| 過去のちょいから (`▽´) ショート日記 |
| <2011春> 3・4・5月 |
| 2011 3月 「生徒が交通事故」 3月12日(土)の朝、プリゼミ生のKが交通事故にあった。結果を先に書いておくと、命には別状なく・・・。大怪我をしたが、とりあえず無事で・・・。 プライバシーを考慮し、あまり詳しくは書けないが、簡潔に状況を説明すると、自転車でクラブ活動の練習へ向かう途中、国道で車にはねられたとのこと。。。 この日の午後、Kのお母さまからプリゼミに、事故のことを知らせる電話があった。私は、Kが車にはねられたことを聞いた瞬間、たいへん驚いたというか、いや、驚いたなんていう言葉では表せない、突拍子もないというか、うまく言葉に出来ないのだが、とにかく、信じられない気持ちとショックと、いろんなことが頭の中を一挙にぐるぐる回る感じで、棒立ちになった。でも、すぐに我に返り、今度は、ハラハラというか、心臓がドキドキしてたまらなかった。 お母さまの話を聞くのは不安で恐かったが、その気持ちをグッとこらえながら話を聞いた。すると、大変なケガだが命には別状なし、とのこと…。「はーっ」と、心の底から熱い息が出た。私でこうなのだから、事故の連絡を受けた時の親御さんの心持ちは、一体……。 この日は大地震の起こった翌日でもあり、大地震といい、生徒の大事故といい、大変な出来事が重なり、私にはこの日は非常に長い1日だった。。。 この日記にも何回か書いたことがあるが、プリゼミでは、交通安全に関する話を生徒に聞かせる機会を普段から多くとり、生徒たちの意識を高めるよう努めている。 …「車はとまってくれる」なんて思い込んではいけないこと、「運転手に気づいてもらっている」と思えて、実は運転手が歩行者に気づいていない事実が多いこと、だから無茶な横断などは絶対にしてはいけないこと、でも、無謀な運転者がいるせいで歩行者が気をつけていてもはねられてしまう恐ろしさもあること。その他、車の制動距離のこと、運転席からの視界について、などなど、いつも具体的に説明するように心掛けている。 だから、話を聞いているときはみんな、神妙な顔つきでは聞いている。だが、やはり心のどこかでは「自分は大丈夫」という気持ちがあるのだろう、どこか他人事だという思いで聞いている感じである。いつも、それが課題だと悩んでいるのだが…。 そんな中での今回のKの事故は、「生徒が事故にあった」という、私にとっても非常に身近な出来事で、それは他のプリゼミ生にとっても同じで、プリゼミ生たちにKの事故の事を伝えた時、特にKと同じクラスの子たちは、身震いする感じで聞いていたと思う。 Kの事故を教訓に、K自身も、みんなも、気持ちが引き締まったことだろう。これからはより一層、みんなが交通安全への意識を高めてくれれば、と願う。 それが、Kの親御さんの願いでもある。 また、歩行者の立場としてだけではなく、運転手の立場としても。保護者は歩行者の立場にもなり、運転手の立場にもなる。生徒も、今は歩行者の立場のみだが、将来、運転手という立場にもなる。 車は人の命を奪う危険を孕(はら)んでいるのだという事実を常に念頭に置きながら、真剣に運転するべきなのです。 交通ルールはしっかり守るべきです。甘く見ていると、悲劇が起こります。歩行者も、車の危険をきちんと把握して行動するよう、よくよく心掛けましょう。 Kの親御さんから、プリゼミ生たちおよびみなさまへのメッセージを預っています。 今は大震災と時が重なっていますので、、、そのメッセージが書ける時期が来れば、お伝えいたします*** 2011 3月 「ACのCM(その1)」 大震災のニュースを見ていると、被災地の信じがたい状況の映像や報道に、大変なショックを受ける。こういう時、今までのいつもの生活がどんなに大切なものであるか、身に染みてわかる。 便利すぎる生活の中では、ついその便利さが当たり前に思え、感謝できなくなる。それどころか不平不満を言ったりしてしまう。便利さに慣れてしまい、あまり深く考えることもなく、ちょっとした我慢も出来ない。 