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句集『九竅』

 

座布団の厚さ二センチ程の春

戻る人行く人春の瀬を渡り

寒明のするりと剥けしゆで卵

早春の紅茶にミルク溶けゆけり

切られたる一房の髪春寒し

しゅんしゅんと削る二月の鰹節

三月の胸に兆してゐる思い

前髪を揃へ三月三日の子

三月の写真の隅に写りをり

啓蟄の男子厨房へと入りて

啓蟄やごみ箱の蓋閉まりません

春昼や薬のせいにして惰眠

野を眺めをれば瞼の暖かし

うららかな道どこまでもどこまでも

亀に載る亀に載る亀池うらら

うららかや車掌の笛で動くバス

猿山に猿の寄り添ふ遅日かな

河馬の足短くて暮れ遅きかな

   イラク戦争反対

花冷えのテレビニュースを見る怒り

もろともに亀も兎も目借り時

春行くや木魚の音に歩を合はせ

春の日をかきまぜている観覧車

逃げてゆく兎の尻や朧月

春風や力士は小さき椅子に掛け

霾や真空管で鳴るラジオ

白川に春の雪降る別れかな

私より無口な人や春の雪

淡雪やダンスの靴を売る店に

日めくりの青は土曜日春の雪

淡雪や耳を病みゐる子の上に

かげろへる地平三百六十度

煙突のただ立ってをり山笑う

教科書を揃ひ読む声山笑う

お日様を肩車して春野かな

亀は尾をしまひ忘れて春の水

瀬を渡る雪解の風を浴びながら

羽根を持つごとき者達卒業期

耕せば土笑ふとも歌ふとも

春眠のシャガールの絵のごとき夢

春愁のそれでも吉と告ぐ神籤

春愁の空の徳利にある重さ

ふはり飛ぶ羽毛やバレンタインの日

飼はれゐて亀は鳴くこと忘れけり

亀の鳴くたびに遅れてゆく時計

小物屋の今日は売り出し初燕

つばくらや太刀をあしらふ阿國像

鳥引きし後の山河や龍太逝く

日時計は土にはりつき地虫出ず

蝶ふはり隠れて漫画読む生徒

蜜蜂といふ名の小さき光かな

惜別の句は無けれども梅真白

梅の香や一の鳥居を抜けてより

紅梅や轅を下ろす人力車

日溜まりは目白の散らす椿かな

椿落つ地震の後の静けさに

落椿とどめて川の浅さかな

一枚を羽織る桜の夕風に

山鳩の一羽の重さ糸櫻

一時の人の絶間や八重桜

比叡へと続く脊山や初桜

滝となる月の光や糸桜

夕桜風を連れ来し豆腐売り

花はまだ五分にして雨細かりき

溜息をつけば落花のまた湧けり

アクセルを踏めば落花の迫り来る

花過ぎの好きなだけ寝る一日かな

熟睡児の広き額や花水木

競ひ合ふ風と日差や辛夷の芽

連翹やイェスは復活し給へり

連翹や天降りしごとき聖歌隊

濁りつつ暮れゆく空や白木蓮

木蓮や晴れゐて空の青からず

全校の授業中なり藤の花

ものの芽の小さきにも似て恋心

湯気立てて豆腐屋の朝柳の芽

芽柳の雨に蛇の目を濡らしては

木屋町の灯りそめけり柳の芽

路地の奥湯屋のありけり柳の芽

見習いの芋剥く午後や柳の芽

まんさくや比叡を仰ぐ山の村

杉花粉飛んで鉛のごとき鼻

菜の花の途切れぬ道や野辺送り

葱の花小綱の顔の僧に似て

皆同じ石に座るや草青む

お日様をまねてたんぽぽ咲きました

深山のぜんまい未だ目覚めざる

ずんぐりと杣人の背や芹の雨

靴下の穴から指や五月の子

鼻の穴見せて立夏のがき大将

初夏の音が笛より躍り出す

卯の花腐し誰も何かを読みをりて

手枕のずれて卯の花腐しかな

屋根裏の万年床の梅雨入かな

梅雨寒や荷として豚の運ばれて

だらり寝る私は梅雨前線か

夜明けともまだとも梅雨の午前四時

梅雨あけてぼやき上手の母元気

虹の空するりと脱がす子の合羽

炎昼を押し潰しごみ収集車

三伏やしゃもじの沈む洗ひ桶

三伏の虫歯削られゐたりけり

キャップからソースの垂るる暑さかな

銀将の横に動けぬ暑さかな

行列の進めば暑さ進むなり

宵涼し空に琴座をさがしゐて

反古で折る紙飛行機や夏の果

長き橋渡り終へけり晩夏光

峰雲や吾は親父の子なりけり

大きめのグラスのミルク雲の峰

川面切る風切羽根や青嵐

薫風のこの子に虫歯なかりけり

夕焼の影となり子の帰りけり

黙しゐる顔半分を西日かな

土煙上げるスパイク大西日

油照り四面に楚歌を聞くごとく

立山の雲より滝のあふれ落つ

夏休み雲は姿を変へつづけ

更くる夜の枕小さき帰省かな

