かっていてもやめられない。(食物依存症、買い物依存症)
  2. 少しでも暇があると電話せずにはいられない、たとえば莫大な電話代が家系を逼迫させるのが分かっていても。(電話依存症)
  3. いつもペットのことを考えている。ペットが死んでしまったら、自分も生きていられないと思う。(ペット依存症)
  4. 友人または家族といつも一緒にいないと寂しく不安。相手が自分の願いどうりにしてくれないとすぐにイライラしたり、相手のちょっとした言葉で傷つき、腹を立てる。(友人依存症、家族依存症)

私たちには病気とまではいかなくても、多かれ少なかれこのような依存的傾向があるのではないでしょうか。自分の内にもこのようなものがあることを知り、認めていくのはとても大切なことです。今の自分がこうなのは、あの人のせい、環境のせい、親のせい、だからしかたがない・・・・これも依存的傾向が強い時に出てくる思いです。何かに依存している時、実は私たちは自分で問題に直面し、自分で責任をとることを避けているのです。このような生き方を続けていると、自分は不本意にもこうさせられてしまったと言う感覚がいつもぬぐえず、自分の人生を歩んでいるという満足感、充実感を味わうことができません。このような生き方から開放されて、自分らしく人生を歩むことができるでしょうか。

例えとしてこのようなお話があります。

アルコール依存症の父親をもった双子の兄弟がありました。幼い時から、父親がお酒を飲んでは二人に暴力を振るうという環境で育ちました。やがて二人が大人になった時、彼らはどうなったでしょうか。片方は父親と同じようにアルコール依存症になりましたが、もう一人の方はお酒を一滴も飲まず、アルコール中毒予防協会で働くようになったそうです。この二人のように全く同じ環境で育てられた双子であっても、正反対の生涯を歩むことが現にあるのです。何がこの違いを生むのでしょうか。それは「こうなったのは○○のせい」と言い訳することを止めて、自分の人生は自分の責任で選びとるものと自覚するところから始まるのではないでしょうか。
信仰的に考えると
旧約聖書の中に人類最初の始祖、アダムとエバのお話しがあります。

(神は)仰せになった。「・・・あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(創世記 3・11〜12)

これは、最初の人間アダムが罪を犯した時の言葉です。
自分のしたことを、他の人の責任にする。しかし、考えてみれば、これはまさに私たち自身の内にある性質ではないでしょうか。
よくよく考えてみれば、自分のことを人のせいにするばかりか、自分が苦しい時、人にも同じ思いをさせたいと思ったり、かなり陰険なことを考えたりしてしまう、私たちの内にはこのような心はないでしょうか。
このような心の内に潜む罪をキリスト教では「堕落性」と言います。仏教では「煩悩」と言いますね。この私の中にある罪や煩悩を、自分の中でどうコントロールしていったらいいのか、迷う時はありませんか。

聖書的にこの「罪」を解釈すると「ズレ」とも訳されるそうです。すなわち、親として、子として、人として、あるべき姿から「ズレ」ている状態・・・・・これが私たちの姿と言えるのではないでしょうか。

私は以前とても嫌いになった人がいて「この人がいるから・・・この人がイナッかったら」と思い続けた人がいました。しかし、その人に問題があったにしても、「その人を否定して嫌ってしまう」ということ自体は私の問題・罪であると思って、「私の問題」として受け止め、自分の罪として認めました。その時、私の中の「腹立たしい」気持ちが溶けていくような感覚とともに、その人を嫌いだった感情が消えていることにきずいたときがありました。

自分の罪、煩悩、弱さを認めるのは苦しいことのように思えますが、しかし、その感じ取った内容を自分の鏡であると認めて自分の問題として受け止める、これこそが開放され、自由にされていく秘訣であると思うのです。
もう少し深く考えると
そもそも、悟るとはどういうことなのでしょうか。

「こうあるべきだ」
「何々でなければならない」
「これは正しくて、あらは誤りだ」
「この方が上だ」
「この方が得をする」
「勝つほうがいい」
というような自分のからだの中に根を張っている判断基準に一つひとつ気づいて、

「この世には何でもあり得る」
「良いものも悪いものもない」
「悟っても悟らなくても良い」
「今の自分が最高」
「この世はこのままですばらしい」

ということが、からだの中から湧き上がってくることではないでしょうか。

悟るとは、何かこれまでと違った優れた存在になることだと勘違いしています。ですから、自分の欠点を無くすように自分を変えていかなければならないと思い込んでいます。
しかし、そうではないと思うのです。
悟る前も悟ったあとも何も変わっていないことに悟った後に気づきます。「悟ろう」「悟ろう」と思っている間は、悟ることができないと言うことです。「悟ろう、悟ろう」と思うということは、悟ることが良いこと、悟らない自分は劣ったものと言う分離意識があるということだからです。
現状を否定せず、その状態で自分がしたいことをする
これまでは、自分で自分の価値観に従って何かしたいと思っても、親の反対や世間体でやめたりすることがあります。それは親の価値観や世間の常識のためにあるがままの自分の気持ちを否定しているということです。あるがままの自分を本当に愛し、受け入れることができたら、そこに湧く自分の本当の思いも同じように愛し、受け入れることができるはずです。ただ素直にあるがままの本当の自分の思いに従いましょう。
しかし、それがバランスの取れたすばらしい思いであるとは限りません。その場合、その結果は否定的な感情や思いをもたらすでしょう。否定的感情や思いがあると言う事は、必ずそれをもたらした「〜であるべきだ」「〜でなければならない」というような「ある考え」に対するこだわりがあるはずです。

ですから、その否定的感情、思いを受け入れた上で、もうそれを味わいたくないと思えば、その「〜であるべきだ」「〜でなければならない」というこだわりを手放せばよいのです。『どっちでもいい』と思ったなら、否定する必要は無くなりますから否定的感情も起きません。そうやって受け入れることが愛することになっていくのです。

もし、自分の正直な思いを否定してしまったら、それはもう自分を生きていないという事に等しいと思います。かけがえのない自分を大切にし、瞬間、瞬間を大切に生きましょう。
 
 
   Copyright(c) 2005 四柱推命マリア. All rights reserved