ところで、テレビでは最近、ACジャパンのCMが何度も何度も流れていて、それが世間では「同じCMがくり返し流れて不愉快」などというクレームが相次ぎ、一種の社会問題になっている。 クレームの理由として、「もっと流すことがあるのでは」という意見は、確かに一理あるかと思う。 しかし、「うざい」とか、「同じCMでイライラする」というだけのクレームがとても多い。なんと平和な不満だろう。被災者の苦しみに比べたら、あまりにも小さな不満。それなのに、それがこんな社会現象になり、ACに謝罪させるところまで発展するなんて。。。 これほどの大地震。それがもたらす様々な異常事態。CMのくり返し放送も、その異常事態の中の、ほんの小さな現象のひとつだと思うんだけれど。。。 現地は、生死の境をさまよい、家族を失い、住みかもない、連絡手段もない、移動手段もない、水もない、食べ物もない、暖房もない、プライバシーもない、清潔さもない、安全もない、安心もない、、、言い切れぬほど数々の、苦痛な出来事に見舞われている。 地震の影響を受けなかった人たちは、いつもと変わらない生活が送れている。そのことに感謝しないと、、、。「テレビを見られる、という環境を考えるだけでも有難い」と、こういう時こそ気づくべきだろう。小さなことに文句を言える時ではないんじゃないかな。 いや、みんな、頭では被災地の大変さはわかっている。テレビの映像や被災者の言葉などから伝わってくる悲しみや不安や辛さに、本当に胸を痛め、言葉にならない思いを抱いている。でも、自分の日常が平和なものだから、離れた被災地の悲劇を一瞬でもつい忘れてしまう時が、正直ある。。。 人は、自分自身が悲惨な状態にならないと、心底には理解できないのだろうか…。そうだとすると、それは、便利な世の中に生きる人間の悲しい性(さが)なのかも…。 そういう思考は、子どもにもうつるかもなあ。。。 つづく。 2011 3月 「ACのCM(その2)」 前回のつづき。 私たちの住む京都は地震の影響がなく、良心の呵責を感じるほど、今までとほとんど変わりない生活を送れている。だから、同じ日本の中であっても、現地の痛みを感じてはいても、自分の身に重ねにくい環境にはある。。。 そんな中、子どもたちはなおさらだろう。テレビの映像で現地の様子を受け止めても、その報道をコタツに入りながら、温かいお茶を飲みながら見ている環境では、子どもの心にはなかなか現実味のある出来事として入ってきにくいと思う。 子どもには、食べ物がない生活、水が出ない生活は、なかなか想像できないと思う。子どもに、「水が出なくなった時のことを想像してごらん」と言っても、「大変だろうなあ」というざっくりした感覚は得ても、自分自身の危機として切羽詰る思いをイメージするのは難しいだろう。 もちろん、子どもだって、今、大地震という、何か大変なことが日本で起こっているのはちゃんとわかっているだろう。ただ、大人ほど、ピンとはきていない。 だから、今回だって、実際の被災状況よりも、ACのくり返しCMのほうが、子どもたちにとっては身近で現実的な出来事となってしまっているようだ。 「同じCMばっかりでイヤになってくる」「ウザいねん」と言って、学校でもその話題で持ちきりらしい。まあ、子どもなので、それは、一旦は仕方ない。 ただ、家庭で、子どもの前で、大人も同じように言っているのでは、それはあまりにも、、、。 こういう時こそ、「CMも異常な流れ方をするほど、今回の大地震は深刻な出来事なんだよ」、と大人がきちんと説明してあげるべきだと思う。 とりあえず、「ウザい」だけの感情で終わらすべきではないと思う。。。 また、「同じCMが流れることと、大地震と、どう関係があるのか」という説明をするのもいいと思う。“ワケを知る”というのも大切だと思うから。そして、“自粛”の意味合いも教えたい。。。 こういう時だからこそ、深刻な被害を被(こうむ)っていない私たちは、こと細かな不満を持たないよう、大人も子どもも心がけたい。 また、今、日常生活が送れていることがどれほど大切かということと、それに感謝することを、子どもたちに知ってもらいたい。 それは「思いやり」や「助け合い」の心につながる。。。 今、大惨事に見舞われているこの日本で、その「思いやり」や「助け合い」が大きな力になっている。心は巡り巡っているなあ、と思う。 |
