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カナナン・サラム
夕食を終えて炬燵で酒を飲んでいると死神がやってきたので、相手になることにした。と言うのは、私は既に会社も退職していたし、妻ともずいぶん前に死に別れていて暇だったからだ。
「寒いですね」
彼女は言った。
「そんな格好をしていればな」
私は言い返した。と言うのは、彼女はミニスカートにノースリーブと言う格好だったからだ。
「まあいいじゃないですか。硬いことは言いっこなしですよ」
そう言って彼女はさっさと炬燵の中に入ってきて、ちょこんと座り込んだ。私は別に抗議もしなかった。そんな格好だったらやはり寒いのだろうから。私は自分が着ていたどてらを彼女に渡してやった。
「ありがとうございます」
彼女は全く遠慮せずに私のどてらを受け取った。幸せそうな表情でそれを羽織ると、一旦猫のように丸まってから、やわらかく背を伸ばして、私と正対した。
「ありがとうございます。おとうさん」
私は酒でもう少し唇をぬらしてから一言言った。
「『おとうさん』と呼ばれるのは嫌だな。このごろは街中を歩いていても、キャッチセールスの若者から『おとうさん』と呼ばれることが多いが、不愉快だ。第一、君はそんな格好はしていても死神だろ。死神なんだから、もう数千歳の年齢になるんだろう?そんな君から『おとうさん』なんてね」
「だめですかぁ?この国では、おとうさん位の年代の人を『おとうさん』って呼ぶのは普通だと思うんですけどぉ」
そう言う彼女を暫く見てから、私は投げ槍のように言った。
「じゃあ好きに呼べば良いさ。ところで、」私は尋ねた。「死神が来たということは、私ももう死ぬと言うことかな」
「いいえ、そう言う訳ではないのですが、そろそろおとうさんも人生の精算をしなければならない時期に来ていまして」
「要するに死ぬと言うことだろ」
「いや、そうでもないんでして、そのところが説明に難しいところでして」
「はっきり言いたまえ」
「じゃあ、ぶっちゃけて言いますけどね、おとうさんの奥さんは二十年前に亡くなられましたよね」
もうそんなになるのか。
「奥さんは亡くなられた後、天国に行かれました。それでですね、天国の奥さんは、おとうさんにも天国に来てもらって、一緒に暮らされることを希望しておられるのです」
「信じられないな」
いろいろな意味で。まず何よりも、
「私は天国と言うものの存在を信じていない。妻は信心深かったから天国を信じていたが、私は信心深くないので、信じていない。信じてもいない場所に行くというのはナンセンスだ」
「いや、それはいいんです。イッツOK。信じている信じていないは、あんまり重要な問題ではないのです。だってそうでしょ、『信じてる』は『信じていない』を前提としているので、カテゴリーとしては結局一緒なのです。だから、それはイッツOK。だーって、天国を信じていらっしゃった奥さんでさえ天国に行くことが出来たのですよ。ですから天国を信じていないおとうさんも勿論天国に行くことが出来ます。イッツオーケー、イッツノープロブレム。オーライト?」
全然分からない。
「詳しく説明してくれないかな」
「えーとですね」彼女は暫く言葉を捜して考えているようだったが、突然悪戯っぽい笑みを浮かべた。「その前に、そのお酒をちょっと貰えませんか。喉が渇いちゃって。良いじゃないですか、こんな格好をしていても、私は未成年じゃないんですよ」
仕方ない。私はぐい呑みを水屋に取りに立ち上がりかけたが、彼女は止めた。
「ああ、おかまいなく。私、マイぐい呑みを持ち歩いていますから」
ポケットからぐい呑みを取り出す。手に取ればかなりの質感があるだろうことは、見るだけで分かった。彼女はかなり酒飲みらしい。徳利から一杯ついでやると、一気に飲み干した。
「あー、美味しい。体が芯から温まりますね」
「で、『信じる』ことの説明は?」
「それはですね。」彼女はまずもう一杯、自分のぐい呑みに酒を注いでから、話し始めた。「例えば、こんなケースを考えて見ましょう。とある学校に熱血先生がいたとして、その熱血先生が、登校してきた生徒こう言います。『お前が学校に来ることを、俺は信じていたぞ』って。どういう状況を想像しますか」
「そりゃー、例えばその生徒が登校拒否で、その熱血先生がその生徒の自宅まで何度も足を運んで学校に来るように説得したとか・・・」
「そうでしょう。その生徒が学校に来ないかもしれないという前提があるからこそ、『来ると信じていた』と言う発言が意味を持つのです」
「君のその言い方は気に入らないな。それじゃあまるで、熱血先生が本心をごまかしているみたいだ」
「誤解しないでください。私は何も、熱血先生が嘘をついているとか、裏表があるとか言っているのではないのです。言いたいのはただ、言葉の論理的な性質についてだけです。今の例について言えば、熱血先生は生徒が学校に来ると信じていた。でも、来ないかも知れないと不安にも思っていた。だからこそ、生徒が来たときの嬉しさも一入ってものです。逆に、入学式の時から皆勤の生徒であったなら、『学校に来ると信じていた』なんて言わないでしょう。ただ来ることを『認識する』だけです。同様に、『午後七時の十二時間後に午前七時がやってくると、私は信じている』なんてことを、まじめに言う人はいないでしょう。『信じられないかもしれない』と言う前提があるからこそ、『信じている』と言う発言が意味を持つんです。同じように、例えば古代の人たちは、神様を『信じて』はいませんでした。ただ神様を『認識して』いただけなのです。日が昇り、雨が降り、人が生まれ、人が死ぬ。そのような自然の営みの中に神様をただ『認識して』いただけなのです。ついでに言えば、神様は本来『認識する』べきものであるのに、それを『信じ』ようとするからこそ、偽預言者にコロッと騙されることになるのです。(まあ、言葉の綾ってやつで、『認識している』ことを、『信じている』と表現することもありますけど。)だから、おとうさんが天国を信じられないなら信じる必要は無いのです。大事なのは、天国を認識することなのです」
