偽書を書こう

 

 瓶を逆さまにして振ってみたら一滴だけ出てきたので、掌に受け止めて嘗めた。ワインの味は全くせず自分の掌の味だけがした。悲しくなって泣いた。

 どうしてこんな人生を俺は送っているのか。

 当代随一の文筆家の先生の元に弟子入りしたのは何年前だったろうか。弟子入りできたことを、故郷の両親や友人達があれほど祝福してくれたのは何年前だったろうか。そして、そのまま先生の元で修行さえしていれば政治家の演説原稿の下書きや金持ちの自叙伝の代筆で十分安逸な生活を送ることが出来るはずだったのに、その先生の元を出奔したのは何時だったか。そして何故だったか。

 今になって思い出そうとしても思い出せない。そもそも俺は何歳なのだ。それすらも分からない。勿論、暦を見て計算すればそれは簡単に算出されるはずだ。が、手元には「暦」などというしゃれたものはない。だから自分の年齢すらも分からない。少年時代だったら、自分の年齢ぐらいしっかり認識していた。特段暦を見て計算しなくても、尋ねられれば即座に自分の年齢を答えることは出来た。しかし、今は暦から計算しなければ自分の年齢も分からないし、しかも手元には暦もない。俺は年齢の無い存在なのだ。年齢が無いと言うことは歴史が無いと言うことで、歴史が無いと言うことは結局実体が無いと言うことだ。俺は実体の無い存在なのだ。

 さらに悲しくなって、泣いた。

 今は時々の仕事で日銭を稼ぎながら、この半地下の部屋を借りて生活している。ここを借りるときに家主は言っていた。「ここは実は、数年前のあの大洪水の時に、水没したんだよ」と。だからこそ家賃が安かった。だからこそ俺のような者でも借りることが出来た。或いは俺は期待していたのかも知れない。もう一度大洪水が起こって再びこの部屋が水没し、その中で溺死してしまうことを。しかし、今年の夏もそんなに雨は降らなかった。どうやら、溺死する前に餓死してしまうようだ。

 何かしらおかしくなって、笑った。

 と、その時部屋のドアをノックする音が聞こえた。誰だろう。大家ではない。食事を削ってでも律儀に家賃は払っているのだから。他に訪ねてくる友人知人も思いつかない。だが、取り敢えず返事をした。

「開いてますよ」 

 ドアが開いて男が二人入ってきた。独特の服装をしている。ああ、あの服装、どこかで見たことがあるのだけど思い出せない。

「どちら様ですか」

 俺の質問に対して彼らは、とある宗教団体の名前を答えた。

「ああ、あの」

 それで思い出した。あの服装はあの宗教団体の伝道者の制服だった。なんと伝導熱心な宗教であることか。こんな落ちぶれた者のところにも伝導者を派遣してくるとは。しかしあの横柄な態度は何なんだ。ドアを開けるときにしろ、自分の身分を紹介するときにしろ。貧乏人だから簡単に信者になるとでも甘く見ているのだろうか。あの宗教がそんな横柄な宗教なら信者になるのは止めておこう。尤も、根っからの無神論者の俺が宗教を信じるなど、どっちにしろ有り得ないことなのだが。(それにしても横柄な目つきだ)

 重ねて俺は思う。あっ、ちょっと待てよ。確かこの宗教は……、

「最近帝国の国教になったんですよね」

 俺が言うと、男の内若い方が明ら様な怒りを見せた。

「それは我々のことではない。異端の邪教のことだ」

 年輩の方が、すかさず言葉を付け足す。

「我々の教えは元は一つなのだが、かつて一部の者が『普遍派』と称して分派活動を開始した。それに対抗して我々は自らを『覚醒派』と称して、教祖様の教えを忠実に伝え、修行することを旨としてきた。ところが『普遍派』は、修行は疎かにしているにもかかわらず、民衆を魅惑する甘い言葉を振りまいて、どんどん信者の数を増やしていった。その結果帝国内では『普遍派』の信者が多数を占めるようになり、結果として皇帝陛下も『普遍派』を国教とせざるを得なくなったのだ。しかし『普遍派』は、教祖様の教えから逸脱している。それは我々には許し難いことなのだ。全国に遍在する『普遍派』の信者達に、教祖様の本当の言葉を伝えたい、我々はそう願っている。協力してくれるな」

 話が見えてきた。要するに彼らは、『普遍派』を貶し『覚醒派』を持ち上げる文書書くように俺に依頼しに来たのだ。それであの横柄な態度も理解できた。なにしろ彼らは「お客様」なのだ。態度が大きくなっても当然だろう。

 俺は答えた。

「とにかく食う物を持ってきてくれ。あまりに腹が減っていて、協力するもしないも、判断できない」

 俺が言うと、男達は顔を見合わせてから出ていった。あれっ、俺があまりに横柄な言い方をしたので、怒って帰っていったのだろうか。不安に思ったが心配無用だった。しばらくしてから彼らはパンとワインを持ってきてくれた。俺は彼らの手からそれらを奪うようにして受け取って、貪り食った。俺の食いっぷりに、さすがに今度は彼らも呆れたのだろう、言葉一つだけ残して帰っていった。

「じゃあ、詳しいことはまた明日。この時間に」

 俺は食いながら首を縦に振った。

 彼らが出ていったのを確かめてから俺は、部屋の天井近くにある窓(つまり、外界から見れば道路面すれすれにある窓)から外の様子を見た。太陽光線の具合は、はや日暮れが近づいていることを告げていた。

(早く食い終えてベッドに横になろう)

 俺は思った。

 そしてそれが一日目だった。

 

 久しぶりに腹一杯食べたからか、その夜はよく眠れたし、次の朝は快く目覚めることが出来た。窓から見える太陽光線の加減は、今がまだ早朝であることを示していた。男達が来るまでまだまだ間がある。

 ベッドから降りて部屋の隅に放ったらかしになっている頭陀袋を取り上げた。俺の「家財道具」のほぼ全てが入っている袋だ。中に入っているのは、着替えが少々と筆記用具、帳面の類。以前にこの袋に入っていて今は入っていない物は、現金と鍋。(料理することも無くなって久しいので、鍋はもうとっくに売り払っていた。)筆記用具を出して机の上に置く。これが再び用を足すようになるとは自分でも思いも寄らなかった。が、有り難いことには違いない。胸が高鳴るのが感じられる。久しぶりに自分の本分の仕事で金を稼ぐことが出来るのだ。机の前に座ってペンを握ったが、はたと気づいた。ペンはあるが紙は無い。インクも無い。ずっと買えないで居たのを今になって思い出した。まあいい。この仕事の依頼人から支度金をもらったら、それで買うことにしよう。