サングラスかけてウルトラマン気分

シャンソンの流れる店の夏帽子

添へられし棺の中の夏帽子

嵐山に日の沈みゆくビールかな

今日もまた阪神負けぬ泥鰌汁

京都市を見下ろしてゐる涼みかな

蚊遣り尽き雨に明けたる朝かな

浮くやふに沈みゐるなり水中花

汗のシャツ重し敗者であればなほ

動いたら汗とどまればさらに汗

かさぶたも共に日焼けて子の腕

しんとして鰻の寝床昼寝覚め

風少し受けて昼寝の足の裏

鯉幟追ひ越してゆく飛行船

父の日の父の電話の短さよ

解かれゆく鉾にゆふべの小雨かな

太宰忌の剃刀の刃の鈍りかな

蟇鳴くややがて夜に入る男子寮

老鶯の声ころがるや大甍

白鷺やこれより道は川をそれ

水面に広がる鰭や金魚死す

金魚らの咲きゐるごとく泳ぎをり

裂かれたる鰻包丁より長し

透明に生きてくらげの頭かな

芳一の耳かも知れぬ夜の海月

唖蝉の捕らえられたる羽音かな

午後五時の手を洗いをり蝉の声

日本は蝉に占領されました

黙祷の間を広島の蝉時雨

無愛想な給仕愛想の過ぎる蝿

蚊一匹潰し終えたる暗さかな

暗がりにごきぶりのひげ動きゐて

蟻の穴吾は悪人かもしれぬ

父の手紙の切手正しやかたつむり

走りたい時もあらふに蝸牛

長椅子に眠る双子やさくらんぼ

法螺の音や峰の新樹の輝きて

シャッターを切るたび緑あらたなり

万緑を穿ち高速道走る

東屋の屋根は錆色花菖蒲

向日葵や食ふより能のない男

向日葵の疲れきったる頭かな

風のある午後は眠たし布袋草

罌粟散るや船頭棹を使う辺に

岩つたふ雨の滴やゆきのした

かび生えぬものなかりけり雨十日

埃とも黴とも忘れをりし靴

   祝婚

新しき厨は秋のシチューかな

八月や戦争のない国に住み

生水のぬるさや八月十五日

丼の鰻小さき残暑かな

秋暑き道を斜めに渡りけり

風見鶏胸そらしをり厄日過ぎ

抽斗を静かに閉じぬ秋の暮

ちがふともそうとも言わず秋の暮

身に沁むや空也の滝を風落ちて

身に入むやピカソの青き絵に向ひ

秋空へ声を電波として放つ

信楽の狸の腹や今日の月

臥待やテープの枝雀聞きながら

伯母の喪に行けぬと伝え秋の風

秋風を聞きをり人を想ひをり

川黒く野分の夜を膨れゆく

雨雲の雨雲を呑む野分かな

雲ねじれねじれ稲妻走りけり

朝露を散らし駿馬の駈けぬけり

向ひあふ農夫と烏刈田中

杯の傷なでており温め酒

秋扇や二言目には嫁もらへ

池に臨む茶室や障子替へられて

稲架解けて疲れし色の田の面

一人言増えゆく日々や木の葉髪

とりわけて覚ゆる渇き終戦日

今朝も巻く時計のねじや終戦日

人の居ぬ真昼の砂場終戦日

日を浴びる墓碑の白さや終戦日

真夜に飛ぶ飛行機の灯や賢治の忌

猪の吊され納屋の暗さかな

雁渡る鞍馬に向けて首伸ばし

落鮎の腸の苦さや一人酒

病む人のすきとほる肌秋の蝉

携帯電話圏外の空赤蜻蛉

一台のバイク過ぐるや虫時雨

鈴虫を育てて客の来ぬ飲み屋

母親に電話などして虫の夜

虫の音の地に満ち空に星の満ち

枕辺にさがす栞や虫の夜

木槿咲く垣や相打つ竹刀の音

石榴落つ戦争のまた始まりて

鐘楼を残し寺苑の紅葉かな

隣国へ下る間道茨の実

朝顔や床屋の看板回りだし

鶏頭や旧字のままの醫の看板

コスモスの今年も揺れて祖母の忌よ

グライダー飛ぶやコスモス咲く丘に

風のごとき人でありたし秋櫻

コスモスや爪先立ちてゐる少女

夕闇をしりぞけて菊真白なり

いさぎよき鋏の音や菊日和

縞模様揃え西瓜が店の先

冷蔵庫狭し西瓜が丸いから

薄原抜けて湖国を去りにけり

夕薄おのおの光はなちつつ

白萩や尼僧は薄き書を膝に

一村の上に雨雲葛の花

ひたすらに乾いてゐるや冬の石

波とどろとどろや冬の空の下

コーヒーを待つひとときや冬初

一手差し一手待ちをり小六月

うさぎ抱く腕の中まで小春晴れ

小春日の大きな窓のバスに乗る

捨てて来し物の重さを知る師走

歳晩の呼ばれぬ客として座る

亡き人を名簿より消す十二月

雑踏の膨らんでくる十二月

有馬記念はづし今年の果てにけり

腹ばかり太り今年の暮れゆくか

大年の都心の空の青さかな

きびきびと釘打つ音や寒の入

いさぎよく大寒の木となりにけり

大寒の鏡に白き歯を映す

灯明の玻璃戸に映る寒さかな

米を研ぐ音を聞きゐる寒さかな

皆黒き服を着ている寒夜かな

