身の回りの話
ヤマトイモの被害
ヤマトイモを掘ってみました。最初は順調でした。
直ぐに異変に気が付きました。
土が芋から離れません。
家に持ち帰って水道で洗いました。
芋がこぶだらけでびっくりしました。根コブ線虫という名前が浮かびました。悪いのは燃えるゴミで捨てました。原因は分かりません。対策はあるようですが、やる気がなくなりました。(令和5年10月29日)
秩父経由して山梨県へ
気候が良くなってきたので紅葉には少し早いですが秩父から山梨県へ車で出かけました。
秩父の最奥に滝沢ダムがあります。
紅葉はまだでした。
ダムの手前にループ橋がありました。
埼玉県と山梨県の県境は雁坂トンネルの中にありました。トンネルを抜けて少し行くと広瀬湖がありました。
ロックヒルダム湖でした。地図では西沢渓谷が直ぐ近くでした。勝沼の近くで葡萄を買っ帰ってきました。片道3時間くらいでしたが出発時間が遅かったという感想ででした。紅葉は2週間くらいではじまりそうです。(令和5年9月28日)
コンニャクの実
コンニャクの花が受粉したようでコンニャクの実が出来ました。私も始めてみました。
枯れ始めたので引き抜きました。
実が沢山出来てました。
種を取り出しました。大きな実には種が2つ入ってました。
種を洗って乾燥し春まで保管します。
春になったら畑に蒔いてみようと思います。(令和5年8月20日)
妙義神社
お天気がよいので群馬県の方へ出かけました。妙義山はどうかと思い足を向けました。途中の富岡の周辺で明太パークに寄り明太子山盛りの昼食を食べました。妙義山の麓までは道路が空いてました。
明太パークです。
妙義神社駐車場の桜です。
妙義神社本殿です。
参道です。
本殿までは坂道でした。桜は見頃でした。(令和5年4月4日)
近所に花見
家から車で10分くらいであまり行かないところに花見に行きました。寄居町の北西のハズレにある円良田湖(つぶらたこ)に行きました。
桜は少なかったです。
人が少なく静かでした。
上流の方を眺めてみました。秋の方が良さそうでした。
場所を変えて山の方へ行きました。
老人ホームの前にある山に桜が沢山植わっています。谷を挟んだ道路から眺めました。寺山さくらという看板がありました。
帰りに運動公園に寄ってみました。
桜は咲いていましたが入れませんでした。
公園事務所の桜がきれいでした。後ろの山はゴルゴ松本が命と呼んでました。(命という字に見えなくもありません) (令和5年4月2日)
ネコ
家の周りにはネコが沢山います。畑もトラクターで耕耘したあとは直ぐにネコの足跡だらけで糞をして土をかけた後があちこちに見えるのでトラクターは年に1度くらいしかかけなくなりました。毎日10匹以上は庭を横切っていきます。裏の2軒で合計して30匹くらい(飼って?)いるようです。夜は外暮らしであちこちの大きな木の回りがねぐらのようです。朝の7時過ぎに餌を食べにうちの庭を横切っていきます。近所の人達は気にしないようで、私が追い飛ばしているくらいです。アライグマの罠にネコがかかると罠から出してくれとお願いされます。罠も猫の餌やりをしているようなのでお休みです。アライグマ、狸、アナグマなどが同じ餌鉢で食事をするようで動物の病気がうつるのか知りませんが寿命は短いようです。
裏の家から様子をうかがうネコです。
銀木犀酒
銀木犀が咲いて良い香りが漂っています。花を摘んで銀木犀酒を作ってみようと思います。
材料です。ホワイトリカーの半分くらい花を摘みました。
つけ込んで3日目色が変わりました。10日くらいで花を取り出す予定です。(令和4年10月2日)
畑の草の花
畑の草刈りが出来ないので草が伸び花を咲かせています。花の紹介です。
アメリカふうろです。
ハルジョオンです。
カモミールです。
キツネアザミです。
紫カタバミです。
(令和4年5月15日)
山仕事続き
落ち葉を入れる床を新しく作りました。落ち葉と鶏糞を交互に積み重ね踏み固めて水を掛けました。
落ち葉が多かったので3個出来そうです。
切った木は薪にするため家に運びました。 笹は草刈り機で刈り倒しました。とても見通しが良くなりました。
関電工が電柱をたてて電線を引くため、道路にはみ出している木の枝を切らせてほしいということなのでそれが終わったら続きをします。根元から切って貰いたいですが倒伐はしないようです。(令和4年3月6日)
山仕事
2週間くらい前、山に入ったら孟宗竹が5本ぐらい生えていました。これを切って片づけたのが切っ掛けで山の仕事を始めました。 落ち葉を掃き集めました。
