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暇人の算術

   聞くとことによると明治時代、「俳句・短歌のような短い形式では、早晩すべての可能性が詠み尽くされてしまうだろう」と、一部で主張されていたそうだ。それでは、俳句のすべての可能性を詠み尽くすのにどれだけの時間がかかるかを計算してみよう。
 まず、日本語にどれだけの音があるか。よく「いろは四十八文字」とか「五十音」とか言われているが、実際には日本語には、濁音、半濁音、拗音などもあるし、外来語の影響で日本語の音が増える可能性もある。(例えば我々の次の世代ではLとRを分けて発音しているかもしれない。)そこで、大雑把ではあるが、「日本語には百の音がある」としてみよう。すると、俳句とは、この百種類ある音を十七個並べるわけだから、その組み合わせの数は数学の法則にしたがって、十の三十四乗通りあることになる。「十の三十四乗通り」と言われてもピンと来ないかもしれないが、これは要するに、日本人一億人全てが毎年千句づつ作句して、しかもそれらの間に全く重複がないとしても、全ての可能性を詠み尽くすのに、一兆年のさらに一千億倍の年月がかかることになる。とても「早晩詠み尽くされる」どころではない。
 ただ、「十の三十四乗」というのは単に、十七文字を並べる可能性について計算したもので、「あああああ あああああああ あああああ」や「あいうえお かきくけこさし すせそたち」のようなものも一句として数えている。これは明らかに不当であり、これらを排除しなければならない。そこで問題は、「このような無作為の十七文字の組み合わせが意味のある日本語になる可能性は一体何分の一か。またさらに、それが鑑賞に値する俳句になる可能性は何分の一か」ということになる。これはもう当て推量で言うしかないが、私の勘では、一兆分の一のさらに一億分の一ぐらいではないだろうか。仮にそうであったとしたら、鑑賞に値する俳句をすべて詠み尽くすには、日本人すべてが一年間に一千句を作句してしかもそれらの間に全く重複が無いとしても、千年かかることになる。これはもう、我々が生きている間は余裕で大丈夫、詠み尽くされることはないということになる。
 尤も、反論はありうる。「無作為に並べた十七文字が鑑賞に堪える俳句になる可能性は、一兆分の一のさらに一億分の一だ」という私の想定は何の根拠もないのだから。ひょっとしたら、その確率はもっと低いのかも知れない。ひょっとしたらそれは「一兆分の一のさらに一兆分の一」ぐらいの可能性しかないのかも知れない。それを確証するためには実験してみるしかない。つまり、無作為に並べた十七文字を一兆のさらに百億倍ほど用意して、その中に鑑賞に値しする俳句が何個あるかを数える。もし、百個ほどあったら、私の当初の想定が正しいと証明されることになる。
 が、私にはそんな実験をする気力はとてもないし、実験しなくても私の場合は不誠実の誹りを受けずに済むだろう。なぜなら、私は「十七文字というのは実際問題としては、人間にとって無限の可能性があるのだ」という立場をとっているのだから。「そのような実験はあまりにも大変であって、実行不可能だ」と言ったとしても、なんら誠実さを疑われることはない。しかし「十七文字はあまりにも短くて、早晩可能性が尽きてしまうだろう」などとのたまう方は、自らの主張の首尾一貫性のためにも、是非ともこの実験を行ってみるべきだろう。
 ちなみに、その実験がどれほど時間がかかるかを計算してみよう。仮に一万人の研究者が、不眠不休で一秒間に一個の割合でチェックしていっても、一兆の百億倍の数をチェックし尽くすのに、三百十七億年以上かかることになる。彼らの身の上に神のご加護のあらんことを祈るばかりだ。
 そしてさらに、そのような実験の結果、俳句として鑑賞に堪えうる十七文字の組み合わせの数が、極めて少ないことが判明し、すべての可能性を詠み尽くすことが早晩訪れることが判明したとしても、それは「俳句がつまらない」ことの何の証明にもならない。なぜなら(常識で考えてみれば分かるが)、考え得る俳句の数というのは、一人の人間が記憶できる数を遙かに超えるものなのだから。
 例えば私がある俳句を思いついたとしよう。仮にそれが今までに誰かさんが詠んだものであったとしても、私にとっては間違いなく「新しい」俳句なのだ。その俳句を作ることによって、私は自分の心に新しい領域を開くことができる。そしてその句が嘗て誰かさんが詠んだ句だと聞けば、「ああ、私以外にもそのように感じる人が居たのか」と、その過去の誰かさんと心を通わせることができる。そのような「自分の心に新しい領域を作ること」「過去の人と心を通わせること」こそが、俳句を作ることの目的なのだ。(もちろん、最初にその句を詠んだ人にこそ「発見」の栄誉が与えられるのは当然のこととして。)
 我々は何も、「先に言った者勝ち」の競争をしているのではない。