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2005年5月31日(火)
 ラーメン

 朝夕刊、新聞には、私の関心を引くテーマが必ず二つ三つある。 そのひとつも取り上げられない日が多い。 が、今日はラーメン、 これなくして我が人生は語れない。
西暦、和暦?、計算するのも面倒くさい、兎に角、現在42歳の息子が生まれる1年前、結婚する前の話だ、(念のため、彼の世の亡き妻の名誉の為にいっておくと、その年、5月12日の日曜日に、仲人役の八百屋のおばちゃんの紹介で初めて知り合った仲だ、 翌6月24日、結婚式、社長が、給料から,天引きで、貯金をしておいてくれたお陰で、給料の3ヶ月分の結納金を納め、ささやかながら、御香宮で、人並みの結婚式も挙げたが、仲人のおばちゃんは、私の意見など一切無視して、ことを進めていた、 さすがに妻のほうの意思は聞いていたらしいが、私としては、なにがなんだか判らないような、結婚だった。
後が面白い、 息子を妊娠するのだが、これが、ゴム風船を膨らますように見る見る、お腹が大きくなる。 近所の噂も、友人も、妻の身内や仲人のおばちゃんまで、ふたりは、以前から、付き合っていたとか、私の親代わりの社長夫妻など、お土産付きの嫁さんと違うかとか、 現在のように、婚前交鈔とか、出来ちゃった婚とかが、まだまだ世間に受け入れられなかった時代だから、周りの噂は騒然、、 丸々お腹がパンクして息子誕生、これはこれで、一週間に渡る狂想曲があるのだが、結婚後11ヶ月と云うことで、世間の噂は見事クリアー、周りは祝福の一色、 お陰で息子は40数年経ったいまでも、常に陽の当たる処にいる好運児だ。
 話しはそれ以前、独り身で自炊生活、関西地方に 納豆、と云う食べ物が、まるで馴染みのなかった頃、八百屋のおばちゃん、私の要望に応えて、一人分だけ、なんとか毎朝の食事に間に合わせてくれるようになった。
納豆には葱、これが私の食習慣、葱は白根、これもまた習慣、一束買っては、五センチほどの白身を残して青葉のところを捨ててしまう私に京葱のよさを説明してくれるけど、どうしても葱の青葉は食べられない。
そんなある日、おばちゃんが仕入れてきたのが、当時売り出したばかりの日清チキンラーメンだ、葱の白いところは納豆、青身はラーメンの具、 おばちゃんのアイデアで、食生活が少しだけ豊かになる、間もなく、 そこに、胡瓜のキュウちゃん、が加わる、当時の食生活はご飯に蜆も味噌汁、納豆とラーメン、これだけで、一日三食の繰り返しだったような気がする。
チキンラーメンには,まだまだお世話になっている、独立して間も無いころ、子供優先の生活で我々夫婦は食費にも事欠く生活が続いた、そんな時、同業で、日清ラーメン製造工場に出入りしていた友人が、不良品(いまでは考えられないけど、味付けの色に少しでもむらがあると不良品だった)を売っていると教えてくれた、 30食分入りの一箱100円, これを買って来てもらって、よく、飢えをしのいだものだ。 
普通、こんな思い出があると、あとは嫌いになるものだが、いまだにラーメンといえばチキンだ、 言わせてもらえば、近頃のような、卵落としのくぼみはいらん、あのラーメンには刻み葱が少々、これが最高。
ついでにキュウちゃんに一言、 売り出し当時は、紫蘇の実がたくさん入っていたはず、今はゴマかな?、やっぱりあの漬物には紫蘇の実だと思うけどなー。

