| 過去のちょいから (`▽´) ショート日記 |
| <2009春> 3・4・5月 |
| 2009 3月 「武勇伝・その8」 ひっさびさの武勇伝。なんと、前回から2年ぶり(゜□゜;) もはやオリラジの『武勇伝』というネタとあのリズムは、すっかり過去のものとなり、今さら「古っ」と言われそうだが、そもそもオリラジの武勇伝が「ベスト10」までいって完結するというシステムなので、私も「10」までは続けようと思っている。 ところが、これがなかなか難しい。武勇伝を披露するには、まずは生徒が珍解答をしてくれないといけない。そしてさらに、珍解答が出たとしても、クラスの雰囲気、または、生徒によっては、披露できない場合もある。 珍解答を出した本人も爆笑し、クラスが明るい笑いに包まれる、そういう場合にしか、ここでご披露できないという、案外デリケートなものなのですよ、この武勇伝。 実はこの「武勇伝」、ちょいから日記の中でも人気バツグンで、武勇伝ファンがいらっしゃったりする。てことで、 さあ、ファンのみなさま、非常に長らくお待たせいたしました。 さっそくいってみましょう(σ`∀´)σ♪ ♪Fくん答えを言ったげて♪おぅ聞きたいかオレの珍解答♪そのすごい珍解答をゆったげて♪オレの伝説ベストテン!♪レッツゴー。 中学クラスより、英語の授業にて。生徒Fくんの場合。 問題≫次の( )内の語を適する形にかえなさい。 We liked the Chinese food (cook) by your mother. Fくんの解答≫not looking お?!それ、単語自体が変わっとりますな。 私が「look(=“見る”)て、どこから出てきたん?」と聞くと、Fくん「うわ、ほんまや、cook(=“料理する”)やった、lookに見えたわ!」とのこと。 ちなみに正解はcooked。 ・・・・・・と、ここまでなら、「cookをlookと見間違えたってか?大したことない珍解答じゃん。」と思われることだろう。ところが、Fくんの本当の珍解答はここからなのだ。 ここでFくん曰(いわ)く、「え、でも、cookやったら、意味がわからへんくなる!」 さらにFくん、「これ、lookの間違いじゃないの?」と、テキストの印刷ミスを指摘するごとき発言。 なぜ?Fくんはどうしてlookのほうがふさわしいと思うのか? そこで私は彼に、この文を日本文になおさせてみた。 Fくんの訳≫私たちは、あなたのお母さんの足が見えなかったので、中国でさがしました。 F:「だから、cookやと『足を料理する』ってなるやん!ヘンやん!」 私:「いやいや、『足』がヘンやわ。なんで『足』?どっから『足』?」 てなことで、このあと、よくよく聞いてみると、要するにFくんは、文中のfood(フードゥ=“料理”)をフットゥと読み、つまり、foot(=“足”)と勘違いしていたのだ。 ↓ちなみに↓ 本当の訳≫私たちは、あなたのお母さんによって作られた中華料理が気に入りました。 私:「Fくんよ、そもそも、そんな訳をした時点で『おかしいな』と気づかへんかったんか?“お母さんの足が見えないから探す”て、どんな状況よ。このまじめなテキストにのるような文ちゃうやん。」 F:「そやねん、僕も、なんて訳したらいいかわからんし、おかしいなって思ってんで。そやけど、“足”やと思い込んでたし、ああするしかなかってん〜」 実はFくん、学校の英語の評定も素晴らしく、よく出来る子なのだ。だからこそ、私はこのとっぴょうしもない訳と解釈に面食らってしまったのだ。なんちゅう訳をするのだ。 Fくんともあろう子が、“food”を“足”と勘違いしただけで、全体の訳がこんなふうになってしまい、cookがlookに見えてしまうとは! このあと、しばし「お母さん、幽霊かいな」とか、「足、探すんかい、コワイわ」、「しかも、なんで中国やねん」などと、ツッコミ劇場で盛り上がりました。 武勇伝、武勇伝♪ ぶゆうでんでんででんでん To be continued. (※Fくんに、このエピソードをここに載せることは、了承済み。) 2009 3月 「腕を組むくせ」 だいぶ前の話だが、小学国語の作文授業で、日本作文協会のその月の課題は、「“くせ”について書こう」だった。ほとんどの生徒が自分の“くせ”について書く中、ひとりだけ、「みわこ先生のくせ」というタイトルで作文を書いた子がいた。 『みわこ先生のくせは、うでを組むことです。……』 そう。私は常に、腕を組んでいる。気がつくと、組んでいる。気がついて解(ほど)いても、またいつの間にか組んでいる。 なぜ、こんなくせがあるのか、私は自分で原因がわかっている。 このくせは、私が講師になってからついたもの。最初は、くせではなく、意識して腕を組んでいた。先生っぽく、威厳があるように見せたくて? ってなことではなく、自分をセーブしよう、という心理状態が働いた結果、腕を組むという姿勢を意識的に作っていたのだ。 わかりにくいですか? 