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カミサマ、ウソ、ツカナイ

 創世記第2章第17節「しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。」 アダムとイブがエデンの園のリンゴの木の実を食べることを神から禁じられた事件を記した一節。後に二人はこの禁を破ったが故にエデンの園から追放される、所謂「失楽園」に至るそもそもの発端となった一言である。

 一見筋が通らないように見える。一般的に考えてみれば、善悪を知ることと死ぬことは別のことだからだ。だから普通はこの話は「アダムとイブが善悪の判断する木の実を(=リンゴ)食べた罰として死を運命づけられた」のだと解釈される。しかしそれでは、「善悪の判断を知れば死んでしまう」ということになり、つまるところ「善悪を知らずにおこう」という言わば「不道徳の勧め」になってしまう。これでは、宗教の聖典にあるまじき文書だということになる。でもよく考えてみれば決して矛盾ではないことが分かる。神様は決して嘘をついていたわけではないのだ。というのは、善悪の区別を知らない動物は死なないからだ。犬や猫や鳩はたぶん死なない。それよりもっと下等な動物、例えば蝿や蚊や南京虫は間違いなく死なない。勿論それは客観的な意味でではなく、主観的な意味でであるが。

1.『カナナン・サラム』でも書いたが、人間にとっての善悪の根本は「人間のみが、この世に自分が存在することを知っている」という事実だ。人間以外の動物は、自分自身の存在を知らない。だからこそ鏡を見せるとパニックを起こす。普通これについて「動物は鏡という道具の性質を理解していないからだ」と説明されるが、本当は彼らはそれ以前の問題として、自分の存在を認識できないのだ。認識できないものを見せられるからパニックを起こす(註1)(註2)。

 意外なようだが、別に不思議なことではないだろう。野生動物にとって、自分を認識する必要はないのだ。餌がどこにあるか、天敵がどこにいるか、交尾の相手がどこにいるか、(ある程度高等な動物に於いては)自分の子供がどこにいるか、この四つさえ認識出来ておれば自分も生き延びることが出来るし、子孫を残すこともできるのだから。

 脳における情報処理能力が高まり、そこに余裕が出来たときに初めて、生物は自分自身を認識することが出来るようになった。それが人間である。人間は、自分が情報処理活動を行っていることを知っている。だからこそそれを他者に対しても類推適用する。「自分が情報処理活動をしているから、きっとあの人も情報処理活動をしているだろう」といった具合に(註3)。そこから「善悪の判断」というものが発生する。

 「善悪の判断」の根本にあるのは、「自分がこういうことをされると嫌だから、相手もきっと嫌だろう。だから相手にこういうことをするのは止めておこう」という精神である。言ってみれば「共感の精神」とでも言いうる態度である。それに対して「人を殴れば殴り返されるから止めておこう」とか「人を殴れば警察に捕まるから止めておこう」というのは所詮「打算」「損得勘定」であり、「善悪の判断」ではない。「善悪の判断」というのはあくまで、「この行為は人間として恥ずかしい行為だから止めておく」という判断であり、その基礎にあるのはやはり、「自分がされて嫌なことだから、他人に対してもしない」という精神である。

 この「共感の精神」は人間の持つすばらしい能力の一つである。この能力があればこそ人間は、出身の違う人たちとも協力できるのだ。それと対極が例えば蟻のような社会性昆虫であり、彼らも確かに仲間内で協力し合うが、それは所詮DNAによって決定された行動なのであり、DNAによって規定されていない協力行為は一切出来ないのだから。また、人間には「共感の能力」があるからこそ、自分が直接体験したことでなくてもあたかも自分の体験であるかのように追体験することが出来る。

 このように「自己の存在の認識」に基づく「共感の能力」は卓越した機能を持つが、その一方で副作用も持つ。その一つが、「他者が死ぬことを人間は知っているが故に、自分もいつかは死ぬことを知っている」ということだ。

2.当たり前の話だが、「自分」の存在を知らなければ「自分がいつかは死ぬ」と言うことも知らない。犬や猫は、自分の周囲のものが死んでいく様子を見てはいても、だからといって「いつかは自分もこのように死ぬのだろう」とは思っていないのではないだろうか。彼らにとってみれば、「彼らの認識する世界」と「彼ら自身」とは完全に一致していて、それがいつか死ぬなどということは想像もできないのではないだろうか。勿論彼らも「食べ物が無くて空腹だ」とか「カラスに突っつかれて痛い」とかの苦痛を感じることはあっても、「自分はいつか死ぬ」という恐怖は感じることはないのではないだろうか。

 要するに人間は、「自分自身がこの世に存在すると言うことを知った瞬間から、その自分自身がいつか死ぬことに対して恐怖心を抱かざるを得なくなった」のだ。

3.結論としてこう言える。「善悪の判断」も「(主観的な)死」も、「人間は自分の存在を知っている」ということから発生している。それはメダルの裏表のようなものであり、切り離して考えることは出来ないのだ。創世記第2章第17節で神様は別に嘘を言っている訳ではないのだ。一休さんのお話に出てくる和尚さんのように、隠し持っている水飴を小僧さんに食べられないようにと「これを食べると死ぬぞ」と嘘を言って脅していた訳ではないのだ。そして人間とは、死の恐怖に直面するリスクを負う覚悟の上で、他者との共感能力の獲得を選択した、勇敢かつ偉大なる存在なのだ。

あなたが死んでも
世界は残る
だからあなたは
素晴らしい

(註1)誤解無きようにお願いしたいが、「自分の存在を認識できない」ということは、「自分の肉体を認識できない」ということを意味しない。「その肉体の中にある精神を認識できない」ということだ。もっと正確に言えば、「認識行為それ自体を認識できない」ということである。

(註2)最近の研究によると、人間以外にも、チンパンジーなどの類人猿、イルカ、象などは鏡に映った自分自身を認識できるという。しかし、彼らが我々人間と同じ様な認識をしているかどうかは分からない。つまり、鏡の中の姿を自分であると認識しているとは限らない。或いは、鏡の中の像に関して「自分が額に傷を負っている時、この猿も額に傷を負っていた。だから、今この猿が顎に傷を負っているということは自分の顎にも傷があるかも知れない」という判断をしているのかも知れない。

(註3)このように「相手も認識活動をしているに違いない」と言う類推を、人間は他の人間だけでなく、あらゆる相手に対して適用する。犬や猫などの動物は勿論、古代社会に於いては天体や風や水のような無生物や、さらには因果関係のような抽象的概念に対してさえ。