集めた落ち葉を袋に入れて持ち帰ります。
落ち葉を掃いた後には春蘭がありました。花はまだです。
持ち帰った落ち葉は堆肥にしてサツマイモの苗を育てるのに使用します。笹を草刈り機で刈って、道路に近い木を切ってお終いです。(令和4年2月20日)
月食
月食がありましたので約30分おきに写真を撮りました。
最初は雲があり見られませんでしたが最後の方はきれいでした。(令和3年11月28日)
榛名山
緊急事態宣言も終わりコロナの感染者も減ってきたので榛名山に行ってみました。コースは水沢観音から伊香保温泉を通っていくことにしました。昼食に水沢うどんを食べ水沢観音に行きました。あまり人はいませんでした。 観音堂と六角堂の写真を撮りました。
伊香保温泉では階段の先には何があるのか登ってみました。365段の階段を上ると神社がありました。 榛名山は山を登るのに連れて霧が濃くなり榛名湖迄行きましたが霧が濃くて車で湖の側に行くのが怖くなり逃げ帰ってきました。紅葉を期待していましたが湖に落ちなくって良かったという所でした。(令和3年10月31日)
つる草は自分の首を絞めるのか
周りの草が伸びてどうなったか分かりませんでした。(10月31日)
畑は雑草が沢山生え始めました。家の周りも草の緑に囲まれております。つる草が伸び始めると処理がやっかいです。つる草をクリスマスのリースのように丸めてどうなるか観察を始めました。(令和3年5月16日)
金尾山
寄居町の一番秩父寄りに金尾山があります。標高はあまり高くなく10分くらいで上れます。ツツジの木が沢山あります。ツツジを見に行ってみました。頂上からは荒川に架かる橋、麓を走る秩父鉄道なども見え満足して帰ってきました。 (令和3年4月18日)
林業試験場跡地
鉢形城跡の一部に林業試験場がありました。現在は移転して残された草木が春に花を付けます。
現在咲いている花を紹介します。
カタクリは北向きの斜面に咲いています。
城の本丸に近い所で咲いています。とても目立ちます。
扇桜が氏邦桜に改名されました。江戸彼岸桜でソメイヨシノより少し早く咲きます。今年はコロナでライトアップはありません。(令和3年3月21日)
雀宮公園と玉淀川原
寄居駅の南、荒川の絶壁の上の雀宮公園が整備され玉淀川原に下りられるようになりました。静かな日があったら行こうと思ってました。立春の日に行くことが出来ました。 橋を挟んで鉢形城跡の絶壁が見えます。
橋の下をくぐり玉淀川原に下りられるようになりました。 川原ではキャンプをしている人がおりました。(令和3年2月7日)
今年の予定
町で駅の南口の整備をやっています。今年は町の変化なども紹介しようと思います。(令和3年1月10日)
カマキリとスズメ蜂
11月13日スズメ蜂が山茶花の蜜を吸いにきてカマキリに捕まりました。
蜂は身体を丸めてカマキリを刺そうとしています。
カマキリは蜂の首を攻撃しています。
蜂は息絶えて下に落とされました。長い戦いでした。(令和2年11月15日)
八ツ場ダムとチャツボミ苔公園
月曜日、朝起きると良い天気でしたので八ツ場ダムに行って見ることにしました。着いたのが十二時頃で混雑で駐車できませんでした。予定を変更して草津温泉の近くのチャツボミ苔公園に行きました。真っ盛りの紅葉と緑のチャツボミ苔がとてもきれいでした。
帰りに八ツ場ダムの所を通ると駐車場も大分空いていたので寄ってみました。
ダムの下では工事をしていました。(令和2年11月1日)
秋の雲
秋の夕方になると色々な形の雲が見られます。
雲の中から巨大な手を出しているようなものもあります。
まるで山火事のようなときもあります。
入道雲もあります。
(令和2年9月20日)
畑の虫たち
黄腹ゴマダラひとりです。
ながこがねという蜘蛛です。
ナナフシです。首にゴミが絡まっています。
にいにい蝉です。久しぶりに見ました。
ウドンゲです。くさかげろうの卵とか。
(令和2年8月9日)
レンズの続き
名前が分かりません。羽がまだ透けています。
hyposidra talaca。訳が分かりません。尺取り虫(?)。
名前が分かりません。刺されると痛そうな毛虫ですね。
オオ白紋セセリだそうです。(令和2年7月12日)
レンズ
スマートフォンにレンズというアプリが付いてました。レンズを通してみたものが検索できます。
梅雨時期は色々な虫が畑や家の周りにいます。面白そうなのを紹介致します。
アカスジカメムシです。イタリアンパセリが好きそうです。
ゴマダラカミキリムシです。