「私は天国を信じていないし、認識もしていない」
「ああ、それも勿論イッツOKです。認識は意思や訓練によって得られるものではなく、時が来れば自然に獲得できるものですから。ですから、お父さんも時が来れば自然に天国を認識できるようになります」
「信じられないな・・・いや、理解できないな」
「うーん、例えばですね、」とそこまで言ってから、彼女はまた自分のぐい呑みを差し出した。私はまたそれに酒を注いでやる。彼女はまた美味しそうに飲み干した。「チンパンジーに鏡を見せるとパニックに陥ります。『おやっ、今まで見たことも無い奴がこの群れにいるぞ』ってものです」
「ああ、そうそう。そんなテレビ番組を見たことがる」
私はつい、身を乗り出した。
「では、このときチンパンジーは何を認識できていないのでしょうか?」
彼女の突然の質問に私は慌てた。問題が漠然としていて、どう答えて良いのか分からなかったのだ。彼女も、私の答えは期待していなかったようだ。自分で話を続けていく。
「普通、『チンパンジーは鏡と言うものを認識できていない』という風に考えられています。しかし実際には彼は、『自分』というものを認識できていないのです。彼は、自分の前には岩があり、自分の右には木があり、というようなことは認識できる。しかしそれらから構成される世界の中心に『自分』というものが存在することは認識できないのです。この世界を認識している、その認識行為それ自体を認識できていないのです。だからこそ、彼は鏡を見せられるとパニックに陥る。自分の認識行為では認識できないものを見せられることになるからです。それに対して、人間は発達のごく初期の段階から、鏡に映っているのは自分の姿であると認識できます。教えられる前から。それが、『認識は訓練によって得られるものではない』と言うことの意味です。人間の五歳児とチンパンジーの成獣では、サバイバル技術においては前者は後者に勝ち目は無いけど、ただ一点、認識行為それ自体を認識できるかどうかと言う点において、前者の方が遥かに優れているのです。認識能力があるということは、要するにそういうことなのです。だからおとうさんも、時が来れば天国を認識できるようになります。心配しないで」
「心配はしていない。しかし、信じてもいないものを認識すると言うのは、矛盾じゃないのか」
「うーん、そうでもないんですね、『認識』ってことは。た、と、え、ば・・・。お父さんは私を『死神』と認識されましたよね。私が自己紹介も何もしていないのに。しかも、こんな格好をしているのに」
虚を突かれた。確かにそうだった。
「認識するとは、そういうことです。あまりにも当然なこととして受け取るのが認識です。ここだけの話、仕事の愚痴を言うようですけど、認識能力の無い人の前に出るときなんて、悲惨なんですよ。例の、黒マントに草刈鎌という格好で登場しても、『どこの仮装パーティーの帰りだ』なんて言われちゃうんですよ」
彼女はプッと頬を膨らませ、またすぐ元に戻って続ける。
「そんな訳で、おとうさんはもうすぐ天国を認識できるようになります。それは信じている信じていないに関係しません。『信じていないけど認識している』と言う場合だってあるのです」
「ますます分からないぞ」
「そうですか。じゃあ・・・」
と言って、彼女は大きくあくびをした。
「その後は、また明日にでも。私、実を言うと、お酒を飲むと眠たくなっちゃうんです」
彼女は炬燵から出て私に背を向けた。その後姿に向かって私は怒鳴る。
「おい、眠くなると自分で分かっているなら、最初から飲むな!」
言ったところで無駄だった。彼女は帰ってしまい、ただ炬燵の上にぐい呑みだけが残されていた。しかも、彼女は私のどてらを着たままだった。
まあ良いだろう。明日も来るのだから。
そして、それが一日目だった。
次の夜私が酒を飲んでいると、彼女は約束どおりやって来た。私のどてらを着て。
「ほれ」
私は彼女にぐい呑みを渡して、やかんから一杯注いでやった。
「あっ、ずるいですよ。これ、お茶じゃないですか」
注がれたものの色を見て、彼女は言った。
「おとうさんは、自分ではお酒を飲んでいるのに!」
「しかし君は酒を飲むと眠たくなってしまうじゃないか。今日こそは話を最後まで聞きたいのだから」
「そんなこと言っても、お茶なんてひどいじゃないですか。自分はお酒飲んでいるのに」彼女はむくれた。「この、チンパンジー!」
私は怒る以前に呆気にとられた。非難されるのはまあ分かるとして、どうして「チンパンジー」なんて言葉が出てくるのだ。
「それはですねぇー」弱点を見つけたとばかりに、彼女は悪戯っぽい眼差しで私を見てくる。「どうしてチンパンジーなのかっていう理由はですねぇ、そのお酒をついで頂ければお教えいたしますわよぉー」