私は今でこそ、生徒を「見守る」、「待つ」という姿勢が板についているが、講師を始めたころは、生徒に対して、反射的に口や手が動いてしまいそうになった。でも、見守ることの大切さは、その当時からわかっていた。 たとえば、こういうことだ。あの頃の私は、目の前で生徒が間違った式や答えを書くと、反射的に「ちゃうちゃう!」と言いそうになってしまっていた。生徒のことを一生懸命みていればみているほど、そのような反射が働いてしまう。だが、その瞬間、「ダメダメ、もう少しこのまま続けさせて様子を見なきゃ」という自分へのブレーキが間一髪でかかり、出かかった言葉をグッと飲み込む。 出そうになるのは言葉だけではない。身振り手振りも出そうになる。反射的に生徒の手を止めようと、思わず私の、赤ペンを持っている右手が伸びそうになる。だから、言葉を飲み込むと同時に、自分の手も封じようと、それで、腕を組むのだ。指導に夢中になっているうちに体が前かがみになり、生徒にのめりこみそうになっている自分に我に返り、そんな自分のからだを引くためでもある。 つまり、意識的に腕を組むことで、「思わず手や口が出ないように」と、前もって自分をしばっておけるのだ。そして、のめりこみすぎず適度な距離を保とうとすることで、生徒と自分の状態を客観的に把握でき、的確な判断がつけやすくなる。 教室内だけではなく、外でもそういった場面はある。生徒が自転車をひっくり返してしまった時など、思わず私の体が勝手に動いて、自転車をおこしてあげようとしたり、かばんをひろってあげようとしたりと、反射的に世話をやいてしまいそうになる。しかし、そこでもやはり思いとどまって、クッと自分を制止すべく、腕を組む。そして、生徒が自力で自転車をおこすのを見守る。 そんなことをくり返しているうちに、それがいつの間にかくせとなってしまい、私は常に腕を組んでいる状態となってしまった。なんかエラそうだな〜。 今では見守る姿勢が身に染み付いていて、反射が働かなくなっているから、腕を組む必要はなくなったのだが、なんせ、くせとなってしまっているから、まるでそれがホームポジションのごとく、すぐに両腕が自動的にからみながら、胸の前に戻ってしまう。イッツ・オートマティック。授業中はもちろん、テレビを見ている時も、レストランで料理が出てくるのを待っている時も、寝ている時も、お話しをしている時も……。 そう、やっかいなのは、人と話をしている時に無意識にこのくせが出てしまうこと。相手に、なんてエラそうなやつなんだと思われているに違いない(T‐T)。 特に、保護者の方と話をする時にもこのくせが出てしまうから、それが最大の悩み。気をつけていても、熱心にお話ししているうち、いつの間にか勝手に腕を結んでしまっていて、自分でそれに気づいた時は「ゲッッ」と思って慌ててほどくのだが、「人と話をするのに腕を組むとは、こんな失礼なことはない」と反省せども、反省せども、なかなか直らない。 かつては、思わず出てしまいそうな手をおさえる努力をしていたのに、今では、思わず組んでしまっている腕をほどく努力をしているのであります(;_;)。 2009 3月 「うまく答えられなかった」 実は、3月11日に、こんなことをしていました。 ↓↓↓↓↓ ![]() 白衣姿で、マイクを持って前でしゃべっているのは私です。 スーツ姿の大勢の紳士&若干の淑女たちは、塾の先生たち(みなさん塾長)です。 ぴったり30名の先生方の前で、とっても緊張しましたが、30分間、プリゼミ(私)の理念を熱く語らせていただきました。 話し終わった時には、みなさん、スタンディング・オベーション。というのはウソです。 さて、今日の日記は、この時の話ではなく、その直後のお話。 このあと、先生方と一緒にランチをいたしました。その時に、小林稔侍(こばやしねんじ)似のG先生が、私にある質問をなさいました。で、正直にここで白状いたしますと、私はその質問に、テキトーに答えてしまいました。私がバカでした、ごめんなさい。 なぜ、テキトーに答えたのかというと、私はあの時、とっさにいい答えが浮かばなくて、おろかにも見栄をはってしまったのかな、「何か立派な答えを言わなきゃ」と焦(あせ)ってしまったからです。そして、とっさにウソを答えてしまったのです。いや、ウソではないのですが、本当でもない、テキトーな思いつきの答えでした。 なんだか、あのランチではプレッシャーがかかっていました。 上の写真で、前でマイクを持ってしゃべっている私ですが、緊張しながらも、けっこうぶちかましました。そして、ありがたいことに、大きめの拍手をいただいたり、「素晴らしかった」との感想をいただいたり、いろいろおほめの言葉をいただいたりしました。 それだけに、自分で自分のハードルをあげてしまったというか、そのあとのランチの場でG先生に「教えてほしいことがあるんだがね」と言われた時には、「うわっ、私の答えに期待を抱いて聞いてこられているんだ!」と、構えてしまいまして(;_;)。おろかな私。 