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余寒

             

「靴をかえようよ」

 声に思わず振り向いてみると、私と同じぐらいの年輩の浮浪者が一人立っているのが目に入った。だから私はそのまま立ち去ろうとした。私に浮浪者の知り合いはいない。しかし実際には私は立ち去ることが出来なかった。その浮浪者から目を逸らすことさえ出来なかった。

 場所は繁華街のまん中。とある雑居ビル一階にある行きつけの外科医院から歩道に出て数歩歩いたところで声を掛けられた。季節は二月の半ば。つい数日前は暖かい日が続き、今年は春の来るのが早いなと思っていたら、また数日前から切れるように寒くなっている。時間は宵の、まだ人通りも多いとき。今日は何故か普段より人声も車の音も盛んに聞こえている。

 そのざわめきの中で、あたかも私とこの浮浪者の二人だけが切り離された空間にいるかのような、そんな感覚に浸されていた。まるで温室の中にいるかのように、透明の壁で雑踏から切り離されているような。浮浪者は私を見て、ニコニコと笑っていた。浮浪者の人相風体ではなく、その笑顔が私の記憶から一つの名前を引き出した。

「シーラ?シーラかい」

 私は小学生だった頃、父の転勤の都合で一年だけとある山奥の村で過ごしたことがある。たった一年だけだったが、私の人生での大きな経験であり、その時の親友がシーラだった。

 私の驚いた顔を見て、シーラの笑顔は益々大きくなった。

「二十年経っても相変わらず鈍いやつだな。ボクは後ろ姿を見ただけでキミと分かったのに」

「シーラかい、懐かしいな。それにしても君は随分変わったね」

「そうかな。村の連中は、全然変わらないって言っているよ」

「いや、その……まあ色々と、君とは気付かなかったよ。それにしてもその格好は何だい。何だったら何か仕事を紹介してやろうか」

 シーラは大きくかぶりを振った。

「目出度くもボクは、ハヤム叔父さんの衣鉢を継ぐことになってね」

「ハヤム叔父さんって、あの旅行家の?」

 シーラは頷いた。

「一年の半分は外国旅行で、一年の半分を村で過ごしている状態さ。今も旅行の帰りでね。こんな汚い格好はしているけど、うらぶれている訳じゃない。結構それなりに充実した人生を送っているよ」

「そうかい。で、村はどんな様子?」

「あんな村だからね。百年経っても二百年経っても大した変わりはないさ。そうさね、君が村を離れてから起こった一番大きな事件と言えば、ポンが母親になったことかな。想像できるかい。あの泣き虫ポンが今や、五人の子供の肝っ玉母さんにして、PTA会長様なんだぜ」

「はは、そいつは楽しいや。あっ。ああー。折角会ったんだから、どこか居酒屋にでも入って積もる話もしたいところだけど、」

「分かっているよ。君も今や大臣閣下の筆頭秘書官様だからね。忙しいんだろ」

「ああ、今から事務所に戻って、明日の大臣の演説の原稿に目を通しておかないといけないんだ。やっぱり大臣閣下の演説の原稿だけは、僕が直接目を通しておきたいんだ。ここだけの話だけど、明日大臣は重大発表をされるんだ。それはこの国を良くするための重要な政策で、今まで既得権益の上にあぐらをかいていた奴らを一掃して……」

 私の話が演説になりそうになったのを、シーラは手を振って遮った。

「分かっているって。だから、積もる話は今度会ったときに回して、今日は挨拶だけにして別れよう。でも、そんな大事な仕事をしている筆頭秘書官様に一言助言しておきたいんだけどね。靴変えなよ。腰痛なんだろ」

 図星をつかれて私は驚いた。

「かなり長い間痛んでいるようだね。この外科医院にも」とシーラは、私の通っている医院の看板を指しながら言う。「長い間通っているけど、改善の兆しがない。だろ。分かるって。後からキミの歩く様子を見ていれば。ボクも世界を旅していて、色んな人を見てきたからね。だから言わせて貰うけど、靴変えなよ。腰痛の原因の大半は、合わない靴を履いていることなんだよ。合わない靴を履いているから足が痛くなる。それを庇おうとして歩き方が変になるから、その歪みが腰の溜まって、腰痛になる。靴を変えるかズボンを変える。それだけでボクの知っている腰痛患者の九割は完治したよ。極端な例では、伝い歩きしか出来なかったお婆さんが、靴を変えた翌日にはスキップして山菜採りに出掛けたぐらいでね。それはまあ極端だけど、とにかく靴を変えなよ。足にあってないんだろ。歩き方を見れば分かるよ。それに第一、その靴、デザインのセンスが悪いじゃないか。これから一緒に靴屋に行こうか。ボクが選んであげるよ。尤もお金を払うのはキミだけどね」