パーん!
2005年5月30日(月)
 どうした、頑張れ

 親父のやりかたは、古い、とか云って、会社組織にしたりして工夫している息子夫妻に一言二言、 今日のテーマはこれだと思って帰って来たが、夕刊を見て気が変わる、 これや、と気負って机に座ると、アレレ、忘れた。 
取り敢えず息子に一言、 60代、70代の親父やパートさんを抱えて、給与体系も作業体系も変えようとせず、新規軸を標榜してもあかん。
現在、職人さんに払っている日給のなかに、食費500円、交通費500円が含まれていることをお前たちは認識してるか? 先方さんは、受け取る手間賃以外に千円と思っている、こう云う旧態の雇用関係を考えもせず、前え進もうとしても、駄目だ。あと3・4年で、現在お前たちの周りで働いている人達はみーんないなくなる、今から考えておけよ!
 ところでテーマ?、思いだせない、どうした、記憶力のハシモトさん、理数系の左文さん?(これは学校時代の友人の噂)、 仕方無い、昨日のはなし。
ある政党の、市会議員さんと、地区の役員さんともうひとり、3人さんで、入党の勧誘に来た、勿論、丁重に、いや、声高に断った、息子に営業権を譲り、比較的自由に主義主張を発言できる身になったとは言え、一政党の使い走りをする気は毛頭ない。 自分の党の勢力拡大を図るなら、われわれ庶民の目線に立って、真剣に話し合い、支持を広げる事だ,、と云ってやった。
国政は兎に角、地方では、右(自民党)も左(共産党)も主張することに、それほど変わりはない、選挙に勝ちたければ、日頃から、一般有権者との付き合いを大切にする事だ。













2005年5月29日(日)
 これも成長?

 先週も今週も、なぜか日曜日が朝から忙しい。 
勿論欠席だけど、本日は(新樹会)の四国八島探索の日、集合場所に、年会費を納めに行く途中で会長さんに会う、道中が助かったと、感謝しつつ、亡妻の墓参りをして帰ると、店の前に息子がいる、 「早いな,」 「 うん、野球,見に行ってくるわ、」 「試合か」 「いや、中学の練習や」  時間つぶしに、たったひと畝の家庭菜園で、トマトの手入れをしたり、花壇の水遣りをして時間を潰し、二階に上がる、珍しくアユ子(長女)が居た、「 なんや、今日はクラブ無しか」、返事もせずに自分の部屋に、次女も三女も同じように、 反抗期なんてもんでは無い、成人した娘特有の老人嫌悪症だ、気を悪くしていると,嫁が「久し振りに、クラブが無いので、午後から友達と遊びに出掛けるそうです」 「そうか」 と席を立ち自室の仏壇を拝んでいると、マピーが来た 「おじいちゃんご免な、ちょっと用事で席をはずしてん」 「どうも無いよ」 と言いながら、見ると、廊下にナナが立っている、繊細な神経の子だから、要らんところに気を使うのだろう、「ナーちゃんどうした、塾は?」 「あんなー、今日は先生の都合で1時から4時までになってん」 「そうか、頑張れよ」 「うん」 パッと明るくなった顔がわかる。
この子たちには反抗期はあっても、老人嫌悪症はまだらしい。
疲れて昼寝, の最中に電話のベルで起こされた、田舎の友人からだ、心配していたご主人の心筋梗塞の手術も無事済んで、昨日集中治療室から一般病棟に移ったらしい、先ずは一安心、ついでに、先週の恩師の米寿を祝う会、ご本人が殊のほか喜んで、ご機嫌な由、ご家族の方から、くれぐれも宜しくとのこと。
この友人と言い、色紙に震える手で,名前を書くのを、冷ややかな眼で眺める幹事の方を、ぐっと睨みつける様にして、祝米寿、河内満、と
二人一セットのように、達筆で書き、「わし等、二人分だから」 と、何気なく出してくれる友人と言い、あの頃の友人は、何時まで経っても親友なんだなー、と、つくずく思ったことでした。 