G先生のご質問内容は、こうです。「数学の文章題が苦手な中学生で、その文章の意味自体がわからない、文章が読めない、文章の意味がとれない子には、どう対応しているのですか」という感じのもの。 正直にいうと、この時、私はこの質問に対する答えがとっさに浮かびませんでした。今から思えば、G先生に正直にそう言えばよかったのに、その時は「うわ、何か答えなきゃ、うわ、うわ」という気持ちでいっぱいで(;_;)。 で、思いつきでその場で答えたテキトーなことというのは、「絵をかかせます」というもの。確かに、プリゼミでは、算数・数学指導において、絵をかかせて考えさせることは重要視し、ふだんから描かせまくっているのは本当で、だからこそ、このことが咄嗟(とっさ)に思いついて口から出たのですが、でも、G先生のいう「文意のとれない子」への対応策ではなかったのです。 このことで、少々へこみながら家路についたのですが、帰宅後、気づいたことがあります。私には、指導において「こういった場合には、こういう対処法を」というものがないんだな、と。だから、ご質問に、とっさに答えることができなかったんだ、と。いや、答えを持っていないんだな、と。 私は、子どもに対して、常にアドリブで接しています。子どもの性格、その日の調子、その時の気持ち、それを感じた上で、その場で対応法が思い浮かぶのです。いつも私は“ひらめき”の連続で、困っている子や行き詰まっている子を解決に導くために、その様子を見て急にひらめいて、2階へ走ってぬいぐるみをとってきたり、突如その場でコピーをとることは、日常茶飯事です。 確かに、私が積み上げてきた11年の講師経験から、ある程度の「こういった場合は、こうすればいい」というものも持っています。でも、それにしばられず、常にリアルタイムで、目の前にいる子どもに対して、いつも何かその場でひらめきながら指導しています。 また、そういったアドリブも、いちいち考えながらやっているのではありません。「こうだからこう、」と考えてやっているワケではないのです。自然に、無意識のうちに、勝手に浮かんで行動に移しているのです。 この日記にも、いろいろ私の考えを書いていますが、それは全て、その時にそう考えながら行動しているってわけではなく、あとから振り返ると、「おそらく私はこう考えているんだろうなあ」と分析したことを、書いているのです。 私は、その時の生徒を映して反射する鏡です。私という鏡に映る生徒像は、その瞬間にしかない姿で、また、私が反射する光も同様に、その時にしかない光なのです。私は常に無意識なので、生徒像の数だけ、反射の光の数があり、それは無数です。同じ生徒だって、日によって違う像を映します。 だから…。「こんな時には、こうするよ」というひとつの答えを持っていないのでしょう、それで、あの時G先生に、とっさに答えられなかったのでしょう。 確かに、文意のとれない子には何度となく出会ってきました。そして、対応もしてきて、実際に解決にも導いてきました。ところが、それをどうやってやったのかを、いざ思い出そうとしても、すぐに思い出せないのです。なぜなら、その場、その場で思いつきでやってきたからです。私の行動は、その場限りの行動なのでしょう。浮かんでは消え、浮かんでは消え、押し寄せる波のごとく、です。 でも、このG先生のご質問に対して、家に帰ってからふと、よみがえった記憶がひとつあります。ふだん意識してやっているわけではない私の行動の中に、そういえば、生徒が文意をくみとれずに困っている時に、よく私がやっていることがあるなあと、気づいたことがひとつあります。それがおそらく、G先生のご質問への、私の本当の答えになるのでしょう。 長くなったので、それはまた次回に。 また、「ひっぱりやがって(`A´)」と誰かに怒られそうですが、今度は近いうちに、必ず書きますので〜。 少々お待ちを〜。しばしご歓談を〜。(ダンボール裏向け中) |
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| 2009 4月 「うまく答えるぞ・1/2(にぶんのいち)」 てなことで、前回の日記のつづき。 中学生数学の文章題で、文意がとれない子にはどう対応するか。 また、似たようなシチュエーションが最近、小学生の算数や国語であり、特に、国語クラスのほうで連発してあったので、それも含めての回答になると思う。 国語にしろ、算数にしろ、数学にしろ、設問の意味自体がとれない子がいる。何を聞かれているのか、その設問は何をいわんとしているのか、どんな答えを求められているのか、それ自体をつかめない子がいる。 くり返し読ませても、また、声に出して読ませても、やはり文意を汲めなかったりする。 そんな時は、私が音読して聞かせる、という方法をとる。 私の指導経験から、同じ文でも、目でひろうのと耳でひろうのとでは、理解度がだいぶ違うと思う。 数学の文章題でも、国語の読解問題でも、日本語だ。