 机から離れてもう一度頭陀袋を開く。帳面を取り出した。先生の元で修行していた頃に使っていたものだ。先生の講義の要約や、先人の名文の抄録などが書き留められている。文筆家を目指していた頃は命の次に大切だった物だった。そして先生の元を出奔してからも何故かいつも肌身離さず持ち歩いていた。お守りのような物だったのかも知れない。手元にあると安心できるのだ。

(ちょっと復習しておこうか)

 そう思い、そして思っただけで止めておいた。これは俺にとってはまさにパンドラの箱なのだ。見れば役に立つことも思い出すことが出来るだろうが、嫌なこともきっと思い出すはずだ。仕事を始める前に嫌な気分には成りたくない。帳面を手にしたままベッドの上にごろんと横になった。帳面を胸の上に置いて目を閉じる。するとそのまま眠りの中にストンと落ちていってしまった。

 何時間経ってからだろうか、ドアのノックの音で俺は、夢さえも見ない眠りから目を覚ました。即座に窓を見る。太陽光線はもはや夕方の色彩を示していた。いらいらしたように、再びドアがノックされた。

「開いてますよ」

 答えると、昨日のあの二人連れが入ってきた。今日は二人とも、なにやら大きな頭陀袋を手にしている。まず年輩の方の男が、袋から紙と筆記用具を取り出した。なんと仕事に必要な物は、俺が期待していたように支度金ではなく、現物支給のようだった。

「ペンは要らない。俺のを使う。使い慣れた物の方が使いやすい」

 俺が言うと、男は黙ってペンだけまた自分の袋に戻した。それから、袋の中から二巻の書物をとりだした。

「これは我々が『T書』と『Ph書』と呼んで大切にしているものだ。JN様の高弟のT師とPh師によって書かれたものだ。良く読んでもらいたい」

 有り難く貸していただくことにした。

 さらに男は袋の中からパンとワインを取り出して机の上に置いた。なんと、生活費も現物支給なのか。それとも或いは、昨日俺が食べ物を要求したので、毎日食べ物を持ってこなければいけないとでも思っているのか。

 年輩の男が一歩下がって、今度は若い方の男が机の前に立った。袋から物を取り出す。紙切れ、布きれ、板きれや木の葉の類もある。そのどれにも文字がびっしりと書き込んである。考えをメモした物のようだった。まあ仕方がないだろう。紙は高価なのだからそうそう自由に使うわけにも行かない。メモは適当なものに書き付けるしかないのだから。

 若い男はそれらの書き付けを前にして、鼻高々な表情で俺に命じた。

「おまえの仕事は、これを清書することだ」

 俺はそれらの書き付けにざっと目を通した。乱雑に書き付けられたメモで、その書き付けにさらに別の書き込みがしてある。読みにくいことこの上ない。時折きちんと真っ直ぐな行に書かれた書き付けがあると見れば、それは何か別な文書の反古だった。この男のメモはその裏に、やはり汚い文字で書かれてある。俺がメモに目を通していると、男は自信満々の声で演説してくる。

「私は、○○先生の」と俺の嘗ての師匠の名に言及する。「本を読んで文筆術の勉強をしたんだ。どうだ、独学でこれだけの文章を書けるとは大した物だろう。おまえの仕事は、俺のこの下書きを清書するだけでいい。楽な物だろう」

 俺は男を視野の片隅に見ながら言う。

「『清書』という作業には、『加筆修正』も含まれるのか」

 俺の一言に若い男は火になって怒りだした。年輩の方がそれを宥めつつ、俺に向かって言う。

「この男の下書きは、『覚醒派』の指導者会議での議論を元にしている。いわば『覚醒派』の教義の基本とも言うべき物なのだ。信者でない君に、軽々に加筆修正してもらえるものではない」

 俺は、年輩の男の顔と若い男の顔を交互に見つめながら、言葉だけは年輩の方に向けて言った。

「俺も長い間OO先生の元で修行し、多くの文筆や多くの文筆家を見てきた。後輩の指導も多くしてきた。だから、下書きを斜め読みすればだいたいその作者の力量というのが分かる。それだからこそ言わせてもらうのだが、この下書きの作者は、」

 「馬鹿だ」と言いかけた言葉を慌てて飲み込んだ。何にしろ、彼はお客さんなのだから。

「この下書きの作者は、論理的に文章を構成することに慣れていない方のようだ。聖典として完成させるためには各素材を論理的に構成しないと読む者に伝わらない。また、仕事を受ける俺の側としても、論理的でない文章を完成品として依頼主に引き渡すことはプライドが許さない。この素材では、どうしても加筆修正が必要なようだ」

 年輩の男は暫く考えてから答えた。

「その件についてはもう一度指導者会議に諮ってから回答しよう。それで我々と君との間で仕事の進め方についてどうしても意見の一致が得られなければ、残念ながらこの依頼は無かったことにさせてもらう」

「妥当な話だな」

「他に、何か要求はないかね」

「夜も仕事がしたい。ランプと油を調達してくれ」

「すぐに持ってこさせよう。他には」

「俺の記憶によれば、『普遍派』には、教祖の伝記や弟子達の書簡集などから成る聖典があるそうじゃないか。それを一部調達してほしい」

 若い方の男がまた火になって怒りだした。やれやれ全くこの男は、こんな基本的なことから講義してやらねばならないのか。

「おい、『覚醒派』の聖典を作って、それを誰に読ませる気なんだ。『普遍派』の信者の連中だろ。『普遍派』の信者を『覚醒派』に転向させるために『覚醒派』の聖典を作るんだろ。『普遍派』の主張を打破し、『覚醒派』の正当性を主張するために聖典を作るんだろ。それなら『普遍派』が何を言っているか知らなきゃ話にならないじゃないか。ある主張を打破するためには、その主張と距離を取ってたんじゃ駄目なんだ。それじゃあ単なるお互いの貶しあいの自己満足に過ぎない。相手を打破するには、一旦相手に飲み込まれて、その上で相手の腹の内側から食い破って外に出る。論争に勝つには、その方法しかない。分かったか」