ハエトリ蜘蛛です。
白点ハナムグリです。人参の花に潜っていました。
カササギ蛾です。サツマイモの苗を植に行こうとしたら苗から軽トラの荷台に落ちました。
黄色トラカミキリムシです。
前赤スカシノメイガの幼虫です。オリーブの葉を食べます。
セスジスズメの幼虫です。里芋の葉をモリモリ食べます。
白ホソオビ黒ナミシャク蛾です。アジサイの葉に止まっていました。幼虫は尺取り虫です。 (令和2年6月28日)
お花見
近所にお花見に行きました。最初は丸山です。家から歩いて10分くらいです。満開でしたが私だけでした。
次は丸山から徒歩10分くらいの寺山です。きれいに咲いてましたが、誰もいませんでした。
さらに、車で10分くらいの東秩父村の虎山です。満開でした。人は10人くらいいました。
お花見で人がいないと何か変な気がします。数日後赤城南面桜を見に行きました。新型コロナの影響で予想どおりガラガラでした。花は満開でした。
駐車場のしだれ桜がきれいでした。ソメイヨシノはお天気の関係でまあまあでした。
帰りに大間々によって帰ってきました。(令和2年4月5日)
新型コロナウイルス
コロナウイルスどうなるのでしょう。同窓会は延期になりました。囲碁は暫く中止です。町のあちこちを見て回りました。川の博物館は閉館で人を見かけませんでした。
コロナウイルスの報道を見ると感染した人の数はわかりますが、回復して退院する人の数はさっぱり分かりません。回復する人が感染する人の数を上回る日が早く来て欲しいですね。(令和2年3月8日)
御射鹿池(みしゃがいけ)
紅葉を見に長野県に行きました。東山魁夷が描いた「緑響く」で有名になりコマーシャルでも流された御射鹿池に行きました。紅葉は終わっていて神秘的な雰囲気も感じられず、時期を間違えました。
天気が良くて途中の浅間山、白樺湖から蓼科山がきれいに見えて満足しました。浅間山は近くで見るより関東平野から見た方が標高が高い気がしました。 (令和元年12月1日)
台風の様子
台風19号の様子を紹介します。午後3時頃の畑の様子です。 畑は水がかぶっています。この後夜の9時頃まで降りました。翌朝は水が引いてました。私が寝ている間に風が吹いて蒸発しました。
西の川の合流点は荒川の水が逆流し流れたり押し返されたりしていました。5m位は増水したようです。 (令和元年10月20日)
イノシシ対策
イノシシがよく来ます。秋に食べるように玉蜀黍を作りました。4方に竹の杭を立てて2段に針金を針金にからめて30cm間隔で竹を立てました。 警戒をしてか玉蜀黍は無傷です。近くの栗の木の下にはよく来ているようです。来年は落花生、サツマイモにも試してみようと思います。
カラスウリ
秋には赤い実を付けるカラスウリですが、今の時期は夜に白い花を咲かせます。夕方から朝までの変化を紹介致します。夕方に開き始めます。少し暗くなると全開になります。朝になるとしぼみ始めます。 一つの花が咲くのは一夜だけですが数が多いので長い間見られます。
(令和元年8月11日)
赤城山
暑いので赤城山に涼みに行きました。レンゲツツジが見頃でした。赤城神社を参拝し、大沼から、覚満淵を散策しました。お天気が怪しくなってきたので帰ってきました。何年ぶりかでしたが、季節により感じが大分違うと思いました。充分楽しめました。(令和元年6月30日)
梅仕事
今年は梅が不作でした。全部収穫して測ってみたら40kgでした。毎年150kg〜200kgくらいはあるのですが原因は分かりません。1kgは梅酒にしました。39kgは梅干しにしました。二日間水につけアク抜きして水気を切ります。桶に入れ塩をふってつけ込みます。塩は梅の重さの16%入れました。 重しをして翌日から毎朝桶を揺すって水分が出て梅が浸るまで続けます。これをしないとカビが生えるおそれがあります。10日くらい続けます。その後赤紫蘇を塩もみして加えます。これで1段落です。梅雨が明け晴天が続く頃天日干しします。(令和元年6月16日)
山椒仕事
神社の東に草刈りに行ったら山椒の実が沢山なっていました。実の中が白い状態で実ざんしょう作りに最適の状態でした。笊を持っていって沢山もいできました。家に帰り枝を少し付けて実を鋏で切り離し、たっぷりの熱湯で1分間かき混ぜながら茹でます。湯を切って冷水に晒し、時々水換えをして1時間晒し水を切ってパックに入れ冷凍保存しました。1年くらいは大丈夫です。気が向いたらチリメン山椒を作ります。この作業で大変なのは実を切り離すことです。2時間以上かかりました。(令和元年6月2日)
