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鍵が無い

 僕はベッドから跳ね起きた。まだ寝ぼけたままの頭をなんとか駆動して考える。
 そうだ、彼女のところに今行かなければ。今行って謝らなければならない。僕は何かとてもひどいことを彼女にしたんだ。電話での彼女の声が僕の耳に蘇る。
「私ね、ひとつだけ特技があるの。それはいつでも人を嫌いになれること。昨日まで仲良くしていた相手とでも、今日からは口ひとつきかないでいるってことが出来るの」
 今すぐ彼女に会いに行って謝らなければ。昨日はしこたま酔っ払っていてぜんぜん覚えてはいないけど、きっと僕は彼女にひどいことをしたんだ。
 僕は行動を起こした。まず、電話を置く。洗面所に行って顔を洗って、ひげを剃ろうと思って時間が無いことに気づいてやめ、歯を磨こうとしてこれも時間が無いのでうがい薬でうがいだけにしておく。
 そしてこの間も僕の頭の中では、今さっきの電話での彼女の声が追い討ちをかけていた。
「だいたい私、この世の中の人間の99.9%までが嫌いなのよ。それで・・・」
 僕の思考が止まった。この後彼女は何を言ったんだっけ?何かとても大事なことを言ったはずだ。寝ぼけながら聞いたせいか、それが思い出せない。
 いや、そんなことはどうでもいい。僕は思い直した。とにかく今は出来るだけ早く彼女の所に行って謝ることだ。急いだ。
 ベッドルームに戻ってパジャマを脱ぎ、クローゼットを開けて、シャツを着、ズボンを穿く。昨日着ていたジャケットを着ようとして、それがあまりに焼肉臭いのでやめて、隣に吊るしてあったジャケットを着て、クローゼットの小物置きに置いてあった財布をジャケットのポケットに入れて、そして、そこで僕の一連の動作が止まってしまった。
 鍵が無い。
 普段は財布と一緒に小物置きに置いているはずの鍵が無い。小物置きをもう一度探してみて、落ちていないかと小物置きの下を探してみて、さらにクローゼットの近くの床の上も探してみたが無い。ジャケットのポケットを調べてみて、外ポケットを調べて内ポケットを調べて隠しポケットを調べて、それから、これは昨日着ていたジャケットではないと思い出して、昨日着ていたジャケットを調べて、ズボンもシャツもポケットを調べてみて、鍵が無い。困った。
 こままアパートのドアに鍵を掛けずに彼女のところに行くのは論外だった。この地域は比較的治安が良くて、今までにも空き巣の被害など聞いたことも無いが、それでも昨日空き巣が無かったからといって今日無い保証はどこにもない。それに、今僕の部屋には自分の持ち物のほかに、仕事の都合上会社から持って帰ってきている数十万円の小切手と、友達どうして旅行に行く目的で積み立てている数万円と、管理人さんに立て替えてもらっている新聞代数千円と、共同募金に寄付するつもりの数百円とがある。これらを空き巣の危険にさらすのはあまりにも無責任だ。   なんてこった。ドアを開ける鍵が無いからではなく、ドアを閉める鍵が無いから部屋に閉じ込められてしまうとは。
 そうしている内にも、さっき電話で聞いた彼女の声が追いかけてくる。
「私いつだって人を嫌いになれるの。だいたい、世の中の人間の99.9%までが嫌いなのよ。それで・・・」
 僕は焦る心を抑えて自分に言い聞かせる。
(落ち着け、落ち着け。落ち着いて考えるんだ。昨日家を出るときは間違いなくドアに鍵を掛けて出た。鍵を掛けて出た部屋に帰ってきたのだ。鍵をどこかに落としてきたと言うことは有り得ない。鍵は必ずこの部屋の中にあるはずだ。探せ)
 僕はもう一度、昨日着ていた服を探した。それからクローゼットの中を探して、さらに寝室の中全部を探した。無い。
 彼女の声が追いかけてくる。僕は懸命に思い出そうとする。 (考えろ、考えろ。昨日帰ってきてから何をしたのかを、よく思い出すのだ)
 思い出した!昨日確か、すごくトイレに行きたかったのだ。  僕は、玄関からトイレに至る廊下を、それこそ舐めるようにして探した。結果、廊下とトイレの掃除がそろそろ必要なことが分かっただけだった。
(思い出せ、思い出せ。間違いなく鍵はこの部屋の中にあるはずだ)
 思い出そうとするが、彼女の言葉が頭の中に響いている。
「私、いつだって人を嫌いになれるの。だいたい私って、世の中の人間の99.9%までが嫌いなのよ。それで・・・」
 ああ、彼女はこの後に何て言ったんだろうか。そちらの方が気になるが、今はまず、鍵を探し出すことが先決だ。思い出せ思い出せ。昨日僕はこの部屋に帰ってから何をしたんだ。
 そうだ、キッチンに行ったのではないだろうか。水を飲むためにキッチンに行ったのではないだろうか。そしてキッチンで鍵を落としたのではないだろうか。有りうる可能性だ。キッチンに行って、僕は這うようにして床を探した。結果、夏から仕掛けていて忘れていたゴキブリホイホイを発見しただけだった。
 僕はため息をついた。
 もはや手詰まりだった。この狭いアパートの中は全て探し尽くしたと言っていい。今後何時かどこかの隙間から鍵が出てくる可能性はあるが、その「何時か」を今日であると期待することは、無理な注文というものだろう。
 僕は腹を括った。今はとにかく彼女のところに謝りに行くべきなのだ。会社の数十万円と、友達との旅行会の数万円と、管理人に新聞代を立て替えてもらった数千円と、共同募金に寄付する予定だった数百円は諦めるしかない。たぶん空き巣に入られることも無いだろうし、入られたなら入られたで、その後で何とかなるだろう。僕は玄関を出た。そしてそこで見つけた。
 鍵は、玄関ドアの外側の鍵穴にささったままで、そこにそのままあった。
 それで僕は思い出した。そうだ、昨日帰ってきたとき、鍵穴から鍵がなかなか抜けずに、しかもトイレに行きたかったので、後で抜こうと思って鍵をそのまま差したままにしておいて、それで忘れてしまっていたのだ。
 僕は鍵を回してみた。軽快な音がして錠は掛かった。鍵を抜いてみる。今度は何の抵抗もなく抜けた。そしてこの時、僕は彼女の言葉の残りをやっと思い出した。
「私、世の中の人間の99.9パーセントまでが嫌いなのよ。それでも、どうしても嫌いになれなかったあと0.1%が、肺や毛穴や皮膚から入り込んできて、私の体の一部になってしまうのよね」

                  終り