「有り難う。でも、この靴は実は、妻が結婚記念日のプレゼントにくれたものなんだ」

「成る程、それじゃあ簡単に変えるわけにも行かないか。何しろ、キミの奥さんは、大臣閣下のご令嬢だそうだからね」

 シーラは笑った。ただ、その笑い方は最初会ったときの笑い方ではなく、もっと湿度の高い笑い方だった。

「キミは奥さんの選んだ靴を履かざるを得ないんだ。『センスが悪いから靴を変えた』なんて言えば、離婚ものだね」

 私はどう答えて良いか分からなかった。シーラも暫く何も言わなかったが、突然、ポケットからナイフを取り出した。山賊が強盗するときにも使えそうな大きなナイフを取り出して、言った。

「じゃあ、ボクがここでその靴を切ってあげるよ。それで口実が立つじゃない。『暴徒に襲われて靴を破られました』って」

「君にそこまでしてもらわなくてもいいよ」

 直ぐに返事した私に、シーラは軽蔑するような視線を向けた。でもそれも一瞬のこと。柔らかな笑顔に戻って言葉を続けた。ナイフをポケットに仕舞いながら。

「じゃあ、まあ靴は変えないにして、良いことを教えてあげるよ。歩き方を変えればそれで腰痛はかなり良くなるよ。腰に手を当てて二三歩歩いてみて。そう、そんな感じ。ほら分かるでしょ。歩くたびに腰の回りの筋肉が縮んだり弛緩したりするでしょ。つまり、歩くって言うのは腰に対する一番良いマッサージなんだよ。ただ、それも正しく歩いていればの話。下手なマッサージをされれば体が却って痛くなるように、間違った歩き方をしていると、腰痛は悪くなる」

 私は何となく納得した。シーラの説明は続く。

「正しい歩き方は、まず姿勢を正しくする。誰かに頭蓋骨を真っ直ぐ上に引っ張り上げてもらっている様子をイメージする。その状態で上体を伸ばして、目線は無限遠を見つめる感じ。足は、両爪先を真っ直ぐ前に向ける。重心の移動に気を付けて。足が地面に付くときに、踵の真ん中に重心が下りることを意識して、それから足の中心線を通って重心が移動し、足の親指と人差し指の間から抜けていく感じで。地面に付く時も、地面を蹴る時も、膝と足首のバネを十分に使ってね。それとこれが一番大事なんだけど、……っあ、ああ、まあいいか、うん」

「何だよ。言ってくれよ、気になるじゃないか、途中で止められたら」

「うん、でもキミは昔から現実主義者だからさ」

「だから何なの」

「いや、これはおまじないに属することなんだよ。キミは昔からそんなこと嫌いだったじゃないか」

 言いながらもシーラの顔に笑みが積もっていく。二十年前によく見せたあの表情。先生に怒られるような悪戯を企んでいるときに必ず見せていた表情。

 僕は答える。

「言ってくれよ。もう、この腰の痛さはおまじないでも、魔法でも何でも頼りたい気分なんだから」

「それなら言うけど、一番大事なのは、一歩歩くたびに、おまじないの言葉を言うんだ。『ボクハシーラガスキ、ボクハシーラガスキ』ってね」

 私は余程間の抜けた顔をしていたと思う。何も言えなかったのだ。シーラの表情がすっと冷えていったのが、私の目にありありと見えた。私はついていけなかった。しかしついていく必要もなかった。シーラはすぐにあの笑顔に戻って、別れの言葉を告げ、私に背中を向けた。その間際「ボクもそんなに暇じゃないしね」とシーラが呟いたのを聞いたような気もする。去っていくシーラの後ろ姿が人混みの中に消えたとたん、雑踏のざわめきが私の耳に蘇った。仕方なく私は、外科医院で貰った湿布薬を手に、大臣の事務所へと歩き出したのだった。

 その後今に至るまで、シーラが私の前に姿を現すことはなかった。その一方で私も、靴も変えなかったし、シーラの言った歩き方を意識することもなかったし、ましてや例のおまじないを口にすることはなかった。そして今でも腰痛に悩まされている。

               終わり