国立武蔵丘陵森林公園
季節がさわやかになって花の便りも聞こえてきます。天候に誘われ森林公園に行ってみました。
色々な花が咲いていましたので紹介します。チューリップ、クリスマスローズ、ネモフィラなどが盛りでした。平日だったので人は多くなくのんびり出来ました。(平成31年4月7日)
真壁のひな祭り
茨城県桜川市真壁町のひな祭りに行ってみました。町並みは登録有形文化財の家が次々と有り雰囲気が良かったです。古い雛飾りも沢山あり、それぞれの家で少しずつ違い面白かったです。茨城は坂が少ない。農業が盛んなのも分かります。(平成31年3月10日)
コンニャクパーク
久しぶりに出かけました。群馬県甘楽町のコンニャクパークに行ってみました。富岡製糸が近いです。最近出来たようで役場の隣でした。工場見学をして、無料バイキングでコンニャク料理を食べました。製造工場には数人で販売スペースには従業員が沢山いました。コンピューターに仕事を奪われるということでしょう。 一言で言うと清潔な工場でした。(平成31年2月10日)
大王松の剪定
大王松が大きくなったので植木屋さんを頼んで剪定しました。以前途中で芯を止めたらそこから3本に別れ大きくなりました。木の勢いがすごいので3本のうち2本を切って貰いました。8mの梯子を掛け枝を切り落とし作業しやすいようにしながらなので3日間かかりました。ビフォー、アフターの写真を載せておきます。 切った枝は門松に利用しました。近所の人にもあげ喜ばれました。日当たりがとても良くなりました。(平成30年12月30日)
円良田湖
つぶらたこと読みます。 寄居町と美里町の境界当たりにある溜め池の大きいものといった感じです。釣りの好きな人の間では有名でしょう。休日にはへらブナ釣りの人でにぎわいます。五百羅漢の少林寺に行こうとして道を間違えて山の中をぐるぐるしていたら円良田湖にでました。紅葉がきれいでした。(平成30年12月2日)
消えた言葉
少し前の話ですがNHKの朝ドラ「はんぶん青い」の中で ”けなるい”という言葉が岐阜弁と紹介されました。私が子供の頃は周りで普通に使われていて標準語と思ってました。”うらやましい”と言う意味で使ってました。最近使う人がいなくなり消えたと思っていたら岐阜弁だったとはびっくりでした。
やはり余り聞かなくなった言葉に”なるい”があります。”ゆるい”、”緩慢”の意味で使ってました。
全く消えたと思われるのが”じんじく”です。”にあっている”、”釣り合いが取れている”というような意味です。”帽子がじんじくしているね”とか言いました。(平成30年11月4日)
柿の木
10年くらい前に私より古い柿の木が枯れました。枯れる前年に枝を沢山だし、根からも芽を出しました。翌年枯れましたが根からでた1本が枯れずに残りました。毎年木の回りの草や蔓をとり大切にしてきました。大きくなって昨年少し実を付けましたが食べる前に落ちました。今年は沢山実を付けています。 子供の頃よく実を食べた木が復活してとてもうれしいです。(平成30年9月23日)
後期高齢者
後期高齢者になりました。敬老会の案内が来ました。保険証も後期高齢者医療被保険者証が送られてきました。タニタの体組成計に乗ると体内年齢が60才になりました。普段は忘れています。
運転免許更新
運転免許証の更新に警察署に行きました。猛暑の日の午後2時家を出ました。警察署に着いたら更新の人は私だけでした。免許証と講習修了証を出して下さい。書類に記入して下さい。目の検査をします。左目です。次右です。両目です。書類に印紙を貼って提出して下さい。写真を撮ります。免許証が出来るまで待って下さい。免許証が出来ました。間違いはありませんね。今回もゴールド免許おめでとうございます。ありがとうございます。お世話になりました。で終わりました。時間は10分くらいでした。こんなに早くできたのは初めてでした。暑くて空いていたのが良かったようです。帰りに町議会議員補欠選挙の期日前投票をしてきました。こちらも空いていました。3時前に家に帰りました。(平成30年7月29日)
高齢者講習