「分かった」年輩の男が言った。「今は手元にないが、可及的速やかに手に入れて届けさせよう。他には?」

「今のところ無い」

 二人は出ていった。そしてその暫く後、日の暮れる前に、約束通りランプが届けられた。俺はその灯りの下で、あの若い男の書いた読みにくい文字の覚え書きを読み込んでいった。

 そしてそれが二日目だった。

 

 次の日も二人は同じ時刻に現れた。若い方の男は今日もパンと葡萄酒を持っていて、むすっとした表情でそれをテーブルの上に置いた。一方、年輩の方は数巻の書物を手にしていた。

「書簡集の方は手に入らなかった。伝記だけだ。不足か?」

 俺は書物を受け取って繙き、ざっと目を通した。

「おそらく足りるだろう。どうしても必要になればまた頼む」

「その時は早めに言ってくれ。何か他に今日必要な物は?」

「指導者会議の結果はどうなった?」

「明日には結論が出そうだ。他には?」

 ふと俺は、昨日から疑問に思っていたことを尋ねてみた。

「どうして俺に仕事を持ってきた?文筆家なら他に幾らでもいるだろうに」

 年輩の方が答えた。

「OO先生も」と、嘗ての俺の師匠の名前を挙げる、「その主立ったお弟子さん方も、つい最近、『普遍派』の信者になられた」

 俺は頭蓋骨を斜めに切り落とされた気分だった。世間知らずにも程がある。嘗ての師匠に関するそんな重大な事を知らなかったとは。そしてその驚きが冷めてくると今度は、逆方向に頭蓋骨を切り落とされた気分になった。OO先生は先祖代々土着の神を信仰されていた方ではなかったか。それが、いかに帝国の国教だからと言って、易々と『普遍派』の信者になるとは。

「そういう訳で、OO先生とそのお弟子さん方に頼むわけにはいかない。そして・・・」

 年輩の男の話が進むにつれて頭痛の方は収まってきたが、今度は背筋に冷たい物が広がってくる。

「そして、OO先生以外の系統の文筆家の先生方も、OO先生を恐れて引き受けて下さらない。勿論、あからさまにそう仰るのではないが、顔にはそう書いてある。そう言うわけでいろいろと文筆家を捜して、やっとこの家の大家から、君が嘗て文筆家であったと聞き、依頼に来たのだ」

 俺だって最初に聞いていたら断っていただろう。師匠と兄弟子達を敵に回してしまったのだ。あの五年間の修業生活の中で、一度も論争して勝つことの出来なかった、あの方たちを敵に回してしまったのだ。

「他に何か必要な物は無いか?」年輩の男は言う。「無いなら帰る。成果を期待しているぞ」

 その日は日が暮れてもランプを点けずにいた。目を見開いて暗闇を見続け、そしてやっと腹を括ることが出来てから、ランプを点けた。昨日の作業の続きをやっていく。続けながらも自分で自分に言い聞かせてゆく。

 そうだ、これは俺の領域の仕事なのだ。誰を恐れる必要もない。俺の仕事なのだ。と、そう呟きながら。

 そしてそれが三日目だった。

 

 次の日の昼間は多くの資料の読み込みに費やされた。先ず手を着けたのは、あの若い男が書いたメモ書きだった。なぜなら、これが一番時間がかかると思われたから。そして俺のこの予想は確かに当たった。読む者の苦労を顧みないほどの汚い字で書かれていた上に誤字の極めて多い文章で、その「暗号解読」にかなりの時間を費やした。そしてその結果次のようなことが分かった。この資料は枝葉の部分が多いが、要するに次のようなことが言いたいのだ。

 彼らの信じてる宗教は今から三百年以上前、JNによって開かれた。JNは布教活動を行い、そして帝国反乱罪の汚名を着せられて処刑された。JNには多くの弟子が居たが、筆頭はSPという名の男性だった。ところが、もう一人MMという名の女性の高弟がおり、そかも彼女はJNが死んだとき既に彼の子を身籠もっていた。それを知ったSPは恐れた。MMがJNの子を産んだりしたら、教団の実権はMMに移ってしまう。そこでSPはほとんど言いがかりに過ぎないような口実を付けて彼女を教団から追放した。その後SPは教団を統制し、それが今や帝国の国教となった『普遍派』へと連なる。一方追放されたMMはごく少数のシンパを引き連れて帝国の辺境に至り、そこでJNの子を産み、JNの教えを忠実に伝えた。それが『覚醒派』につながる。と、まあ大雑把に言えばそんなところだった。

 覚醒派は自らのこのストーリーの根拠として『T書』と『Ph書』から次の文を引用する。

「SPは言った。『MMは私たちのもとから去った方がよい。女は命に値しないからである。』JNが言った。『私は彼女を天国へ導くであろう。私が彼女を男にするために、彼女もまた、あなたがた男達に似る活ける霊になるために。なぜなら、どの女達も、彼女らが自分を男性にするならば、天国に入るであろうから』」(T書より)

「JNはしばしばMMに接吻した。他の弟子達はそれを見てJNに尋ねた。『なぜ、他の者よりもMMを愛されるのですか?』JNは答えた。『なぜ私は、君たちをMMのように愛さないのだろうか?』」(Ph書より)

 根拠になっているようにも見えるが、どこかすっきりしない。すっきりしない部分はすっきりしないまま、次ぎに『普遍派』の晴天の読み込みにかかった。そしてその日はそのように過ぎていった。

 そしてそれが四日目だった。

 

 次の日も同じ時間に彼らはやってきて、同じように若い方の男がまず机の上にその日のパンとワインを置いた。それから年輩の男が口を開く。

「指導者会議の結論は出た。君のアドバイスに従って訂正することが可能な部分と、絶対に譲れない部分との区別も出来た。が、まあ先ず、君の意見を聞こうではないか。先日我々が渡した原稿について、どう思う?どういう加筆修正が必要なのだ?」