罠にかかったみたいで悔しかったが仕方が無い。私は、自分が飲んでいた徳利を取った。
「ありがとうございます」
彼女は言うと、まずお茶を一気に飲み干してから、両手で恭しくぐい呑みを持ち直して私の方に差し出した。一杯注いでやると、また昨日見せたような幸せそうな表情で飲み干す。
「それで、チンパンジーの理由は?」
私が尋ねると、忘れ物を思い出したような表情を見せた。
「あっ、そうそう。その話ですね」
取り敢えずのように言ってから、また手酌で一杯飲む。それから説明を始めた。
「昨日も言いましたよね。認識行為それ自体を認識できるのは人間だけだって。ほかの動物は、たとえチンパンジーのように高度な知性を持っている動物でさえも、認識行為それ自体を認識する能力を持っていない。つまり、自分に気持ちがあるということを理解できていないのです。それが人間と、ほかの動物との大きな違いです。人間は、自分が認識行為を行っていることを、当たり前のように認識している。あまりにも当たり前に認識しているので、認識行為を認識できないと言うことが理解できないほどです。例えば思い出してください。ギリシャ神話のナルキッソスの話を。彼は、池に映った自分の姿を『あれは何と美しい少年なんだ』と思ったのです。つまり、自分の姿を自分の姿として認識できなかった。要するに、鏡を見たチンパンジーと同じ状態だったのです。であるならば、ナルシシズムと言う言葉は本来、『認識行為それ自体を認識する能力を欠いた状態』として使われるべきなのです。しかるに、どうです。ナルシシズムは『自惚れ』を意味する言葉として通用している。『自惚れ』とは、その文字の示すように、まず自分の姿を自分の姿として認識することが前提条件なのです。ナルキッソスは決して『自惚れ屋さん』ではなかったのです。・・・って、退屈ですか?」
私が手酌で飲みだしたのを、退屈しているのだと彼女は理解したようだった。
「いや、そんなことはない。続けてくれ」
「つまり、人間にとって『自分には気持ちと言うものがある』というのは、あらゆる認識活動の基本にあるのです。人間は、自分の気持ちが有るのを知っている。だから、それから類推して他人にも気持ちがあると認識することが出来るのです。これが人間と動物の大きな違いです。動物は他者が気持ちを持っていることを知らない。なぜなら、他者の気持ちを知る以前に、自分に気持ちがあることを理解していないのですから」
「君の言っていることには賛成できないな。君は犬を飼ったことがあるかい。僕は飼ったことがあるから言わせてもらうけど、動物にだって気持ちはあるよ。そりゃ下等な動物はどうか知れないけど、犬や猫になると、確かに気持ちを持っているとしか考えられない」
「誤解しないでください。動物に気持ちが無いと言っているのではありません。彼らは自分に気持ちと言うものが有ることを認識できないと言っているのです」
「良く分からないな」
「良く分からないでしょうね。それほど、人間にとって『自分には気持ちがある』と言うのは、当たり前の認識なのです。それを認識できないと言うのが、どういう事態なのか想像できないぐらいに。とにかく、人間は自分に気持ちがあることを認識している。だからこそ、その自分の気持ちを他者に投影して、他者を理解しようとする。それが人間の普通の情報処理の仕方です」
「つまり・・・」私は言葉を捜しながら杯をあけ、キムチに箸をつけた。「つまりこういうことだな。私の周りにもよくいるけど、自分が言い訳する癖のある奴に限って、他人には『言い訳をするな』と言うとか。自分で気配りの出来ていない奴に限って、『気配りしろ』と口うるさく言うとか」
彼女は苦笑いをした。
「まあ、私の言いたいことと、ちょっとポイントはずれてますけれども」
そして私の箸の反対側を使って、自分もキムチをつまむ。
「すみませんね。私、マイぐい呑みは持ち歩いていますけど、マイお箸は持ち歩いていないもので」
「それはいいんだが、私がチンパンジーだと言う最初の話はどうなったんだ」
「それそれ、それなんですよ。要するに、自分の気持ちを他者に投影するのが、洋の東西を問わず、時代を問わず、人間社会の道徳の基本なんですよ。おとうさんもそうでしょ。思い出してください。おとうさんが子供だった頃、悪戯をしたらお母さんから何と言って叱られたか。『ほら、あなただってそんなことをされれば嫌でしょ。』ねっ。自分が相手の立場になって考えてみる。これが人間社会の道徳の基本なのです。それが出来ないなら、チンパンジーと呼ばれても仕方ない。今の事例で言えば、お父さんはお酒を飲みたいと思っている。その気持ちを私に投影して、『ああ、この娘は今酒を飲みたいと思っているのだな。僕も酒を飲みたいと思っているときに飲ませてもらえないと腹が立つから、この娘も、飲ませてもらえないときっと腹を立てるに違いない』と気を使って、私にお酒を注ぐのが、人間として当然の道と言うものですよ。分かりました?」
「なんとなく、巧く誤魔化された気分だな」
私は徳利を傾けた。出てこない。そのまま立ち上がって台所に向かった。一本つけて帰ってくると、彼女の姿は既に無かった。帰ったようだった。
「まあ、いいか」
私は思った。ぐい呑みはまだ炬燵の上にあるから、明日も来るつもりなのだろう。
そして、それが二日目だった。
「君は自分の仕事をする気があるのかね。」次の夜、彼女が来たときに私は言ってみた。「昨日も一昨日も、酒を飲んで酔っ払っては帰っているじゃないか」
