夜鳴き蝉・秋蝉
シーラが誘いに来たので、僕は一も二もなく家を飛び出しました。僕は、お母さんが紫外線対策にうるさいので、麻の長ズボンに長袖シャツ、つばの広い帽子にサングラスといった出で立ちだったけど、シーラはもっと軽装で、足下はゴムサンダルでした。僕を見たシーラはまず「銀行強盗に行くみたいだね」と言ってひやかします。「そうさ、強盗に行くのさ」と僕は答えて、いつものように裏山への道を一緒に歩いていくのでした。
今日は夏休みの終わる三日前。普通の子供達は、宿題を仕上げるのにヒイヒイ言っている頃で、とても遊びに行く余裕など無いのだけど、自慢じゃないけど僕は計画上手。宿題はちゃんと夏休みの始まった日から少しづつ仕上げていました。でも、シーラはどうなのだろう?とても計画的なタイプには見えないんだけど。
「全然。何も終わっていないよ」
シーラはあっさりと言います。
「いいかい、夏休みの宿題なんて、最後の日までやり残しておくものなんだぜ。それでこそ、夏休みの宿題の教育上の目的が果たせるってものなのさ」
シーラの言葉に僕は目を白黒。
「あのね、算数の計算が少し速くできるとか、国語の書取が少したくさん出来るとか、長い人生の中で、そんなことはほんの些細な事じゃないか。人生を生きる上でもっと大切な能力は、誰にどんな才能があるかを見極める力と、その人にものを頼むにはどうすれば効果的なのかを見極める力だろ?夏休みの宿題ってのは、その能力を磨くためにあるんだぜ」
って、つまり、夏休みの宿題は人に頼めってこと?
「そうさ、夏休みの宿題を全部自分でするなんて、その教育的目的を見誤っているよ。というわけで、今日は算数のドリル見せてね。君ならきっともう全部終わってるだろうし、計算も間違っていないだろうから」
シーラのそんなところには、ついていけません。
「どう、君のことだからもう宿題は全部終わってるんだろ」
「う、うん。でも、フジタ先生の作文の宿題だけは見せて上げられないよ」
「構わないよ。作文は自分でするから」そうなのです。シーラは作文だけは得意なのでした。それと、詩を作ったり、詩を朗読したり。「第一、人の作文を真似たりしたら、先生にすぐばれてしまうもんね」
「って言うか、まだ作文の宿題だけはまだ終わってないんだ。作文は苦手なんだ。昨日もね、『皆さんの夏休みの成果を見せて貰います』ってメール届いていたもんな。プレッシャーだ」
「ハハハ、そう言えばボクの所にも届いてた。ハハ、そりゃプレッシャーだ」シーラは笑います。「フジタ先生は三ヶ月に一回は作文の宿題だすもんね。でも、君は最近転校してきたばかりだから知らないだろうけど、先生は以前は一月半に一回は作文の宿題出していたんだぜ。それに比べりゃ少なくなったってもんよ」
「人任せのシーラなら『ははは』で良いかも知れないけど、僕にとっては大問題だよ」
思いっきり嫌みったらしく言ってみました。当然言い返してくるものと思っていたけど、返って来ません。不思議に思って振り向いてみると、シーラは僕の隣にいません。後を振り返ってみて、じっと地面を見つめているシーラの姿を見つけました。そうです、また始まったのです。何か関心のあるものを見つけると、今までやっていたことをすっかり忘れてしまうと言う、シーラの悪い癖が。じっと地面を見つめていたシーラの視線の先にあったのは……。
「蝉だね」
と僕。一匹の蝉が、その短い人生を終えたのでしょうか、仰向けに手足をピチッと縮めた格好で地面に転がっていました。
「夜鳴き蝉」
とシーラ。相変わらず自然の色んな事についてはシーラは詳しいのです。
「でも、夜鳴き蝉って、秋の虫じゃなかった?」
「よく間違えられるけど、夜鳴き蝉は完全に夏の虫。鳴く時間帯が、夜という涼しい時間帯だから、秋の虫と間違えられるんだ。それと、鳴き声が淋しいからね」
シーラが相変わらず土の上の夜鳴き蝉の亡骸を見続けているので、僕もよく見てみます。あれ、この蝉は鳥にでもつつかれたのだろうか。羽根が無くなっている。と、もっとよく見てみると羽根が無いのではなくて、羽根が透明なだけでした。それはもう、見事なまでの透明だったのです。まるで空気のような透明さ。
「綺麗な羽根だね。重さがまるでないような透明さだ」
僕は思わず口に出して言っていました。
その言葉にシーラの目線が一瞬僕の方に向きました。鋭い視線。それからまたシーラは視線を下に戻して、ぼそぼそと喋りだしました。