高齢者講習の予約をするため、自動車学校の予約の混み具合をネットで調べました。早い所で1週間、遅いところで3ヶ月待ちでした。本庄市の自動車学校に予約をお願いすると3日後に受けられました。家から車で30分くらいかかりました。4名が一緒に受講しました。私以外は女性で一人は70才でした。教室で講義を受けて目の検査、視力、視野範囲、動体視力、明るいところから暗いところに入って何秒くらいで見えるようになるかなどでした。2人ずつに別れ運転実習となりました。受講生が運転する車に乗ってコースをまわりました。高齢になると問題があるなあと思いました。自分も若い人を乗せるとイライラさせるのではないでしょうか。しかし、軽トラで畑に行くくらいならまだまだ続けられそうです。認知機能テスト、高齢者講習と自分で予想していたよりも簡単に終わり、警察署で更新するだけになりました。(平成30年7月1日)
認知機能検査
運転免許証の更新の年齢になりました。75才になるので認知機能検査が必要になります。運転免許センターに電話をして受験会場と日時の予約をします。電話が非常に混雑します。6月6日に51回ダイヤルしてやっと繋がりました。翌日、寄居警察署で午前9時30分から受験をしました。一緒に受験した人は7名でした。最初は今日は何年、何月、何日、何曜日で今は何時何分頃ですかという時間の見当でした。次は16個のイラストを見せられ、それを覚え、数字が書かれた一覧表から指定された数字を斜線で消すという作業をしたのち、16個のイラストの名前を書くテストです。最後は時計の絵を描き、指定された時刻の針を書くという問題でした。試験時間は30分程度で終了後採点して結果通知書を渡されます。結果は49点未満、76点未満、76点以上に分けられます。76点以上でないと高齢者講習の内容と手数料が違ってきます。一緒に受けた人は全員76点以上ということでした。次は高齢者講習の予約です。混み合いますので早く自動車教習所に予約して下さい。で解散となりました。高齢者になると面倒が増えますね。(平成30年6月17日)
小数と分数 (続きです)
循環小数0.333..を分数に直してみます。0.333..に(10−1)/(10−1)をかけます。分母は9で、分子は3.333..ー0.333..=3となります。0.333..は3/9となります。0.999..に同じ事をすると9/9となり1となります。整数を循環小数で表すと、1.000..
と0.999..のように2通りの表し方があるようです。いままで考えてみませんでした。(平成30年4月22日)
小数と分数
中学校の補充教室、今回はうまくいった気がします。練習問題をやって貰ってますが、入試の問題に3題的中しました。20問中3問ですので100点満点で15点の貢献をした気がしています。
小数と分数ですが1/3を小数にすると0.33333... と循環小数になります。これに3をかけると0.99999...となります。一方、1/3に3をかけると1になります。整数には循環小数で別の表し方があると言うことでしょうか。どう説明したら良いか困っています。(平成30年4月8日)
スーパームーン
新しい年を迎えて直ぐにスーパームーンが見られました。1月2日の早朝最も月が地球に近づくということでしたが、1日の夜に見ました。暮れから正月にかけて空気が澄んでいてとてもきれいに見えました。 スーパームーンを見たとき星座を眺めるようになり、毎晩8時30分頃外に出てオリオン座を眺めるようになりました。寒いので長くは外にいられませんが、あの光は何年前に星を出発したのだろうかとか考えて見ています。(平成30年1月14日)
神社の氏子総代も3年の任期が10月に終わります。「神社の話」も「身の回りの話」に変更して思いついたことを適当に書いてみようと思います。(平成29年1月1日)
稲荷神社
全国の神社で分社数の多いのは伏見稲荷大社32、000,八幡宮25、000、神宮18、000、天満宮10,441という調査がある。(1976年岡田米夫氏の調査)10、000社を超えるのはこの4社で他に比べ特に多い。伏見稲荷について「山城国風土記」に秦伊侶具[はたのいろぐ]が餅を的に弓を射ると、餅が白鳥になり山の峰に飛んで、稲が生育した。と伝えられています。稲がなったので稲荷と言うことでしょう。稲荷神社の信仰は稲作、穀物との関係が深い。倉稲魂命[うかのみたま]、保食神[うけもちのかみ]、御食津神[みけつかみ]などを祭神として全国で祭っています。初午との関係は伏見稲荷の祭神が稲荷山に降臨したのが和銅4年2月11日の初午の日と伝えられていますがどうなのでしょうか。(平成28年5月1日)
諏訪大社