「まあ、それは言いっこなしってことで」
彼女はまた微笑みながらぐい呑みを差し出して言う。
「こうしようじゃないか」私は言ってみた。「昨日も一昨日も君は三杯飲んで酔っ払ってしまった。だから、今夜は二杯で止めておくというのは」
「妥当な案ですね」
打って変わって真剣な表情だった。ただ、ぐい呑みを差し出した手はそのままだ。仕方なく私は注ぐ。
「実は一昨日も申しましたようにですね」今日は真剣な表情で酒を飲みながら彼女は言う。「天国に居られる、おとうさんの奥さんは、おとうさんにも天国に来てもらいたいと思っておられます。ですから、おとうさんの人生を少し整理しておく必要があるのです」
「具体的に何をしろというのだ」
「お父さんの今までの人生の中での『善い行い』を挙げてください」
その言葉に、私はある意味気抜けした。案外平凡なことを彼女は要求するものだ。
「要するに、善い行いをしたと証明されれば天国に行けると言う訳だな」
私の言葉を聞いて、彼女はふっと笑った。
「まあ、それで納得できるのならそう思ってくださって結構です。要は、おとうさんの人生を整理することであって、整理する理由を理解することではないのですから」
気に障る言い方だったが、追求はしないでおいた。追求したりしたら又、昨日や一昨日のようになってしまうだろうから。
「私がこれまでに行った善行をあげろと言うのか。」簡単なことだった。「私は、今年退職するまでコンピューター会社に勤務していた。私が開発したマイクロチップは多くの人が利用して便益を享受している。それだけでも十分な善行じゃないかね」
彼女が狡猾な笑みを見せた。「ほら、案外簡単に罠にかかった」とでも言いたげに。
「そうおっしゃるのですね。それでは少し目を瞑ってみてください」
彼女に言われて目を瞑った。
そして、いくらの時間も経たないうちに、私は叫び声を上げながら目を開けた。呼吸は緊張と恐怖とで激しくなっている。シャツが湿っているのを感じた。ひどい冷や汗をかいたようだ。
「何だったんだ、今のは」
言いながらも、目は炬燵の上の徳利をただ凝視していた。
「ちょっと圧縮しすぎましたか。でも大丈夫。おとうさんの知力があれば解凍できますよ。やってみてください」
「どういう意味だ」
「うーん、だから、この現実世界のとある地域の人たちの記憶を、ちょっとおとうさんにダイレクトにインプットしてみたんです。ただ、ちょっと圧縮しすぎたんで、時間軸を伴った記憶ではなくて、イメージの複合として認知されてしまったようですね。でも大丈夫。おとうさんなら再構成できますよ」
「どうやって」
「何か、断片でもいいから、記憶しているものはありませんか」
私は記憶の糸を辿ろうとした。かなり苦心して。というのは、思い出そうとすると激しい頭痛が襲ってくるからだ。やめようとも思ったが、頭痛を感じるその一方で私は、私を見詰めている彼女の笑顔も目の片隅で見ていた。非常に無邪気な笑顔だった。それにもかかわらず、圧倒的な威圧感を感じさせる笑顔だった。やはり疑いも無く彼女は死神なのだ。
私は彼女から目を逸らし、記憶の糸を辿る作業を進めた。
「レンガ・・・が飛んでいる」
先ほど見た記憶の中で、最初に引き出すことの出来た一断片だった。
「それから?」
彼女はにこやかに微笑みかける。
「それから、轟音、閃光・・・」
「それから?」
「それから、燃え上がる家、落ちてくる天井」
「それから?」
「転がっている子供の死体、片手を失った人」
「それから?」
「それから・・・。もうたくさんだ!」
もうたくさんだった。それ以上思い出したくも無かったし、思い出す必要も無かった。
彼女は小首を傾げて少し考え込んだ。それから私に話しかけた。もうこれ以上私を追い詰めるのは意味が無いとでも思ったようだった。
「実は、おとうさんが作ったマイクロチップはとても高性能なものなのです。ですから、一般の民生品用のパソコンに使われるよりは、高性能誘導ミサイルに使われることのほうが多かったのです。そしてそのミサイルはこのまえのあの戦争で大量に使われました。そして、おとうさんも報道で知っていると思いますが、あの戦争では、誤爆で多くの民間人の人が亡くなられました」
「じゃあ何か、君は誤爆で民間人が死んだことの責任は私にあるとでも言いたいのか」
「あるとは断言しませんが、では逆に、全く責任は無いのでしょうか。おとうさんは、自分の作ったマイクロチップが軍事用に全く使われないと思っていました?仮に軍事用に使われたとしても、民間人に全く犠牲が出ないような戦争が行われると、本気で思っていました?」
「屁理屈だ。確かに、君の言う通りだよ。でもそれがどうした。私はそれじゃあ、チップの開発をやめればよかったのか?私が開発しなくても誰かが開発しただろう。それに、私の開発したチップは軍事用にだけ使われているわけではない。民生用にも使われていて、多くの人が便益を享受しているのも事実なんだ。それに第一、軍事用にだけ使われたとしても、この前のあの戦争であの国の独裁者を倒しておかなかったら、世界は間違いなくもっと危険な状態になっていたんだ。だから、とやかく言われる筋合いは無い。私はあのチップを開発することで、間違いなく善い事をしたんだ」
私はそれだけを一気に言い切った。その間、彼女は一言も口を挟まなかった。私が言い終わって息を整えていると、彼女は徐に言葉を紡ぎ出した。