「アララ兄さんがね。兄さんって言っても従兄の兄さんなんだけどね、もう何年前になるかなあ。アララ兄さんは絵が得意でね。いつでも野山にスケッチに出掛けていた。ボクはそんなアララ兄さんについて野山に出掛けていたんだ。アララ兄さんがスケッチしている間、ボクはバッタを追いかけたり、ヘビに追いかけられたりして時間を過ごしていた。それは幸せな時間だったよ。アララ兄さんが何かを教えてくれるわけではないし、何かを食べさせてくれるわけでもないんだけど、本当に楽しい時間だった。日が傾く頃になると、兄さんの絵は描き上がり、ボクのシャツは泥だらけになって、そして二人して家に帰るんだ。帰る道々アララ兄さんは、将来の夢をボクに語ってくれる。アララ兄さんの夢は、大画家になって村の教会の聖堂を飾る絵を描くことだった。面白いだろ、首都の大教会じゃなくて、ボク達の村の教会の絵なんだ。兄さんはそのころ全国規模のコンクールにも幾つか入選してたのにね。兄さんは村の教会に飾る絵について、ボクに語ってくれる。そしてボクはボクで、絵に描き添えて欲しい事柄を兄さんに注文しつつ道を歩いている内に、家に着く。それがその頃のボクの夏休みの過ごし方だった。
そんなアララ兄さんが、ある夏入院した。病気が見つかったときにはもう手遅れだったんだろうな。その頃の回りの大人達の態度からそう思う。今にして考えてみれば。でも、ボクの両親も叔母さんも、ボクにはそんなことは一言も言わなかった。ボクに気を使っていたんだろうね。ただ、アララ兄さんが病気で入院したので、今年は一緒に野原に遊びに行けないことだけはボクに告げた。それである日、ボクは母さんと一緒にアララ兄さんのお見舞いに行くことになった。
行ってみて驚いた。ベッドにはアララ兄さんとはとても思えない人が寝ていた。すっかり痩せ細っていたし、色が真っ白なんだ。それまでの夏は、ボクが会いに行くまでにアララ兄さんは野原でしっかり日焼けして小麦色の肌をしていたのに、そのベッドの上の人は、真っ白な肌をしていたんだ。『抜けるような白』何かの本で読んだことがあったんだけど、その言葉の意味がその時になって初めて分かった。人のものとは思えない白さだった。ボクが驚いていると、そのベッドの上の人は、ボクに向かって話しかけた。声も話し方もすっかり変わっていたけど、それでも暫く聞いていて、やっとアララ兄さんだと納得できるようになった。ボクとアララ兄さんは暫く話をした。何を話したか覚えていない。覚えていることと言えば、アララ兄さんの肌の白さだけだった。
その夜ボクは夢を見た。初め、いつもの小麦色の肌のアララ兄さんが現れて、ボクを野原に連れていってくれる。だけどその内段々アララ兄さんの肌の色が抜けて行くんだ。薄い色になり、白になり、更にその白色も抜けていって終いには遂に透明になって、僕の目に見えなくなってしまう。そんな夢だった。とても怖かった。
それから暫くはボクはアララ兄さんのお見舞いには行かなかった。母さんはよく行っていたみたいだけど、ボクは何かと逃げていたみたいだ。でもとうとうある日、母さんと一緒に行くことになった。良く覚えているけど、今日みたいにとても暑い日だった。蝉が鳴いていて、ミンミンやシャーシャーやジージーと言った声が、病院に向かう並木道に満ちあふれていた。病院の玄関で丁度叔母さんに出会った。母さんは叔母さんと話をし始めた。よく分からない言葉が飛び交っていたので、ボクは二人の脇を抜けて、一人アララ兄さんの病室に向かった。場所は分かっていた。病室のドアは開いていたので、ボクはそっと中に入った。病室にはアララ兄さんのベッドだけがあった。今にして思えば、死んでいく兄さんに病院が気を使って、個室を用意してくれたんだと思う。ボクはそっと音を立てずに兄さんに近づいていった。寝ていると思ったんだ。兄さんの身体が全く動いていなかったから。(でも後で聞いた話だと、兄さんはもうこの頃には自分で寝返りも打てないぐらいに弱っていたんだそうだ。)寝ていると思ったんだけど、近づいてみると微妙に口が動いている。何かを喋っている。 ボクは耳を澄ませた。アララ兄さんは喋っていた。
『ミーンミーン』
並木道や病院の庭で鳴いている蝉の声がうるさいぐらいに響いている病室の中で、兄さんは蝉の声を真似ていた。
『ミーンミーンミーンミーン』
もうほとんど動かなくなった肺から懸命に息を絞り出して兄さんは蝉の声を真似ていた。目には涙が溜まっていた。その涙はやがて目から溢れ出て、顔を伝って枕に落ちた。それでも兄さんは蝉の声を出し続けた。