だから、わからないはずはない、と思えど、やはり主語・述語の関係などの文節のつながりや、文と文とのつながりがきちんと体得され、そのへんのカンが養われていないと、目でひろう日本語の文に「ん?」と思ってしまうのは確かだろう。 ただ、 文意がとれない原因は、文の構造うんぬんの他にもあると思う。 それは、「勉強」というひとくくりの枠におさめるせいで、今やっている事柄が「日常」とは違うものだという認識が、生徒の中に無意識に生じていることだと思う。日常と切り離すと、リアルさに欠ける。そして、リアルさに欠けることが、理解の足をひっぱる。 本当は、勉強というものは日常と切り離せないものなのだが、生徒たちには、いや、保護者にさえも、別物と認識されがちだ。そして、そういった人たちから生じるのが、「勉強って、何のためにするの?」「歴史の年号を覚えて、何になるの?」「連立方程式や因数分解なんか勉強して、何の役に立つの?」という疑問だ。ちょっと話がずれてきたので、この話(勉強は何のためにするのか)はまた別の機会に。 プリゼミの小学生さんすうで使用している能力開発系の教材に、よくシーソーの問題が出てくる。動物たちが体重くらべをしている絵が描かれている。 意外かもしれないが、そのシーソーの絵を見て、上にあがっている動物の方が重いと答える子は多い。 しかし、そんな子たちも実際のシーソーを見れば、「重たいほうが下にさがる」と自然に答えられる。実際のシーソーと言っても、私が長い定規をティッシュ箱などにのせて作った簡易シーソーだ。そして、真ん中を指でおさえ、片方の端にえんぴつキャップを、もう片方に生徒のペンケースを置いて見せ、「私が指をはずしたら、どっちが下がると思う?」と聞けば、すんなりと、さも当たり前のように「こっち」と、ペンケースをさしてくれる。さらに、私が「じゃあ、答え合わせ。指をはずすで〜」と言えば、自分のペンケースが落下することを察知して、前もって下で受け止めようと手を構える。 つまり、生徒は紙に印刷されたものに対すると、「これは勉強だ」という枠が不必要に作用し、「上」という概念と「重い」という概念が結びつくという勘違いが生まれる。感覚が異次元へブッ飛ぶというか、頭が非日常的に作動するのだ。だから、実際のシーソーを見れば結末を想像できる子も、紙に描かれたシーソーだと正常な判断がつけられなくなったりするのだ。 先ほどの、数学の文章題や国語の読解の件だが、それらも同じで、「これは勉強」という頭で文章に対すると、そのような既成概念が余計な雑念として無意識に入ったり、はなから雰囲気だけで難しさを感じてしまい、「こう考えなきゃいけないだろう」と頭がまわったり、目先の文面にとらわれて、言葉のいっこいっこに意味を見出そうとして、文全体の意味が把握できなくなったりする。 長いので、この先はまた次回(^-^)/ 2009 4月 「うまく答えるぞ・2/2(にぶんのに)」 つづき。 で、「みわこ先生、わからへん」と助けを求めてきた子に、私はあたかも、アドバイスをするように見せかけ、実はその文をまる読みしているだけ、というワザを使ったりする。 たとえば、テキストの設問が 「○○は〜〜で、☆☆☆です。その時、△△だとすると、□□□は・・・・・・、つまり◇◇◇◇◇です。では、◇◇の場合、×××××はどうなるか答えなさい。」 みたいな感じで、生徒が何度読み返しても、声に出して読んでも問題の意味をつかめられないと言えば、私は生徒の目線からテキストが隠れるようにさりげなく案配(あんばい)しながら、 「あのな、○○は〜〜で、☆☆☆やねん。その時、△△やとすると、□□□は・・・・・・、つまり◇◇◇◇◇やねん。では、◇◇の場合、×××××はどうなると思う?ってことを聞いてはんねん。」 すると生徒は「ああ、そういうことか、わかった。」と言うのだ。 よく見比べてもらうとわかると思うが、若干、語尾を関西弁にしているだけで、あとはテキストの文をまる読みなのだが、あんがい生徒は気づかないもので、「みわこ先生の生(なま)解説」と思い込んで聞いている。で、自分で読んだときには理解できなかった文も、全く同じ文を私が読んで聞かせただけなのに、「ああ〜」と納得するのだ。不思議でしょう? 私の読み方に抑揚(よくよう)がついているとか、わかりやすく区切って読んでいるということはなく、むしろ、あえてそういうことがないように、シャシャシャシャッと読んでいる。それでも、生徒は「そういうことか〜」なんつって把握してくれる。 自分で読むと「日常」とは別枠、つまり「勉強」という枠でがんじがらめになってしまう子も、私が読むのを聞くというシチュエーションになるだけで、「先生との会話」という感覚からか、ごく日常的な脳に切りかわって、素直に捉えられるからだろう。 文の構造がわからないという原因以外に、がんじがらめになっているだけが原因の子も多いので、そういう子には、上の方法で解決することが多い。 