「その通りです。全くその通りです。でも、想像してください。おとうさんが死んだ後、例えば多くの宗教で言われているように、超越者の前に出て裁きを受けるとしましょう。その時おとうさんは、自分のプラスの方の証拠としてそのマイクロチップを挙げます。でも、検察側が反対証人として、あの戦争で犠牲になった民間人を連れてくるかもしれません。私の言いたいのは、その時にきちんと弁明が出来るようにしておいた方が良いということです。立場を替えて考えてみてください。お父さんが、戦争の犠牲になった民間人であるとして、ミサイル部品の開発者がそんなことを言えば納得できますか?もっと言葉遣いを考えて弁明を用意しておいたほうがいいと思いますよ。あるいは、弁明が考え付かないなら、おとうさんの人生の『善行』のリストから『マイクロチップの開発』という項目は削除しておいたほうが、裁判上は有利ではないかな、ということです。
じゃあ、私はこれで帰ります。約束どおり。もう少しここにいたら、三杯目を飲んでしまいそうなので」
彼女は言って、帰ってしまった。
そして私は炬燵の中で暫くただ呆然としていた。そしてややあってから、徳利に残っている酒を杯に注ぐのを忘れていたことを思い出した。そして、「今日こそはどてらを返してくれ」と彼女に言うのを忘れていたことも、思い出した。しかし今更思い出しても仕方ないので、その夜はただ酒を飲んですごした。
そしてそれが三日目だった。
彼女はその日は玄関から入ってきた。
「いつもご馳走になってばっかりだと悪いんで、お酒買って来ました」
無邪気に言って、一升瓶を差し出す。
「名酒、山錦の大吟醸ですよ。ささ、ぐっと一杯。冷が美味しいんですから」
私のコップに注いでから、自分のぐい呑みにもなみなみと注ぐ。彼女はいつもどおり一気に飲み干して幸せそうな顔をする。一方私は自分のコップを舐めながら、そんな彼女を眺める。彼女は今日もまだ私のどてらを着ている。それがなんとも言えず不自然であることのように、そのときの私には思えた。
「さて、思いつかれましたか。おとうさんの人生の『善い事』を」
彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。昨日より賢くなっていた私は、慎重に言葉を選びながら言った。
「私はかつて、自治会の補導委員をしていたことがある。それは善行であるはずだ」
「うん、そうですね。それは善行です。でも、死後の世界での、超越者の方の前での裁判の席で、検察側が瞳ちゃんを証人として連れて来たら、厄介なことになるでしょうね」
名前を言われて私は慌てて記憶の糸を辿った。「ヒトミ」「ひとみ」「瞳」・・・そうだ、山川瞳という名の少女だった。補導した記憶がある。私は彼女にこんこんと理を説いた。彼女も納得したはずだった。私が補導委員を辞める時には、丁度彼女は看護士を目指して専門学校に入学したはずだった。そんな彼女が私に何か不利な証言をするというのだろうか。いや、それ以前の問題として、彼女が証人として出てくると言うことは、つまり、
「瞳ちゃんは死んだのか?」
「あれーっ、ご存知ありませんでしたぁ?」
わざとらしい驚き方だった。それはもう、見ていてありありと分かるようなわざとらしい表情だった。
「おとうさんって、自分が補導委員をしているときに補導しても、自分が委員を辞めれば後は、彼女の人生に何の関心も無かったんですね」
「教えてくれ。彼女はどうなったんだ。どうして死んだんだ」
「別に良いです。おとうさんが今まで関心を持っていなかったんですから。それに、弘志君のほうが問題ですから」
私は懸命に思い出した。そうだ、自殺しようとしているところを思いとどまらせた少年だった。
「彼がどうかしたのか」
「新聞を丁寧に見ていれば分かった筈ですが、彼は二年前に強盗殺人事件を犯しました。平和に暮らしている一家四人を殺して金を奪ったのです。そして逮捕されて、去年死刑が確定し、執行されました」
私は言葉を失った。
「明日又来ます」
彼女は言って、帰っていった。
そしてそれが四日目だった。
次の日やって来た時、彼女は小脇に何か抱えていた。何かは分からない。それを傍らに置いて、いつものように炬燵に入り、昨日彼女が買ってきてまだ残っている酒を私に勧めた。
「どうぞやってください。私は今日は飲みませんから。休肝日なんです。五日に一回は肝臓を休めないとね」
冗談のつもりなのだろうか。多分冗談のつもりなのだろう。笑ってみることにした。
「何か思いつかれましたか?」彼女は言う。「おとうさんの人生の中の『善い事』」
私はもそもそと話し出した。
「私は先祖の墓参りを欠かしたことが無い。毎年命日とお盆には必ず暇を作って墓参りに行くことにしている。これは善行であるはずだ。実際、菩提寺の僧侶もそういって私を褒めてくれているし、親族の間でも頗る評判がいい」
これが善行であることは間違いない。何しろ、あれだけ多くの人が「善行である」と言ってくれているのだから。
しかし彼女は、暫く考えてからこう言った。