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| 2011 4月 「角(かく)の衝撃」 小学生の教科書が新しくなり、今年の4年生の算数では「角(かく)」を最初に学ぶ。 ところで、私は毎年、小学生に角を教える時に必ず思い出すことがある。自分が小学生だった時に学校で初めて角を学んだ時の、先生用のデッカイ分度器(黒板仕様の分度器)を見た時の衝撃を思い出すのだ。 何が衝撃かというと、自分の持っている掌(てのひら)サイズの小さな分度器でも、先生用のデッカイ分度器でも、同じ角度が測れるという事実。 これが、「分度器」ではなく「ものさし」だと話が違ってくる。ものさしの目盛りの間隔は、誰が持っているものさしでも全部同じだ。「先生用のものさしは目盛りの間隔が大きい」なんてことはない。だって、でなきゃ、同じ長さを測れないもんね。 しかし、分度器の場合、先生用のそれの目盛りの間隔は、明らかに私たちのものより広い。それなのに、同じ角度を測れてしまう! 例えば30°の角が描かれていれば、それに自分の小さな分度器をあてようが、先生用の大っきな分度器をあてようが、同じ「30°」だと計測できるのだ。 大人になった今では当たり前のことと感じられるが、小学生だったその時の私には、不思議だった。といって、角の性質がわかっていなかったわけじゃない。角の仕組みと理屈は頭では理解できているんだけれども、でも、感覚的に、やはり不思議だった。ものさしの目盛りに慣れていた私にとって、角度という概念はとても斬新(ざんしん)だった。 少ししか開いていないようでも(つまり、小さな角度でも)、目の前では親指と人差し指をほんの少し開いたくらいしかない距離が、それをずっと伸ばせば、とても大きな距離になるんだなーという驚きと感動。。。。 ずっとずっと伸ばせば、そのうち地球の直径より大きくなるんだから!! それが、自分の中での大発見というか、子供心に「へ〜、算数っておもしろい!」って感じる瞬間だったかな。 ![]() こんな感動を子どもたちに味わってもらいたい、知識を得る楽しさを味わってもらいたい。。。 という方針で、日々の指導をしているプリゼミであります♪ 2011 4月 「0.999… @ドラえもん」 「0.999… = 1」という事実を知ったのは、実は5年ほど前。 それまではずっと、「0.999…」は「1」より小さいと思っていた。 皆さまの中にも、これを読んで、「えっ! 1より小さいと思っていたけれど、そうじゃないの? 1と一緒なの?!」と、びっくりされた方も多いのでは。 ところで、私に「0.999…が1より小さい」という概念を植えつけた(?)のは、私が小学生の時に読んでいた雑誌に登場した「ドラえもん」。 ん? ドラえもん?と思われた皆さまに、ご説明しよう。 ↓↓↓↓↓ 小学生向けの通信添削系の教育雑誌(小○館だったか、進○ゼミだったか)で、当時、毎回その中にドラえもんのマンガのページがあった。と言っても学習系雑誌なので、その内容は藤子不二雄が描くストーリーではなく、のび太の学習上の疑問にドラえもんが答えるという展開だ。 このマンガの、ある回で、0.999…のことが取り上げられた。いや、正確に言うと、この時のメインテーマは「分数」だったと思う。その中に0.999…という数字が出てきたのだが。 私の記憶では、次のような感じ。 (↓↓↓あくまでも、私の記憶で書いています。↓↓↓) のび:「ねぇドラえもん。電卓ってすごいねぇ。計算が一瞬で出来ちゃうんだから。」 ドラ:「電卓の中にはLSIが入っていて、自動的に計算してくれるんだよ。」 のび:「へえ。電卓って、人間の頭脳より優秀だね。」 ドラ:「それは違うよのび太くん。たとえば、1÷3×3はいくつだい?」 のび:「まず、1÷3で1/3(3分の1)になるでしょ? それに3をかけたら、また1に戻るよ。」 ドラ:「その通り。