今年は申年で、諏訪大社で式年造営御柱大祭をやっています。祭神の建御名方神[たけみなかたのかみ]は大国主神の二男の神様で国譲りに反対しタケミカズチに攻められ諏訪湖で服従しました。上社と下社があり上社は本宮、前宮があり、下社には春宮、秋宮があります。上社には建御名方神と妃の八坂刀売神[やさかとめのかみ]が祭られ、下社にはさらに兄の事代主神[ことしろぬしのかみ]も祭られています。諏訪大社には本殿はなく上社は山、下社は神木を神体としています。下社の祭神は前半は春宮、後半は秋宮に居ると言われ、厳寒期に諏訪湖に生じる氷の裂け目は明神渡御[おみわたり]と言われています。信濃の国一宮として崇敬され全国に分社が広まりました。上下両社には大祝[おおほうり]が置かれ児童が当てられました。神は幼い子供を依代とする信仰です。上社大祝の諏訪氏は祭神の末裔と言われています。(平成28年4月17日)
八幡神社
八幡神社は大分県の宇佐神宮から始まります。第29代欽明天皇の32年現在の宇佐神宮の菱形池の辺りに神が現れ「我は誉田天皇[ほむたのすめらみこと]広幡八幡麻呂なり」と告げました。これを祭ったのが宇佐神宮の始まりです。誉田天皇は第15代応神天皇です。八幡神は東大寺の大仏建立では上洛し多大の神功があり東大寺の守護神となり、八幡大菩薩の称号を賜りました。神仏習合の形で信仰が広まりました。弓削道鏡事件では宇佐の託宣が重要な役割を果たし、国家鎮護の神として朝廷からも篤く信仰され「宇佐使」と称する勅使がしばしば発遣されました。今日でも10年に1度勅使の参向が例になっています。石清水八幡もここから八幡神を勧請し、さらに石清水から源頼朝が鎌倉の鶴岡八幡宮に八幡神を勧請しました。全国の八幡神社は宇佐神宮から始まっています。
応神天皇は第12代景行天皇の皇子日本武尊の孫です。父は仲哀天皇、母は神功皇后です。仲哀天皇は神を信じず神の怒りにふれなくなりました。神功皇后は仲哀天皇の死後応神天皇を懐妊したまま新羅を征服しました。子は仁徳天皇です。若宮八幡神社は仁徳天皇を祭った神社です。(平成28年4月3日)
神宮
伊勢神宮は正式には神宮です。神宮の成立について述べます。大国主大神に国を譲られて、天照大神[あまてらすおおみかみ]の孫のニニギの命が天上界から降臨することになります。この時天照大神は手に宝鏡を持って「我が子が此の宝鏡をみるのに、丁度私を見るようにすべきである。共に床を同じくし、部屋をひとつにして、慎み祭る鏡とせよ」と。時は移り第10代の崇神天皇[すじんてんのう]の時代になり神の勢いに畏れ[おそれ]共に住むには不安ということで天照大神を豊鍬入姫命[とよすきいりひめのみこと]に託し、大和の笠縫邑[かさぬいむら]に祭りました。次の第11代垂仁天皇[すいにんてんのう]の25年3月10日天照大神を豊鍬入姫命からはなし自分の娘の倭姫命[やまとひめのみこと]に託されました。倭姫命は大神の鎮座する所を探し宇陀から近江の国、更に美濃から伊勢の国に至ります。この時天照大神は倭姫命に教えて言われるに「伊勢の国はしきりに波の打ち寄せる美しい国である。この国に居りたいと思う」そこで大神のことばのままに祠を伊勢の国に立てられました。そして斎王[さいおう]のこもる宮を五十鈴川のほとりに立てました。以上のようなことが日本書紀に書かれています。(平成28年3月20日)
出雲大社
祭神は大国主大神です。葦原中国[あしはらのなかつくに]を平定した神で後に国土を天孫に譲り自分は冥界の神になります。ここのいきさつは省略致します。このことを喜んだ天照大神は大国主大神のために多芸志[たぎし]の小汀[おばま]に天日隅宮[あめのひすみのみや]という広大な宮殿を建て次男の天穂日命[あめのほひのみこと]に祭祀を命じました。これが出雲大社の起源とされています。天穂日命の子孫が出雲国造[いずもこくそう]となり代々仕えています。千家、北島両国造家がその子孫です。南北朝時代より奇数月千家、偶数月北島が交代で祭祀に当たってましたが明治以降は千家家が奉祀しています。(平成28年3月6日)
明治時代の社格制度
明治政府による神社の格につての話です。
神社の格を官社と諸社にわけました。官社には官幣の大中小社、国弊の大中小社があります。官幣社は神祇官が祭り、国弊社は地方官が祭るものとし神祇官の所管とされました。順位は官幣大社、国弊大社、官幣中社、国弊中社、官幣小社、国弊小社です
諸社には府社、県社、郷社が置かれました。郷社の付属として村社がもうけられました。
明治時代には国弊の大社に列格されたものはなく、大正4年国弊中社の気多神社[けたじんじゃ]が大社に昇格しました。官幣社と国弊社の違いは例祭の幣帛料が官幣社は皇室から、国弊社は国庫から支出されるという点でした。