米 寿
2005年5月28日(土)
不思議な話し

 昼食を取りに二階に上がると、ナーちゃんの親友真央ちゃんがいた。 2年?、3年振りかもしれない。
低学年の頃は、お互いの家を行ったり来たりの仲で、どの子が我が孫か判らないような遠慮のない仲だった。 考えてみれば、マッピーがおどけて時々するしぐさ 「こんにちは、お邪魔してます」、はあの頃の習慣だった。
今日も、突然その挨拶がきたので、戸惑ったが、よく見ると3人いる、 「あ、なんだ、真央ちゃんか、久し振りだな」 「へ、へ、へ」の照れ笑い。 孫たちも一緒に、3・4年昔に返った様な豊かな気分で食事がする、それぞれが成長していることは、日頃感じているが、今日、この場面だけは、昔のまま、が、限りなく嬉しい。
 朝刊を夕方読むのも無粋なはなしだが, 読んでビックリ、 過去に犯した罪は絶対許さない国民性を持つ国のひとつとして、中国と並んで挙げていた国、アメリカが、勝手に裁いた(東京裁判で)Aクラス戦犯の人達の復権を認めている,評論家第一人者の竹村さんに、 世界の非常識論で、論評してもらいたいものだ。
国内ではAクラス戦犯は罪人では無い、 と、言う、 要職にある自民党の国会議員がいたとか? この人をはじめ、政府要人の方々は戦争中でも、よほど裕福な暮らしをしていたみたい。 草の根を掘り起こして食料にし、裸足で霜柱を踏んで、学校に通ったのは、貴方の世代の大半の国民だった筈なんだけどなー。
 築地市場を視察して、ゴミ箱の蓋を開けてみて、「国民の生活には、まだまだ余裕がある、」 とかいって、戦争を続行し、国民を苦しめた将軍様にも罪は無しか?。
北朝鮮を論評する資格なしだな。 因みに、霜柱,、て何か?わかる。

2005年5月27日(金)
戦後

 不発弾が出てきたとか、残留日本兵の生存が確認されたとか、 戦後はまだ終わっていないらしい。
二人の叔父の最後については、戦後戦友だった方が報告に来てくれたので、それなりに納得している、、が、従兄弟の幸一兄ちゃんについては、なんの情報も無かった。
亡き母の話しによると、当然帰った日は別々だが、白木の箱に砂と石ころ少々、と云う帰還の状況は一緒だったらしい。
南支那戦線の光男叔父、ニューギニア戦線の育三叔父、 幸一にいチャンがフイリピンのダバオ(ミンダナオ島)ときては、生存の方に、もしや?と望みを抱かざるをえない、恐らく、田舎の家族の方がたも同じ気持ちだろう。
 ○ 評論家の論評と老人の戯言に責任は無いよ。
 先日の分、( 日本の常識は、世界の非常識、)の竹村さんの話し。
世界の各国(特に中国)では、他人の過去に犯した罪は、未来永劫許さないそうだ、(日本の許すと言う習慣は先方にとって非常識) 戦後、代々の日本国首脳が誤ること、21回、 その度ごとに反省の代価を要求されている、空港も、港湾整備も、高速道も、日本国民の税金で造られている部分が多いそうだ、が、中国政府はこの事実を一般国民には報せていない、日本国としては、一般国民にも公表するよう、中国政府に迫るべきだ。 ここまでが評論家としての限界かな?、
 あとは老人の戯言、 こちらの要求が通るあいてなら、二国間関係はもっとスムースに行っているはず、それがないからこじれる。
為す事はしている。 の小泉さん。 もっともっと 尽くせ、のアチラさん、これでは何時まで経っても平行線だ。竹村さんはそれが解っていながら、言っている、気楽なもんだ。 
先ず日本国政府は自国の国民に、過去から現在に至る、対中国援助の概要を公表すべきだ、 国内のことだから、中国政府に対しても文句はあるまい、 後はお任せ、文明の利器、インターネットがあるじゃーないか!。

ぼけの戯言
2005年5月26日(木)
半分くらいは覚えたよ

 1時間以上かけて打ち込んだ大作(?) 一瞬の間に消えた。
自分の悪い癖で、腕が悪いとは思えない、習い初めて丸二年、一台目は昨年の4月に丸1年で使用不能になった。 折角打ち込んだ記録をぜーんぶ消してしまって、これが2台目、そろそろ一年目、寿命かなと思いつつも、念のため先生にメールを送る、 これが、しっかり送信できていたらしい、早速本日来ていただいて、未使用だった機能まで、立ち上げて行ってくれた。自分の未熟さを素直の納得できないところが、我ながら面白い。
昨日、あ、と云う間に消えてしまった記録。
 テーマは 「評論家の論評と老人の戯言は一緒」 日本と中国の関係、竹村さん。 これを記録しておいて、後日また昨日の文を再現しよう。

