昭和18年に私が生まれた頃は折原村でしたが12歳の時に寄居町と合併しました。 坂皆戸は字(あざ)です。丁寧な人は「さかがいと」ですが、普通は「さけと」と呼びます。「さっけえーと」と呼ぶ人もいます。戸数は18です。
小学校は折原村立折原小学校に入学しました。卒業は寄居町立折原小学校でした。中学校は寄居町立折原中学校に入学し折原中学校を卒業しました。私たちが卒業すると折原中学校は隣の鉢形中学校と合併し城南中学校となりました。折原中学校最後の卒業生です。折原中学校の敷地は隣りに在った折原小学校が吸収し現在は折原小学校の校舎が建っています。
家では農業をしてますが、農業はあまり得意ではありません。夏はクーラーの、冬はストーブの子守をして気楽に暮らしてます。農業は疲れない程度に楽しんでます。夏に畑で仕事をしていると通る人に「暑いから無理しないでね」と言われ、ついついクーラーのところへ行ってしまいます。汗まみれ、泥まみれは遠い過去の話になってしまいました。これも農機具君たちのおかげです。周りの谷が深いのでイノシシ、鹿は現れませんでしたが平成28年の夏頃より姿を見せるようになりました。畑に足跡があり被害も出ています。対策を考えないといけません。
薪ストーブの薪作りを冬にやっています。自分では木を切り倒さず、他人が切ったのを貰い薪にしてます。2年乾燥させて3年目に燃やすようにしています。近くの丸山というところに山があります。最近、隣から孟宗竹が侵入を始めました。1月になると竹を切り倒して畑で使うよう数本持ち帰ります。竹は地面から1mくらいの所で伐ると数年で枯れますし、作業も楽です。
商店街や駅まで歩くと40分くらいかかるので車を使っている人が多いです。寄居皆野有料道路が開通して近くに信号ができました。「折原に信号ができたんだって」としばらく話題になりました。もちろん押しボタン式です。有料道路の取り付け道路の工事にうちの土地も9坪掛かり売却しました。有料道路の開通式には招待されましたがいけませんでした。バイパスの抜け道にされているようで春秋の観光シーズンには車が渋滞したりします。以前は行き止まりで用事のない人は通らなかったですが、最近はダンプカーや観光バスも見かけるようになりました。でも坂皆戸506は道路から入っているので静かです。
ここの土地の自慢は絶対に洪水に遭わないことです。荒川は20m位低いところを流れてます。板東沢も同じようなものです。家の西側は切り立った崖です。家の庭を1mくらい掘ると砂利がでてその下は岩盤です。従って井戸はありません。水道になる前は桶を担いで20mくらい下の川に水くみに行くのが子供たちの日課でした。水くみ場には夏涼しく冬暖かいきれいな水が湧いてました。
下が岩盤のせいか地震には強いです。東日本大震災の時も初めて大きい地震だと思いました。でも物は落ちませんでした。
令和2年はコロナウイルスで大変な騒ぎでした。寄居町の感染者は10名でしたが坂皆戸からは感染者は出ていません。私は農作業の時はマスクをしませんが外出の時はしています。早く収束して欲しいです。
平成18年1月1日よりカウンターを付けました。カウンタの数字を見るのが楽しみで自分で増やしそうです。