教科書検閲官の嘆き
教科書検閲官の仕事など簡単なものだと思っていたし、実際簡単だった。首相があの発言をするまでは。
教科書検閲の仕事で大変なのは、国語や社会科などの人間の思想を扱う学科であって、理科や数学などの客観的事実を扱う学科ではないと思っていたし、実際にそうだった。確かに世界的に見れば、国民のほぼ全員がある宗教の信者である某国など、理科の時間に学校でダーウィンの進化論を教えるかどうかが社会的に問題になっているけど、我が国の国民でその宗教の信者であるものは少数なのだから、そのような問題は発生しない。だから、理科の教科書の検閲官の仕事など、明らかな誤字や誤植を指摘すれば済むだけだと思っていたし、また実際にもそうだった。首相があの発言をするまでは。
昨年来、独裁者に等しい権限を手に入れた首相は、今年に入ってから数々の施策を断行し始めた。例えば、障碍者支援法の廃止、生活保護の廃止、公的健康保険や公的年金制度の廃止、独占禁止法の廃止、消費者保護法の廃止、奨学金制度の廃止、等々。要するに首相は社会を完全自由競争の元に置くことを目指したのだ。勿論これらの施策に対しては、野党や関係各団体から猛反発が起こった。しかし首相は次の一言で、これらの反論を一蹴した。
「世の中は競争によって進歩していくのです。進化論をご覧なさい。競争に勝ったものだけが生き残り、負けたものは淘汰されるのです。それでこそ、次の世代に強い遺伝子が残されると言うものです。この原則に逆らおうとすることは即ち、自然の摂理に逆らうことです。自然界の法則は『弱肉強食』です。この法則に例外はないのです」
そしてこの一言で、我々理科の検閲官の仕事が急に忙しくなってきた。
例えば、鷲が小鳥を捕って食べる。ライオンがシマウマを捕って食べる。これらは「弱肉強食」の典型的な例として問題はない。しかし、オオカミがトナカイを襲う場合はどうだろうか。一対一で考えれば、トナカイの方がオオカミよりも強い。しかしオオカミはチームを組んで協力することにより、自分より大きなトナカイを倒して食べる。これはストレートな「弱肉強食」とは言い難い。しかしこの問題に関して私は、次のような加筆修正を行った。
「このようにチームを組んで協力すると言うことも、強さの一つなのです。ですから我々国民も一丸となって、外敵と戦っていかなければならないのです。」
これは我ながら名文だったと思う。しかし問題は次から次から発生してきた。
例えば、ゾウは陸上で最強の動物だ。それ故、ゾウは陸上のあらゆる動物を餌食にしなければならない。何しろ「弱肉強食に例外はない」と首相が宣言してしまったのだから。私は次のような加筆修正を行った。
「ゾウは、その長い鼻で獲物の動物を捕まえて絞め殺し、その長い牙で獲物の肉を引き裂いて食べます。」
もう、科学者としての良心も何も無かった。とにかく「弱肉強食」に例外があってはならないのだ。しかし問題は次から次へと発生してきた。
例えばホオジロザメとアザラシを比べればホオジロザメの方が強い。だからホオジロザメはアザラシを捕って食べる。これはOK。また、シロナガスクジラとプランクトンを比べれば、シロナガスクジラの方が強い。だから、シロナガスクジラはその口の髭を使って、プランクトンを濾し取って食べる。これもOK。しかし、ホオジロザメとプランクトンを比べてみてもやっぱり、ホオジロザメの方が強い。故に、ホオジロザメはプランクトンを食べていなければならない。何しろ「弱肉強食」に例外があってはならないのだ。しかしこれは難しい。ホオジロザメのあの構造の口と歯で、どうやってプランクトンを食べるのだ。歯の隙間からいくらでもプランクトンが逃げていってしまうではないか。
私はこの問題を解決しようと、もう一週間も悩んでいるが、未だに解決に至ることが出来ずにいる。しかしもう明日は「第一次検閲」の最終日なのだ。明日には一旦検閲済み教科書を出版社に返さないと、新年度の授業に教科書が間に合わない。
私が悩んでいると、事務室のドアを荒々しく開けて、同僚が駆け込んできた。
「大変だ」彼は叫ぶ。「大変なことが起きてしまった」
彼は激しく呼吸を弾ませていた。ここまで走ってきたのだろう。それほど緊急を要するニュースだと言うことだ。そしてそれほどまでに呼吸が激しいのにも関わらず、彼の顔面は蒼白だった。よほどショッキングな知らせのようだ。
「大変なことになってしまった。今入ったニュースなのだが、首相閣下が蚊に喰われてしまったんだ」
終わり