敗戦、進駐軍の神道指令により明治以降の神社制度の法令はすべて廃止され国家神道が終わりました。しかしあの神社は官幣大社だったとかは伝えられています。
現在は神社本庁が由緒、活動などを考慮して「別表に掲げる神社」を規定しています。別表神社は平成5年で347社ということです。神宮(伊勢)は別格です。
埼玉県の別表神社をあげておきます。氷川神社(大宮、官幣大社)、金鑽神社(神川、官幣中社)、秩父神社(国弊小社)、三峯神社(以下は県社)、宝登山神社(長瀞)、箭弓稲荷神社(東松山)、氷川神社(川越)、鷲宮[わしのみや]神社(久喜)、高麗神社(日高)
(平成28年2月21日)
延喜式内社[えんぎしきないしゃ]
寄居町には延喜式内社が3社あります。延喜式内社について説明します。
聖徳太子の17条の憲法、大化の改新を経て大和朝廷は中央集権的な律令国家を完成させていきます。日本書紀の天武天皇10年(西暦681年)2月25日に天皇皇后ご一緒に大極殿にお出ましになり、親王、諸王および諸臣を召して「自分は今ここに律令を定め、法式を改めたいと思う。それ故皆このことに取りかかるように。」といわれました。国を法で治めるという意思表示です。
律令とは分かりやすくいうと「律」は刑法、「令」は民法です。更に律の施行細則として「格」、令の施行細則として「式」ということになります。これらは制作に取りかかった年号を頭に着け大宝律令、養老律などというように呼ばれます。
官制は二官八省という形をとります。二官とは神祇官[じんぎかん]と太政官[だいじょうかん]です。八省とは太政官の中が8の省に別れているということです。
時代は進み延喜5年(西暦905年)式の改正作業が始まります。22年かけて完成したのが延喜式です。50巻からなっており、巻の1から10が神祇関係です。巻の9,10は全国の神社の一覧表で延喜式神名帳[えんぎしきじんみょうちょう]と呼ばれています。
延喜式神名帳に記載されている神社を延喜式内社といいます。単に式内社とも呼びます。石清水八幡のように当時あるはずの神社で記載されていない神社もあります。これを式外社[しきげしゃ]といいます。延喜式内社は全国で2861社、武蔵の国で44社です。
寄居町近辺の延喜式内社をあげておきます。
寄居町富田の小被神社[おぶすまじんじゃ]
赤浜の出雲乃伊波比神社[いずものいわいじんじゃ]
鉢形の稲乃比売神社[いなのひめじんじゃ]
熊谷市妻沼の白髪神社[しらかみじんじゃ]
三ヶ尻の田中神社[たなかじんじゃ]
奈良の奈良神社[ならじんじゃ]
宮町の高城神社[たかぎじんじゃ]
深谷市原郷の楡山神社[にれやまじんじゃ]
秩父市番場町の秩父神社[ちちぶじんじゃ]
吉田町の椋神社[むくじんじゃ]
神川町二宮の金鑽神社[かなさなじんじゃ]
美里町広木のみか神社
滑川町の伊古乃速御玉比売神社[いこのはやみたまひめじんじゃ]
上里町の長幡部神社[ながはたべじんじゃ]
今城青八坂稲美神社[いまきあおやさかいなみじんじゃ]
今城青坂稲美荒御魂神社[いまきあらさかのいなみあらみたまじんじゃ]
今城青坂稲美池上神社[いまきあらさかいなみいけがみじんじゃ]
平安時代の官社が今も残っており、貴重な神社と言えるでしょう。
(平成28年2月7日)
白髭神社と高麗郡
大里郡神社誌を参考にして述べます。埼玉県には特異な分布をした2つの神社があります。一つは利根川流域に分布する香取神社。もう一つは埼玉西部に分布する白髭神社です。
白髭神社についてその理由を述べます。日本書紀に次ぐ歴史書続日本紀[しょくにほんぎ]に次の記載があります。霊亀2年(西暦716年)5月16日 駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七カ国にいる高麗人1795人を武蔵の国に移住させて、初めて高麗郡を置いた。高麗郡ができて今年は1300年です。高麗郡は明治29年に入間郡と合併して入間郡となりました。
日本にいた高麗人は西暦660年に百済が、668年高句麗が唐と新羅の連合軍により滅ぼされ朝鮮半島から日本に亡命してきた人たちです。亡命者の中に高句麗の王族若光[じゃっこう]がおりました。続日本紀には703年4月4日若光に王という姓を賜った。という記載があります。若光は白い髭を生やしていたので白髭様と呼ばれていました。
高麗郡に移住した高麗人達は武蔵野の開拓に従事します。その時に守り神として神社を建てます。若光が白い髭を蓄えていることから若光を崇拝して白髭神社という名前にしました。開拓が進むに従い白髭神社も増えていきました。旧高麗郡には白髭神社が約30社あります。若光の子孫は現在高麗神社の宮司をしております。