シーソーにしろ、先生のまる読みにしろ、コツは、生徒の意識をいったん紙面から外して、「お勉強の世界」から「現実の世界」へ引き戻してやること。 生徒には、しばらくネタばらしはせず、何度かこういうことがあって、そして何度目かのある日、「実は今まで黙っていたんやけれどさ、これ、私、読んでいるだけやねんで。今までずっと、そやってんで。だから私、なんにもアドバイスしてへんねん。あんた、自分で勝手にわかってくれててん。ラクやったわ〜。」と、今までのことをバラすと、生徒は目からウロコという感じで、文章への苦手意識がうすらいでくれる。自分が実は文意を把握できる能力があったのだと自覚してくれる。そして、次からは自分で読んでくれる。たまごの薄皮がつるっとむけたような反応を示してくれる。 苦手意識を持っていることと、「お勉強の世界」という異次元に縛られることとは相関があるようだ。だから、苦手意識がなくなると、その件に関しては異次元へブッ飛ぶこともなくなったりする。 上のような「ある日のネタばらし」は、苦手意識を取ってやるキッカケを作ってあげることにもなり、そこからもう「お勉強の枠」は取れて、自然な態度で取り組めるようになったりする。 …と、こんな感じで、回答になりましたでしょうか、G先生??(って、読んでくれたはるのかなあ。) このように、私は、上に書いたようなことを、その時は意識してやっているのではなく、無意識のうちにやっていて、で、こうやってあとから分析して書いているのでございます。 ですので、あの時、とっさに答えられませんでした(;_;)。 また、上のを読んで、「ほう、なるほど!」と思われる先生もいらっしゃれば、「えー、そうかなあ」と疑問を抱かれる先生もいらっしゃるでしょう。ただ、上の考えが、私の答えなのです。先生方にも、個性はいろいろ♪また、こんな風にみなさんで聞き合ったり、意見を出し合ったりできるといいですね☆ 2009 4月 「プリゼミvsむいむい」 春の陽気で、すっかり外気(がいき)がポカポカになった先日の夜。中学生の授業が終わって、彼らの帰りを見送るべく外に出ようとし、プリゼミのとびらを見て、落胆した。 「ああ、またこの季節がやってきたのか…。」 と、心底ガックリorz。 というのも、ガラス張りのとびらは、教室の明るさに引き寄せられたむいむい(小さな虫)だらけ。むいむい達は外からガラスに張り付きながら、教室内に侵入するチャンスをうかがっている。 プリゼミは住宅地にあるため、周りは主に一般家庭。だから夜になると、プリゼミの看板と教室だけが明るく光り輝く。そして、むいむい達を集中的に吸い寄せてしまう。 これまで毎年、いろいろ策は練ってきたが、どれも効果はイマイチ。青白い電気で誘い寄せて電気ショックを食らわせるという「電撃殺虫器」を入り口に仕掛けるも、その殺虫器が小型ゆえか、集まるむいむいの数に追いつかず、「焼け石に水」程度の効果。いや、むしろ、その誘虫灯の青白い光に誘われて、余計にむいむいが集まって来ている気がする。もっと、コンビニが設置しているような規模の、大型の殺虫器を買えばいいのかもしれない。でも、高価すぎて…! 虫忌避(きひ)スプレーを入り口周囲の壁に吹き付けてみるも、効果なし。また、昨年発売された「虫コ○ーズ」もぶらさげてみたが、その「虫コ○ーズ」自体にむいむいがイキイキと留(と)まっている始末。ツワモノむいむい。 このむいむい達は、日没ごろ、つまり、中学クラスの生徒が通ってくる時刻ぐらいに集まり出す。そして、中学生の入室と同時に教室に侵入してこようとするので、この季節には、生徒たちに「素早い身のこなしで入ってくるように」と指導している。生徒たちも従順で、忍者のごとく、ぱぱっ、ぱっ、ぱっ、と入ってくれ、そのおかげか、そしてまた、教室の入り口が2重とびらになっていることも相まって、侵入むいむいは数匹におさえられている。 だが、侵入した数匹のむいむいは、おとなしく壁や天井にでもとまってくれていればいいものを、テキストの白く輝くページがお好きならしく、問題を解く生徒たちの手元にプンプンちょっかいを出しに来ては、生徒の気を散らしまくる。教室には電気蚊取りを設置しているので、数十分がまんすれば、いつの間にか静かになるのだが。 しかし、いちばん困るのは帰り際。日が暮れてからの中学クラスの授業中にどんどん集まるむいむいは、2時間半という授業時間の間に、とんでもない数になっている。帰宅時刻には、ガラスとびらにとまっているその数が多すぎて、中から、とびらを開けるに開けられないのだ。多すぎるってもんじゃない、おびただしい。だから、ちょっとでも開けようものなら、どわっと飛んで入ってくる(つまり、こちらの顔面へ向かってくる)ので、それで、中から開ける勇気が出ないのだ。 時には、そのむいむいを狙って、蛾(ガ)がとまっていることもザラ。よくお太りになられた大きな蛾がいらっしゃる時は、ガラス越しに、中から生徒がぎゃあぎゃあ言って、教室から誰も出られないのである。生徒が「みわこ先生、なんとかして〜」と泣きついてくるが、私も虫はイヤなのだよ。