2005年5月24日(火)
人それぞれ

 持ち病気、つまり自分の持病の数はだいたい判る、頭の天辺から足のつま先まで、数え挙げたら限(きり)が無いのだろうが、自分の自覚として、脳やら首やら胸や腹や、脛や肘やと、ひとそれぞれに、病の数は限が無い。 私の場合は七つ八つ。 どちらにしても持病の数は判る。 判らないのが持ち寿命、 病気になって、亡き妻のように、医者から 「あと三ヶ月の命です」とか宣告される前に、あと三年、あと五年、と云うように、ある時期が来ると、医学の力で自分の終末が予測できる世の中になる、!そんな予感がする。
あと三年、あと二年、と先の人生が限られた時、人は残りの人生でなにをするのだろう。
隅田川河畔の公園で人気のない夜中になると、ザクザクと云う軍靴の行進の音がするとか、戦災時、校庭に犠牲者の遺体が並んだ学校で、運動会当日には、必ず雨が降るとか。 無縁仏の祭られている千鳥が淵を無視して、靖国神社にこだわる小泉首相に聞きたいわ。 
外国に対しての政策として立派?かな?、 日本と云う国の中の事、認識してる?。
政治家としての寿命でなしに、人間としての寿命の先が見えた時、どうする。
 幼児期の私に対しておどけながら敬礼をして、「大谷二等へい(パソコンでは出てこないほど古い言葉なんや、この兵は、オッと、出てきたー)行って参ります、今度帰って来る時は上等兵になってきます」・ ・「おじいちゃんおバーちゃんのこと、たのむよ」 の満男叔父さん。 当時軍曹で、サーベルを腰に、日本刀を背中に、私を肩車にして、私の父の会社まで別れの挨拶に行ってくれた育三叔父さん、母の兄の長男で従兄弟の幸一にいちゃんの3人は英霊として、靖国に祭られている。
 さしでがましく、一番身近だった私が代弁すれば、国際紛争を起こしてまで、首相に、参拝してほしくない。
ついでに一言、戦犯で、巣鴨拘置所で服役して 七年後、後の外務大臣重光さんと同時出所して、何処の誰かから家1軒建ててもらった父かたの叔父もいる。

2005年5月23日(月)
東校 (東小学校)

