| 過去のちょいから (`▽´) ショート日記 |
| <2010夏> 6月 |
| 2010 6月 「カーナビ」 先日(5月28日)、「しょうざん」で行われた両洋高校の塾対象説明会に参加した。 その「しょうざん」へ行くのに、ちょっとした(いや、ちょっとじゃない?)トラブルがあった。 ところでその話の前に、私はとてつもなく方向音痴だ。その度合いは、病的かもしれない。 その方向音痴ぶりを伝える具体例はいろいろあるが、わかりやすいのを選べば、地元の人にしかわからない例だが、数年前、樫原小学校へ行くのに迷ったことかな。 自転車で行ったのだが、通常なら5分程度で行けるところで道のりも単純なのだが、私はそれをぐるぐると迷い、ガソリンスタンドの店員に聞いたり、携帯ショップの店員に聞きながら、30分ほどかかってたどり着いたのだ。 生徒にこの話をすると、「意味わからへん。」とハテナ顔。 やはり、プリゼミから樫原小へ行くのに迷うって、 一般的にはありえない話らしい。 また、他の例をあげると、ラクセーヌへ車で行ったものの、帰り道で迷い、家にたどりつくのに2時間ほどかかったこともある。 大型ショップの駐車場なんかでは、自分の車を停めた場所の方角がわからなくなることはショッチュウだが(ていうか、たまに、帰りにその駐車場自体にすらたどり着けず、なかなか店内から脱出できないこともある)、私の車がオレンジという奇抜な色をしているおかげで、なんとか見つけることが出来る。 大きいレストランでは、トイレに行くと元の席に戻ってくるのに苦労する。また、デパート内のレストランなんかだと、トイレがレストラン外にあり、そうすると、レストラン自体に戻ってこれないこともある。 そんな私のことをよく知っている友人たちは、私との待ち合わせ場所には、昔から必ず「駅の改札前」を指定してくれる。ちょっとでも改札から離れた所を指定すると、会えない確率が高くなることを知っているからだ。 …てな具合で、この日記をお読みのみなさま、私の方向音痴の度合いが尋常でないことを察していただけたことだろう。 よく車になんか乗っているね、と言われるし、自分でもそう思う。 でも、こんな私でもやってこれたのは、「カーナビ」のおかげ。 ふだん、私はデジタルよりアナログを好み、生徒にも、あまり便利なものやデジタルのものを使用させたくない、と考えている。その理念を表現するために、このプリゼミのホームページだって、その顔であるトップページを、手描き風に演出している。 そんなアナログ推奨人間の私でも、カーナビは手放せない。カーナビを使用しながらでも、しばしば道に迷うこともあるっちゃあるが、それでもこんな私でも、なんとか目的地にたどり着ける日々をもてるのも、カーナビのおかげだ(おおげさ)。もはやカーナビは私の親友だ。 しかし、この親友は裏切ることもある。文明の利器には落とし穴があるのだ。カーナビも、パソコンも、ケータイも、電子レンジも、所詮は機械。融通が利かないから、あまりどっぶり浸かっていると、右へ左へと翻弄され、機械に弄(もてあそ)ばれてしまうことに。 それに、こういうのはたいがい、ある日突然、いざという時に故障するのだ。普段そればかりに頼りすぎていると、急に機能しなくなった時に、あわてふためく。 そう、冒頭の話に戻るが、しょうざんへ行こうと、朝、車を出すと、カーナビがおかしいのだ。液晶が砂の嵐で何も映らず、ボタンを押しまくったり、スイッチを入れたり切ったり、トレーを出したり引っ込めたり、ナビのDVDを出したり入れたり、天板部を軽くチョップしてみたり(昭和かいな)、かれこれ10分ほど格闘したが、機能せず。 え〜、どうしようっっ、昨日まで機能していたのに〜(←ダジャレ?いえ、そんなオヤジギャグを言っとる余裕はありまへん)、これでは、とてもしょうざんには行けないよ〜っっ。 行くのを中止しようかとも思ったが、このために早起きをし、化粧もし、髪もひっつめ、スーツもばっちり来て準備万端なので、あきらめきれない。まだ時間にけっこう余裕もある。何か手はないだろうか。 つづく。 2010 6月 「ケータイ」 前回のつづき。 そこで、次なる文明の利器の登場、必殺ケータイ。番号を知っている知り合いの先生に片っ端からかけまくる。そうして、あるひとりの先生に助けていただき、しょうざんに行くことができた。