| 文学ノート |
2005.11.24 理解の拒絶
2005.11.24 <理解の拒絶>
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ある朝、僕が町を歩いていると、怯えと怒りのパニックにおちいった小学生の一団が石礫を投げてきた。僕は片眼を撃たれて舗道に倒れたまま、この事故についてなにひとつ理解することがなかった。僕の右眼は、白眼の部分から黒眼の部分にまたがって横に裂け、視力をうしなった。現在にいたるまで、あの事故の本当の意味を理解したと感じたことはない。しかもそれを理解することを惧れる気持ちがある。 ――大江健三郎「万延元年のフットボール」p8−9 |
文学的な認識は不徹底である。作家はなまの認識を描こうとし、それをあまり分析したり整理したりはしない。分析はむしろ体験の本質から遠ざかるものであったりする。文学的認識は、曖昧であるまさにそのことによって核心に迫るという逆説を担っていることが多い。
主人公は、失明の事故に関しなにひとつ理解できなかったし、その意味を今でも理解できない、と語る。これはまったく文学的な言説であり、なまの認識をそのまま述べているわけであるが、それゆえそのままでは我々に何も教えることはない。我々はそこから、人間の生に関して本質的な真理を抽出する必要がある。主人公のなまの認識が、いったいどのような普遍的な命題と関わっているのか、また「理解できない」という認識の背後には主人公のどのような心理的な機制が働いているのか、少し分析してみたい。なまの認識が三次元的な複雑な構造体であるとすれば、その分析は我々にその構造体の一断面を示すに過ぎないかもしれない。それでも分析の誘惑には抗いがたいものがある。
一見すると、この引用部は、「人間は実に多くのことを理解しないまま日々をすごしている」というありふれた命題と関わっているに過ぎないようにも思える。パニックに陥っているからといって小学生は石を投げてくるとは限らない。それなのに何故彼らは石を投げてきたのか。それ以前になぜ彼らはパニックに陥っていたのか。これらの理由もまた、人間が理解しないままやり過ごしていくものの例に過ぎないのだ、と考える人もいるかもしれない。
だが、それらの理由は単に、主人公が「理解しない」「理解できない」ものに過ぎないのだろうか。そうではなく、私はむしろ主人公は「理解しようとしない」のだ、と思う。
人は理解できないものを非難することができる。理解できない自分に非があるのではなく、理解を拒む客体に非があるのだと主張することができる。「わけがわからない」という言葉は非難の言葉として用いられることが多い。主人公は、事故を理解不能なものとみなすことによって、その事故を常に非難し続けることができるのである。だから主人公は事故を理解しようとしない。
また、主人公は、「しかもそれを理解することを惧れる気持ちがある。」と語っている。これはなぜだろうか。それは、事故の原因を追究することによって、ひょっとしたら自分に非があったことが明らかになるのではないかと恐れているからである。子供たちのパニックの原因はひょっとしたら自分にあったのかもしれない。だとすると主人公はもはや責任を自分で背負い込まなければいけなくなる。責任を背負い込むことが耐え難いほど、主人公にとっては不幸な事件だったのだ。だから、事故の原因を理解しようとしないことによって、主人公は自分が責任を背負い込むことになる可能性を免れているのである。
失明に至った事故は、もともと原因が理解しづらいものだったのかもしれない。だが、理解しづらいものでも、努力することによって理解することが可能になったりする。主人公はそういった努力を放棄する。そのことによって、自分に事故の原因を帰するという耐え難い事態の可能性を排除するとともに、事故を常に非難に晒しておくことができるわけである。