「『どう思う?』と聞かれれば、こう答えるしかないだろう」俺は視野の端に若い男を捉えながら、年輩の方に答える。「『ひどい物だ』とな」

 若い男が今にも飛びかかりそうになったのを、年輩の方がすんでの所で引き留めた。

 俺は言葉を続けていった。何を遠慮する必要もない。これは俺の領分の仕事なのだ。

「まず何がひどいって、字が汚い」

「それがどうした」若い男が喚いた。「字が汚いぐらい良いだろう。文章で大切なのは中身だ。文章の体裁が悪くても中身が良ければそれで良いじゃないか」

「敢えて言わせてもらうが、俺も長い間多くの物書きを見てきたが、そんなことを言う奴の書いた物の中身が良かったなんて、そんな経験は一度もしたことがない。理由を言ってやろうか。彼らはいかにも一般的な命題のように言っているが、その実、自分自身のことに言及していることが多い。つまり、『私の書いた物の体裁は悪い。しかし私の書いた物の中身は良いのだから、読者はこれを読んで感動するに違いない。感動しない読者は鈍感な奴に過ぎない』ってね。分かるか、こんなことを言う奴は、自分の文章に一部欠点があることを認識している。認識しているにもかかわらずそれを改善しようとしないんだ。そんな怠惰な精神の持ち主が書いた物に、どうして中身があるんだ。

 特にこの場合は字が汚いということだ。確かに文筆術を身につけたり、所謂達筆な字を書いたりするには、それなりの長い修行が必要だ。しかし丁寧な字を書くことは、ただ気を付けさえすれば出来る。読者に対してその程度の気配りさえしない者は、それだけで物書きとして失格だ」

 若い男は喉の奥でグルグルと呻き声を上げる。俺は続ける。

「次に、これらのメモにはノンブルが振っていない。ノンブルが振っていないと言うことは、読者はこれらをどういう順番で読んで良いか分からないということだ。どういう順番で読んで良いか分からないと言うことは、これらのメモの集積から何を読みとって良いかが分からないと言うことだ。

 喩え話をしてみようか。『このパンは確かに高いが、美味しい』と言うのと『このパンは確かに美味しいが、高い』と言うのと。言っている内容は同じだが、読者に与える影響は逆になってしまう。前者の場合なら多くの人がパンを買うだろうが、後者の場合だと買う人は多くはないだろう。どういう順番で読者に資料を示すかと言うことは、作者が何を伝えたいかと言うことに直結する。どういう順番で読ませるかを考えていないと言うことは、何も考えていないに等しい」

「なるほど」年輩の方の男は冷静な言葉を返した。「確かに弁解の仕様は無いようだな。しかし考えようによっては、それらを整えるのは君の仕事ではないかな。我々はそのために君に報酬を払うわけだし」

「その通り。それは俺も認識している。今までのことは只、俺の仕事がどんなものか知ってもらいたくて言っただけだ。さて、本題に入ろうか。このメモの中身に関してだが。先ず確認しておきたいのだが、あなた達の教えの概略についてだ。あなた達の教えは約三百年前、教祖JNに始まる。JNには二人の高弟SPとMMがいて、SPの直弟子の系統が『普遍派』で、MMの直弟子の系統があなた達『覚醒派』であると。あなた達の教義によればそうなっている。それでいいな」

「『教義によれば』ではなく、客観的事実としてそうだ」

 若い方の男が口を挟んだ。

「分かった分かった」俺は軽く頷いた。まあ、今はまだ反論せずにおくか。どうせ後でコテンパンにしてやるのだから。「そこでこのメモなのだが、」と言いながら俺は一枚を取り上げた。「これによれば、JNの死後、弟子達が会議を開いてこれからの教団運営をどうするか話し合ったとある。その席でSPはMMにこう言った。

『MMさん、あなたは生前の師匠に常に随き従っていたから、師匠のお言葉で我々の知らないものも知っておられるでしょう。それを教えて頂けないか』

 それに応じてMMはJNから教わった瞑想法を解説しだしたが、暫く聞いた後でSPはそれを途中で遮って急に怒りだして言った。

『それは私が師匠から聞いたことと矛盾する。あなたはとんでもない嘘つきだ』

 MMは弁明しようとしたがSPは聞き入れず、結局MMは泣きながらその場を離れ、それ以降MMは教団から別行動を取るようになり、僻地に移って、そこで教祖JNの教えを広めるようになった。それが『覚醒派』である。一方MMを追放したSPは教団の実権を握り、教団の勢力を帝国内に広めていった。それが『普遍派』であると。そうだな」

「その通りだ」若い男は胸を張って言う。「その通り、我々『覚醒派』は求道的で、『普遍派』は権威主義的なのだ」

 それを醒めた目で見ながら俺は話を続ける。

「ところがだ、この『普遍派』の聖典と照らし合わせて考えると、ちょっと都合の悪いことが生じるんだ」

「矛盾して当然だろ」若い男は言う。「『普遍派』の聖典は『普遍派』にとって都合の良いように事実が改竄されているんだ。矛盾して当然だ」

「いや、俺の言いたいのは、『普遍派』の聖典と矛盾しないからこそ問題がある、と言うことなんだ」

 若い方の男は舌を抜かれたような表情になった。年輩の方が相づちを入れた。

「どういうことかな」

「その説明の前に、『普遍派』の聖典について一つ考察を加えておこう。これからの話の前提になることだから。

 『普遍派』の聖典は実時間で書かれた物ではない。つまり、JNが生きていた時代に書かれた日記を清書した物ではないということだ。なぜなら、『普遍派』の聖典にはJNに関する複数の伝記があるが、それらが微妙に食い違っているからだ。恐らく、『普遍派』の聖典が成立したのは、JNから数えて孫弟子の世代だ。JNが死んで、その直弟子達もそろそろ死に絶えてゆく頃になって、『このままではJNのお言葉が永遠に失われてしまう』と心配した孫弟子達の世代が、直弟子の世代に聞き取り調査をして書き留めた物。それが『普遍派』の聖典なのだろう。その際、聞き取り調査を受けた直弟子達の間で、微妙に記憶に違いがあった。その違いが、『普遍派』聖典の中の複数の伝記における微妙な食い違いになって現れたのではないだろうか。どうだろう、ここまでは認めてもらえるだろうか。認めてもらえないと話が先に進めないのだが」

「合理的な推論だな」年輩の男が頷いた。

「そこで本題に入るのだが、もし事実があなた方の言うように、SPがMMを教団から追放したのだとしよう。そうすれば当然、SPはMMを悪く言った筈だ。残された教団の中で、SPはMMを悪く言った筈だ。特に、SPは教祖JNの一番弟子としての地位を、MMから簒奪したのだ。当然MMを悪く言うはずだ。そうでなければ自分の地位を確保できないのだから。(そのような事例は人類の歴史を瞥見すればいくらでも集めることが出来る。)SPがMMのことを悪く言えば、当然『普遍派』教団の中で『MMは悪い人物であった』という噂が広まり、聖典成立の時までには、『MMは悪い人物である』といのが、『普遍派』教団内部での共通認識になっていたはずだ。しかるに、『普遍派』の聖典に書かれているMMはどうだ!