ありがたや、ケータイ。(いや、感謝すんの、そっちちゃうやろ、先生に感謝せな。) やはり、もうちょっと、こういった状況でも対処できるような術は持っていないといけないなあと反省した。カーナビに頼り切らず、ふだんから地図と併用するなどの努力はしなきゃいけないなあと。それに、カーナビを使用し続けているうちに、年々余計に方向音痴の度合いが増してきた気もする。 ポンと目的地を入力すればいいだけ、あとはカーナビに従っていれば勝手に目的地に着くから、道順についてなーんも考えることがない、そんなことを長年続けてきたから、位置を把握する能力はおとろえていく一方なのだろう。 とにかく、便利なデジタル製品に頼りすぎるとおのずと頭を使わなくなる、ってことを、自分の体で実感した出来事だった。 …もしこの世にカーナビがなかったら、私はおのずと鍛えあげられ、今頃、地図が読めて、自力でたいがいのところは行けるようになっていたかもしれない、とも思う。 でも、だからといって、これらの文明の利器たちを全面否定はしない(どっちやねん)。だって、やはり便利なんだもん!!(←安易な発言) なんてったって、便利さ。その魅力は大きいよね。 だから、頼りすぎるのではなく、ほどほどに頼っておきつつ、いざという時はそれがなくてもいける知恵も持っておくという、二刀流というか、「上手な使い分け」が大事かな、と思った。 携帯電話も、やはり私は手放せない。 特に、数年前の出来事があってから、携帯は手放せなくなった。出来事というのは、、、 実家の母が、とつぜん倒れたのだ。その時、母は家にひとりだった。倒れた母は起き上がれず、家の電話まではとてもたどり着けなかったが、這いながら、そばにあった携帯を手に取った。頭をあげられず、その携帯の画面も見られない状況で、母は手探りでワンプッシュ(短縮)ダイヤルを押し、私の携帯にかけ、助けを求めてきた。 私はその時外出中だったが、携帯を持っているおかげで、母のSOSをキャッチすることができた。携帯の向こうの、意識が朦朧とした母のただならぬ状況にびっくりし、自宅へ実家の鍵を取りに急いで帰り、そのまま実家へ飛んで行った。 部屋で倒れている母を発見し、すぐに救急車を呼んだ。そして、父(これまた外出中)の携帯にもかけて、連絡をとることができた。 母はそのまま入院となったが、事なきを得た。最初はプリゼミを臨時休講する気持ちでいたが、母がとりあえず大丈夫ということで私は胸をなでおろしつつ、病院にかけつけた父にバトンタッチし、プリゼミに、ギリギリ授業に間に合う時刻に着くことができた。 たしかに、昔は携帯のなかった時代もあったわけで、その時は別に不自由を感じていたわけでもなかったから、今だって、なくてもやっていけるものかもしれない。 しかし、だからと言って、拒絶することもあるまい。いや、たしかに、「便利さ」は言い換えると「安易さ」になる時もあり、「これで果たしていいのだろうか」と、ふと自分を立ち止まらせる材料になり、敬遠する目線も生む。「携帯なんか持たなくてもやれるんだから、持たないほうがいいですよ」と私に説いた人もいる。 でも私は、科学の進歩、人類の進歩を柔軟に受け入れる姿勢も大切だし、事実、先の母のエピソードのように、携帯がなければあのような場面でスムーズな連絡は取れなかったと思うと、その貢献度合いは非常に大きいと痛感する。時として、命を救うものにもなり得るだろう。 そう考えると、私は一人娘だけに、今後もひょっとしたら、母がまた、もしくは父や自分が倒れたら、、、と想像すると、もう携帯は手放せない。この一件以来、この手の不安を抱えるようになった今、携帯は大変頼もしい。 文明の利器は、マイナスな面もたくさん持っているし、人間をアホにさせる危険(←なんちゅう表現や - -;)もある。だから、これらの機器の長所を最大限に生かすような使い方をするには、自制心が必要だ。 「自分をセーブしながら、ほどほどに使おう」という意識と冷静さがないと、マイナス面のほうを大きく受けることになってしまうだろう。 ……でも、これって、けっこう難しいことなんだよね。手軽であればあるほど、節度のない使い方に走ってしまいがちで。人間って弱い生き物だから。 だから、子どもには与えるべきではないと思う。まだ物事を判断する力が弱いうちから、こういう道具に慣れてさせてしまうのは、危険だ。