「藤原道長の話をしましょうか。そうです、日本史の教科書に出てくるあの、藤原道長。彼は生前、寺を建立したり、寺院に多くの寄付をしたりしました。それだけの善行を積んだから死後は必ず極楽の最上階に行けるものだと、彼自身思っていましたし、周りの人たちもそう思っていました。そして彼は死んだ。死後暫く経ってから、娘の夢枕に道長が現れました。娘は尋ねます。『お父様、お父様はきっと今、極楽の最上階におられることでしょう』と。すると道長は答えました。『いや、極楽に来ることは来たのだが、最下層部しか認められなかったよ』って。まあそうでしょうね。寺を建てる為にはきっと、領民から多くの年貢を搾取したでしょうし、土木工事に領民を駆り出したりしたんでしょうからね。寺を建てるのを止めて、その分年貢を軽くしてやり、農閑期には十分休養させてやったほうが、農民たちにとってはどんなに有難かったことか」
「私は自分の金で墓参りに言っている。誰かを搾取しているわけではない。一緒にしないで欲しい」
「分かってます、分かってますってば」私が気色ばむと、彼女は少し慌てて見せた。「単なる世間話です。お話ですってば」
「人が真剣に話をしているときに、世間話なんかしないで欲しい」
「すみません、すみません。じゃあ私も真剣な話をしますけどぉ」彼女は炬燵テーブルに両肘をついて、身を乗り出した。私の顔を覗き込む。「おとうさん、最初の日におっしゃいましたよね。『私は信心深くない』って。信心深くないのに、どうしてお墓参りを欠かさないんですか。単なる世間体からですか」
私は喉の奥に塊を感じた。声帯が麻痺している。
一方彼女は無邪気な笑顔に戻り、私のコップに、もう一杯酒を注いでから言った。
「じゃあ、今日は帰ります。これ、おとうさんにプレゼントしますから、適当に使ってください」
来るときに小脇に抱えていたものを、炬燵テーブルの上に置いた。紙袋。彼女が立ち去ってから私はその紙袋の中を覗いてみた。入っていたのはノート数冊だった。
そしてそれが五日目だった。
次の日、私は朝からこのノートに向かった。とにかく善い事をこのノートに書くのだ。会社員時代、大学生時代、高校生時代、中学生時代、小学生時代、幼稚園時代、いや、記憶にある限り幼いときから今までの、私の人生の中で行った「善い事」をこのノートに書くのだ。そう心に決めて書き出したのだが、意外に思うように捗らなかった。この三日間のせいで、私はすっかり臆病になっていたのだ。何か善いエピソードをノートに綴っても、すぐに疑念が沸いて来る。このエピソードを彼女に見せれば何と言うだろうか。彼女ならこう言って反論するかもしれない。いや、きっとそう反論するだろう。そう思うと、せっかく書いた文章もすぐに大きなペケ印で消してしまう。彼女が三日目に言った言葉が頭に残っている。「反対尋問にあうようなことなら、最初から善行のリストに載せないほうがいい」
それでも私は書いていった。技術者として業績を上げたこと。地域社会のリーダーとして活躍してきたこと。学生時代にクラブ活動で汗を流したこと。小学生時代に学級委員長を務めたこと。また、時々人助けをしたこと。人に親切にしたこと。例えばお年寄りに乗り物で席を譲ったこと。寄付をしたこと。などなど。そうやってはノートのページを埋めていく。しかし埋めればすぐに又考え込んで、考え込んではページ全体に大きなペケをつけていく。こんな善行など、彼女の反対尋問にあえばすぐ潰されてしまうだろうから。
そして、そんな作業を日の暮れかかる頃まで続けて、続けていってやっと気づいた。
そうだったのだ。
私は今まで書いてきたページをノートから破りとって、ゴミ箱に捨てた。そうだったのだ。あの死神は最初からそのつもりだったのだ。第一日目からそのつもりだったのだ。何か小難しい理屈を並べていたが、実は最初からそのつもりだったのだ。昨日ノートを置いていくときに、あの死神は「適当に使ってください」とは言った。が、「このノートに善行を書いてください」とは言わなかった。だから彼女は最初からそのつもりだったのだ。要はそうなのだ。あの死神の言わんとしていたことは、要するに「私がこれまでの人生で行ってきた悪行を自己申告せよ」ということなのだ。
そうと分かれば腹も据わった。私は今までの人生での「悪行」をノートに書き綴りだした。が、この作業もまたすぐに止まってしまった。私の犯した悪行の中でもトップに挙げなければならないこと。それを思い出したことによって、私の心は凍結してしまった。あまりにも思い出したくないことだから、今まで記憶の底に封印していたことだった。
その記憶が浮かび上がってしまった。私はノートを閉じた。字を書く気力が無くなってしまったからだ。目を閉じる。何か種のようなものが心の中に落ちていくのを感じた。その種が私の中で芽を出して根を張っていく。茎を伸ばし葉を広げていく。そしてそれが私の内側を完全に支配したとき、私は堪らずに目を開けた。
叫び声をあげる。
私は立ち上がった。やるべきことは決まっていた。どうせ死神が来たのだ。彼女はなんだかんだと言っていたが、死神が来た以上、私の死期は近づいているに違いない。窓から外を見てみると、冬の日は早くもとっぷりと暮れていた。そうだ、きっとそうだ。私は思った。あの死神は最初からそのつもりだったのだ。それならその時期を自分の手で少し早めても良いではないか。
私は箪笥を開けてタオルを取り出した。当然一本では無理だから、三本取り出して結い合わせてみた。三本結い合わせると、何とか用を足しそうだった。天井を見上げる。鴨居は丁度いい高さのようだった。椅子を持ってきてその上に上り、鴨居にタオルを結びつけた。反対側の端は輪にする。私の首が丁度入るぐらいの大きさの。その中に首を入れて私は椅子を蹴った。