 例えば、教祖JNは、MMを誉めこそすれ決して叱ってはいない。『普遍派』の始祖のSPでさえ、教祖JNからは『おまえは信心が足りないのだ』とか『これだけ言っているのに、まだ分からないのか』とか、さんざん叱られているのだ。にもかかわらず、MMに関しては、教祖JNは誉めこそすれ、決して叱ってはいない。しかも、JNが処刑される場面では、MMはちゃんと刑場に赴いてJNの最後の言葉を聞いている。その間SPについてはどこにいて何をしていたのか、全く記述されていないにも関わらずだ。極めつけは、復活したJNを最初に目撃したのはMMとなっている。『普遍派』の聖典におけるJNの伝記数巻全てにおいて、JNの復活を最初に目撃したのはMMなのだ。要するに、『普遍派』の聖典においては、MMは教祖JNに次ぐ、最高の敬意を以て描かれているんだ。これは即ち、『普遍派』の聖典作者達がJNの直弟子達を取材した時に、直弟子達全てがMMに対して好意的に語ったと言うことではないのか」

 今度は、年輩の方の男も舌を抜かれたような表情になった。俺は調子に乗って話し続けた。

「SPとMMが喧嘩別れをしたなんてことは有り得ない。確かにJNの復活後暫くして、MMの名前は『普遍派』の聖典に見られなくなる。だから、そのあたりの時点でMMがSPと袂を分かったのは確かだろう。しかしそれは、あなた達が言うような喧嘩別れでは有り得ない。惜しまれての別れであったはずだ。

 これに関する俺の仮説を言ってやろうか。おそらくMMは殉教したんだ。帝国によって処刑されたんだ。おいおい、そんな意外そうな顔をするなよ。言いたいことは分かるよ。『もしMMが殉死していたならその記述が当然普遍派の聖典にあるはずだ』って言いたいんだろ。だけどそう思うなら、あんた達は落とし穴に填っているんだ。

 『普遍派』の聖典に於いては教祖JNの処刑がハイライトになっているから、『普遍派は殉死を大々的に扱うはずだ』という落とし穴に填っているんだ。実際には、『普遍派』は殉死の記述を極力避けている。

 俺の記憶が正しければ、普遍派始祖のSPも、もう一人のSPも確か帝国によって処刑されたはずだ。ところが『普遍派』聖典の記述は、この二人が処刑される直前で終わっている。また、教祖JN伝の四巻目の最後の一章。一見支離滅裂な記述に見えるこの章も、SPと、この巻の原著作者が殉死したことを暗示している物と読めば、すっと理解できる。

 要は、『普遍派』は殉死の記事を避けているんだ。ある意味当たり前だな。『教団指導者の誰々さんは立派な人でした。そして帝国によって殺されました』なんて書けば、それは『帝国は悪い存在です』と言っているのと同じ事で、帝国反逆罪の証拠を自ら残しているようなものだからな。だから『普遍派』は聖典に殉死の記述を載せるのを避けてきた。唯一の例外が、教祖JNの処刑だが、これは、これを書かなければお話が成立しないからやむを得ず記載したのだろう。ただそれなりの用心はしている。つまり、旧派の宗教指導者達の陰謀によってJNは殺されたのだというレトリックを使うことによって。こうすれば『悪いのは旧派宗教指導者達であって、実際にJNを殺した帝国も、旧派宗教指導者達に騙された被害者だ』と弁解できる。ただ、こんな綱渡りは何度もしたくはなかったのだろう。だから『普遍派』は殉死の記述は極力避けている。

 それを前提にして話を進めよう。『普遍派』の聖典にMM殉死の記述が無いからと言ってMMが殉死していないことにはならない。むしろ俺は、MMが殉死したとしか思えないんだ。JNが処刑された後、弟子達は累が自分に及ぶのを恐れて隠れて暮らしていたに違いない。そんな中、MMだけが真っ先に街頭に立って人々に訴えかけたんだ。師匠JNの名誉回復と、かつてJNの説いた正義とを。そしてやはり師のJNと同じく帝国によって処刑されたんだ。

 この事実はSP以下の弟子達にとっては衝撃的だったろう。おそらくSPはMMを、女だからと思って見下していたのではないだろうか。事もあろうに、その見下していた女が、自らの命を懸けて師匠の名誉回復を訴えたんだ。心動かされないはずはないだろう。MMの殉死を以て、SP以下の弟子達も布教活動の再開を始めた。その際、MMの勇気ある行動を称えるためにSP達が用いた隠語が『MMはJNの復活を最初に目撃した』という言葉だったんだ。

 俺は無神論者だから、一旦死んだ者が生き返るなどというお伽噺は信じない。『JNの復活をMMが最初に目撃した』という言葉の解釈として、俺はこれ以外に思いつくことが出来ない」

「おおお、お前は事実を無視しているぞ」若い男は震える声で言いながら、机の上をかき回した。そして『T書』と『Ph書』を見付けるとやっと落ち着いた。「ほらここに書いてある。JN様はMM様を特に愛しておられるし、SPはMM様を『生きるに値しない』と罵っている。JN様に愛されたMM様を、SPが嫉妬していたことの何よりの証拠ではないか」