高麗郡以外の白髭神社は熊谷の楊井、川本の上原[かみはら]、岡部、寄居の三品と折原にあります。上原の白髭神社は鎮守の森が埼玉の社叢[さいたまのしゃそう]に指定されています。
武蔵の国秩父の郡から和銅が献じられ年号が和銅となったのが708年正月11日で、和銅の次の年号が霊亀です。奈良の大仏ができたのは約40年後です。白髭と表記しましたが白鬚と表記する神社もあります。(平成28年1月24日)
100年前に当神社でおきたこと
神社の庭の西側に大きな石碑が建っています。この石碑から話を始めます。石碑の文面の中に大正元年11月17日に社殿は回禄に遭うとあります。回禄とは火の神で、社殿が火事で失われたということです。氏子達は直ぐに集まり後のことを協議します。
ここで当時の時代背景について説明します。明治維新の後暫くして神道は国家の管理下に於かれます。いわゆる国家神道です。境内の土地、立木は国のものです。
時代は少しさかのぼり明治39年に神社合祀令という法律が施行されました。明治の始めには全国の神社は約22万社ありました。これを1村につき1社に減らそうという法律です。大多数を占める無格社、村社が対象になり、当神社でも明治42年に愛宕原の無格社愛宕神社、雷電神社、下平の無格社八坂神社、丸山の無格社大神宮が境内に移され現在に至っております。なお境内にある若宮八幡神社は明治42年下小路、久々戸の人たちが白髭神社の氏子になったとき移されたと思われます。
無各社とは何かというと当時神社には社格が有り、大里郡でいうと県社(熊谷の高城神社、深谷の楡山神社の2社)、郷社(赤浜の出雲乃伊波比神社、岡部の島護産泰神社[しまもりさんたいじんじゃ]など数社)、村社(多数)、無各社(丸山の手長神社など)というように格付けされていました。
神社の数を減らそうとしているときに火事で社殿が失われたことになります。しかも折原村には佐太彦神社がありました。
当時の村は明治17年に刊行された新編武蔵風土記稿によると西の入村、立原村、三品村、秋山村というように村の単位が小さかったようです。
社殿再建の許可がどのようにしておりたか分かりませんが翌年大正2年4月に国から允許されたと石碑にはあります。石碑の上部に横書きで敬神という字が篆書[てんしょ]で書かれています。これを書いたのが大里郡長武田熊蔵という人で従5位という位の人です。江戸時代でいうと外様大名クラスかと思われます。想像ですがこの人の世話になったのではないでしょうか。許可がおりたのは大変な喜びだったでしょう。
大正2年12月には社殿が竣工しました。大正3年1月に神様が社殿に入る祭りを行いました。参拝道路を新設し、華表(村社白髭神社と書かれた鳥居の直ぐ西に建てられている石)を新しくしました。大正11年に寄居尋常高等小学校の校長肥塚泰造先生に文を依頼しこの石碑を建てました。社殿建築棟梁は用土村根岸五四郎、脇棟梁丸田宇三郎、脇棟梁折原村今井浅吉と石碑の裏面にあります。社殿建築に寄付をした芳名が裏面にあります。これだけの碑を建てるのは大きな喜びであったことを表しているのではないでしょうか。
昭和20年国家神道は終わりました。全国の神社の数は現在約8万社になっています。
昭和24年に当神社も国から譲与されました。土地534坪、立木150石が国から譲与許可がおりたという碑が鳥居の西に建っています。
火事に遭う前はどうなっていたのでしょうか。大里郡神社誌に記載があります。享和三年(1803年)社殿を改築、この時の本殿は白髭大明神、熊野大権現、八幡大菩薩の3社各々間口2尺奥行き3尺左右入母屋流造屋根檜材鱗葺き3社並んで外宇の中に鎮座。外宇は明治13年更に改築間口2間2尺、奥行き2間向入母屋唐破風造り茅葺き。拝殿は間口3間奥行き2間半茅葺き。
現在の本殿は左右入母屋千鳥破風造り総欅材屋根銅板葺き間口6尺奥行き9尺高さ4尺の石畳上に鎮座3方透かし塀を廻らし前面拝殿に連なる。拝殿は間口3間半奥行き2間半木造瓦葺き3方廻廊並びに向拝付き
神社に祀られている神は白髭神社猿田彦の命、熊野大権現イザナキ、イザナミの命、八幡大菩薩太玉の命
猿田彦の命は天孫(天照大神の孫)が地上に降臨するとき途中の天のヤチマタで待っていて道案内した神です。イザナギ、イザナミの命は夫婦で国産み、神産みをした神で天照大神の親です。太玉の命は天孫降臨に付き従った神です。玉造の親ということです。(平成28年1月10日)