じゃあ、それを電卓でやってごらん。」 のび:「ポチ、ポチ、ポチ、、、。」(と、電卓をたたく) 電卓: まず、途中経過で0.3333333と表示。そして、最終的に0.9999999と表示。 のび:「あれ、この電卓、間違っているよ!」(目が+マークになっているのび太。) ドラ:「電卓にも出来ない計算があるんだよ。やっぱり人間の頭脳にはかなわないね。」 ・・・てな内容。ウン十年前に読んだマンガなのに、今でもほぼ覚えているのが我ながらすごい。それより、こののび太、のび太らしからぬのび太だなあ。1÷3×3がすんなり出来ちゃうんだから。と、子ども心にも思っていました。 まぁそれはおいといて、このマンガが今でも私の記憶にほぼ鮮明に残っているくらいだから(のび太の目が+マークになっている図まで覚えているのだから)、当時の私には、この話はかなり印象的だったらしい。 私も電卓は優秀だと思っていたが、その電卓にこんな穴があったとはまさに目からウロコで、小学生の私はえらく感心し、シメのドラちゃんの「人間の頭脳にはかなわない」というキメゼリフに、大きく共感したものだった。 そして、自分でも実際に電卓を出してきて、1÷3×3をやってみたなあ。そして、マンガと同じように示される0.9999999という答えをながめ、つくづく、算数っておもしろいなあと感動していたなあ。 とにかく、「電卓には出来ない計算なんだなあ」としみじみかみしめていたなあ、あの時は。そして、それと同時に刷り込まれた、「0.999…≠1」という認識。あれから、ついこないだ(と言っても、5年ほど前)まで、ずっとそう思い込んでいたのだが。。。 つづく。 |
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| 2011 5月 「電卓は間違っているの?」 前回のつづき 電卓で「1÷3×3」の計算をすると、「0.9999999」となる。果たしてこれは間違い? まあ、先に結論をいうと、合っているとも言えそう。ただ、厳密に言えば、間違っていると解釈すべきかな。 ひとつ確かめておきたいのは、前回の日記でも触れた 1=0.999… という事実。「なぜ?」と思う人もいるだろう。でも、その不思議にせまるのはまたの機会にするとして、とりあえずここでは「0.999…は1と等しいのだ」ということを念頭に置きながら先へ読み進めてほしい。 ここで気をつけたいのは、「0.999」と「0.999…」の違い。「0.999」は最後の9でスパッと終わる小数だが、「0.999…」は9が無限に続く小数だということ。 つまり、「0.999 ≠ 1」だが、「0.999… = 1」だ。 さて、一般的な電卓は8桁(けた)しか表示できない。だから、電卓では0.9999999までしか示されない。しかし、これを見てふつうは誰もが、これは無限に続く小数(つまり0.9999999……)のことだと自然に解釈するんじゃないかな。そう考えれば、 1÷3×3 = 0.9999999…… = 1 となり、実は電卓は間違っていなかったことになる。 だけれど、それは人間が勝手にそう解釈している(無限小数だと解釈している)だけで、電卓自身はどうなのか。電卓に意思があるわけじゃないけれど、電卓自身は一体どういうつもりで0.9999999と表示しているのか。有限小数のつもりなのか、無限小数のつもりなのか。 結論を先に言うと、残念だけれど、電卓クンは自分ではこれを有限小数だと認識しているようです。電卓クン自身は、7桁目の9(注:8桁目とは言わない。最初の0は桁として数えないから。)でスパッと終わる小数(有限小数)だと解釈してはります。 いや、1÷3の時点で示す「0.3333333」の段階で、もうすでに電卓クンは、自分で示したこの数字を、有限小数だと勘違いしてはります。 だから、電卓クンの立場からは 1÷3×3 = 0.9999999(有限小数)←1ではない と示していることになり、そうすると実は、のび太とドラえもんの言うとおり、電卓は間違っていたことになる。 (といっても、たぶんあのマンガでは、そこまで考えて「電卓は間違っている」と表現しているわけじゃない気が…。電卓の0.9999999を見て、我々はふつう無意識にこれは無限小数の0.999…のことだと認識してしまうよね〜。だから、あのマンガで「電卓は間違っている」と言い切られた私は、それから長いこと、「1≠0.999…(つまり0.999…は1より小さい)」と刷り込まれることに。。。 ドラえもんめ。) ところで、「電卓クンの立場」って言っているけれど、んなもん、どうやってわかるのって? 「0.3333333」や「0.9999999」は有限小数のつもりなのか無限小数のつもりなのか。電卓クンはどっちのつもりで示しているのか。どうやってそれがわかるの? つづく。 2011 5月 「電卓男」 前回のつづき それは、電卓クンに聞いてみればわかります。私も電卓クンに聞いてわかったのです。 みなさんも、電卓クンに聞いてみましょう。聞き方は。。。 1÷3×3×○ (1÷3×3×2 や 1÷3×3×3 など) を電卓でやってみるのです。その計算結果を見れば、電卓クンが有限小数と解釈して計算していたことがわかるでしょう。 とにかく、厳密に言えば、電卓は間違っていたというのが結論。なんだかとても残念。電卓の機能に 「…」 という無限小数の概念が付けばスゴイのにね。 余談だけれど、エクセルでは出来るみたい。1÷3×3の答えは1と出てくる。あと、手入力で「0.3333333333(←10桁)×3」と数式を打っても答えは1と出てくる。10桁以上もしくは11桁以上の循環小数を入力すると、自動で無限小数と判断しているみたい。 これ以外でも、「0.1428571428(←10桁)」でも出来る。7を掛けると答えは1と出てきた。スゴイなあ、エクセル。 なーんてふうに、こうやって考えていると、数字っておもしろいなあと思いませんか? それとも、私が「さんすうヲタク」っぽく見える?? 電卓と会話しているなんて、さながらヲタクな姿? 電卓を「電卓クン」と呼び、「電卓クンの立場」とか言って擬人化している時点で、ヲタクの域なのかもなあ。 いっとき流行った「電車男」ならぬ、「電卓女」。(ちょっと古し。) とにかく、今回のこの話からも、私がさんすう大好き人間であることの一端が伝わったかと思う。先生自身がさんすうの奥深さ、面白さ、楽しさを感じていなきゃ、子どもに「生きたさんすう」をうまく教えることは出来ないと思う。 そうそう、「電卓にはできない計算がある」というのをより実感するには、 「1÷6×6」や「1÷7×7」をやってみると良いですよ。 と、ここまで読んで、実際に電卓を打っていろいろ試してみたくなったあなたは、「電卓男」あるいは「電卓女」の仲間入りかも。それとも、ここを読みながら、もうすでに電卓を打っていたりして?携帯電話にも電卓機能が付いていますもんね。 私の携帯の電卓は、一般の電卓と同じで、無限小数は認識できないようです。みなさんも、電卓タンと仲良く遊んでみましょう♪ 2011 5月 「“何もない場所”=“神秘の宝庫”」 先日、プリゼミ恒例の「いちご狩り」が、今年も無事に終了した。 畑は大原野にある。畑の脇にはちょっとした山道があり、春のいちご狩りや秋の芋掘りの際には、ついでにそこを散歩するのが定番となっている。 これが、子どもたちには大好評で大好評で。今、「いちご狩りや芋掘りのついでに」と書いたが、実は、“ついで”であるはずのこの散歩が、“主体”であるいちご狩りや芋掘りをしのぐほどの盛り上がり。(主催者としては、ちょっと複雑な気分?) 毎年イベントが終了するたんびに、「しかし子どもらは、あの散歩、好きやなあ。何がそんなおもろいんやろう。」と思うほど。いや、確かにおもしろいのだけれど、私の「おもしろい」の定義を超えているというか、恐ろしいほどのはしゃぎっぷりで、それはそれはもう。 ちょっとした山道を行って帰ってくるだけなのに。山道って言っても勾配(こうばい)はなく平たんな道で、文字通り「散歩する」だけなのに。 でも、私にとっては大してめずらしくない物が、子どもらにとっては大変めずらしい様子。色んな物を獲得しては、「先生、見て!」