「いいか」やれやれ、またこの頭の悪い男に基本事項の講義をしてやらねばならないのか。「人は嘘をつくこともできるし、自分がろくに知りもしないことについて想像だけでものを書くことも出来る。だから、Aと言う文献にBという事件が書かれていたからと言って、そのBが実際に在ったということにはならない。それはどんな高潔な人物が書いた文献であろうが同じ事だ。『Aと言う文献にBという事件が書いてある』という事実から確定的に言えることはただ一つ。『文献Aの作者は文献AにBという事件を記載した』ということだけだ。勿論、それだけじゃあ考察のための何の手がかりにもならないから、もう少し役に立つ形に訂正すればこういうことになる。『文献Aの作者は、文献Aに事件Bを記載する必然性があった』とな。勿論多くの場合、その『必然性』とは『事実であった』ということだろう。しかし他にもあり得る。例えば、自己顕示、自己正当化、単なる勘違い。また、よく分からない事柄について自分の世界観に合わせて適当に話を創作するという場合だってある。(この場合作者は、その創作を事実だと思い込んでいるんだが。)

 文献を読むという作業は、作者の経歴、性格、目的、周囲の状況などを考察に入れた上で、『作者が文献Aに事件Bを書いた必然性は何だろう』と考えることなんだ。単純に『文献Aに事件Bが書いてあるから事件Bもしくはそれに似た事件があっただろう』と考えることではない!

 それを前提にした上でもう一度『Ph書』の該当個所を見てみようじゃないか。これを書いたPhってどんな人物なんだ。JNの死後、命懸けで教えを広めた人物なんだろ。それぐらいJNを尊敬していた人物なんだろ。そんな人物が『JNは実は依怙贔屓をしていました』なんて書くか?そもそもJNがそんな人物ならPhは命懸けでJNを尊敬したりするか?そう考えれば当該箇所のJNの返答の部分は疑問ではなく、反語として解釈すべきじゃないのか。『私が君たち以上にMMを愛しているなどと言うことがあるだろうか。私は皆を平等に愛しているのだ。根も葉もない憶測は止めない』とね。例えば次のような状況があったんじゃないかな。MMは体がとても弱くて、時々JNが口移しで薬を与えてやらねばならぬことがあった。それを覗き見して誤解した者を、JNが叱ったとか。

 『T書』にしたって同じ事だ。お前はSPが『女は生きるに値しない』と言ったと言っているが、それならJNだって同じじゃないか。この箇所の後半部分でJNだって同じ様なことを言っている。しかし、JNの人物像がそんなものでいいのか?JNは、女性や貧者や病人などの弱者を特に愛していたんじゃないのか。とすればこの『命に値しない』を『死ぬ』の意味で解釈するわけにはいかない。ではどうするか。反対に解釈すればいい。『命に値しない』とは『神に命を捧げることに値しない』の意味、つまり、『殉死する』ということだ。SPは『MMは殉死までする必要はない』と言いたかったんだ。それに対するJNの回答は要するにこうだ。『女であっても男並の勇気があるなら殉死することはあり得るし、私はMMをそのような存在として扱う』

 さて、結論を言おうか。MMはJNの死後間もなくして殉死した。SPが彼女を追放したなんて事は有り得ない。彼女が辺境の地に行ってJNの子供を産み、JNの教えを伝えたなんてことも有り得ない。ましてや、『覚醒派』がMMの直弟子系統にあたるなんてことは、絶対有り得ない!」

 俺はこの台詞を最後まで言うことが出来なかった。なぜなら、若い男の拳が俺の顔面めがけて飛んできたからだ。俺は信じられない思いで男を見た。何故殴られなければならないかが分からなかった。救いを求めようとして年輩の男に目を転じ、そしてさらに信じられないものを見た。俺の印象では、こんな暴力沙汰を嫌うはずだと思っていたあの年輩の方の男が、若い男を制止しようともしてない。むしろけしかけるような目つきをしているのだ。

 俺が呆然としていると、再び若い男の拳が飛んできた。俺は椅子から床へと叩き付けられた。這って逃げようとすると、男の蹴りが脇腹に入った。俺は亀のように小さくなって耐えたが、男はさらに俺を蹴り付け踏みつける。やがて俺が呻き声を出す元気すらなくなった時、年輩の男の声がかかった。

「もうそれぐらいでいいだろう」

 攻撃が止んだ。しかしそれでも若い男の不満気な声が聞こえていた。

「ねえ君」年輩の男の声がすぐ頭上から聞こえてきた。すぐ傍まで歩み寄ってきたのだろう。しかし、その顔を見ようと首をひねることさえ、その時の俺には出来なかった。年輩の男の声が続く。「ねえ君、君は言ったね。『読者のことを考えて文章を書かねばならない』と。それならそのことは、君自身守ってもらわないと困るな。君は聞き手のことを考えて喋るべきだった。聞き手である我々のことを考えて喋るべきだったのだ。

 さて、本題に戻ろう。君は今二つの質問をした。『本当にMM様はSPの陰謀により追放されたのか』ということと、『本当に覚醒派はMM様の直系筋の弟子なのか』ということ。答から言えばこれら二つは既に確定した事実だ。だからこれらについて加筆修正を加えることは止めてもらおう。確かに君の言うように、『普遍派』の聖典と照らし合わせて考えてみると不都合に思われる部分もある。しかしそれは、君の方で手当しておいてくれ。何、君の明晰な頭脳を以てすればきっと可能なことだ。期待しているよ。

 さて、これからの仕事の段取りについて説明しておこう。我々は三日後に来よう。その時に清書の概略について説明してくれ。それをもう一度指導者会議に持って帰って、許諾が得られれば、最終的に君に聖典の清書を頼むことになる。それでいいね」

 「はい」も「いいえ」も言える状態ではなかった。尤も、仮に俺が言える状態にあったとしても、彼らはそれを聞き入れたりはしなかっただろう。

 二人は出ていった。

 その足音を聞きながら俺は思った。『覚醒派』はMMの直弟子筋ではない。疑われることをあれだけ嫌っているのは、直弟子筋でないことがばれるのを恐れているからだ。勿論、あの二人は意識的にそう言う意図を持って行動したわけではないだろう。しかし、『覚醒派』のいわば「血」の中に、MMの直系弟子であることを疑うことに対する嫌悪が組み込まれているのだ。その血を受け継いだ彼らは、血の命じるままに行動したに過ぎない。

 恐らく『覚醒派』は、JNの教えの長い歴史の中で、自然発生的に起こった一分派なのだろう。一時期『覚醒派』はそれなりの勢力を持っていたに違いない。しかし、『普遍派』が帝国の国教となると、とたんに苦しい立場に置かれることになった。そこで『覚醒派』は何か人目を引くような看板が必要になった。その看板こそが、『覚醒派の始祖はMMである』という仮構だったのだ。『普遍派』の聖典においてすら、教祖JNに次ぐ敬意を以て描かれているMMを自らの始祖と仮定することによって、SPを始祖とする『普遍派』に対抗しようとしたのだ。