次の瞬間私の体はタオルで首を吊っている状態になっているはずだった。はずだったが、実際に起こったことは、私の体が床の上に叩きつけられただけだった。私はタオルを見る。切れていた。
「だめですよ」
声がした。振り向いてみると彼女がいた。
「君が、切ったのか」
呆然と私は言った。
「私が切った訳ではありません。おとうさんの時はまだ来ていないだけなんです。時が来ていないから、死のうとしてもだめなんです。時が来ていなければ死ねません。たとえ断崖絶壁から飛び降りようが、排気ガスを車内に引き込もうが」
私は首から輪をはずして、それを床に叩き付けた。
「炬燵に行きません?」彼女は言った。「ここじゃあ寒いですよ」
私はのろのろと彼女の後を歩いていき、昨日と同じ位置で炬燵に入った。
暫く沈黙が続いた後、私は口を切った。
「聞いてくれるかな」
「もちろん。私はおとうさんの死神なんですから」
彼女は私のコップに酒を注ぐ。
「こんなこと言わなくても君は知っていることだろうが、私の妻は二十年前に死んだ。死ぬ前の数ヶ月間、私たち夫婦の関係は最悪だった。お互い愛し合って結婚したのだが(友達の言葉を借りると大恋愛だそうだ)、一緒に暮らすようになってから暫くすると、お互いの嫌な面ばかりが目に付くようになった」
「喧嘩ばかりしていたとか?」
「はじめの間はね。しかし最後はもう喧嘩もしなくなっていた。同じ家の中で生活していながら、お互いを無視し合う状態だったんだ。そしてそんな数ヶ月が続いて、あの日がやってきた。妻の死が訪れたんだ。
その前の晩、私は車で帰宅していた。運転しているとき私は、エンジンが普段と違う音を立てているのに気づいた。私だってエンジンのことが全く分からないわけではない。少なくとも、修理屋に出す必要が有るか無いかを判断できる程度にはエンジンを分かっていた。しかも、その晩は比較的早く帰ってきていたので、エンジンを見る時間は十分に有った。にもかかわらず、私はエンジンルームを開けてみることさえしなかった。なぜか。次の日の朝早く妻がこの車を使うことを知っていたからだ。私は心のどこかで期待していたんだ。故障している車を運転して、妻が事故を起こしてくれることを。もし次の日の朝に車を使うのが私であったなら、私は絶対エンジンを調べていたはずだ。しかし私はエンジンを調べず、翌朝私のまだ寝ている間に車で出かけた妻は、事故を起こして死んでしまった。
警察の捜査の結果、事故の主要原因は自動車メーカーの設計ミスだということが分かった。当時はマスコミでもずいぶん話題になった。メーカーの責任を問う声が国中から聞かれた。だから、誰もが私に同情してくれた。欠陥車の犠牲となって妻を失った哀れな夫として。でも、誰も知らなかった。妻を殺したのはこの私だ。私は妻が死ぬことを期待していた。妻を助けるためには、私は一言言いさえすれば良かったのだ。車の調子が悪いから、タクシーを呼びなさい、と」
「仕方ないですよ」
彼女があまりに軽く言ったので、私は彼女を睨みつけた。しかし彼女は変わらない静かさで後を続けた。
「少なくとも、今そんなことを後悔しても仕方ないですよ。今はおとうさんのやるべきことをやるべきです。はい」
彼女は、白紙のノート数冊を私の前に積み上げた。
「じゃあ、帰りますね。私、今日も休肝日なのもで」
私は酒を舐めながらノートを見詰めた。
そしてそれが六日目だった。
次の日から私はノートに、これまでの人生で行った「悪行」を次々と書き綴っていった。まず第一ページ目には、妻を殺したこと。確かにあれを「殺した」というのは、言葉の用法上正しくないのかもしれない。しかし確かに私は妻の死を望んだのだし、妻の死を阻止するための行為を何もしなかった。間違いなく「悪い事」だ。さらに私は、死神から指摘されたこともノートに書き留めた。私の開発したマイクロチップがミサイルに使われて無辜の一般市民を多く殺したこと。確かに、私個人の努力と能力で、チップがミサイルに使われることを阻止するのは不可能だったろう。しかしそれでも最低限私は、私のチップを搭載したミサイルで命を奪われる人たちについて思いをはせるべきであった。瞳と弘志のことについても書いた。補導委員を辞めた後でも、彼らのついて少なくとも関心は持っておくべきだった。辞めれば後は知ったことではないと言う態度では、結局私は自分の世間体のためだけに補導委員をしていたと言われても仕方ない。それは墓参りについても同じだ。私は自分が何のために墓に参っているのか分からずに、また分かろうともせずに参っていたに過ぎない。
さらに私は、些細と思われるようなことでも漏らさずに書くように努めた。たとえば、私が会社を辞めたのは実は、職場での人間関係が維持できなくなって出奔したのだと言うこと。しかもそのことについて、あたかも会社側に責任があるかのように、会う人ごとに告げ口のように喋っていたこと。また職場のリーダーであったとき、自分でも出来ない仕事を部下に押し付けて、そして部下が失敗したら厳しく叱責したこと。などなど。会社員時代、大学生時代、高校生時代、中学生時代と年代を遡っていき、思い出しうる限りの「悪い事」を書き綴っていった。
思い出していると、泣きそうになる。吐きそうにもなる。叫びそうにもなる。さらに死んでしまいたくもなる。しかし自殺しようとはしなかった。出来ないことが分かっているのだから。私の全人生の悪行を全てノートに書きつくさない限りは、死のうと思っても死ねないのだから。それこそが、あの死神が私に命じたことなのだから。