毎夜毎夜、こちらが助けてほしい。 また、むいむいを好んでやってくるのは蛾だけでなく、蜘蛛(クモ)も。プリゼミの入り口が、あっという間にクモの巣だらけになる。ホラー屋敷かいな。 巣を払っても、払っても、半日で張られる。時には、授業中の数時間で、入り口付近に停めた生徒の自転車に見事なクモの巣が張られることもたびたび。もちろん、巣には、主(ぬし)であるクモちゃん付き。プリゼミの入り口周囲の数個の巣にも、それぞれに種類の違うクモが構えていて、まるでクモの品評会みたいになっている。 たまに、私が教室の前で、両手で傘をブンブン振っていることがあるが、野球のバットに見立てて素振りをしているのではない。クモの巣を払うついでに、傘にくっついたクモを飛ばしているのだ。なのに、クモたちはすぐにプリゼミに帰ってくる。 …ああ、また今年もこの季節がやってきたなあ。今年こそ、何か効果絶大な策を見つけるゾ。 |
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| 2009 5月 「封筒」 4、5年ほど前、とあるところから、無地の茶封筒を大量にもらった(五千枚くらいあるんちゃうやろか)。うすっぺらくて細く、クオリティーはイマイチなのだが、なんせ大量にあるもんだから、それを、生徒や保護者への、月の途中で渡すお手紙を入れるのに活用させていただいている。 最初のころは、その茶封筒にプリゼミの教室印(ハンコ)を押し、サインペンで○○様と記入していた。なんとなく、「こうすると、使い捨てのようでモッタイナイな」という気持ちはあったのだが、保護者へのお手紙を、何も書かない封筒に入れるのは格好がつかない(だって、封筒自体のクオリティーがイマイチなだけに、何もしないとショボイんだもん)、と思う気持ちもあり、葛藤していた。 で、封筒が大量にあることも相まって、けっきょく私は保護者への体裁(ていさい)を優先し、印を押し、○○様と記入し続けていた。 そんなある日、生徒たちに順番に封筒を配った時、当時小学生だったSくんがふともらした言葉に、私はハッとさせられた。 Sくんいわく、「なんでこんなん書くん?あと使えへんやん。ふうとう、もったいないなあ。」 あまりにも純粋なその言葉に、「やっぱり、そうやんなあ」と思うと同時に、「私は見栄を優先する、つまらん大人なんだなあ」と、気づかされた。 そこで、彼に「いかにもその通りや。いいこと教えてくれたな。ありがとな。」と返事した私(←私も素直じゃろ?)は、次からは、教室印は押さず、○○様もサインペンではなく、えんぴつでうすく、しかも小さく書くようにした。そして、みんなに渡す時に、「消したら使えるから、家でぜひ封筒を再利用してな」と言葉をそえるようにした。 あれから4〜5年たち、現在Sくんは中1。 4月の中旬、数学&算数イベントの参加申込者の決定時刻を伝える手紙を、各クラスで配った。もう、えんぴつで書くことさえもしていない、無記入の封筒で。 すると、中1クラスで配った時、他の生徒のひとりが「ふうとう、もったいな〜」と言った。やはり生徒の感覚からすると、封筒とは、住所と名前を書いて切手を貼ってポストに入れるという使い方が主流なため、「ただ手紙を入れるだけに使う」という利用の仕方が、無駄に感じられるのだろう。でも、そういう気持ちが生まれることは、とても大事なことだと思う。その心を持ち続けて、大人になるのだよ〜。まあ、確かに封筒に入れずに、手紙を素(す)で持って帰ってくれてもええんやけれど、うち封筒が大量にあるから、もらってやってほしいのよ。 で、私は、「そやし、ほったらかしにせず、ぜひ家で使ってな。そのために、封筒に何も書いてへんねん。」と説明した。そのついでに、「実はな、以前はサインペンで○○様って書いてたんやけどな、プリゼミのハンコも押してたりしたんやけどな、その時小学生やったある男の子に、もったいないと教えられて、それから、サインペンで書いたりするのん、やめてん。」と、あの時のエピソードもみんなに伝えた。 Sくんは「ぼくのことや。」と思ったのか、ニンマリ。ほこらしげに、そして、ちょっと嬉しそうに微笑んでいたSくん、きみもあの時「もったいない」と言って私の心を動かしたという経験を、いつまでも大切にね〜☆ 2009 5月 「イベアブ1」 イベリコ豚あぶり焼き1人前を想像されましたか?そうではありません。「イベアブ1」とは、「イベントでのアドリブ・その1」の略でございます。 …んなもん略すなって?日記を読んでいただけるためにと、なにかとインパクトのあるタイトルをつけたくってですね、必死でございます。 さて、先月(4月)に、すうイベこと「数学&さんすう体感イベント」が無事終了した。今年のすうイベは、これまでとはひと味違うものだった。 なんてったって、計画通りにいかず、現場でのアドリブを利かしまくった点。これは、これまでのすうイベと比べると、向上したんじゃないかと思う。 