と嬉しそうに見せにくる。その中でいちばん多いのは何だと思いますか? 花? 木の実? 昆虫? ……いやいや、それもあるけれど、毎年毎年、子どもが拾って私に見せにくる物の中でいちばん多いのは、じつは石。しかも、特別な石ではなく、申し訳ないが私から見たら「ただの石」って感じの物ばかり。しかし、子どもらにとっては「ここの部分がとがっている」とか、「ボクのげんこつと同じくらいの大きさ」とか、何かしらの価値を見出した石のようで。それを次から次へと見せにくるのだ。 道に大小さまざまな石が転がっていること自体が、この子たちにはめずらしいことなんだろう。大きい石を見つければ、テンションマックス。 ……よく考えれば、イマドキ普段の生活でこんなサイズの石がそのへんに転がっているなんてこと、ないもんなあ。 地面にしゃがんで、いろんな石をもくもくと眺めている子もいる。 私たちからすればなんの変哲もない“石”だけれど、今の子どもたちには物珍しい代物(しろもの)なんやろなあ。 (それにしても、「そのへんに石が転がっていること」が珍しいとは、意外な事実。なんかハッとさせられるというか、、、) そういう目線で見直せば、「大した物は何もない」と思っていたこの山道も、「いろんな石だらけ」「いろんな木だらけ」「いろんな竹だらけ」「いろんな草だらけ」「いろんな落ち葉だらけ」「いろんなクモの巣だらけ」と、じつは、現代っ子にとっては神秘の宝庫なんだと気づかされる。 つづく。 2011 5月 「“TD●”より“プリ散歩”」 前回のつづき。 そう思うと、「そりゃおもしろかろう。」と理解できる。ふだんあまり見かけない物が大量に勢ぞろいしているこの場所は、ミラクルワールド。大興奮するわけだ。 そういや、今回はみんなただの落ち葉(枯れ葉)にもテンションマックス。落ち葉くらいなら普段から目にする物なんだから、珍しくもなかろうと思われるかもしれないが、山道にあるそれはクッションのごとく大量だから、みんなの目はキラキラ。それらを両手いっぱいに抱えて放り投げ、歓喜の声をあげる。黄色く細長い枯れ葉は、パラフィン紙のように薄っぺらく、且(か)つ、カッサカサに枯れているのでとても軽い。空(くう)に舞った枯れ葉は、長方形の紙ふぶきのごとく、大量の葉の一枚一枚がクルクルと高速回転しながらゆっくりと落下し、その華麗な動きは、みんなの心を釘付けにする。 やがてほぼ全員が、とりつかれたように枯れ葉を抱えては投げ、抱えては投げ、、、そうしているうち、今度はいつの間にか雪投げ合戦ならぬ枯れ葉投げ合戦が始まり、、、そういう時は往々にして先生が的にされるのが定番で、、、。 てなわけで生徒と一緒に枯れ葉合戦で走りまくった私はクタクタになり、そこから後(あと)は「はぁ」とか「ひぃ」とかいう言葉が口をついて出るのだが、子どもらは、私よりはしゃぎまくっていたくせにまだまだ元気で、走り回りーのキャッキャと騒ぎまくりーの。よほど楽しいらしい。楽しくてたまらないらしい。 ……ふと思った。子どもらに楽しい時間を提供するのに、『T●L,T●S』や『US●』へ連れて行くより、こんなちょっとした山道へ散歩に連れて行くほうがよっぽど面白いだろうと。うわっつらの面白さではなく、奥のある面白さ。いや、『●DL,●DS』や『U●J』を否定しているんじゃないですよ。 ゲームも面白いだろう。テレビも面白いだろう。マンガも面白いだろう。今の時代、作られた面白さは身の回りにたくさんあふれている。でも、面白さが元来そなわっている物や面白さを自分で見出せる物って、身近にないんじゃないかな。人工の面白さではなく、自然の面白さ、原始的な面白さっていうのかな。 「何でもある時代」っていうけれど、「原始的な物」はどんどん失われている。確かに今の暮らしは便利な物や快適な物に囲まれているけれど、それらには味わい深い物や不思議さを感じられる物っていうのは少ない。神秘に欠けている。 原始的な面白さを発見する時間、神秘を体感する時間。そんな貴重で充実した時間をイベントを通じて提供できるプリゼミは、やはり素晴らしいな♪♪♪ ワンダホープリゼミ。 |