 俺はこの時はっきりとそう悟った。が、悟ったからと言ってどうなるものでもなかった。ただ、這うようにしてベッドに上がり寝る以外に、その夜の俺は何もできなかったのだから。

 そしてそれが五日目だった。

 

 六日目の朝目覚めると、全身が痛かった。とても、机の前に座って作業が出来る状態ではなかった。そこでベッドに寝たままで『普遍派』の聖典を繰り返し読んだ。読むにつれて、JNと言う人物に興味がわいてきた。例えば、こんな事が書かれてある。JNはこう言ったそうだ。

「休日が人間の為にあるのであって、人間が休日の為にあるのではない」

 尤もなことだ。休日とは心身を休め、また次の日からの仕事に精を出すことが出来るよう英気を養うためにあるのだ。休日に苦労気苦労をして却って疲れたのでは、休日の意味がない。と、俺はそう思う。しかし俺がそう思うのは、俺が無神論者だからだ。宗教家であるJNがこう言ったのだから驚く。なぜなら、休日とは神が設定した物なのだから。

「休日が人間の為にあるのであって、人間が休日の為にあるのではない」ということは、要するに「神が人間の為に居るのであって、人間が神のために居るのではない」と言っているのに等しい。

 宗教家がこんなことを言っていいものか。宗教とはそもそも、絶対者に絶対の忠誠を誓うことから始まる物ではないのか。JNは神に対してどんな気持ちを持っていたのか?或いは彼にとって「絶対者」というのは存在しなかったのか?そもそもJNとは何者だったのだ?

 考えている内に、俺はJNに対して畏敬の念を抱かざるを得なくなった。JNの懐の広さに対して畏敬の念を抱かざるを得なくなってきた。

(JNに会って見たかったな。その一番弟子だったMMに会ってみたかったな)

 そう思いながらその日は過ぎていった。そしてその日の夕方、やっと椅子に座って作業が出来るようになったので構想を立てていると、ドアをノックする音が聞こえた。驚いた。約束の日は明日ではなかったのか。ともかく返事をすると、男が二人入ってきた。

 一人はあの若い方の男。もう一人の中年男は初めて見る顔だった。若い男は自信満々の、俺を見下すような表情をしている。一方見知らぬ男は、少しおどおどしたような表情をしている。若い男に促されて、見知らぬ男は俺の方に一歩歩みだして言った。

「あなたも『普遍派』の方ですか」

 開口一番の台詞がこれだったので、俺は舌を奪われた。「あなたも」だって?「も」とはいったい何なんだ。

 俺の表情を、中年男は誤解したようだ。

「ああ、すみません違ったのですね。あなたは初めから『覚醒派』だったのですね。いや、XX様が」と後に控えているあの若い男を指して、「ぜひあなたとお話をするようにと、仰ったので、てっきりあなたも『普遍派』から『覚醒派』に転向しようかと迷っておられる方かと思ったもので。どうもすみませんでした」

 否定の言葉を俺が言う余裕もなく、相手は言葉を継いでくる。

「ああ、私も初めから『覚醒派』を信じておれば良かった。『普遍派』から入ったので、余計な回り道をしてしまいました。『普遍派』の地区指導者までしてしまって・・・。本当に。SPがあんなに悪い男だと知っていたら、私も初めから『普遍派』なんて信じませんでした。JN様が死刑になった後で、SPがMM様をいびり出して・・・」

 相手の言葉を聞くにつれて、ますます俺の口から力が抜けてゆく。何だ、こいつの喋っていることは。これは、あの若い男のメモ書きに書かれてあったこと、そのままではないか。まるで操り人形であるかと錯覚するまでに正確に、あのメモ書きの内容を復唱してくる。俺はもう、考える力さえ抜けてゆくようだった。

 俺のこの表情の変化を、暫く喋った後でさすがに中年男も気づいたようだった。台詞を突然止めて、気詰まりな表情で尋ねてきた。

「あのー、あなた様は本当に『覚醒派』を信じておられるんですよね。そう思って話してきたんですけど。まさか・・・、『普遍派』を信じているなんでことはないですよね」

「いや」後に控えていた若い男が言った。「実はこのお方は、何も信じておられないんだ」

 若い男が言うと、中年男はあからさまな軽蔑の眼差しを俺に向けた。

「なんだ、無神論者か」

 若い男が促して、二人は部屋を出た。帰り際、若い男は勝ち誇ったような顔を見せ、そして今日のパンを俺に投げよこしてからドアを閉めた。

 暫く呆然としていたが、思考能力が戻ってくると、やっと分かった。俺の完敗だった。あの若い男の勝ち誇ったような表情も理解できた。一般信者というものは、論理のことなど何も考えていないのだ。俺は、『覚醒派』の聖典が論理的整合性を持つことを第一に考えて編集しようとしていた。しかし、そんなことは実はどうでも良かったのだ。あの、おどおどした中年男は自分を「普遍派の地区指導者であった」と言った。当然『普遍派』の聖典を何度も読んでいるはずだろう。それであれば、あの若い男が構想した「SPとMMの喧嘩別れ」の話など、ちょっと考えれば信頼できないものだと分かりそうなものだ。しかし、あの中年男はそうはしなかった。自分が聞いた話を、論理を通して検証してみようなどとはしなかった。SPとMMの喧嘩別れという刺激的な話題に目を引かれて、易々と信じ込んでしまったのだ。

 あの若い男が勝ち誇ったような表情をしていた理由が分かった。あの若い男はあの表情を通して、こう言いたかったのだ。

「どうだ、俺の下書きの通りで良かっただろう。俺の下書きの方が、貴様の論理的な文章よりももっと民衆を引きつけるのだ。おまえはただ、俺の下書きの清書だけをすればいいのだ。俺の下書きに貴様が加筆修正をするなど、烏滸がましいにも程がある」