 超近代的な、武器?兵器?勉強道具?必需品? 万能と思っているパソコンでも機械は機械、こちらの思いをすんなりとは表現してくれないんだは、 思い,が重いになったり,行くが良くになったり、無学者には結構大変。
とうこう(東校)のタイトルが出るまで一仕事。
土曜,日曜の二日間は田舎行き、 恩師が病床で会いたがっているから、と級友に呼び出されて出て行ったのだが、病院からむりやり引っ張り出しての米寿の祝いだった。
同じようなことだから、それでよし, 弟(哲)の那須の別荘に感激したり、帰省する毎に水量が減っている故郷の河、川の姿に腹が立ったり、テーマは増えたが取り敢えず東校の話し。
時間が来て、病院に帰る先生を一緒に送っていこうと思ったが、ご家族の人やらでタクシー満席、やむを得ず、元軍人らしく挙手の礼で見送ると、嬉しそうな顔で将校さんの礼を返してくれた、 二次会もそこそこに、帰りのタクシーに乗る、宇都宮駅までの30分ほどの車中の運転手さんとの会話。
 私「この道真っ直ぐ行くと宮の中心部に突き刺さるように通っていたけどな」 「お客さん、旧街道は、真っ直ぐと言っても蛇行してたんですわ、これがほんとに真っ直ぐですかんね、もうちょっと先の左てに旧街道がそのまま残っているとこがありますよ」 「だったらこの辺山本(町)?」 「そうですよ」 「そうかー、昔はこの辺から裏山を登って八幡山公園に行ったもんだけど、すっかり開発されて住宅街かー、もう、公園もないんかな?」
「お客さん、公園はありますよ、ほれ、あそこ、紅白の搭が見えますよね、あれが八幡山の頂上ですよ」 「だって住宅街に埋没してるがな」 「なんのなんの、舗装されてるとは云え、ここからあそこまで登るのは、今でも子供の足では大変な急坂ですよ、 ほれ旧街道、あの角の竹屋、古くから有った店らしいから、覚えてる?」 「60年も前のことだし、そこまでは覚えてないわ」・・・「お客さん、ここ東校です、おぼえてますか?」 「ええーここが?嘘だろう、こんなに校庭が狭かったかな、忘れられない所なんだは」 ・・・ 「あんたらには判らんだろうけど空襲でな」  「私の生まれるまえの話しですけど、(何とか)の資料館で直後の駅前からの写真を見たことが有りますわ、大通り一面で焼け残ったのは田川の畔の倉庫一棟と大工町あたりの勧銀の建物だけ、もっとも今はその会社自体が無くなってしまって別の建物になってますけど!」。
「 あの人たち、ちゃんと供養してもらっているんかなー」 「え、なんです?」 「いや、ちょっと思い出してな、 自分のとこが焼け出されてるのに、子供心の好奇心から市内を見に来たんだわ、まだブスブスと燃えかすが煙をだしてる家もあった中をなんとかして、東校の門のところまで来たわけよ、 酷かったなー、校庭いっぱいに犠牲者の遺体が並んでいて筵が被さったいて、大勢の人が、身内がいないか?と筵を開けては覗き込んで歩いてるんだは、なんぼ悪ガキどものわし等でも門の中に入れんで立ち竦んでだのを想いだすわ、供養してるのかなー」  「お客さん、 供養はしてると思いますよ、だけど、一家、一族みーんな犠牲になった人達もいただろうねえ」   「あのですね、お客さん、東校が運動会とか、何か行事をすると、その日必ず雨になって、他の学校では、東校と重なった日には行事はするな、と云われているほどなんですけど、延期してもまた雨だからって、雨のなかで、運動会をしているのを、みたことがあるんですけど、お客さんの話をきいていると、あれも供養なんですね、 これからは 笑うなって、仲間にも言ってやろう」。

2005年5月20日(金)
一流と三流

 かたやギャラの安さを嘆いている妹尾さん、かたや超一流の講演料が自慢の竹村健一さん、近頃、相次いでラジオ番組に出てくる。
国際派と芸能界通、分野は180度違うが、共通点がある,先ず自分自慢、 気をつけて報道えお見たり聞いたりしている人には、 あーあの事か、と解る話しも外国の新聞を読み,テレビを観ているのが自慢の本人にすれば、日本中の誰もがしらない特種話の竹村さん、秘話を披露しては、リスナーから突っ込まれたり、言い訳したりで忙しい妹尾さん。
放送時間帯にもよるのかもしらんが、立派な事を言いつつ、責任無しの竹村さんより、人間性丸出し放送の妹尾さんのほうがはるかに面白く、時にはためになるんですよ、我々には。