灰皿の洗ひて重き寒さかな

春を待つ斜め四十五度の顔

象の目の優しさ町の春隣

戸の隙に見ゆる猫の尾春隣

節分の起き抜けの息荒くせり

冬日いま白砂あたためゐたるらし

小物屋に宿りて嵯峨の初時雨

不用意な言葉の後や時雨ゐる

客二人亭主一人や小夜時雨

雪被く比叡へ山の連らなれり

雪の子の肩をはらってあげました

呟きに似てをり雪を踏む音は

雪の日のいたずらな子をつかまえろ

   追悼

天垂れて広野の果ての山眠る

子狸もげんこつ山も眠りけり

枯園の鉄のベンチの濡れそぼつ

身に合わぬまま着慣れたるどてらかな

はみださぬほどの体を蒲団かな

笑ひけりただ着ぶくれてゐるだけで

ここちよく疲れているや燗熱し

熱燗や雨かも知れぬ夜半の音

鰭酒や今夜で畳む店にいて

くべられて音たてる枝夕焚火

泣きながら首落としけり雪達磨

風邪の子のことに小さく眠りをり

放哉に似てきし顔や咳十日

頭蓋骨絞るごとくにくさめかな

田の土も日向ぼこしてゐるやふな

尾がこくりこくりや猫の日向ぼこ

反古を焼く煙一筋神の留守

吸殻にまた火をつけて神の留守

ひとつ浮く雲の輝き神の留守

公園の人それぞれの文化の日

除夜の鐘言葉少なき人と居て

除夜の鐘響くたび星瞬けり

追儺式終わりて闇の戻りけり

波郷忌の割れば屑散る胡桃かな

   夏風師追悼

波郷忌を十日おかずに逝かれけり

綿虫や小さな家の並ぶ街

らふ梅や朝月限りなく淡し

ふくよかな鳩とまりをり返り花

すこしだけ酔ってゐるなり冬椿

表札のひらがな文字や姫椿

山茶花や表札の字の楷書体

茶の花や結目緩びし四ツ目垣

裸木の道大股に歩きけり

少女らのないしょ話や花柊

山の日の届かぬ池や枯蓮

神の井の絶えぬ水音や年新た

東天を見つめる鶏や年新た

神おはす川や睦月の水走り

山寺の闇の深さや初詣

初夢の夢てんこ盛りてんこ盛り

              以上295句

 

       跋

 題名の「九竅」は芭蕉の『笈の小文』、序文の冒頭「百骸九竅の中に物有。かりに名付て風羅坊といふ」からとった。文全体の意味については専門書の解説を読んで貰うとして、「百骸九竅」の意味だけ説明すればこれは「百の骨と九つの穴」のこと、つまり人体のことだ。それではじめは本句集のタイトルも『百骸九竅』にしようかと思っていたが、いくらなんでも名人の言葉を最初から引用するのは畏れ多いと思い、最初の二文字を措き、三文字目から引用した。お陰で随分変な句集名になってしまった。読者の皆様に於かれては、「穴だらけの句集」「骨のない句集」とでも思っていただければ結構である。

 それはともかくとして、芭蕉のこの文を句集のタイトルに引用したのは、勿論これに感銘を受けたからに他ならない。この文を読めば、芭蕉は決して聖人でも超人でもないことが分かる。ここに自身で描いている若い頃の芭蕉は、立身出世を夢に見、句会で高得点を得られればすぐ天狗になっていたようである。ちょうど今の私のように。それがどの様な経緯を辿って晩年のあの芭蕉に至ったかは『笈の小文』に詳述されてはいない。しかし私は思うのだ。俳句を続けていればその秘密の一端でも知ることが出来るのではないか。その境地に至ることは無理にしても、その境地がどの方向にあるのかを知ることぐらいは出来るのではないか。いまだに私が俳句を続けている理由のひとつはここにある。

 

 さて、本句集は私が俳句を始めた平成三年から平成十九年九月までの句を集めた。普通句集は作句年度順に編集するものであるが、本句集は敢えてその方法は採らず、季題別の編集とした。理由は二つある。ひとつは、季題選択に於いて私が一体どんな傾向性を持っているかを、今一度確かめてみたかったこと。もう一つは、作句年度順に並べれば、読む人はどうしても作句したときの私の状況を背景に句を解釈してしまうものであるが、そう解釈されることが嫌だったこと。この二つである。

 

 最後になったが、十数年前全く何も知らなかった私を丁寧に指導していただいた故村沢夏風先生をはじめとする『嵯峨野』の先生方先輩方、わけても、私の悪戯に腹も立てずにつきあって頂いた桃山句会、平明句会の方々に心よりの感謝の意を表して、この文を終える。

                         平成十九年十二月三十一日記す