イベントでアドリブを利かすのは難しい。なぜなら、イベントというのはその場限りしかない完結モノだからだ。ある意味、時間との戦い?時間を見つつ生徒を見つつ、何を優先すべきかの判断を強いられる。 授業でアドリブを利かすのは、次があるので楽勝だ。もし生徒の反応に合わせたがために、こちらの当初の予定にくるいが生じたとしても、年間計画という大きなくくりの中で、つまり次回以降の授業の中で、くるいを調整してゆけるからだ。 だが、イベントは「また次の時に」というのがなく、その場で完結させなければならない。それゆえ、アドリブはかなり難しい。 結論からいうと、今回のすうイベでは、事前に想定していたものとは違った形になったグループがあった。「グループ」というのは、プリゼミの教室が小っちゃいせいで参加者全員が一堂に集まれないため、参加者を分けるのだが、時間帯を変えて教室に呼び、それぞれに同一内容のことをする。今年は3グループだった。 さて、どのグループでも同一内容のことを実施するはずが、実際にはグループによって進行やコンセプトが全く違ってしまったりする。それは、グループの顔合わせ、つまり、誰と誰が同じグループになるかという組み合わせによるところが大きい。 2つめのグループが、けっこう思いがけない方向へいった。 今回、工作は2種類あった。「ふしぎカレンダー」と「トゲトゲボール」だ。トゲトゲボールのほうは小学生にとって難易度が高いもので、私は前もって、なるべく組み立てやすい方法を模索し、アレンジもしていた。それでもみんなが自力で組み立てるのは難しいと判断していたので、当初の私の予定では、となりの子同士でペアを組んで、助け合いながら(相手におさえてもらったりしながら)協力して、また、場合によってはセロテープも使いながら挑ませることにしていた。 それが、これは全てのグループで言えることなのだが、誰もがセロテープは使いたがらず(苦戦している子にすすめても「セロテープは絶対イヤ」と拒む)、また、周囲の子と決して協力し合わず(なんてこったい!)、各自が自力でもくもくと作ろうとしていた。それでも1つめのグループの子たちは、ひと作業ひと作業、私の手の動きや説明をじっくり聞いては、同じように手を動かしたので、わりかしスムーズに、上手に作り上げてくれた。「みんな案外できるもんや!」と、こちらがびっくりしたぐらいだった。 ところが、柳の下にドジョウは2度いないというか、2つめのグループでトゲトゲボールに挑んだ時、「やっぱり、1つめグループの子らは奇跡やったんや。あの子らは、私の言うことを聞きすぎなぐらいやったんや」と思い知らされた。いや、2つめのグループでは、カレンダーを作っている時点で、予感はしていたのだが…。 2つめグループには、自分で先に先にと進んでしまいたい人が多かったのだ。それは予感していたので、私は前もって 「ああじゃない、こうじゃないと考えていろいろやってみたいのはわかるし、それは大切なことで、本当は私もそうさせてあげたいが、それは家に帰ってからで、この場はひとまず、言うとおりにやってみること。なぜなら、みんな集まってのイベントなので、他の人と歩調をあわせるというのも大事だから。ここは自分の好奇心をおさえて、ひとり突っ走ってしまわないように。」 と忠告したのだが、やっぱり言うこと聞かんのな〜(TдT)。 つづく。 2009 5月 「イベアブ2」 前回のつづき。 イベリコ豚あぶり焼き2人前ではありません(もういいっちゅーねん)。 私の「こうやったら組み立てやすい」という説明や手の動きをちゃんと見ず、勝手に作っていく彼らの心理には2つの思いがある。ひとつは素直に、自分で発見したいという好奇心&探究心。もうひとつは「わかる自分を示したい」という気持ち。こちらは、周囲の子をライバル視する気持ちも引き起こすので、周囲が「わかった!」などと言うと、「自分だってわかる!」と示したい気持ちがますます増長される。 そんな子らがお互いに火をつけあって、自己流で作る作る(TдT)。「先生の説明を聞かなくても、自分で出来る」という意固地な姿勢もチラホラ見える。案の定スムーズにいかないし、間違ってしまってにっちもさっちもいかず、わけがわからなくなって全部ほどいて1から作りなおすハメになったりと、とにかくちょっとしたパニック。 しかしそこで、「ええから、私に従え!」と強制することもできなかった。先走らず、しっかり説明を聞くようにと何度か注意しつつも、それでも勝手に作ってしまう彼らを、見逃しもしていた。 というのは、なんやかんや言いながら、みんなめげずに集中して作り上げようとしていたからだ。そのこともハッキリ言って想定外。こんなに一生懸命に取り組むなんて!嬉しい想定外。でもそれだけに、見守りたい私の気持ちが倍増され、結果、困ることに。みんながかなり時間を費やしているからだ。 彼らの気持ちがわかる。私自身も好奇心旺盛で、昔から自分であれこれ工夫したり考えたりすることが好きだった。