哲学ノート


2005.10.14 本能と文化
2005.08.16 理性について
2005.08.11 質と量について


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2005.10.14 <本能と文化>


 人間には応報感情というものがある。自分が損害を受けた場合、損害を与えた相手に対して復讐しようとする感情である。

 この感情は、自分が攻撃された場合に怒りが湧いて、相手に反撃しようとする人間の生物学的な本能に基づくものであると考えられる。誰でも、誰かに殴られた時はかっとして殴り返したくなるはずである。人間は自分が攻撃を受けると、攻撃をした相手を攻撃しようとする欲求に駆られるのだ。また、この欲求は攻撃を受けたときに生じるものだが、すぐさま相手を攻撃できなかった時は、相手を攻撃するまで時間的に持続する(もちろん時間がたつにつれ弱まっていきはするが)。

 不法行為法(自己の権利が侵害された場合に、侵害した相手に対して賠償を求めることを認める法制度)や刑法はこの応報感情に基づくと思われる。反撃は何も被害者自身の手で行われる必要はない。被害者の被害と加害者の受ける損害との間に因果関係が認められれば、被害者の応報感情は満たされるのである。だから例えば、加害者が被害者を殴った後で、道を歩いていたら熊に襲われて死んでしまったという場合、被害者が「あいつは俺を殴ったからばちが当たったんだ。」と思えば、それで被害者の応報感情は満たされるのである。刑法の場合を考えてみよう。加害者が国によって処罰されるのは被害者への加害が理由となっている。だから被害者は自らの手で加害者に損害を与えなくても満足するのである。

 ところで、応報感情は人間の、殴られたら殴り返してやろうとするような本能に基づくものであった。不法行為法や刑法が応報感情に基づくのだとすれば、それらは結局のところ本能に基づくということになる。だとすると、社会制度のなかには、人間の本能によって基礎付けられるものもあるということになる。

 だが一般に、文化(社会制度も文化の一つである)というものが、すべて本能に基づくものであると言うことは可能だろうか。そのような考えには、次のような批判が考えられる。

 まず、社会の領域と個人の領域というものを分けて、社会の領域に属する文化は、後天的に学習や教育によって個人に埋め込まれていくに過ぎないのであって、本質的に個人の領域に属する本能と完全に接しているわけではないとする批判。文化は人間に外側から与えられるものであって、内側から与えられる本能とは本質的に異なるとする見解。

 次に、本能と理性を対置させ、文化の中には理性によって生み出されたものも多くあるのでり性と言.10.14、文化は本能のみによって生み出されるわけではないとする批判。たとえば科学技術は文化の一つであるが、本能ではなくもっぱら理性によって生み出されたとする見解。

 だが、社会の領域と個人の領域は截然と区分されるものでもないだろう。文化の始原を考えればそのことはいっそう明白だ。社会が存在しない状態で新たに社会的なもの(たとえば言語)を創出しようとしたときに、創出する主体は個人であったはずである。文化は究極的には個人によって生み出されたのである。

 また、本能と理性を区分するのは大いに結構なことだが、理性を駆動しているのはほかならぬ本能ではないだろうか。科学技術の発展も、人間の知りたい、理解したいという本能的な欲求によって駆動されてきたのである。

 文化を本能によって説明することは不可能ではないのかもしれない。

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2005.8.16 <理性について>


 理性とは何であろうか。

 まず、理性は意識とどう違うか考えてみよう。我々が、たとえば木が生えている状態を意識しているとする。それだけで、そこに理性が働いているといえるだろうか。私は言えないと思う。たとえそれを木として認識していたとしても、「そこに木が生えている」などと言語化しない限りは理性が働いているとはいえないだろう。ただ木として認識するだけだったら動物にだって可能だ。だから、単に世界を認識しているだけでは理性が働いているとはいえず、その認識を言語化する段階になって初めて理性がかかわってくるのだ。理性の働きのひとつとして「世界の認識の言語化」を挙げることができる。

 すると、理性とは言語運用のことを意味するのだろうか。私はそれは違うと思う。たとえばドアに指を挟んで「痛い」と叫ぶときに理性が働いているとはいえないからだ。無意識に、反射的に言語が発される時には理性は働いていないはずである。だから、理性が成立するための必要条件として、意識が働いていることを挙げることができる。

 それでは、理性とは「意識的な言語運用」のことを指すのだろうか。だがこの定義にも問題がある。たとえば自動車を運転していて、障害物を認識し、それを避けるといった過程では言語は介在していない。だが、そこには理性的な判断が働いていると言えないだろうか。言語を介在させなくても、状況を認識し、それに応じて意識的に的確な行動を選び実際に行動する場合には、理性が働いているといえる。この場合、「障害物がある」「障害物にぶつかると損害をこうむる」「損害は避けたほうがよい」などの、言語化されていない信念により基礎付けられることで、具体的なハンドルを切るという行動が導かれている。このような言語以前の推論にも理性は働いていると言えはしないだろうか。

 ここまでの議論をまとめてみる。@理性は意識的でなければならない。A単に世界を認識しているだけでは理性が働いているとはいえず、理性が働いているといえるためにはその認識を言語化しなければならない。Bだが、意識的に推論をする場合には、言語を介在させなくてもそこに理性が働いているといえる。

 とりあえず今回はここまで。

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2005.8.11 <質と量について>


 たとえば赤と青は質が違うという。そして、質の違うもの同士は順序付けることができないという。赤と青ではどっちが「大きい」とか「多い」とかを考えることができないというのだ。一方で、量の違うもの同士には順序をつけることができる。10リットルは1リットルよりも多い、といった具合にである。

 だが、量も多元的になると質に似てくるのではないだろうか。たとえばAB二人の英語と数学の成績を考える。(英語の点数、数学の点数)で表すとすると、A(100,100);B(80,80)の場合だったらAのほうが優れているといえる。だが、A(100,80);B(80,100)の場合はどうだろうか。二人とも合計点は180点で、合計点に関しては優劣をつけることができない。だが、ABの成績は異なっているといえる。

 この事情は、赤と青の間の事情に似ていないだろうか。赤と青は異なっているといえるが、そのふたつに優劣をつけることはできないからである。だとすると、我々が質だと思っているものは実は多元的な量であり、質の違うもの同士に優劣をつけられないのは、多元的な量の違うもの同士に優劣がつけられないことから当然に導かれるということになりはしないだろうか。実際、RGB表示だと、赤は(255,0,0)、青は(0,0,255)というように、色という質は多元的な量によって実現されているわけである。

 具体的に、質を多元的な量に還元することを考えてみる。たとえば人柄というものは一般的に質であると考えられているはずである。だが、人柄は実は、(やさしさ、おもしろさ、気の強さ、・・・)といった具合に多元的な量によって実現されていて、Aさんは(40,60,80,)Bさんは(80,30,70,)といった具合に分析することは可能なのではないだろうか。

 問題なのは感覚質である。感覚質とは、意識されているこの赤さとか、この甘さといったものである。いくら糖度が20度だ、などと言われたところで、実際に感じているこの甘さは説明できないだろう、という考えがあるのである。感覚質を完全に多元的な量に還元することは果たして可能なのだろうか。この点についてまだ私は明確な意見を述べることができない。

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