ノートを書いているときに私はしばしば彼女の視線を感じた。だが、視線を感じてすぐに振り返っても、彼女の姿を見つけることは無かった。それでも私は「認識」していた。彼女はここにいて、私の書いているノートを読んでいるのだと言うことを。
ノート一冊書き終えた頃から、時間の感覚がなくなっていた。今が昼なのか夜なのかも分からない。勿論それは雨戸を開けさえすればすぐに分かることなのだろうが、そのための時間が惜しかった。ただ書き続けた。書くのに疲れてくると、炬燵のままで眠った。目が覚めると又書いた。書いては記憶を呼び起こして書き、さらにまた記憶を呼び起こしていった。
そうやって何日が経って行っただろうか。彼女の残していったノート十冊のうち九冊を使ったところで、幼稚園時代までの悪行を書き終えた。もうそれ以上記憶は遡るのは不可能だった。私はため息をついた。さて余った一冊をどうしよう。書き忘れたことが無いか調べながら、現時点からもう一回遡ってみようか。しかし私はあまりにも疲れすぎていた。そんなことを考えながら十冊目のノートに手を伸ばしたときに、声がした。
「おとうさん、おめでとう」
振り返ってみると、彼女の姿が有った。
「おめでとう」
彼女はもう一回言ったが、それでも私は彼女の言葉を理解するのに苦労した。
「おめでとう?何が?」
間抜けのように尋ねる。
「おとうさんが善い人であることが証明されました。おめでとう」
「何だって!」今度は狂ったように大声を上げた。「私が善い人だって!そんなことがあるものか。私はこんなに悪いことをしてきたんだぞ。ほら見てみろ、ノート九冊分だ。ノート九冊分の悪行を働いてきた、そんな私が『善人』なんかであるものか」
彼女は優しく微笑んだ。
「おとうさん、考えてみてください。おとうさんの今までの人生全てをノートに書き記したら、何冊になると思います?毎日毎日朝起きて、着替えて、顔を洗って歯を磨いて朝食を食べて。そんなことまで含めて、毎日の行動を全てノートに書いていったら、一体何冊になると思います?何十冊?いや、そんな数じゃあ足りないでしょう。何百冊何千冊と要るんじゃないですか。お父さんの今まで生きてきて行った、そんな大量の行為の中で、悪いことはたった九冊分なんですよ。いいですか、それ以外の全ては『善い事』なんです。朝起きて顔を洗って歯を磨いて、そんな些細で平凡なこと全てが『善い事』なんですよ」
私は理解できなかった。彼女は説明する。
「えーっと。おとうさんはノートに書きましたよね、何冊目だったかな」彼女は私の九冊のノートを手に取って、中をざっと見ていった。「ほら、これ。あっ、これは『悪い事』のうちには入らないので、破っておきましょうね」私が止める間も無く彼女はページを破り取った。その上で、その破り取られたページを読み上げる。「『出身地のK市が大震災にあったとき、ボランティア活動に行かなかったこと。』でもね、おとうさん。考えてみてください。社会の他の部分が全く通常通りに動いているからこそ、ボランティア活動や救援活動も出来るんですよ。たとえば、缶詰工場で働いている人が全員被災地にボランティア活動に行ったりしたら、救援物資である缶詰が出来ないじゃないですか。電力会社の人全員が被災地にボランティアに行ったりしたら、電灯も点かないし、電車も走らない。社会の他の部分が全く通常通りに動いているからこそ、救援活動も出来るんです。それと同じことです。圧倒的多数の人が圧倒的な時間をごく平凡に生活しているからこそ、所謂『善行』が可能になるんです。ですから、おとうさんが今まで生きてきた中での全行為の内、『悪い事』以外は全て『善い事』です。
おめでとう。あなたは今までの人生で、圧倒的多数の善い事と、ノート九冊分弱の悪いことをしてきました。天国に行って奥さんと一緒に暮らすには十分です」
私は暫く呆然としていたが、やがて呻くように言った。
「いや、そんな筈は無い。妻が私と一緒に暮らしたがっているだなんて、そんなことがあるはずが無い。妻は私が殺したんだ」
「そのことについては、イッツOKです。実を言うと、奥さんも数日前から、エンジンの異常には気づいておられたんです。修理工場にも行かなければならないと思っておられたんです」
「・・・それはそうだとしても、それだけじゃない。妻は私を嫌っていた。だから私と暮らしたいなんて思っている筈が無い。そうだ、妻は私を嫌っていた。例えば、私が脱いだ服をちゃんとハンガーに掛けておかないことを嫌っていた。二日続けて同じシャツを着ることを嫌っていた。トマトに砂糖をかけて食べるのを嫌っていた。刺身をマヨネーズで食べるのを嫌っていた。そして何より、自分の意見が通らないときはすぐに怒り出す私を嫌っていた」
彼女は笑顔でため息をついた。
「奥さんにもノートを書いてもらいました。数十冊に渡っておとうさんとの生活について。そして書き終わられた時に、奥さんはこうおっしゃいました。おとうさんの嫌いなところ以外は全て好きだと」
私は目に涙が溢れてくるのを感じた。
「おとうさん、おめでとう」
彼女は私の横に座って私を抱き締めた。包み込むように抱き締めた。彼女の今着ているどてらの感触を感じる。何日かぶりで私は自分のどてらを感じていた。そしてそのどてらを通して、彼女の肌が感じられた。やがてそれは、どてらを通り抜けて私のほうへとやって来た。さらに、私の皮膚をも透過して、私の体の内側に入り込んでくるのを、私は感じていた。
終わり