 俺はペンを投げ捨てて、ベッドに身を横たえた。手探りで机の上のワインの瓶を取って、コップに注ぐ。

 もう物を書く気がしなくなっていた。まず、あんな者達のために何かをしようという気になれなかった。論理を全く無視した者達の聖典を書く気にはなれなかった。論理を全く無視したエピソードを易々と信じてしまう者達を勧誘するための文章を書く気にはどうしてもなれなかった。

 また、自分の馬鹿さ加減にもいい加減呆れてしまっていた。かつてOO先生から教わった講義が耳に蘇ってくる。いわく、「文章を書くときは、必ず読者のことを考えて書かねばなりません。そうでない文章は単なる自己満足です。単なる自己満足ではお金になる文章を書くことは出来ません。」またいわく、「良い文章を書くにはまず、人間の本性を知らなければなりません。人間というのは本来、自己の存在の不安定さを自覚していながら、それを認めることを嫌うものなのです。ですからこそ自己の存在確認をしたがる。つまり、自分が正義の味方であると思い込みたがるのです。そのための最も安易な方法が、誰か悪人を設定して、その悪人を最も強硬に非難することなのです。」またいわく、「人間は、自分が既に知っている事しか知ろうとしませんし、また理解することもできません。人間は、自分が既に知っている事柄を、少しだけ違った言い方で表現されると、すごく喜ぶものなのです。」

 しっかりマスターしたはずのことだったのに、すっかり忘れてしまっていた。自分の馬鹿さ加減に腹が立って、ワインを飲んで酔いつぶれようとしたが、瓶からコップへはもうワインが流れ出さなくなっていた。瓶を逆様にして振ってみると一滴だけ出てきたので、掌に受けて嘗めた。ワインの味はせず、自分の掌の味だけがした。悲しくなって泣いた。泣きながら眠ってしまった。

 眠りながら夢を見た。夢の中で俺は広場の中に立たされていた。少しの距離をおいて大勢の者達が俺を取り囲んでいる。群衆は俺に石を投げている。みんな「私には罪がないぞ」「私は罪を一つも犯していないぞ」と口々に叫びながら、俺に石を投げつけている。俺は只泣きながらそれに耐えていた。群衆の最前列には、あの『覚醒派』の若い男と年輩の男がいた。『普遍派』から転向したというあの中年男もいた。この中年男が一番激しく石を投げつけてきていた。

 二列目にはOO先生と兄弟子達、俺が指導してやった弟弟子達がいた。その後には故郷の両親や友達がいた。俺がこれまでの人生で凡そ会ったことのある全ての人が俺を取り囲んで石を投げつけていた。

「私には罪が無いぞ」「私は一つも罪を犯していないぞ」

 ふと俺は、群衆の最後尾に一人の見慣れない顔を見付けた。しかし何故だか俺は、この見慣れない男がJNであると確信した。JNは石を投げてはいなかった。投げる気がないのか、それともあの位置からでは届かないと思っているのか。しかしJNの口は動いている。やはりJNも叫んでいるのだ。しかし子細に観察してみると、JNの口の動きは他の者達とは違っていた。俺は精神を集中させて、JNの唇の動きを読んでみようとした。初めは難しかったが、台詞の一部に数字が使われていると分かると、そこを起点として解読を進めていくことが出来るようになった。そして、ついにJNが何を言っているのかが分かったとき、俺は雷電に打たれた気分になった。JNはこう言っていたのだ。

「今年は今の皇帝が即位してから二十年目に当たるんだよ」

 俺は目を覚ました。

 窓の外には新しい朝の光が満ちていた。

 俺は夢を反芻した。そうだ、今年は今の皇帝の二十年目に当たる年だ。ここには暦は無いが、それでも今年が現皇帝の二十年目であることを俺は確信した。それは動かしようのない事実として認識していた。今年は現皇帝の二十年目なのだ。ということは俺がOO先生の元を出奔してから十二年目に当たると言うことで、俺の今の年齢は三十二才という事だ。全てが分かった。

 俺は立ち上がった。やるべき事が分かったのだから。先ず机上の整理を始める。幸いなことに紙とインクはまだ使っていなかった。『覚醒派』のあの二人に、そのままの状態で返すことが出来る。これら二つに、借りたままの『普遍派』の聖典と『T書』『Ph書』を合わせて丁寧に揃えて、目に付くところに置いた。それから、パン屑を掃いて、ワインの瓶を片づけた。と、一本の瓶が重たいことに気づいた。昨晩は全部飲みきったものと思っていたが、瓶を間違えていたようだ。中身を少しコップに注いで飲んでみた。とたんに、頭がすーっと冴えてきたので驚いた。ワインを飲んで頭が冴えるなど、三十二年間生きてきて初めての経験だった。

 机上の整理が終わると、部屋の隅に行って頭陀袋を開ける。中から、OO先生の元で修行していた頃の講義録を取り出して、炉の中に放り込んで火を付けた。もう必要ない物なのだ。必要なことは全て頭に入っている。

 講義録が完全に灰になったのを確かめてから頭陀袋だけを持って部屋を出ようとして、ふと立ち止まった。やはり、あの『覚醒派』の二人に対して書き置きは残しておくべきだろう。さてしかし、何に書こうか。二人から貰った紙とインクは使いたくなかった。そこで、頭陀袋の中にあった着替えのシャツと、飲み残しのワインを使うことにした。今度の仕事はこちらの方から断ることにしたい旨や、その理由、そしてともあれこの一週間パンを届けてくれたことに対する感謝の気持ち。そのようなことを簡潔な文章で綴った。出来上がりを読んでみると、我ながら名文だった。これを、机の上の見付けやすい場所に置くと、後はもう振り返らずに部屋を出た。

 一歩地上に出ると、光の明るさに思わず目眩がした。涼しい風に慰められながら徐々に感覚を合わせていった。物の影が見える。人々が見える。建物が見える。そして空が見えた。空は限りなく高く、そして青かった。

 風の音や鳥の鳴き声や人々の雑踏の音が聞こえる中を俺は歩いていった。収穫を感謝する歌を誰かが歌っているのが聞こえる。

 その歌声を聞きながら、俺は書き置きに残した文章を思い出していた。それにはこう書いたのだった。

「この一週間、パンとワインをありがとうございました。でも今度は魚が食べたくなったので旅に出ます」

              終わり

******************** 言うまでもないことですが、本編はフィクションであり、現在及び過去の実在の人物や団体とは何ら関係がありません。