やはり、物事の分別がつく大人が持つべき物だろう。 ん?大人はいいだなんて、大人のエゴ? 2010 6月 「アナログ地図」 てことで、今日は立命館中高の塾対象説明会に行くのに、手描きの地図を準備して挑んだ。なんてアナログ(´∀`*)人♪ と思いきや、この地図を描くのに、インターネットで地図を検索したし、また、この紙を持参したのではなく、この紙をケータイで撮影したのを持って行ったから、デジタルの恩恵を受けまくり。 まあ、でも、それがアナログとデジタルをうまく組み合わせた使い方かな♪ 紙1枚だとかばんの中でくしゃくしゃになるし、こうやって画像に残しておけば、また次に行く時にも使えるし。工夫しているという面で、かしこいかも。 ちょっと鼻高々♪ なのに、この地図を見せた他の先生に、「地図かくの、ヘタやな〜」と言われた。。。 2010 6月 「アナログ地図その後」 連日の塾対象説明会、そのたびに描く地図。その一部をご披露しよう。 ![]() これらの地図にカーナビを併せ、各学校への道のりを制覇する日々。地図を描くのが、だんだんうまくなってきているでしょう? ただ、このクオリティでも、大谷高校へは迷いまくったなあ、カーナビを併用したにもかかわらず。まだまだ修行せねばなりません。 ・・・で、塾説へ行ってんのならそんな地図の話よりも塾説自体の話を書いてくれぃ、という声が聞こえてきそうね。 ちょっとそれには、いろいろと悩むところがありまして・・・。塾説に対する私の視点は、おそらく大半の先生方とはとても違うため、その視点からの意見を述べると、他の先生方を否定するようなことになってしまうかもしれなくて、それで、塾説について書くことを非常に躊躇しています。 でも、その遠慮が、最近のこの日記を「ちょいから」ではない物にしてしまっているのも事実で・・・。 今年は勇気を出して、塾説のこと、書いてみようかな。そのうちにね。 2010 6月 「エラブユリのその後」 南京都高校からいただいたエラブユリが、次々と開花♪ 甘くすがすがしい香りが辺り一面に広がり、プリゼミの前を通る人たちが目を留める。プリゼミ生の保護者の方が、「うわ〜、きれいねぇ。みわこ先生、花を育てるのがお上手ですねぇ!」とほめてくださり、こそばゆかった。 というのは、世話らしい世話は何もしていなくて、球根を植えたあとは、ほとんど放ったらかしていたからだ。 球根をもらった時に、赤玉土がなんぼ、腐葉土がなんぼ、パーライトがなんぼ、とかいう土の割合などが書かれた紙をもらったが、全く気にせず、うちにあった土(毎年、チューリップや朝顔などを育てていた土)を使った。肥料も何もやっていない。 ただ、完全放置ってことではなく、いつも、気にかけることは気にかけていた。成長を楽しみにしながら毎日見ていたな♪日当たりには気をつけていたと思う。 保護者の方が「コツを教えてほしい」とおっしゃったけれど、「ほとんど放ったらかしていたら、勝手に育ってこうなりました」と答えた。これって実は、奥の深いセリフのつもり。 子育てにも通ずる話で、あれこれ手をかけず、放っておけば良いって意味で。。。 「放っておく」といっても、気にも留めない、全く興味をもたない、ということではなく、常に見守りつつ、余計な世話は焼かない、てこと。適度に放っておく、てこと。 ま、そう言いつつ、植物と人間とは全く同じではないので、このエラブユリの場合は、本音をいうと、球根が良かったんだろうと思います。 来年はこう咲くがどうか、非常に疑問(・ω・) ![]() 南京都高校からは球根を9つもらったので、4つをプリゼミの玄関前に植えたあと、5つを実家へおすそわけしていた。 実家では、その5つのうち2つは鉢植えに、あとの3つは庭に地植えにされたが、その育ち具合がすごいのなんの。「鉢植え」と「地植え」という環境の差は大きい。 右の写真が、その地植えバージョンの3本なのだが、1本につき10個以上の花冠がついている! (うしろのほうに遠く小さく見えているユリは、また別の種類のユリ。) さすが地植え。これを見てからプリゼミのプランターのエラブユリを見ると、ちょっと貧弱に見えちゃうよ〜(T-T) 育つ際の要素として、環境がいちばん大切ということかな。 ・・・このセリフの真意を読み取ってくださいね (*^-‘)b ヒント:子育てに当てはめて。 |