と、その声が突然止まった。しんどそうに顔を動かして、ボクの方を見た。気配でボクが入ってきたことに気付いたんだ。或いは、ボクが足音を立てたのか、何かと蹴飛ばしてしまっていたのか。ボクの顔に視線を合わせた兄さんは、しんどそうにだけれども、微笑んでくれた。でもその時のボクは、なんだかとても怖くなって、その場を逃げ出してしまったんだ。
どこをどう通ったのか分からない。(病院を抜けるときは多分裏口から出たんだろう。玄関から出ていたら母さんに捕まっていただろうから。)気付いたときボクは、いつもアララ兄さんに連れてきて貰っていた野原に来ていた。ボクはそこに座って、そのまま何をするでなく、何を考えるでなく時間を過ごした。空の色が、快活な青色から微妙な色合いを経て夕焼けの赤に変わり、そこから更に夜の闇の調子を帯びるようになったとき、一匹の夜鳴き蝉がボクの肩に来て止まった。
最初ボクは、何が肩に止まったのか分からず、ビックリしてそれを手で払った。払われたそれがボクの回りを飛び回ったので、それでボクはそれが夜鳴き蝉だと分かった。変な蝉だった。見掛けは完全に雄なのに、鳴かないんだ。それに、払っても払ってもボクの回りに纏い付いてくる。いい加減鬱陶しくなってきて激しく叩くと、その蝉はやっとボクを離れた。そして野原の端っこにある松の木にとまって、よく響くあの淋しい声で鳴きだしたんだ。一匹が鳴き出すと、誘われたように近くの林の中からも夜鳴き蝉の声が聞こえてきた。野原の中に、何匹もの夜鳴き蝉の声がまるで彷徨い歩いているように響いている。その中にたった一人、人間のボクが場違いにも迷い込んできてしまったかのような、そんな錯覚に襲われた。とても怖くなって、ボクは野原からも逃げ出した。
家に辿り着くと、母さんだけが待っていた。母さんは帰ってきたボクを、何も言わずに抱きしめた。暫くして父さんが帰ってきた。父さんは、近所の人たちと一緒に、夜になっても帰ってこないボクを探しに出ていたんだ。父さんも黙ってボクを抱きしめた。普段なら、こんな事をしたら父さんはこっぴどくボクを叱るはずなのに、その日は叱らなかった。叱ってる場合じゃなかったんだ。
アララ兄さんはその日の夕方に亡くなっていた。
後から聞いた話だと、その日の夕方に容態が急変したらしい。看護婦さんが酸素マスクを付けようとするのを、兄さんは痩せ細った手で拒みながら、ボクの名前を呼び続けていたらしい。何か伝えたいことがあったんだ。もしボクがその日ちゃんと家に帰っていたら、知らせを受けてもう一度病院を訪れて、兄さんの言いたかったことを聞けただろう。でも、今となってはもうそれは叶わないこと。兄さんは死ぬ前にボクに何を言いたかったんだろう。酸素マスクを拒んでまで何を言いたかったんだろう」
シーラの話はそこで終わりました。そして、暫くたってからシーラは僕を振り向きました。
「スコップ、持ってるよね。植物採集用の。穴掘らなくちゃ。この蝉のお墓の」
僕は黙ってシーラにスコップを渡しました。受け取ったシーラが地面に穴を掘っている間僕は、さっき食べ終わったばかりでまだ手に持っていたアイスキャンディーの棒を、ハンカチで丁寧に拭っていました。墓標にする為に。
「ねえシーラ」棒を拭いながら僕は思い付いて言ってみました。「アララ兄さんはこう言いたかったんじゃないかな。『病室を逃げ出したことは気にしなくても良いよ』って」
「そうかな」シーラは僕を見ずに言いました。
「そうだよ、きっと」
「そうかな」
「そうだよ」
「そうかな」
三回目を言うことは僕は出来ませんでした。とにかく、僕がシーラを説得できたことなんてないのですから。
穴を掘り終えたシーラは夜鳴き蝉の亡骸を持ち上げました。と、それまで死んでいたとばかり思っていた蝉が、一声激しく鳴き出しました。まだ生きていたのです。ビックリしたシーラは手を離し、シーラの手からこぼれ落ちた蝉は懸命に羽根を打って、地面に付く直前に体勢を取り直し、再び空に向かって飛び出しました。最初よろよろとしているように見えたその飛び方も、やがてしっかりしてきて、遂に蝉は遠くの林の中に消えてしまいました。
蝉の消えていった林をじっと見つめていたシーラは、やがて僕に向き直って言いました。
「そうかも知れないね」
シーラの顔は、僕がそれまで見たことのない、頼りなげな笑顔でした。
その日の僕たちは、なんとなくそれで別れて家に帰りました。とにかく、僕たち二人とも作文の宿題がまだ残っていたのですから。
終わり