自力で研究すれば、その先に自分で発見する理論があるのもわかっている。そんな思考錯誤の時間がいかに大切かわかっている。 しかし、そればかりを優先するのも、ある意味ワガママかもしれない。そういう個人的な探究心の優先は、団体行動の中ではワガママになるだろう。家でひとりで研究しているのとは違い、みんなで一緒に何かをしている時というのは、時間がいくらでもあるわけではないからだ。事実、今も彼らが、スムーズに「わゴム」をかけるコツをきちんと聞かず、先先(さきさき)と自己流のかけ方をしていることが、大幅な時間ロスを生んでいる。 私の言う通りにするか、セロテープを使うかすればスムーズにいくのに。みんなが不器用に作っているのを見ると、時間が気になるのと、また、そういう子たちへのフォローが大変でみんなに目を配れなくなるのとでヤキモキ。しかし、不器用ながらも作り上げようとするみんなの根気強さを見ると、その姿勢をつぶすことは出来ないという思いも。私は「生徒の気持ち」と「残り時間」との板ばさみ。彼らに、どこまで譲歩して、どこまで私が手を出すか。そのバランスが非常に難しかった。何かを許した分、そのつじつま合わせに何かを捨てて(あきらめて)、どこかで私が100パーセント手を出す部分も作らねばならない、その判断。 結果、予定終了時刻を15分オーバーしたが、あとから振り返ると、限られた時間の中で出来るだけの子どもたちへの譲歩はしてやれたと思える。また、あきらめるべき部分の判断もつけられ、そこはうまく捨てられたと思う。こちらの描いていた計画とは違う感じだが、つまりは子どもの反応に対して、そこそこ適切なアドリブを利かせられたんじゃないかと思う。 来てくださった保護者の方のおかげもある。保護者の方の反応というか、非常に協力的な姿勢を見せてくださったので、もうここは遠慮せずに思い切っていっそ保護者の方に任せ切ってしまおうと判断したのも、アドリブのうち。 あの、保護者の方にお任せした女の子は、実をいうと唯一、私が予想していた姿を見せてくれたかも。私の「となりの子と協力し合って」という構想が、この女の子の場合「となりの子」というか、「となりのよそのお母さん」という具合になったけれど、それに、協力し合う比重が一方向だったけれど、その中でこの子も決してセロテープを使うとは言わない根性を見せながら、どうにか作り上げてくれて、私はとてもホッとした。ただ、私が失敗しちゃったかな〜と思うのは弟くんに対してで、あとから私は、「あのとき弟くんには、好きな形をいろいろ自由に作らせるなどという対応法があったのにな〜、あの時は思いつかなかった」と、彼には悪いことをしたと、それがとても悔やまれる。でも、カレンダーはじょうずに作ってくれたし、お母さん自身も楽しむご様子を見せてくださったので、そういう保護者の方のお姿にも感謝している。弟くん、ごめんね。これに懲りずに、また来てネ。 そんなこんなで、3つめのグループは、2つめグループでの反省点をふまえて、「わゴムをその都度、ちょっとずつ渡す」という方法で挑んだ。これがうまくいって、生徒たちは手元にわゴムがなければ先走って組み立てる術(すべ)もないもんだから、おのずと私の説明をじっくり聞きーの、私の手元をしっかり見ーの、トツギーノ。それで、同じように手を動かしてしっかり作ってくれたので、とてもスムーズに出来た。時間もバッチリ2時間でおさまった。これ(わゴムを都度いちいち渡す)を2つめのグループでもやりゃ良かったな〜。 3つめグループのひとりから、後日談として、あのあと家に帰って解体し、もっと大きなトゲトゲボールを自分で考えて組み立て、机の上に飾っているという報告をもらった。ぜひ見たいわん。こういう報告が、私としてもめちゃめちゃ嬉しい。(トゲトゲボール、でかいし机の上でジャマになってへんかな〜と、ちと心配。) あと、2つめグループに際して言えば、やはり私の伝授する方法も体得して帰ってほしかったなあということ。大半の子が聞いとらんかったからなあ。 自分で思考錯誤するのも大事だが、それプラス、他からの知識も吸収し、自分の考えと融合すれば、さらに素晴らしいものを生み出す力となるからだ。 私はこれまで、自分で考えるという姿勢を養うことをプリゼミの教育方針としてきて、それは決して間違いではないが、かたよりすぎてもダメだなあと思ったし、「人から吸収する」という大切さも、随所随所で教えていかないといけないなあと思った。 さいごに、こんな言葉を。「論語」の中で、孔子の言葉にこんなのがある。 学びて思はざれば則(すなわ)ち罔(くら)し 思ひて学ばざれば則(すなわ)ち殆(あやふ)し (大意)学ぶだけで、それをよく考えて研究しないと、理解があやふやになる。また逆に、自分の考えだけに頼って、広く先人の意見や知識に学ばないと、独断に陥って危険である。 (さすがみわこ先生、論語も頭に入っていて引用できるなんて、スゴ〜イ。「なんのなんの、これ、学校の中3の国語の教科書に載っとりま。」) |