2005年5月18日(水)
 ゆとり教育

 土日休日、いわゆるゆとり教育についての特集で、三十数年前,息子が小学校のころの私と同じ意見を持つおかーさんがいた。 「ひとつの例として、九九を覚えるのに、半年かんの授業で、ゆっくりと、完璧に覚えた、私(そのお母さん)の場合は3ヶ月、今、娘の場合は1ヶ月、うろ覚えの娘に完璧に学習させるのは親の責任、と言われれば、休日でも塾に通わせる、しかもこの塾と言うところ、受験を目指して先に進むばかり、学校の授業の復習などするところは皆無、それでもわが子を塾に通わせる余裕のある家庭はもだまし、どこにゆとりがある、と、怒っていた。その通り、まさにその通り。
三十数年前の我が家を思い出した、息子が三年生か四年生の頃だ。 算数の授業、今はどんな授業をしているのか判らんが、当時は、時計算、旅人算(その他の計算法)とか言う計算法を習っていた、極々簡単に言えば(説明するまでも無いけど)、A君とB 君が同じスタート地点に立つ、先ずA君がスタート、時速は60キロ、10分後にB君スタート、60分後にB君がA君に追いついた、B君の時速は何キロ?。 時計算、これは息子にも理解できていた、さて、旅人算、100キロ離れた地点からA、B両君が同時すたーとした、時速60キロで歩いたA君は1時間後にB君に出会った、さてBくんの時速?
 どうもしっかり理解できないらしい、にも関わらず授業は先にすすんでいる。仕方なしに塾に頼むことにした、当時も今も進学で有名な伏見のS塾に行って、 「自営業で忙しくて勉強がみてやれないので、お願い出来ませんか、先に行くこと(予習)は望みません、学校授業の復習をして、基礎をきっちり覚えさせたいのですが」  「解りました、そのように指導しましょう」、 ところが、実際には,先に先にの詰め込み主義、本人チンプンカンプン、家にまで 「親御さんがしっかりして、見てやらんと 、付属(教育大)はおろか、私学でも有名校には進学の保証は出来ません」 と始終連絡が来る始末。 約束が違うと、辞めさせて、今度は個人の家庭教師、京大生、京教大生の現役の兄弟が二人掛りで教えることになり、月謝も二倍、家計には痛かった。こちらの意図は理解してくれず、 「京大どころか、この子には絶対東大や」、とか言い出す講師の話に、反論する気力も失せた。 種々事情はあっても、結局は私立大の中退生、 今は立派なパパだけど、当時の事情をしっかり認識して、わが子の教育をしているのかなー。 

2005年5月17日(火)
 昨日の話し

 一昨日日曜日の一日中うつらうつらの昼寝生活が夜まで続いて、気だるい朝、玄関先の収集場所にゴミを持って出て行くと、さきに出したひとの袋をカラスが突いてゴミが散乱している、このところ3週間ほどの現象だ、ご近所の物と違う。この辺では飼っていない種類の犬の糞が散乱している、独り暮らし私だから自分の出すゴミなどしれたものだから、店のほうに持って行けばよいのだが、放っておけない、家からふくろを持ち出して始末する、分別していない、のメモが張られて未収集のゴミを持ち帰って、分別し直したりがここのところ数回続いている、日頃は朝一番の私だから、仕方がないと思って整理していたが我慢の限界だ、と、腹を立てつつ店に行き朝食、時間も遅れている、当然皆起きている、茶碗を握り損ねてテーブルいっっぱいにお茶をこぼしてしまった。 「しまった、ごめん」、と同時にナーとマピーは「大丈夫、どうも無い」と布巾をとりに走り、ママはバスタオルのお古らしき雑巾を、サッと持ってくる、 この場合不謹慎だと思うが、長女のアユ、ゆっくりと立ち上がり、濡れたら大変と取り上げたメモや書類を受け取って、妹たちが持ってきた布巾に「どうもないぜ、大丈夫、どうも無い」、と言いながら、のんびりと、濡れた部分を叩きつけている、この動作に皆納得、一件落着。
月曜日の仕事は老体にはきつい,、家に帰って、夕食の支度をして、風呂のスイッチを入れ、ちょっと一休み思い横になって眼が覚めたら朝、夕べの支度がそのままテーブルに残っていた。
 ナーちゃん出発。
  昨日午後、塾の試験が4教科あったところをパスしたいと言って、ママに連絡してもらった結果2教科だけにしてもらって、「おじいちゃん、明日早いから、今日言っとくは」、と言って、塾ともつかずに「いって来ます」、と元気に出て行った。 「今日の試験はボロボロだな」、とママと二人で大笑い、 
マピーが起きていて,報告、 一緒に起きて、お弁当もすべて気を付けて準備して、集合場所まで送って言って来たとのこと、 だったらナーちゃん得意の忘れ物無しや、とまた笑い。 一日中天気予報が気になっていた、近畿地方は、明日午後から曇り、夕方から雨、とのこと、得意先廻りから帰って来たママに報告して、 「帰りのバスのなかで寝ているころに雨になるから、迎えの時間帯は大変だぞ」、「赤福があるもんね」、でまた笑い。